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メッセージ

羊飼い 『確かな仕事』
コリント人への第一の手紙 3章10−17節
2008/5/4 説教者 濱和弘
賛美  11、145、388

ただいま司式の兄弟にコリント人への第1の手紙3章10節から17節までの御言葉を読んで頂きました。その冒頭の部分は、次のようなものです。「神から賜った恵みによって、わたしは熟練した建築師のように、土台を据えた。そして他の人がその上に家を建てるのである。しかし、どういうふうに建てるのか、それぞれ気をつけるがよい。なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台は、イエス・キリストである。」これまで私たちは、コリントにある教会が、自分たちの教会の指導者として誰を仰ぐかということで分派、分裂の危機に陥っていたという状況の中で、パウロが、なんとかそのコリントの教会が抱えている危機的状況に、解決を与えようとしているようすを見てきました。そのパウロが取った方法は、彼らの信仰の原点、またコリントの教会の原点は、イエス・キリスト様の十字架を見上げさせると言うことでした。それは、イエス・キリスト様の十字架の死と復活の出来事が、私たちの抱える様々な苦難、とりわけ、その苦難の根源にあり、かつ頂点でもある私たちの罪とどんな人も死ななければならないと言う死の問題に救いを与えるものだからです。

そして、イエス・キリスト様の十字架の死と復活の出来事が私に救いを与えると言うことに信頼を寄せることこそが、キリスト教における信仰と言うことなのです。もちろん、信仰とは神を信じることでもあります。しかし、ただ漠然と神を信じると言うことではなく、神は、イエス・キリスト様というお方を通して、私たちを救ってくださる神であるということを信じ受け入れることが大切なのです。そのためには、その救いの根拠となる十字架の出来事を信頼し、それに寄りすがるということがなければならないのです。そういった意味では、キリスト教の信仰の土台は、まさにイエス・キリスト様の十字架の死と復活の出来事にあるといえます。まさに、「土台はキリスト」なのです。パウロは、そのイエス・キリスト様という土台をコリントの教会の土台として据えました。パウロは、「神から賜った恵みによって、私は熟練した建築師のように、土台を据えた」といいますが、しかし、その土台の上に「他の人がその上に家を建てるのである。」というのです。「家を建てるのである。」といい、さらに12節、13節で「この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、またわらを用いて建てるならば、それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる」というのですから、パウロが「熟練した建築師のように」据えた土台の上には、まだ家が建っていないのです。ですから、誰かがそれを建てあげなければならないのです。

では、だれがそれを建てあげるのかと言うことになりますが、コリントの人々は、その仕事を誰に託すかでもめていた。つまり、土台を据えたパウロを指導者として仰ぐことによって家を建てあげようと考えるひとびとがいたり、パウロの後にコリントの教会を導いていたアポロを指導者として仰ごうとする人がいたり、イエス・キリスト様の一番弟子であるケパ、すなわちペテロヲ指導者として仰ぎ、その考え方に従うべきだと主張する人がいたり、あるいはキリスト派と呼ばれる人々の考えによるべきだという人々がいて、それらの人々が相分れて言い争っていたのです。そのような中で、パウロが「他の人がその上に家を建てるのである。」という、その「他の人」というのは、おそらくはそう言った、アポロや、ケバ、あるいはキリスト派と呼ばれる人たちのことを指しているのではなく、コリントの教会の一人一人のことを指しているのであろうと思われます。というのも、パウロがここにおいて「他の人がその上に家を建てるのである。」という家は、教会のことを指しているであろうと思われるからであり、教会は、クリスチャン一人一人によって構成される神の民の群れだからです。ですから、教会を建てあげていくのは教会に集うお一人お一人なのです。

先週、私は、教会の創立50年を迎えたことを記念して発行される記念誌の最終作業をしていました。予定よりも半年遅れで、創立52年目に出され「50周年記念誌」ですが、ともかく何とか発行の目処が付きました。その記念誌に載せる写真のレイアウト等、先週一週間をかけて少しづつチェックしていたのですが、そのためにもう一度、教会の昔の写真を見なおしていました。その中に、教会が古い会堂を、現在あるこの会堂に改築する時の写真がありましたが、そのなかに、教会堂の基礎部分を移した写真があったのです。そこには、いくつものコンクリートの基礎が据えられいるようすが写っていました。それを見ながら私は、「ああこの会堂は、この土台によって支えられているのだな」と改めて思わされたのです。この会堂が建てあげられ時、私はまだ大学生でありましたが、その当時の牧師の加藤亨牧師より、「新しい会堂の基礎は、他の建物より深く掘って基礎を据えてもらったので、しっかりとしている」と聞きました。まさに、「熟練した建築師のように」して据えられたしっかりとした基礎が、この教会堂をささえているのですが、それ以上に私は、「こんなにも多くの土台が、会堂を支えているんだ」ということに改めて驚きを感じたのです。

確かに、教会堂を支えているのはコンクリートの基礎であり、それが土台となって建家である会堂を支えている。しかし、それは会堂を支えているのであって、三鷹キリスト教会を支え得ているのではありません。この三鷹キリスト教会の土台となって支えている基礎は、今日ここに集っておられるみなさんお一人お一人であり、私を含んでこの教会につながる信徒の方お一人お一人なのです。確かに、私たちはこの三鷹キリスト教会の基礎となり、土台としてここに据えられています。そして、それを据えたのは、この教会の創立者であり、初代牧師であられた加藤亨牧師であったろうと思います。加藤牧師によって、私たちは、イエス・キリスト様の十字架の出来事が、私を私の罪から救い、死という逃れることのできない苦しみから救ってくれる救いであるということに信頼を寄せ、私を救ってくださる神を信じる信仰を受けつぎました。そういった意味ではより深く掘られ、よりしっかりとした基礎として個々に据えられたのです。もちろん、私たちの教会には他の教会で信仰をもたれた方もおられます。そのような方は、ご自分が信仰をもたれた教会で、本当によい指導者の下で、しっかりと信仰を受け取り、神を信じ、そして神の導きの中で、こうして今は、この三鷹キリスト教会の土台となって下さっている。

そういった意味では、パウロがエペソ人への手紙2章20節で「またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上にたてられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。」といっていますが、お一人お一人が、信仰を導き育んでくださった牧師、さらには遡って使徒や預言者といった聖徒たちのまで遡って、そこから延々と受けついだ信仰という土台の上に、私たちの教会は建っているのだと言うことができます。それは、本当にすごいことです。いうなれば、私たちの教会は創立50周年を迎えたばかりですが、しかし、その信仰は教会2000年の伝統を背負っているからです。それほどに深く掘られ据えられた信仰の土台の上に私たち教会が建てあげられている。それは本当に素晴らしいことですね。ですから心から感謝しなければなりませんし、実際本当に感謝なことだと思うのですが、みなさんはどうでしょうか。と同時に、それが本当に感謝なことであるならば、私たちは、その教会2000年の伝統をこれからも受け継ぎ伝えていかなければならない使命を負っていると言うことを忘れてはなりません。つまり教会は、イエス・キリスト様の十字架を信頼し、救いの神を信じる信仰を伝え、罪赦され、永遠の命を与えられた喜びが、心の中に湧き上がるという宗教的な経験を受け渡していかなければならないのです。

それは、私たちが日々の生活の中で、神の恵みを発見し喜ぶ姿の中で、あるいは、聖書の言葉を通して神の語りかけを聞くことにより、また、こうして礼拝に集い、共に神を賛美し、御言葉が語られ、それが解き明され、(今日は聖餐式が行われますが、その)聖餐に与り、イエス・キリスト様が十字架に死によって与えてくださった救いが、今も私たちを救い続けてくださっていることを、具体的に確認しながら生きていく中で、伝え受け渡していくことができるのです。一昨日、私と家内は、ある方の個展に行って参りました。その方は私が静岡の教会を牧会しているときに導かれてクリスチャンとなられた方だったのですが、その会場で、本当に偶然だったのですが、同じように個展を見に来られていたお二人の静岡教会の方々とお会いすることができました。そこで、昼食をご一緒にし、楽しいひとときを持ったのですが、その時にお一人が次のようなことをお話し下さいました。それは、大まか次のような話なのですが、その方は、もう長いこと、それこそ20年近く、ひとりの方を導きたいと祈り、それこそ、家庭集会を開き、そこにお誘いしていたのです。そうやって家庭集会を通して、イエス・キリスト様にある救いを伝えようとしておられた。その方が、20年近い年月を経て、最近教会の礼拝にも出席されるようになったというのです。実は、そのお誘いしていた方というのは政治家の奥様で、それこそ何度も選挙を経験しておられるような方であり、それゆえにいろいろと大変なこともあられるようです。そのような中で、家庭集会にこられるようになったのは、誘っていた姉妹が「どこか他の人と違っている」とそう感じたからなのだそうです。

家庭集会を開いていた姉妹は、自分が神様を信じ救われたことを本当に喜びながら生きているしまいでした。そして、どのような時にも、神様を信頼し、イエス・キイスト様を信頼して生きておられる。ですから、いつもにこやかにしておられるのです。きっと、そのような姿が「どこか他の人と違う」と感じさせ、それでお誘いしていた方も家庭集会に行く気持ちになったのだろうと思いますが、その姉妹の20年近い祈りが、今、そのお誘いしていた方が教会に集うようになり、今にも、信仰が伝えられ、教会に新しい土台がもう一つ加えられようとしているのです。そのように、私たちは、自分自身が神を信じ救われた信仰を喜びながら生きることで、神を信じ、イエス・キリスト様を信じる信仰を伝えていくことができるのです。そして、そうやって教会はこの世に建ち続けているのです。それはただ単に継続されていると言うことではない、伝道し新しい人々が加えられることで、日々新しく建てあげられ続けている。ですから、教会は決して建てあげられたと言うことができないものです。それは日々建てあげられ続けている、建てられているものなのです。そして、その教会を建てあげ支えているのは、そこに土台として据えられているお一人お一人です。ですから、この三鷹キリスト教会を、今日も建てあげ続けているのは、ここに集うみなさんお一人お一人なのです。

だとすれば、パウロがコリントの教会の人々に「この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、またわらを用いて建てるならば、その仕事ははっきりとわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう」という注意を促す言葉に目を向けなければなりません。ここで言われていることは、どのような建て方をするかということです。その「そのような建て方をするか」という問題をパウロは「金、銀、宝石、木、草、またわらを用いて建てるならば、その仕事ははっきりとわかってくる。」という言い方をもって表現しています。このように「どのような建て方をするか」ということを「金、銀、宝石、木、草、またわらを用いて建てるならば、」という言い方をするならば、問題にしているのは建てあげるための材料です。どのような材料を用いて教会を建てるかが問題だというのです。この場合、「どのような建て方をしたか」ということの善し悪しの評価は「かの日には火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。」とありますから、おそらくは、金、銀、宝石に対して、木、草、わらといった火で燃えるような材料で建てあげるようなことは好ましくないという思いが込められているだろうと思います。つまり、材質の善し悪しをいっていることになります。

この材質の善し悪しは、教会に集う私たちクリスチャンを比較して質の良いクリスチャンと質の悪いクリスチャンがいるという事ではありません。教会に集う一人一人の存在は神の前に決して、優劣が問われるものではありません。神の前には、すべてのものが尊い存在なのです。それなのに、私たちは、自分たちの持っている能力や賜物で自分を計ったり、人を計ったりすることがあります。たとえば、私たちは「私は土の器に過ぎません。」というような言い方をすることがあります。それは、神と人の前で、決しておごることなく、謙虚で謙遜な思いからそう言うのであれば、それは尊いことであろうと思います。しかし、人と能力や賜物を比べ、私は人より劣っているから「私は土の器です」といっているのであるならば、それは間違っていると言わなければなりません。神は、人を能力や賜物、あるいは可能性によって優劣などつけることなどないからです。ですから、教会を建てあげるという作業においても、あの人は教会を建てあげていくために役に立つ人だとか、良く奉仕をする人だとか、多く献金する人だといったことで、あの人は金、あの人は銀、あの人は木だとかわらだとかということではありません。だいいち、建てあげるのが教会員一人一人なのです。ですから、その教会員が用いる材料は教会員であろうはずなどありません。

また、「かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。もし、ある人の建てた仕事がそのまま残れば、その人は報酬を受けるが、その仕事が焼けてしまえば、損失をこうむるであろう。しかし、彼自身は火の中をくぐって北ものようにではあるが、救われるであろう」といわれています。材料は燃えてなくなってしまっても、建物を建てた人自身は救われるというのですから、ここでも、材料とその材料を用いたクリスチャンは別の存在だと言えます。それでは、教会を建てあげる働きを負うのは私たち教会員だとして、ここで「金、銀、宝石、木、草、またわらを用いて建てるならば、」と問われている、その教会を建てる材料とはいったい何のことなのでしょうか。正直なところ、この「金、銀、宝石、木、草、またわら」といったものが何であるかということを特定することはできません。実際、様々な解釈が分れるところなのです。そもそも、このコリント人への第1の手紙3章10節から15節自体、非常に解釈していくのが難しいところで、その理解も大きく分れるところです。ですから、更にその中で「金、銀、宝石、木、草、またわら」が何であるかを特定すると言うことは非常に難しいことなのです。しかしながら、あえてその難しいことをするとするならば、この時パウロは、「私はパウロに付く」とか、「私はアポロに」「私はケバにつく」といって互いに争いねたみあって分派・分裂を起こしを卯になっているコリントの教会の問題を念頭に置いて語っていただろうということは、手紙の性質や、ここに至るまでの手紙の内容から想像が付きます。

このように、コリントの教会で「私はパウロにつく」とか、「私はアポロに」「私はケバにつく」というような論争があったというとは、それぞれ「私はパウロに付く」という人たちとには、彼らなりの考え方や生き方、つまり神学、あるいは教理的な内容と具体的な信仰の在り方・生き方といったものがあったのではないかと思われます。そして、それは「私はアポロにつく」という人にもあったでしょうし、「私はケパにつく」という人たちも同じであったと思うのです。どうして、そのように思うかというと、同じようなことが今日でもあるからです。私たちの教会は日本ホーリネス教団に属していますが、その根底にあるのは、ウェスレアン・アルミニアン神学です。ですから、あえて言うなれば「私はウェスレーにつく」といっているようなものです。おなじように、改革派教会なら「私はカルヴァンにつく」といい、ルーテル教会なら「私はルターにつく」といっているようなものですし、カトリック教会なら「私はケパに」、ペンテコステ系の教会なら「いや私たちは聖霊なる神につくのだ」あるいはロシア正教会のようなグループは「私はヨハネに付く」と言っているような感じになろうかと思います。

これらの教会は、すべてニケヤ・カルケドン信条という同じ共通した土台にたち、イエス・キリスト様の十字架の死と復活による救いを信じている点においては、一つの土台の上に立っているのですが、その神学や礼拝の持ち方、あるいは生活の規範と言ったことにおいて様々な違いがあります。当然、それぞれの教派において、それぞれが自分の立場が正しいと思っているだろうと思います。私も、日本ホーリネス教団の牧師でありますから、他の教派から学ぶことも非常に多く、他教派の先生方を尊敬しているのですが、根底においては「ウェスレー神学」の見方は正しい方向にあるだろうと思っている。おそらく、他の教派の人も、それぞれの立場で同じように思っておられるだろうと思うのです。しかし、最終的にどの教派の主張が正しいかなどは、言い切ることはできません。それこそ、そういったものは、この世の知恵であり、神の前では愚かなことなのかも知れないのです。ですから、私たちが、それぞれの教派的主張や神学を戦わせ、どちらが正しいなどとやっていることは、それこそ人間を誇る、神の前には虚しい議論なのかも知れません。むしろ大切なことは、私たちはキリストとつながり、キリストのものとなり、神のものとなるというところにあるのです。そもそも、教理や神学といったものは、その根底に宗教経験があるからです。人が神と出会い、神と交わり、自分は神のものとなったという経験が、教理の言葉を産み出し神学を生み出していく。

たとえば、パウロはダマスコ途上で復活のイエス・キリスト様と出会う経験をしていますし、アウグスティヌスは、散歩している時に「取りて読め」という言葉を神の言葉として受け取るという経験をしている。ルターは、「塔の経験」ということを通して宗教改革の教理を打ち立てていきますし、ウェスレーはアルダスゲートの経験と言われる経験を通して、「キリスト者の完全」という神学的表明をしていくようになります。そして、私たちの教団の創設者である中田重治牧師も、ムーディ聖書学院で学ぶ中で、同じような経験を持つのです。そのように、教理や神学の違いはあっても、最後の最後の所で、一致し共通して言える大切なことは、一人一人のクリスチャンが、父なる神、子なる神、聖霊なる神である三位一体の神を信じるというニケヤ・カルゲドン信条に唱われているキリスト教の本質に立ち、イエス・キリスト様の十字架と復活の出来事によって救われるのだということを心に信じ、それによりすがることなのです。この一点がある限り、たとえ教派や教会が焼けて焼け尽したとしても、神を信じ、イエス・キリスト様の十字架の出来事を信頼し、その十字架に自分の救いを見出して寄りすがる一人一人は、救われつづけるのです。そしてそれは、神を信じ、キリスト教の信仰に生きる一人一人が神の御霊である聖霊を宿した神の宮とされているからなのです。

17節に、「神の宮は聖なるものであり、そしてあなたがたはその宮である。」といわれていますが。聖書における聖という概念には、神のものになるということが含まれています。私たちが神のものとなり、神の所有されている。だからこそ、神はその聖なる神の宮である私たちを、破壊するものから守って下さるのです。結局、教理や神学が、焼けてなくなってしまう仕事にするかどうかは、それに関わる一人一人が、その教理の根底にある神との出会いと、それに基づく救いの経験、つまり私は神の者となったのだという宗教経験をちゃんと伝えられているかどうかにかかっているといえます。ですから、私たちは、イエス・キリストにつながり、イエス・キリストを土台として、このお方の寄りすがりながら生きて生き者でありたいと思います。そして、そのように、キリストを土台としている私たちが、互いに寄り添いながら、その私たちが土台となり、キリストにつながり、神の者となる信仰の経験に基づいた教会を築き上げていきたいと思うのです。それこそが、教会を建てあげることにおける熟練した建築師の手になる「確かな仕事」だと思うのです。そして、私たちの教会が、そのような信仰に基づいて結びあわされた教会であるならば、この教会は、これからもこの地に建ち続け、この地に神の教会、キリストの教会を建てあげ続けていくことができると信じるのです。

ちょうど今日は聖餐式礼拝です。聖餐は一つのパンを分かち食し、一つのぶどう酒(ジュース)を分かち飲みます。パンとぶどう酒は、十字架の上で裂かれたキリストの体と流された血を現します。そして、そのパンと、ぶどう酒と共にキリストの輪罪がそこにあります。ですから、そのパンと杯に共に与るということは、まさしく、教会に集う私たち一人一人がキリストの御体につながり、目に見える教会と、全世界に横たわる目に見えない教会に結ばれ、その土台となっているということを意味しています。そのことを覚えながら、祈りを捧げ、聖餐式に臨みたいと思います。

お祈りしましょう。