『神の知恵』
コリント人への第一の手紙 2章1−10節
2008/4/13 説教者 濱和弘
賛美 2、206、218
さて、先週は、レント、受難週、復活祭という教会暦の関係で、中断していたコリント人への第一の手紙からの連続説教に立ち帰った最初の週でもありましたので、2章1節から5節を通して、もう一度、コリント人への第一の手紙の緒論的内容に触れながら、私たちの信仰の原点は、十字架で苦しまれたイエス・キリスト様のお姿を見上げることにあるということをお話し致しました。それは、十字架上で苦しまれたイエス・キリスト様のお姿に、私たちが経験する様々な苦難や苦悩を共に負い寄り添って下さる神の御子の姿があるからです。もちろん、ただ単に、私たちの悩みや苦しみを共に負い寄り添うということだけに留まるわけではありません。イエス・キリスト様は、十字架の苦しみを通して、私たちの、悩みや苦しみ(そしてその悩みや苦しみの頂点に、罪と死の問題があるのですが、その悩みと苦しみ)に、救いをもたらして下さるのです。その救いが、具体的にはイエス・キリスト様の復活の出来事として、歴史の中に表わされ、刻まれていったのです。このように、イエス・キリスト様の十字架の出来事こそが、私たちキリスト教会がよって立つ土台であり、私たちの信仰の土台であるといえます。
そして聖書は、この神の一人子が十字架に架かって苦しみ、死なれることによって私たちに救いをもたらすというこの出来事は、決して人間の知恵によるものではなく、神の知恵によるものであるというのです。先ほど司式の兄弟にお読みいただきました聖書の箇所の6節、7節の部分には、「しかし、わたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語る。この知恵は、この世のものではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。むしろわたしたちが語るのは、隠れた奥義としての神の知恵である。それは、神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。」とあります。ここにおいて、「しかし、わたしたちは、円熟しているものの間では、知恵を語る」といわれている、円熟している者」というのが誰を指しているかについては、幾つかの節があります。この円熟しているものという言葉は、ギリシャ語で「τελειοσ」という言葉で、「完成した」とか、あるいは「完全な」といった意味や、「目標に達した」、「大人の」といった意味などをもっています。
口語訳聖書の円熟しているものというのは、おそらく、「完成した」といったニュアンスと、「大人の」といったニュアンスを汲み取っての翻訳だろうと思います。その「円熟した人」をどのように理解するかについては、たとえば、信仰的に大人の考え方ができるクリスチャンとまだ信仰が成長しきっていない幼子にクリスチャンとに分けて、前者の大人のクリスチャンであると捕えるような理解があります。それに反して、そのようにクリスチャンを大人のクリスチャンと幼子のクリスチャンを区別してかんがえるのではなく、「円熟した人」とは、神の救いに与ったクリスチャン全体を指していると考えるとらえ方があります。さらには、コリントの教会の中には、自らを信仰的な大人(成人)と呼び、自分の持つ信仰に関する知識を誇る一部の人たちがあったのではないかというような説もあります。私個人としては、τελειοσという言葉の「目標に達した」ニュアンスを汲み取って、神の救いに与ったクリスチャン全体と考えるのがよいのではないかと思っています。なぜならば、神の目標は、まずは人が救われるためにあるのであり、救われたものが語るべきものは、何をおいても、十字架につけられたキリストだからです。
そして、ここの十字架に付けられたキリストこそが、ここで言うところの知恵なのです。ですから、この十字架にかけられたキリストは、信仰的に大人になったものであろうと、幼子であろうと語るべき言葉であり、語られなければなりません。そもそも、クリスチャンになったということは、信仰的に成長し、成熟したクリスチャンであろうと、幼子のクリスチャンであろうと、イエス・キリスト様の十字架の死に、自分の救いを見出した者たちです。そういった意味では、十字架にかけられたキリストは信仰的に成熟した大人のクリスチャンであろうと、信仰的に幼子のような成長過程にあるクリスチャンであっても、受け入れられ、認められ、それゆえに語られうるべき神の知恵なのです。そういったことから、この「円熟し人」というのは、神の救いという目的が達成されたクリスチャンという存在全体を指すのがよいのではないかと考えるのですが、しかし、それは、ここでは、枝葉の問題です。というのも、パウロが、このコリント第一の手紙の2章1節から10節までで言いたかったことは「知恵」ということだからです。そして、その知恵を誰が語っているかと言うことよりも、その知恵がどこからやってきて、どのように伝えられたかが問題だったのです。
事実、この6節の「しかし、わたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語る。この知恵は、この世のものではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。」という文章は、いきなり知恵という言葉(原語ではΣοφιαν)で始まっています。以前にもお話ししたことがあろうかと思いますが、聖書の元々の言葉であるギリシャ語は、日本語や英語のように言葉の順序、語順といったものが定まっていません。とにかく、まず伝えたい内容、言いたいことを一番最初に持ってくるのです。ですから、この6節でいきなり知恵と言う言葉からかきはじめたというのは、パウロがここで最も言いたかったことは、神の知恵であるイエス・キリスト様というお方のことだったということを示していると言うことができます。そして、その知恵は、決して人間の思いつきや考えといった人間から出てきたものではなく、神によって私たちに与えられた者であるということです。それは誰かによって発見された真理でもなく、誰かの発想によって生み出されたものでもなく、神が私たちに示して下さった神の知恵なのです。
ですから、パウロが6節で「この知恵は、この世のものではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。」というとき、それは、この神の知恵であるキリストをこの世の知恵、すなわち私たち人間の知恵と対照させながら、神であるお方が人となり、十字架で死なれることによって私たち人間をお救いになるということなど、私たち人間の発想の中からは決してでてこないことだということを、強調しているものと考えられます。もっとも、神であるお方が人の姿を採られると言うところまでは、人間の知恵によっても考え得るところです。たとえば、神が人の姿を取られるという神話は、色々の神話の中に見ることができます。もっとも、その場合、多くは、化身として人間の姿を取られるだけで、イエス・キリスト様のように、全く人間としてお生まれになってくるといったものではありませんが、ともかく、神が人間の姿を採られるという発想は、私たちこの世の知恵でも考えられます。ところが、神が人を救うために苦しみ死なれる。このようなことは、人間の発想からはなかなか出てこないものです。しかも、その当時にパレスティナ地方の宗教観やイスラエル民族の宗教観では決して出てくることない考え方ことだといえます。
だからこそ、「神が私たちのために死なれた」という出来事は、私たちにとって非常にインパクトのある衝撃的な出来事なのですあって、まさにそれは神の知恵としか言いようがない出来事だったのです。あなたのために、死ぬこともなく、死ぬ必要もなかった方が、いえ、決して死ぬことのできないお方が、あえて死なれた、死を選ばれたのです。この決して死ぬことができない神が死なれる。それは理屈から言えば無理なことであり、この世の現象としては矛盾した出来事です。だからこそ、神は単なる化身として人の姿を採られたのではなく、完全な人としてこの世界にお生まれ下さったのです。この神が完全な人と成られると言うことも考えにくいことです。神は人とは全く異なる存在だからこそ、神なのです。もちろん、人が神になるというような考え方は、確かに私たち日本の中には存在します。天神様や、日光東照宮など、人が神として崇められる霊は見られますし、日本人の感覚の中には死んで霊となり神となりというのは馴染みのある考え方です。
しかし、崇高な存在であり、人間を超越した存在である神が人となるということは、その日本人ですら考えが及ばない出来事なのです。ましてや、その完全な人間となられた神は、同時に完全な神でもあるとなると、もう全く理解できないような出来事です。だからこそ、2000年も続く教会の歴史の中で、たえず、イエス・キリスト様の神性を否定する人やイエス・キリスト様の人性を否定する人たちがくり返し、くり返し起ってきます。それは人間の理性では到底考えられないことだからです。けれども、歴史上の教会は、そのようなキリストの神性を否定する考え方や、キリストの人性を否定する考え方をことごとく退けてきました。それは、どんなに人間の理性では考えられず納得できないことであっても、神が私たちに示して下さったところの神の知恵であり、神の隠された奥義だからです。宗教改革者であるマルティン・ルターという人は、自分の神学を十字架の神学という言い方をしますが、その中で、彼は、神は隠れた神であるという言い方をします。これは、神は本来、私達に隠された存在であり、私たちは神を知ることができないということです。しかし、その私たちの理性では理解できない隠れた神が、イエス・キリストの十字架の出来事の中に垣間見ることができるというのです。それは、本来は人間の理性では理解できない神が、イエス・キリストの十字架の出来事を通して、自らを顕して下さったからです。
このように、神ご自身が自らを私たちに顕される行為を、神学の言葉では啓示といいます。この啓示という言葉は、10節に「そして、それを神は、御霊によって私たちに啓示して下さったのです。」とある、啓示ということばがですが、元々のギリシャ語の意味は覆いを取り除くという意味です。覆いで包まれて見えなくなっているものの、覆いを取り除いてその多いに包まれていたものの実体を明らかにしてみせると言うことが啓示という言葉の意味なのです。ですから、このコリント人へ第一の手紙2章10節でパウロが「神は、御霊によって私たちに啓示して下さったのです。」というとき、それは「神の知恵であるキリストによって、神の隠された奥義が明らかにされたのだ」と、そう言っているのです。その隠された奥義というのが、聖書が告げていた「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神はご自分を愛する者のために備えてくださった」という言葉に包まれていた実体、つまりイエス・キリストというお方なのです。
言葉は、私たちに様々な情報を伝えてくれます。物の形や色、あるいは性質や、物事の性質や状況など、様々な情報は言葉を介して私たちに伝えられます。けれども、どんなに言葉の限りを尽くしても伝えきれない物もあります。聖書の言葉は、神の言葉でありますが、言葉それ自体は人間存在を介しています。旧約聖書でしたらサムエルやイザヤ、アモスといった預言者の言葉を用いながら神の言葉が誤りなく伝えられていますし、新約聖書であるならば、マルコやヨハネ、パウロといった人物を通じて語られている。それらは、まさに人間の言葉であります。神の言葉が人間の言葉を媒介にして伝えられる。ですから、ときには、その言葉は布に覆われてしまったように、実体が見えないような感じがします。
昨日、私はいつも聴講しているルーテル学院大学の新しい学期の講座を受講しにいきました。その授業の冒頭で、担当の教授が「今日は講義の最初に試験をします。」といって、4つばかり試験問題を提示しました。その試験問題というのは次のようなものです。読み上げますから、みなさんも答えられるかどうか考えてください。いいですか。
1.福音書とパウロ書簡(パウロが書いた手紙)はそれぞれ何章あるか。
2.イエス・キリスト様に系図は聖書に何回出てくるか。
3.永遠の命というのは聖書のどこにでてくるか
4.三位一体の神の第一位格としての父なる神の特性とは何か
1から3までの答えは、パウロ書簡が、それぞれ何章であったかはとまどうかもしれませんが、それでも比較的簡単に答えられるのではないかと思います。しかし、4番目の神の第一位格での父なる神の特性とは何かといわれますと、ちょっと考えなければなりません。
私は、その4の答えとして頭にあったのは、「裁き主なる神」とか「救いを計画する神」「、あるいは啓示する神」といったものでした。というのも、私も牧師の端くれでありますので、多少なりとも神学をかじっています。その神学の中で神の三位一体に関する論ずるいわゆる三位一体論の中に、経綸的三位一体論というものがあるのです。そこでは、父なる神と子なる神と聖霊なる神を次のように考えています。すなわち、父なる神は、裁きなさる神として、また子なる神は取りなす神として、そして聖霊なる神は救いを現わす神として働かれる、あるいは、父なる神は救いを計画し、子なる神は救いを実行し、聖霊なる神は救いを伝達するお方であるというふうに言うこともできます。ところが、その担当の教授が期待していた答えは、そのようなものではなかったようです。「裁き主なる神」も「救いを計画する神」、あるいは「啓示する神」といったものも、それはすべて神願意をなさるかという神の働きです。その教授が期待していたのは、そう言う神の働きではなく、父なる神の本質だったのです。ですから、その担当教授は答えとして次のように言われました。「頌栄では『われらの主・イエス・キリストの御恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき御交わりが、我ら一同とともにあるように』と祈る。つまり、ここで言われているのは父なる神は愛であるということですよね。」
結局、その担当教授が考えていた三位一体の神の第一位格としての父なる神の特性とは、愛ということだったのです。そして確かに聖書は「神は愛である」というのです。そして、確かにあの有名な聖書の言葉、ヨハネによる3章16節にも、「神はそのひとり子(つまりイエス・キリスト様を)を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じるものがひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」と書かれています。このように神は愛であるということは、言葉で表現することができますが、それをどのように示していくかはなかなか難しいものです。というのも、愛というのは心の熱い思い、熱情(passion)ですから、形としては表現しにくいものだからです。だから、贈り物とか奉仕といった形を通して表現していくしかありません。それこそ、言わなくてもわかるというものではありません。むしろ、言葉で言っても十分に伝わらない、言葉だけでは、いくら言ってもわからないものなのです。「神は愛である」ということ、それは言葉として理解することができます。しかし、言葉だけでは、神が私たちを愛していると言うことがどのようなことかわかりません。だから、一歩間違うと、神が私たちを愛して下っていると言うことは、豊かになること、仕事がうまくなること、病気が治ることが神様が私たちを愛してくださっていることだと誤解してしまうかもしれません。
けれども、「神は愛である」という言葉の背後にある、その愛の実体は十字架にかけられ苦しんでおられるイエス・キリスト様のお姿なのです。神が私たちを愛している愛は、十字架で苦しんでいるイエス・キリスト様のお姿の中に現わされているというのです。十字架の上で苦しんでいるイエス・キリスト様のお姿を見せられて、あれが神の愛だよといわれても、普通は、それを理解することができません。十字架の上で苦しんでいる男の姿に神の愛を見なさいと言っても、早々わかることではないのです。だからこそ、神は隠された神なのであって、十字架にかけられた神の奥義であり、人間の知恵を越えた神の知恵なのです。聖書は「神は愛である」といい、私たちもまた「神は愛である。」といいます。けれども、その神の特徴である愛は、私たちの想像を越える壮絶で大きな愛なのです。それは十字架の苦しみによってでしか現わすことの出来ないほどの愛なのです。ですから、神の啓示が私たちのまえに提示されても、私たちは、自分の知恵や能力でそれを理解することができません。それこそ、この世の知恵は神の知恵を知ることができないのです。だからといってみなさん、私たちは決してあきらめることはありません。というのも、聖書には次のように書かれているからです。
10節をもう一度読みます。「そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示してくださったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである」この言葉が言わんとしていることは、神が示してくださった下さった啓示を私たちが理解することができるようにしてくださるのは御霊、つまり三位一体の第三位格である聖霊なる神であるというのです。人間の理性の働きでもなければ、知ろうとする意志の働きでもない。聖霊なる神が、私たちの心に、私たちの罪を示してくださり、私たちに自分の罪深さや愚かさ、あるいは汚れといったものを認めさせてくださり、また私たちの弱さを教えてくださる。そして、その救いが、あのイエス・キリスト様の十字架の苦しみの中にそういった、私たちの問題のすべての根元的な解決があるのだと言うことを教えてくださっているのです。それは、根元的な解決ですから、お金が儲かるとか、仕事がうまくいくとか、病気が治ると言ったそう言った具体的な私たちの知恵で納得できるような形の解決ではありません。むしろ、私たちが神の御懐に抱かれるほどに、私たちを受け入れてくださる愛に包まれているということで、私たちの心が平安に満たされることによって得られる解決なのです。
もちろん、今でも神は私たちにご自身を示し、私たちを愛して続けてくださっています。そしてその愛を、今でも私たちに現わし、啓示しておられるのです。それは奇跡といった業の中にあらわされているのではありません。十字架に架かられたイエス・キリストの苦しみの中に現わされているのです。十字架の上で苦しむイエス・キリスト様の姿に、神の御本質である愛がある。それは、なかなか理解しがたい出来事です。まさに十字架の上で苦しまれるイエス・キリスト様の姿に、神は隠されている。それは、罪を裁かなければならない神の聖という御本質と、私たちを愛し赦そうとする神の御本質である愛という、相容れない神の二つのする御本質が、十字架の上でぶつかり合い、解け合い、そして一つに結び合わされる神の知恵なのです。だからこそ、それは私たち人間の知恵では思いもつかない神の知恵であり、聖霊なる神が、見せてくださらなければわからない隠れた神のお姿なのです。今日も、その聖霊なる神様は、私たちのこの礼拝に満ち満ちてくださり、十字架上のイエス・キリスト様のお姿に現わされた神の本質である愛を私たちに伝えてくださっています。そうです今も、私たちの心に、神の知恵であるイエス・キリスト様を伝えてくださっているのです。ですから、私たちは、心を開いて、この聖霊なる神様が、私たちの心にささやきかけている言葉に、心を開いて耳を傾け続けなければなりません。そして、この神の愛で心を満たしていただき、平安と喜びを持って今週一週間も歩まさせていただきたいと思うのです。
お祈りしましょう。