『霊の人と肉の人』
コリント人への第一の手紙 3章1−9節
2008/4/27 説教者 濱和弘
賛美 18、342、379
さて、私たちは、コリント人への第1の手紙2章において、神は私達に、御自信のご本質である愛を私たちにお示しになさろうとしておられることを学びました。また、その神のご本質である愛は、子なる神イエス・キリスト様が十字架につけられて死なれという、あの歴史上に実際に起った出来事によって示されてだということも学びました。それは、子なる神であるイエス・キリスト様は父なる神の愛を私たちに示す啓示者であったということを意味しています。もちろん、自らの悲惨でむごたらしい死をもって私たちに、父なる神の愛を示すという行動の背後には、イエス・キリスト様の私たちに対する愛があります。つまり、イエス・キリスト様の中にも父なる神の愛と同じ愛が宿っているのです。そしてその愛が、「救い」という恵みを私たちにもたらしてくださるのです。そして、さらには、聖霊なる神様というお方についても学びました。それは、聖霊なる神は、父なる神と子なる神から発出したおかたであり、それゆえに、その父なる神の愛と、子なる神イエス・キリスト様の愛をよくしっておられるお方だと言うことです。そして、その愛を知っておられるからこそ、聖霊なる神は、神の愛とその愛が結実したイエス・キリスト様の十字架の死という救いの出来事が、私のためであったと、私たち一人一人に伝え理解させてくださるお方なのです。
伝えるということは、伝達するということです。相手に何かを伝達するためには、相手に分かり易くそれを伝えなければなりません。ましてや、伝えたい内容がなかなか理解しがたいような内容であればあるほど、なおさら分かり易くそれを伝えなければなりません。そのためには、伝えようとする相手のことをよく知らなければなりません。よく知って、相手が理解できるような言葉を用いなければならないのです。しかも、それはただ伝えるだけで終わってはいけません。伝えた相手が、その伝えたことを、信じ受け入れなければ何もならないのです。つまり、神が私たちを愛してくださっているその愛を、私たちが受け入れてくれなければ、何にもならないのです。そのためには、相手が受け入れられるような状況の時に、タイミング良く伝えなければなりません。
たとえば、私が勉強しているときや説教の準備をしているときに、妻や子どもたちが私に何か相談事をしても、実は何の実りも得られません。というのも、私が勉強しているときや説教の準備をしているときは、意識をそちらに集中していますので、返事をしても、大抵はいい加減な生返事でしかないからです。要は、私が勉強や説教の準備に没頭しているときは説教の準備をしているときは、私に相談するタイミングではないのです。もし、本当に私に重大な相談をするならば、私の妻や子どもたちは、私の性格やいまどのような状況にあるかをちゃんと知って、私が何かに没頭していたり集中しているときではない、他の時にしなければならないのです。人間は、相手のことを十分に理解しきれないことや相手の状況をきちんと把握できないようなことがままあります。しかし、聖霊なる神様は、いつでも、どこでも私たちのことをちゃんと正しく知ってくださっています。なぜなら、聖霊なる神は、私たちの内に住んでおられると言っても良いほどに、私たちと共におり、私たちを包んでいてくださるお方だからです。そのように、私たちと共におり、私たちのことをよく知っておられるお方だからこそ、適切なときに、聖書の言葉や、説教の言葉を通して、適切な言葉を用いて、私たちに対する神の愛を示してくださり、私たちを励まし、慰め、支えてくださるお方なのです。
聖霊なる神は、そのように父なる神、子なる神であるイエス・キリスト様のことをよく知り、私たちのことをよくしって下さっておられる方です。ですから、聖霊なる神は、私たちが神を信じるものとして、どのように生きていけばよいかを正しく導いてくださるのです。先週、マザー・テレサが、「私は神の鉛筆です。」といったお話しをしました。それは、「キャンパスに何を描こうかと考えるお方は神であり、実際にそれを書くのも神様です。そして私は、ただその神様に使っていただく鉛筆に過ぎません。」というのが、マザー・テレサの「私の神の鉛筆です」という言葉の意味であろうと思いますが、それはつまり、神の言葉に耳を傾けて聞き、その聞いた神の言葉によって導かれながら、神に従って生きると言うことなのです。神の言葉に聞き従って生きるということは、神のお心、神の御思いに添って生きると言い換えることができます。神のお心に添って生きる、それがクリスチャンという存在のあるべき姿なのです。その神のお心が、聖霊なる神様によって、私たちに示され開示されていくのです。ところが、たとえ、神のお心が何であるかが、私たちに示されたとしても、実際に神のお心に添って生きていくことができるかというと、それはなかなか簡単なことではありません。というのも、私たちの心には、自分の思いや願いといったものがあるからです。私たちの願いや思いが神のお心と一致していればよいのですが、しかし、必ずしもそれが一致していないことの方が多いように思われます。
だから、信仰生活には葛藤があるのです。おそらく、みなさんも、そのような葛藤を経験したことがおありのことだろうと思います。聖霊なる神は、私たちの心に聖書の言葉や説教の言葉を通して語りかけたり、時には私たちの良心に釘を刺したりしながら、私たちが神の前に正しく歩んでいけるようにと働きかけて下さっている。けれども、私たちの心が、その聖霊なる神の働きかけに対して、素直に神の言葉に聞き従うことを拒否するということが確かにあるのです。そして、その時には、私たちの心の中に葛藤がある。つまり、神のお心に従っていきたいと思う自分と自分の願いや思い、あるいは欲望といったものを満たしたいと思う自分、その二つの自分が、心の中にいて相争っているのです。聖書では、この神のお心に従っていきたいと思う自分を霊の人とよび、自分と自分の願いや思い、あるいは欲望といったものを満たしたいと思う自分を肉の人というような言い方をします。ですから、クリスチャンの心の葛藤とは、私たちの中にある霊の人と肉の人の戦いだと言えます。そして、その戦いにおいて、霊の人が勝利するときに、私たちは霊の人としていき、肉の人が勝利するときに私たちは肉の人として生きると言うことになります。もちろん、実際に生きていく中では、そのような単純に色分けで、言い表せない複雑なものも少なくはないでしょう、しかし、大雑把にいってそのように理解して良いだろうと思います。
この霊の人、肉の人という表現が、まさに今日の聖書の3章1節から3節でも述べられています。そこには、こうあります。「兄弟たちよ。わたしはあなたがたに肉に属する者、すなわちキリストにある幼な子に話すように話した。あなたがたに乳を飲ませて、堅い食物を与えなかった。食べる力が、あなたがたになかったからである。あなたがたはまだ肉の人だからである。あなたがたの間に、ねたみや争いがあるのは、あなたがたが肉の人であって、普通の人間のように歩いているためではないか。」この、聖書の言葉には肉の人というものの特徴が二つあげられています。一つは、「肉の人とは、まだ信仰の幼子であり、神を信じない、普通の人の生き方と同じような生き方をしている人である。」ということです。パウロが、このコリント人への第1の手紙3章において肉の人というとき、それは、「神を信じない、普通の人の生き方と同じような生き方をして人」のことを指しています。ここでパウロのいう普通の人とは、神を信じていない人たちのことです。神を信じないのですから、当然、神の御思いを意識して生きる言うことなどありません。むしろ、神を信じることなしに普通に生きている人にとっての普通の生き方は、自らが正しいと思うこと、自らが良いと思うこと、あるいは自分が欲するところに従って生きるという生き方のです。ですから、肉の人とは、まさに自分の思いや願いに従って生きている人のことを指しているといえます。
それは、ある意味では大切なことです。それこそ善し悪しの判断をきちんとして、良いと思われることに従って生きることは悪いことではないのです。このような善し悪しの判断をきちんとして、自分がよいと思うところに従って生きる事を、人間の自律性といいます。そして、そのように自律した人間像が、人間が他の動物になさって優れている人間の尊厳性の根拠ともなっているからです。ところがパウロは、そのような自律性を持った人間の生き方があるからこそ、あなたがた方の間に争いがあるというのです。ここの、肉の人の持つ二つ目の特徴があります。すなわち、クリスチャンであろうとなかろうと、私たちが自分の願いを達成し、欲望を満たそうとして生きていく限り、私たちは絶えず争いを産み出していくということです。もちろん、自分の願いを達成し、欲望を満たそうとすることは、必ずしも悪いことばかりだとはいえません。人間は、願いを持ち欲望をもつからこそ、願いを達成し欲望を満たそうと努力し、向上していきます。だからこそ、私たち人間が願いを持ち、欲望を持つことは悪いことだとは言い切れないのです。そういった意味では、現在の北海道大学の前身である札幌能大学の初代教頭であったウィリアム・クラーク博士は'Boys be ambitious(少年よ大志を抱け)'といったといわれますが、私たち人間が向上するためには、'Humanns be ambitious(人類よ大志を抱け)'でなければならないのかもしれません。
しかし、志を抱き、それを達成しようと願うのは、自分一人ではないのです。それこそ、誰もが志を抱き、自分の願いや欲望を満足させたいと思っているのです。そして、その願いが時として相対立してぶつかり合うことがある。たとえば、卑近な霊かもしれませんが、昨日、長野でオリンピックの聖火リレーがありました。今回の聖火リレーは世界各国を回りましたが、世界中のあちらこちらで問題を起しています。それは、オリンピックの開催国である中国で、チベットの人々が信仰の自由と自治を求めてデモを起し、中国当局はそれを武力で鎮圧しようとしたからです。そのため、チベット側に立ち中国政府に対する抗議をするグループと、中国側に立つ人々が、聖火リレーを、その主張をアピールする場にしているからです。そして、その背後には民族紛争というものがあると言っても良いだろうと思います。そこには、民族の自治と自由を願うチベット族の人たちの願いと、現在の中国政府の支配を維持・強化使用とする人たちの願いが交差し、平和の祭典であるオリンピックの聖火リレーが、皮肉にも紛争の場となっているのです。これこそ、まさに相反する願いと願いがぶつかり合い、相争っていることをしめす良い例であると言えるだろうと思います。そして、このような民族紛争というのは、チベットと中国政府だけではありません。世界中にこのような民族紛争がたくさんあるのです。
ヨーロッパのセルビアで起ったコソボ紛争しかり、スペインのバスク地方の問題しかり、イギリスと北アイルランドの紛争然り、またアフリカのソマリアしかり、アジアのイスラエルとアラブのパレスチナ問題もまたしかりです。このような争いはそれぞれの民族が、自分たちの民族の繁栄と安寧そして利益を願うその思いがぶつかり合ってしまって起っているものなのです。民族や国家の繁栄や安寧、あるいは利益といったことを願い求める思いは決して悪いことでありません。しかし、それが同じことを願う他者の思いとぶつかり合うときに争いが起るのです。そして、それは民族問題といった規模の大きな社会問題というだけではなく、私たちの生活する身近な所にだって起り得るものです。それだけではない、教会の中にだって起るのです。コリントの教会において、「ある人は『わたしはパウロに』と言い、他の人は『私はアポロに』といっている」のは、これからの教会が正しく、より良く歩んで行くためには、誰の教えに聴き従って行けばよいかということについて意見が分れていたということです。教会が正しく、よりよく歩んで行きたいという願いは、教会にとって大切な思いであり、純粋に素晴らしい願いだとおもいます。そういった意味では、私はこのコリントの教会は、みんなが教会をよりよい教会に築き上げたいと願う、その願いにおいて一つになっていた素晴らしい教会であったとそう思いたいのです。いや、おそらくそうであっただろうと思います。
なのに、その一つの願いに結ばれていた教会の中に、「あなたがたの間に、ねたみや争いがある」といわれるような状況が生まれてきたのは一体どういうことなのでしょうか。願いにおいては純粋であり、尊いものであるのに、それが原因で教会が相争ってしまうというような悲しいことが起ってきてしまっているのです。それがコリントの教会で起ってしまっている。互いに相争い、ねたみ、憎しみあうということは、本来は神が望まれることではなく、キリストが望まれることではありません。神が望み、キリストが望まれることは、争いやねたみではなく、むしろ平和であり、愛なのです。たとえば、マタイによる福音書5章9節には「平和をつくり出す人は、さいわいである。彼らは神の子と呼ばれるであろう」と書かれています。神を信じるものは、平和をつくり出していく。そこに神の子が神の子と呼ばれる所以があるというのです。それは、神のお心が平和だからです。その神のお心を自分の心としているからこそ、平和をつくり出すものは、神の子と呼ばれるのです。そのように、平和を求める神のお心が、私たちクリスチャンには与えられている。それは、神の深みまでも極めるところの御霊、すなわち聖霊なる神様が、私たちに与えられているからです(Tコリント2:10〜13参照)。
その聖霊なる神が私たちと共にいて下さるからこそ、私たちはコリント人への手紙2章16節にありますように「しかし、わたしたちはキリストの思いをもっている」ということができるのです。ですから、私たちクリスチャンは、聖霊なる神が私たちを導き、語りかける言葉に耳を傾けて生きるならば、みんな神のお心、キリストのお心を持ち、その神のお心に添って生きていけるはずなのです。ところが、コリントの教会は添うではなかった。教会を良くしよう、より正しく、より素晴らしい教会を築き上げていこうという純粋で、素晴らしい気持ちを持っているのに、実際にそこで起っていることは争いでありねたみであった。いえ、このようなことは、なにもコリントの教会だけの特殊な状況ではありません。どんな教会の中にも起こりうることですし、実際に起ってきたことでもあります。一体どうしてそのようなことが起るのか。私は不思議でならないのですが、みなさんはどうでしょうか。コリントの教会に限ってみてみるならば、そこに起っていた争いは、指導者を誰に据えるかと言うことだろうと思います。まさに「パウロを指導者として仰ごう」「アポロを指導者に仰ごう」と、それぞれが、自分がよいと思われる指導者の名前を担ぎ出して、その人によって自分たちの信仰を導いていってもらおうと考えたのです。
つまり、彼らは、自分たちの信仰を導き、養い、育ててくれる指導者として誰がよいかということにおいて、意見が分れ相争っていたというのです。いうならば、自分たちの信仰を成長させ、教会をよりよくするための手段として、どの指導者がより適任かと考えた、その考えにおいて意見が分れたということだろうと思います。つまり、目的や理想は同じ一つの所を目指しているのだけれども、それを達成しようとする方法において意見が分れたのです。すなわち、ある人たちは、コリントの教会に信仰を伝え、教会の土台を築き上げたパウロの指導に従っていけば、私たちは信仰的により成長し、それによって教会はよりよくなっていくと考え、ある人たちは、今、直接教会を指導しているアポロに導かれていく方が、自分たちの信仰を成長させるには有益だと考えたのです。そのようなコリントの人々に、パウロは実に急所をついた言葉を書き送っています。それは6節7節の言葉です。それは、このような言葉です。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させて下さるのは神である。だから、植えるもの水を注ぐ者も、取るに足りない。大事なのは成長させてくださる神である。」結局、コリントの人たちは、どの指導者が優れているか、あるいはどの指導者が、より自分たちを成長させるのに適任であるかということに目を奪われて、背後にある神を見落としてしまっていたのです。
彼らが、自分たちは信仰的に成長したい、そうやって一人一人が成長してよりよい教会を築き上げようという思いは大切ですし、極めて尊いものです。しかし、忘れてはならないのは、私たちは自分の力や頑張りだけで成長するわけではないということです。信仰の成長というものが、クリスチャン一人一人の努力や頑張りだけでなされるものであるならば、よりよい指導者に手ほどきを受けると言うことは非常に大切なことです。私は、神学の学びをさせていただいていますし、趣味で剣道を習わさせていただいていますが、学問や、剣道であるならば、良い指導者に出会えるかどうかが、その人の成長にとって決定的な要因となります。それによって、持っている才能が引き出され、技術が研かれるかが決まってくるからです。しかし、信仰は技術や才能が積み上げられた結果としてそこにあるのではありません。それは、神との深い交わりであり、神に対する信頼なのです。ですから、信仰が成長すると言うことは、技術的に何かを教わるというようなことで成し遂げられるものではありません。ただ、神との交わりが深まり、より深く神を信頼できるかどうかにかかっているのです。そのようなわけですから、コリントの地に福音を伝えたパウロであっても、またそのパウロの後を継いでコリントの教会を導いてきたアポロであったとしても、信仰の成長のためには、とるに足らない存在でしかありません。ただ大事なのは、ただ神お一人であり、その神との交わりなのです。
もちろん、だからといって、パウロやアポロといった教会の指導者となる人が不必要だというわけではありません。しかし、彼らが必要とされるのは、ただ神の言葉を忠実に取り次ぎ、キリスト者としてのあるべき姿を示し続ける存在としてだけであり、そのことにおいてのみ存在の意味が問われるのです。これは、今日の教会でも同じだと思います。牧師は、神の言葉である聖書の言葉を忠実にお取り次ぎし、クリスチャンのあるべき姿を語り示す限りにおいて、牧師としてのその職務を全うする。しかし、それを聞いて、神の言葉として受け止め、実際に生きていくためには、その言葉を語る牧師を含めて信徒のみなさん一人一人の神に対する信頼が大切なのです。なぜなら、神に対する信頼がなければ、神の言葉に聴き従うと言うことなど到底できないからです。この神への信頼は、神が私たちを愛してくださった深い愛を感じ取る所から生まれます。神が私を愛してくださっている。そのことを私たちがどれだけ深く感じているかによって、私たちの信仰が深まり、成長していく。そして、神の言葉に聴き従う人の人格までも成長させてくださるのです。
たとえば、ガラテヤ人への手紙5章19節から24節には、肉の実と御霊の実というものについて次のように語られています。「肉の働きは明白です。すなわち不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、およびその類である。」それに対して、「御霊に実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。キリスト・イエスに属するものは、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである」このような、御霊の実というものは、パウロの言う霊の人のもつ人格的特徴です。それはまさに、今日の聖書の箇所で、「あなたがたがの間に、ねたみや争いがあるのは、あなたがたが肉の人であって、普通の人間のように歩いているためではないか」といわれている姿の対極にあるものです。このような、私たちが、霊の人としての人格は、神と交わり、神の御性質に触れ、そして神の御言葉に聴き従いながら生きていく中で、私たちが内側から変えられ、神を信じる信仰において成長し、そして形成されていくものです。私たちの教会でいうきよめというのは、そのような人格的変化の全体像を示す言葉でもあります。そして、そのきよめの出発点は、神を全面的に信頼し、自らの存在を神にゆだねるところから始まるのです。そして神は、そのように私たちが神を全面的信頼し、神に自らの存在をゆだねることがすることができるようにと、いつまでも変わることのない神の愛を私たちに注いでいてくださっているのです。
その神の愛は、極めて身近な私たちの生活の様々な場面で発見することができます。私たちが、霊の目を見開き、霊の耳をそばだてているならば、生活の様々なことの中に神の恵みを発見することができます。また、聖書の言葉を読む中で、また礼拝の説教を聞く中で、あるいは信仰の書物や神学書を読む中でさえ、神の言葉を聞き、神の愛を発見することだってできるのです。ですから、信仰の成長とは、単に聖書の教えを聞くとか、神についてキリストについて知識を得ると言ったことでは成し遂げるものではありません。単に知識として神について知り、キリストについて知ると言うだけならば、それは堅い食物を食べる力がない幼子のキリスト者であり、未だ、肉に属する肉の人のようなものなのです。だからこそ、私たちは霊の目を見開き、霊の耳をそばだてる霊の人とならなければなりません。そうやって、神が私たちの日々の生活の中で私たちと伴ってくださっている信仰の事実、霊の事実を見出していくことが大切なのです。具体的に言うならば、生活のあらゆる場面で、神様のことを思うことです。神様が私に何をしてくださったのか、何をさせようとしておられるのか、それを心に思うのです。あるいは、聖書を読むときに、神様はこの聖書の箇所通して、神様が私に何を語ろうとしておられるのを考えることが大切です。また、説教を聞くときもそうです。神様はこの説教を通して私に何を語ってくださるのか、それを期待し、説教の言葉に耳を傾けるのです。読みっぱなしではなく、聞きっぱなし出もなく考えること、思うことそれが大切です。
そうやって様々な場面で、何か心に残るもの、たとえば、聖書の言葉に一節が、あるいは一つの言葉が心に残ったならば、じっとその言葉を心に思いめぐらすのです。せいかつの中で何か心に残る出来事があったならば、じっとそれを思いめぐらす。それが楽しいことであるなら、感謝の心を持って、悲しいことであるならば、悲しみの中にいる自分に、神は、そしてキリストはどのように語りかけてくださるのだろうか。そう言ったことを思いめぐらすのですそう言ったことを通して、私たちは神の愛や神のお心といったものに触れていくことができます。そして、そのようにして私たちは、神と交わるようになっていくのです。そうやって、私たちが神との交わりを深めていく中で、私たちはより神の子として成長し、霊の人として、神の言葉に聴き従って生きる者と変えられていくのです。私たちは、願いを持ち、大志を抱きながら生きていきます。それは人間の尊厳性の根底にあるものですから、大切にしなければなりません。けれどの、その願いや大志は、キリストの心にあるところの、願いであり、志でなければならないのです。そのためには、神との深い交わりを通して、神の愛を知り、より深く神を信頼することによって、成長したクリスチャンとならなければなりません。
神は私達を成長させてくださるお方です。ですから、私たちは神の言葉に耳を傾け、また神がなされる恵みの業を発見しながら、神によって信仰の内に成長させていただき、肉の人ではなく霊の人として、御霊の実を実らせながら歩もうではありませんか。
お祈りしましょう。