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メッセージ

羊飼い 『神はあなたのことを知っておられる』
コリント人への第一の手紙 2章6−16節
2008/4/20 説教者 濱和弘
賛美  139、302、354

先週は、コリント人への手紙第1の手紙2章1節から6節までを通しまして、神様の本質は愛であり、その愛である神の本質を神様はわたしたちに、自ら現わし、私たちに知らせて下さっているというお話しをしました。そして、その神の愛という本質が、もっとも良く現わされているのがイエス・キリスト様の十字架の出来事なのですが、しかし、このイエス・キリスト様の十字架のお苦しみは、私たちにとってはなかなか理解しがたいことです。どうして、イエス・キリスト様というお方が十字架で苦しむことによって、私たちの罪が赦されるのかというと、なかなか論理的な説明はできません。そういった意味で、イエス・キリスト様の十字架に神の愛を現わしてくださったということを理解することはなかなか難しいことだといえます。そういった意味で、イエス・キリスト様の十字架の死は、人間の知恵に属するものではない神の知恵によるものなのです。そして、この人間の知恵ではなかなか理解できない神の知恵を、ストンと心の中に落として受け止めさせ、理解させてくださるのが聖霊なる神様というお方なのです。そのことは、11節12節の言葉に実に良く表わされています。「いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、誰が知っていようか。それと同じように神の思いも、神の霊以外に知るものはない。ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって神から賜った恵みを悟るためである。」

ここには、神の霊すなわち聖霊なる神は、神の思いが何であるかを良く知っておられるお方だと言われています。それは、聖霊なる神が父なる神と子なる神イエス・キリスト様から発しているお方だからです。父なる神様は自らの愛であるそのご本質を私たちに顕そうとし、子なる神イエス・キリスト様はその神様のご意志を受けて、十字架の上で死なれることで神の愛を現わして下さった。そこには、父なる神と子なる神の私たちに対する深い愛があります。そして、聖霊なる神様は、その父なる神と子なる神イエス・キリスト様から発出しているお方ですありますから、その父なる神と子なる神イエス・キリスト様の私たちに対する愛をよく知っておられます。ですから、聖霊なる神は、そのよく知っている神の愛を私たちに受け止め理解させて下さるお方として働かれるのです。このように、父なる神と子なる神と聖霊なる神様は、私たちを愛する神の愛というものによって、固く一つに結び付けられています。ここに、私たちキリスト教会の最も根底にある教理であり、奥義である三位一体の神のお姿があります。

そして、その三位一体なる神が、私たちを愛し、その愛をイエス・キリスト様の十字架の死という出来事によって現わし、聖霊なる神様によって私たちに悟らせ受け止めさせて下さるのです。つまり、神は自らを啓示するお方だということができます。しかし、それだけではない。神は自らを私たちに啓示するだけのお方だけではないのです。神は自らを表すお方であると同時に、私達のことも深く知って下さるお方でもあるのです。それは、神を信じるものには、神が私たちの内に神の霊、聖霊なる神様を住まわせて下さるからです。先ほどの12節には、「ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって神から賜った恵みを悟るためである。」とあります。「私たちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。」とうことは、私たちに聖霊なる神様が与えられていると言うことです。そのように神の霊なる聖霊なる神は、神から私たちに与えられ、私たちの内に住んで下さるのです。もちろん、聖霊なる神が私たちの内に住んで下さるといいましても、なにも物理的に体のこのあたり、たとえば心臓付近に住んでおられるとか、あるいは頭の前頭葉の部分に住んでおられるといったことではありません。それは、懸命なみなさんには、十分に理解いただけるだろうと思います。聖霊なる神が私たちの内に住んで下さるというのは、聖霊が私たちといつも共にあり、私たちを包み、私たちを教え、導いて下さるということです。

そのように、私たちと共にあり、私たちを包んでくださる聖霊なる神。私たちは、その聖霊なる神が私たちを教え導く声を、物理的な音声として耳から聞くわけではありません。しかし、私たちの内側の声として、私たちの思いや心に語りかけて下さることによって、神の言葉を聞くのです。13節に「この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである。」とあります。ここで言われていることは、キリスト教における真理、つまり神についての真理については、人間の理性をこえて、聖霊なる神によって知ることができるのだということです。「霊によって霊のことを解釈する」ということは、まさにそう言うことであろうと思います。ですから、逆を言えば、たとえ聖書の言葉であったとしても、聖霊の働きがなければ、それが神の言葉として心に響いてこないと言うことにもなります。それは、あるいは説教についても言えるだろうと思います。説教は外側から語りかける言葉ですが、実際に物理的に聞こえてくる言葉です。それは説教者を通して語られる聖書の御言葉の解きあかしでありますが、私たちは、その中に神の語りかけを聞き取ります。そして、自分に神が語りかけて下さったとそう受け止めるのです。しかし、聖霊の働きがなければ、それは単なる人間の言葉にすぎません。

たとえば、私がクリスチャンになる決心をしたのは19歳の時でした。山口にある教会の青年会のキャンプで私は神を信じる決心をし、クリスチャンになる決心をしたのです。そして、そのキャンプの終わったその次の礼拝の時に、詩篇51編から説教がなされました。そのとき、牧師は、詩篇51篇17節の「神の受け入れられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕かれた悔いた心をかろしめません。」の言葉から、次のように言われたのです。それはこのような言葉でした。「私たちは、神の手の中で砕かれたならば、神は、必ずその人を御手の中で造りかえて下さいます。」私は、この言葉を聞いたとき、教会の会堂の真上からその言葉が響いてきたような感じしました。紛れもなく、その言葉は牧師が語った言葉ですから、私の正面から語られた言葉でしたが、点から振ってきた言葉のように感じたのです。そして、「これは確かに神が私に語りかけて下さった言葉なのだ」とそう受け止めたのです。「神の受け入れられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕かれた悔いた心をかろしめません。」という聖書の言葉を「私たちは、神の手の中で砕かれたならば、神は、必ずその人を御手の中で造りかえて下さいます。」と解き明す。それは、特別な解きしでもなく、特別な解釈でもありません。それこそ、ごく普通の解釈なのです。ですから、人によっては聞き流してしまうようなものかも知れません。

けれども、その時の私にとって、それは聞き過ごすことのできない言葉だったのです。いえ聞き過ごすことが出来ないなどと言うようなものではない、神が私に語りかけて下さった神の言葉だと本当にそう思えたのです。そして、その言葉は、詩篇51編17節の言葉によって私が紛れもなく神によって新しく造りかえられるのだという、神の約束の言葉として私の人生を大きく変える言葉になったのです。ひょっとしたら、私以外の他の人、その礼拝には50から60人の成人が出席していましたが、そのすべての人にとって、それは聞き過ごされていった言葉かも知れません。けれども、それはわたしにとって間違いなく神からの語りかけだったのです。私が、そのように受け止めたのは、私の側の特別な事情があったのです。それは、私が浪人中のことであり、しかも、当時共産主義にかぶれていた私が、思想的に困惑し混迷していたまさにその時に語られた言葉だったのです。それまで自分が信念としていたこと、自分の人生をかけようと思っていたことが、もろくも崩れ去ってしまったと思っていたような時だったのです。その時に、「ほら、神の言葉である聖書の詩篇の51編の17節にこう書かれているよ。それはあなたの心がどんなに砕かれ粉々になっているとしても、あなたが神の御手の中にいるならば、あなたは神の手の中で新しく造りかえられるということなのだよ。だから神を信じたあなたは、必ず新しく造りかえらえる」、そう心に語りかけられたと思ったのです。

偶然、でしょうか。いや、普通なら偶然だと思うでしょう。そもそも牧師は、私の個人的な心の状況など知るはずもありません。ましてや、そこには50人、60人の人がいますので、牧師は私一人に向って語りかけると言うことなどはないはずです。実際、私自身も牧師になり、こうして講壇にたち説教をする側になりましたので良くわかりますが、礼拝説教は、誰か特定の個人に向けて説教をするということはありません。だからこそ、普通に考えれば、それは偶然の出来事だと思われるのです。もちろん、新しい方のことを思って、分かり易く話さなければとか、心の傷に触れないように言葉の選択に注意すると言ったことの配慮はしますが、誰か個人の問題を取上げて、あの人に聞かせてやろうと言った気持ちをもって説教することはありません。けれどもみなさん。みなさんも、私たちは説教を聞きながら、牧師はこの説教を自分に向って語っているのではないかと感じるようなことがあるのではないでしょうか。牧師にも誰にも話していないのに、まるで牧師が自分の問題を知っているかのように、自分に語りかけているような気持ちになったことはないでしょうか。きっとおありになるだろうと思います。そういった意味では、教会の礼拝には、偶然が頻繁に、山ほど起ってくるのです。

そのように、偶然が山ほど、頻繁に起ってくるとすれば、それはもはや偶然とはいえません。むしろ、誰かがそのように考え、意図しているからこそ、それが起ってくると考えるほうが自然のようにおもわれます。ですから、私たちのことをよく知って、その時の自分自身の状況に即して、説教で語られた言葉を、神の言葉を語りかけてくださった言葉として理解し受け止めさせてくださったとそう考えてもよろしいだろうと思うのです。私も、あの30年前の19歳の時のあの礼拝で、まさに神が私に語りかけてくださったと、その思ったのです。牧師が詩篇51篇17節の「神の受け入れられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕かれた悔いた心をかろしめません。」という聖書の言葉を「私たちは、神の手の中で砕かれたならば、神は、必ずその人を御手の中で造りかえて下さいます。」と解き明したとき、それは、まさに自分の思想や生き方が崩れ去ってしまっていた私の状況に、まるでジグゾーパズルの部品がカチッと当てはまるほどぴったりと収ったのです。そのように、心にぴったりと収ったのは、先ほどももうしましたように牧師が私の状況や心を知って説教をしたからではありません。私がその説教をきいて、その説教に私の心を重ねて聞いたのです。そして、そのように心を重ねあわせさせて理解させたのは聖霊なる神様なのです。

それは裏を返せば、聖霊なる神は私のことを抑止って下さっているということです。たとえば、先週も申しましたが、父なる神、御子なるイエス・キリスト様、そして聖霊なる神様のご本質は、私たちが礼拝の最後に祈る祝祷において現されています、そして、そこで私たちは、「われらの主イエス・キリストの御恵み、父なる神の愛、聖霊なる神の親しき御交わり」と祈ります。つまり、聖霊なる神は、私たちと親しく交わって下さる神であるというのです。そして、そのように聖霊なる神様が私たちと親しく交わって下さってくださるということは、このお方が、私たちといつも共にあり、私たちと共にいてくださり、私たちの悩みや苦しみをしり、神にとりなして下さるのです。ですから、父なる神も、御子なるイエス・キリスト様も私たちのことを、十分に知って下さっています。そのように私たちのことを、深く十分に知り、私たちと共に歩んでくださるのです。神はそのようなお方だからこそ、私たちが苦しむとき、私たちが悲しむとき、神は、聖書の言葉を通し、また説教の言葉を通して、私たちの心に慰めの言葉を語りかけて下るのです。

神が私に語りかけてくださるということ。これは、誰にも証明できない神秘的な出来事です。たとえば、先ほどお話ししたように、私が牧師が講壇から語られた聖書の言葉の解き明し聞きいたとき、その言葉が天から語りかけられたような感覚で「神が私に語りかけてくださった」と受け止めたようなことなど、いくら口で説明しても説明しきることはできません。それは、たまたまその時の心理状態が、そのように思わせたのだと言われたならば、それに反論するだけの具体的な反証は確かにないのです。ただ、私の心がそう受け止めたという事実しかない。そしてそれは、信仰の世界での受け止め方でしかないのです。けれども、その神秘性が大切なのです。結局、信仰の世界、つまり神との関わりに関するところの霊的な事柄は、科学的実証主義によって受け入れられていくべきものではありません。私が、牧師が講壇から語られた聖書の言葉の解きあかしを通して神の言葉を聞いたといっても、誰にそれを証明できるものではないのです。しかし、ただ、私の心には確かな真実としてそれは刻み込まれているのです。そして、それは、非常に神秘的なことなのです。その神秘的なことの中に、いえ、神秘的なことだからこそ、私の心の中に刻みこまれて、今日まで私をクリスチャンとして生かしてくれているのです。

先日、久しぶりにDVDで映画を見ました。私が尊敬する「マザー・テレサ」の映画です。その映画の中で、彼女が「神の愛の宣教者会」を設立するときのいきさつが描かれていました。カトリック教会では修道会を設立する際、ローマ教皇庁に修道会設立の申請をし、審査を受けて、最終的に教皇による認可が必要です。その審査のために視察にきた神父が、マザー・テレサに、なぜ修道会を設立しようとするのかを問うのです。その問いに対して、マザー・テレサは、神の言葉をきいたからだと答えるのです。神がそう私に言ったから、私はそうするのだというのです。実は、この修道会設立のための調査にきた神父が、マザー・テレサに面談しようとしても、当初、彼女は、頑としてその神父と会おうとしませんでした。それは、当然問われるであろう「なぜ、あなたは新しい修道会を作ろうとしているのか」という質問に答えないためです。なぜ新しい修道会を作ろうとしているのかという問いに対する答えに対して、彼女が持っているこたえは「神が、そう言ったからだ」ということしかありません。新しい修道会を立ち上げなければならない客観的必然性があるとかないとか、そういったことが、彼女が「神の愛の宣教者会」を立ち上げようとした動機ではなかったのです。

彼女は、ただ「神がそう語られたから」そうしようとしているのです。そして、そのように神がマザー・テレサに語られたという極めて神秘的なことは、客観的に証拠立てることはできないのです。しかし、彼女はその「神が語られた」という、極めて神秘的な信仰の出来事にすべてをかけているのです。それは、合理的な知性では受け入れがたいことです。それこそ、今日の聖書の箇所の2章14節に「生まれながらの人は、神の賜物を受け入れない。それは彼には愚かなものだからである。また御霊によって判断されるべきだから、彼はそれを理解できない」といわれているとおりです。そして、それは御霊によって判断されるべきことだからです。ですから、私たち人間が判断する合理的な判断基準では、それは推し量ることができないのです。実際、マザー・テレサの新しい修道会設立の申請が正統なものであるかどうかを審査するためにローマ教皇庁から派遣されてきた神父は、当初は、新しい修道会を設立する合理的根拠を見出すことができないで、新しい修道会の設立に対して否定的でした。しかし、信仰の目を見開き見るならば、神がマザー・テレサに語りかけたと言うことも真実として受け止められるのです。そして、最後には、視察にきた神父もマザー・テレサの「私は神の言葉を聞いたのです」という答えを聞いて、そこにある信仰の世界の真実を見て、彼女の修道会設立の願いを支持し、結果として「神の愛の宣教者会」は設立されるのです。

もちろん、マザー・テレサが「私は神の言葉を聞いたのです」という答えを聞いて、それは紛れもない真実であると受け止めることができたのは、そこにマザー・テレサの生き方そのものがあったからに他なりません私たちに語りかける神の言葉に耳を澄まして聞き、語りかけられた言葉に真実に従って生きていこうとする彼女の生き様がったからこそ、「私は神の言葉を聞いたのです。」「だから新しい修道会を作ります」といわれたときに、確かに、神はそう語られたのだろうと思わせたのだろうと思います。つまり、神の言葉をきくということは、聞きっぱなしで終わっては何にもならないと言うことです。聞いて、その言葉に聞き従って生きると言うことが神の言葉を聞くということなのです。それは、つまりは、神が私たちのことを深く十分によく知って語りかけてくださると言うことは、私たちが苦しむとき、私たちが悲しむとき、聖書や説教の言葉を通して、私たちの心に慰めの言葉を語りかけて下るというだけでなく、私たちの人生を導いてくださるということでもあるのです。マザー・テレサは、自分のことを「神の鉛筆だ」といいます。何を描こうかと考え、それを描くのは神であって、私はその鉛筆という道具に過ぎないというのです。けれども、鉛筆にだって特徴があります。HBの鉛筆もあれば、2B、2Hの鉛筆だってある。

そして、それらは用途によって使い分けられるのです。しかし、使い分けるには、それぞれの特徴を知らなければなりません。鉛筆のことを知らなければ、使い分けなどできないのです。同じように、たとえマザー・テレサが、神に用いていただく鉛筆であったとしても、神はマザー・テレサという人物をよく知っておられ、よく知っておられるからこそ、彼女を用い、「神の愛の宣教者会」を通して様々な神の業をなさせたのです。みなさん。神は、同じように私たちのことを深く、そしてよく知っておられます。みなさんが、聖書を読んだり、説教を聞いたりする中で、ああ、これは私のことだ、私について語られているのだと思うような経験がおありになるとするならば、それこそ、神があなたのことをよく知っておられる証です。そしてその神様は、聖霊なる神様によって、私たちに神の言葉を聞かせて下さるお方なのです。だからこそ、私たちはしっかりとこの神の言葉に耳を傾けて聴くと言うことに心を向けていなければなりません。そして、神は私のことを十分によく知ってくださっているということを信じて、神に信頼していかなければなりません。そして、神がわたしたに語りかけて下さったと確信することができたならば、私たちはその言葉に聞き従っていけばいいのです。もちろん、そこに神の語りかけではなく、自分の主観や願いといったものが入り込むと言うこともあるでしょう。

だからこそ、注意深く、敬虔な思いで神に従うという、全き献身が必要です。そうやって神に聞き従うという思いを持って、神が語って下さる言葉に耳を傾けてきこうとする態度が大切なのです。みなさん、神は私達に対して語りかけて下さるお方です。私たちのことをよく知り、私たちと共に歩み、導いて下さるお方です。ですから、私たちは神の言葉に導かれ、励まされ、慰められ、支えられながら歩むものになっていきたいと思います。

お祈りしましょう。