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メッセージ

羊飼い 復活祭記念礼拝
『命を吹き込む主』
エゼキエル書 37章1−14節
ヨハネの黙示録 7章9−17節
2008/3/9 説教者 濱和弘
賛美  123、272、438

今日は、イースターです。イースターはイエス・キリスト様が十字架で死なれた後、墓に葬られ、3日後によみがえられたことを覚え、記念する日です。私たち西方教会の伝統に立つ教会では、イエス・キリスト様の十字架の死を、私たちの罪の赦しと結び付けて考えます。もちろんそれは間違っていないのですが、聖書は、私たちの罪が赦されたということですべてが完結しているわけではありません。イエス・キリスト様の御生涯は、罪を赦すための十字架の死で終わってしまったのではなく、そこから復活の出来事に続き、さらには天に帰られるという召天の出来事につながっていきます。つまり、神を信じる信仰は、単にイエス・キリスト様の十字架の死によって罪を赦すということが目的なのではなく、更のそれより進んで、イエス・キリスト様の復活の出来事、あるいは召天の出来事までも視野に入れなくてはならないのです。むしろ、私たちの罪に対する赦しというものは、この復活の出来事、昇天の出来事につながる信仰の事実のために、通らなければならない過程であるということさえできるだろうと思うのです。

それでは、この復活の出来事、昇天の出来事につながる信仰の事実とは一体何かと申しますと、それは「死に対する勝利」と言うことです。聖書は、死というものは、人間が神の言葉に聞き従わないで、生きていくようになったために、私たち人間の世界に入り込んできたと言います。創世記2章15節から17節には次のようにあります。「主なる神は人を連れていってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせさせた。主なる神はその人に命じて言われた。「あなたは、園のどの木からでのきままにとって食べてもよろしい。しかし、善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう。」ここにおいて、神は「善悪を知る木から、その実を食べてはならない、それを食べると死ぬ」といわれているのですが、結果として人は、その神の言葉に耳を傾けずに、選悪を知る木から、その実を取って食べてしまうのです。つまり人は神の言葉に聞き従わなかったのです。この「善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」という言葉は、神の命令であると同時に、神の人間に対するアドバイスです。人が死ぬことのないように、私たちにどうしなければならないかを教えてくれている。その言葉に聞き従わないということは、神の命令やアドバイスを無視するということでもあるのです。

無視する。それは、相手の存在を認めないと言うことであり、相手との関係を絶つことです。ですから、人間が神の言葉に聞き従わないで、それを無視するとき、神と人間に関係が絶たれてしまうのです。同じ創世記2章7節には次のように書かれています。「主なる神は土の塵で人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。」ここに書かれていることは、土の塵でつくられた人間に神が命の息を吹き入れることで人間は生きた者となったということです。つまり、人間の命の源は神にあるのです。神が、人間を最初にお造りになったとき、人間は地の塵から作られたのです。ですから、神が命の息を吹き入れない限り、人間はただの土人形に過ぎません。命があるからこそ、人間は人間として生きるのです。そして、その命の源は神にある。だから、人間は神から離れてしまい、神との関係が絶たれてしまうと、もはや生きていくことができなくなるのです。そこで、先ほど司式の兄弟がお読みいただいたエゼキエル書37章1節から14節を見ますと、そこにはエゼキエルの見た幻がでていますが、その幻は、枯れた骨に筋が与えられ、肉が生じ、皮がそれを覆うという幻です。そのように、朽ち果てた肉体が再び復元されたのちに、四方から息が吹いてきて、息が入って、人が生き返るのです。

このように、ここにおいても、神の息が人に命を与えるのです。ですから、私たちは、神との関係が断絶している限り、この命の息を吹き入れていただくことができません。つまり、神の存在を認めず、神の言葉に聞き従わなければ、生きることができず死ななければならないのです。そのような死すべき運命にある私たちに、神は、神を信じ、キリストを信じなさいといわれるのです。 それはキリストが、私たちと神の間にある断絶した関係を修復し、和解をもたらしして下さったからです。だからこそ、神は聖書の言葉を通して「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)とそう言われるのです。この主イエスを信じなさいということは、福音を信じなさいということと同義語であるといっても良いだろうと思います。この福音とは、イエス・キリスト様は、私たちの罪に赦しを与え、私たちと神との間に和解をもたらしてくださるためにこの世に来てくださり、十字架について死んでくださったということです。

この事を信じるならば、私たちは、イエス・キリスト様の復活と召天の出来事よって示されているところの、私たちが死すべき運命から救われ、神の命の息をいただいて、永遠の命をもって神の国で生きるという救いを得ることができるのです。そういった意味では、イエス・キリスト様の復活と昇天の出来事は、この「私たちが死すべき運命から救われ、神の命の息をいただいて、永遠の命をもって神の国で生きるという救い」の出来事の確かな保証であり、それがやがてイエス・キリスト様が再臨なされるときに、現実になるという希望を私たちにあたえてくれものだといえます。もちろん、それは将来の希望です。しかし、それは将来の希望ではあるのですが、この将来の希望が今という、この現実の世界を生きる力を与えてくれます。たとえ、今という現実がどんなに厳しい状況にあっても、希望があるならば、生きる力が湧いてくるのです。

先日、なんとはなしにテレビのスイッチをいれましたら、プロ野球の監督をなさっておられる野村克也という方がインタビューに答えているシーンが画面に映し出されました。とくに見たい番組があってテレビをつけたというわけではありませんので、なんとはなしにその番組を見ていたのですが、その野村克也氏がこのようなことをいったのです。それはおおよそ、次の内容の言葉でしたが、野村氏は「自分の母親は、何のためにいきていたのだろうかと思う」とそう言うのです。しかも、声をつまらせて涙を流しながら話しているのです。それは、彼のお母さんの人生が本当に苦労に満ちたものだったからです。だから、「母親は、何のためにいきていたのだろうか、と思う」と、自分の母親のことを語りながら、声をつまらせて涙を流した姿が、何よりもよく、そのことをもの語っています。きっと、それは大変な苦労だったのだろうと思います。苦労し続けて亡くなられた母親を思って、野村氏は、「いったい、自分の母親の人生とはなんだったのだろうか」とそう思われたのではないかと、そう感じながら私は、その番組を見入っていたのです。

それは、「自分は何のためにいきているのだろうか」という問いは、野村克也氏のお母さんにだけ向けられた問いではないからです。それは、私たちに対しても向けられている問いでもあります。というのは、やっぱり、生きていくってことは、早々楽なことではないからです。そこには、悩みや、苦難や試練といったものが沢山ある。ある意味では、生きていくと言うことは苦労すると言うことと同じ意味合いを持っているといってもいいかもしれません。それほど、現実の世界を生きると言うことは厳しいことなのだろうと思う。その厳しい現実の世界を生き抜いて、その結末が死で終わってしまうとするならば、まさしく、先ほどの野村克也氏が、自分のお母さんの人生を振り返りつつ、「母親は何のためにいきていたのだろう」と問いなが涙を流した姿は、まさにその通りであろうと思うのです。そして、もしそうであったとするならば、私たちの人生は、この肉の命をもって生きてはいますが、その心や魂は、死んでしまって枯れた骨のようになってしまっているようなものかもしれません。そういった意味では、死で終わる人生は、生きているうちから既に死んでしまったようなものかも知れないと思うのです。

先日、何かでニヒリズム(虚無主義)における虚しさのもっとも最大の虚しさは死という現実であるといった内容のものを読んだ記憶がありますが、それは、何事にも終りがある、終結することがあるということに、虚しさの根源があるといことを言わんとしているのだろうと思うのです。どんなに楽しいこと、心満たされるような満足することがあっても、その楽しさや充実感にも必ず終りが来る。だとすれば、その楽しさや充実感もまた虚しくなってきます。たとえ、自分の頑張りや努力で、楽しさを勝ち得、喜びを手にしても、死という結末で、一瞬にして、その自分の頑張りや努力の報酬が消えてしまうとすれば、確かにそれは虚しい感じがします。ましてや、悩み、苦しみ、苦労し続けた結末が死で終わってしまったとするならば、それは本当に虚しいことであるし、悲しいことのように思うのですが、みなさんはどう思われるでしょうか。そして、だからこそ、人間には永遠を思い求める心があるように思うのです。けれども、神は、その永遠を私たちに約束してくださっている。神を信じ、イエス・キリスト様を信じるものに、永遠の命の息を吹き込んでくださり、死という終りから解放してくださるのです。そして、その希望は、やがての将来だけではなく、今、ここでという現在の時にも、私たちをけっして枯れた骨のような存在として虚しい人生を生きさせるものではないのです。

喜びも、悲しみも、苦難や苦悩といった苦労さえも、それこそ、さきほどの野村氏が語った「何のために生きていたのだろう」と思われるような人生であったとしても、「筋が与えられ、肉が生じ、皮がそれを覆い、そして命の息が与えられ、けっして虚しく終わることのないものとなります。たとえば、それは先ほど司式の兄弟がお読みくださったもう一つの聖書の箇所、新約聖書黙示録7章9節から17節の中に見ることができます。そこには、このように記されています。「長老たちのひとりが、わたしにむかって言った、『この白い衣を身にまとっている人々は、だれか。またどこからきたのか』。わたしは彼に答えた、『わたしの主よ、それはあなたがご存知です』。すると、彼はわたしに言った、『彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊も血で洗い、それを白くしたのである。それだから彼らは小羊の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に天幕を張って共に住まわれるであろう。彼らは、もはや飢えることはなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、命の泉に導いて下さるであろう。また、神は彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう。』」

ここに出てくる、白い衣を着た人というのは、「大きな患難をとおってきた人たち」であると記されていますが、おそらくは主イエス・キリスト様が再臨なさる前におこる大患難時代を通ってきた人たちのこと指しているだろうと考えられています。大患難時代というのは、マタイよる福音書24章16節から21節に言われているイエス・キリスト様が再臨なさるときにある大きな苦難の時のことです。そこには、イエス・キリスト様が再びこの地上にこられるとき、かつてない程の大きな苦難の時があると記されています。この患難時代が、いつどのようなタイミングでおとずれ、それがどのようなものであるか、またどれほどの規模であるかということを含んで、終末に関する聖書の記述は、その解釈が大きく分れるところです。ですから、あまり断定的に「これこれこうである」ということは差し控えたいと思いますが、しかし、いずれにしても、キリストの再臨に関連して、人々は多くの苦難を経験するというのです。そのような患難の中にあっても神を信じ、キリストを信じて生きてきたものを、神は神の国に迎え入れ、彼らと共におり、また「彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さる」というのです。

「彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さる」という言葉は、そこに大きな慰めがあるということを私たちに教えてくれます。神は苦しみや悲しみ、苦難や苦悩の中を生きてきた神の信じる民を暖かく迎え、慰めと癒しを与えてくださるというのです。神は、神を信じ、イエス・キリスト様を信じた者を死から解放して下さいます。それは死が、私たち人間にとって、最も大きな、最大の苦難であり、決して避けることのできない運命だからです。そして、その死は、私たちから一切の物を奪い去っていきます。その避けることのできない運命である死から、神は私たちを救って下さいました。私たちにとっての最大の苦難である死から解放して下さるのです。ですから、私たちは、イエス・キリスト様の十字架の死は、私たちを苦難から解放して下さる為であったといってもいいだろうと思います。そして、そのような苦難の中を通ってきた神を信じる神の民の目から「目から涙をことごとくぬぐいとって下さる」という慰めと癒しの出来事は、大患難時代を通ってきたクリスチャンだけに与えられるものではありません。私たちを含んで、どの時代のその民族であっても、神を信じ、イエス・キリスト様を信じる者すべてに与えられるものなのです。

ですから、私たちは、どんなに苦難の人生であり、苦労をし続けて生きたとしても「私は、何のために生きていたのだろう」と悲観にくれる必要はありません。どんなに、苦しい、苦労に満ちた人生であったとしても、神を信じ、イエス・キリスト様を信じるならば、それは死によって終りを告げることがないからです。むしろ、死という最大の患難を通り抜けたあとに、神みずからが「彼ら目から涙をことごとくぬぐいとって下さる」という慰めと癒しいただき、もはや「飢えることはなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。」といわれる平安と慰めの中を生きることができるのです。そして、その慰めや癒し、そして平安の中にある喜びや、充実感というものは、決して終わることのないものであり、誰も奪うことのできない永遠なものなのです。だから、虚しくはない。そのような、救いに私たちは招かれているのですし、神はその救いを、確かな約束として私たちに約束して下さっています。だからこそ皆さん、私は、皆さんにこの希望をしっかりと持っていて欲しいと思います。そして、キリスト教を、「私の罪が赦されて本当に良かった」という安心に留めておいて欲しくないないのです。さらに、もっと大胆に、私にはイエス・キリスト様の復活と召天の出来事に示されている、永遠の命と神の国の約束が与えられていると言う希望を持っていただきたいのです。

その希望がある限り、私たちはどんな苦難や苦しみの中で生き、死んでいったとしても、私たちの人生は「何のために生きてきたのだろうか」といわれることはないからです。むしろ、その苦難と苦しみのゆえに、私たちは、神から慰められ、神から満たされる者となることができます。ですから、もはや私たちは虚しく生きる必要はないのです。いつでも、どこでも、どのような状況のなかでも希望があるのです。イエス・キリスト様の復活と召天の出来事は、そのことを私たちに語り続けて下さっているのです。そのことを覚えながら、最後に聖書を一箇所お読みして終わりたいと思います。聖書はマタイによる福音書5章3節から12節までです。お読みします。

「こころの貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。
 悲しんでいる人たちは、さいわいである。彼らは慰められるであろう。
 柔和な人たちは、さいわいである。彼らは地を受けつぐであろう。
 義に飢え渇いている人たちは、さいわいである。彼らは飽き足りるようになるであろう。
 あわれみ深い人たちは、さいわいである。彼らはあわれみを受けるであろう。
 心に清い人たちは、さいわいである。かれらは神を見るであろう。
 平和をつくり出す人たちは、さいわいである。彼らは神の子と呼ばれるであろう。
 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。
 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々な悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

私たちの人生を、決して虚しいものにせず、たとえ枯れた骨のようなものであっても、そこに生きる力を吹き込み、揺るぎのない将来の希望を与え、私たちに死を乗り越え永遠の望みに生かして下さる神に祈りましょう。

お祈りしましょう。