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メッセージ

羊飼い ペンテコステ記念・母の日合同礼拝
『人の主体性と神の主権』
コリント人への第一の手紙 3章18−23節
2008/5/11 説教者 濱和弘
賛美  3、202、399

今日は母の日・ペンテコステ礼拝です。今年は母の日とペンテコステが重なりましたので度のようにしようかと思いましたが、母の日には、子供と一緒の合同礼拝ですので、今週は母の日ということを中心にして、神様の前に礼拝を持ち、ペンテコステについては来週お話しできたらと思っています。さて、そこで母の日ですが、みんなは母の日にお母さんに何かしてあげますが。お手伝いをする人もいるでしょうし、何かプレゼントをする人もいるかも知れません。そうやって、お母さんのお手伝いをしたり、プレゼントをするのはお母さんに喜んで欲しいからですよね。もちろん、母の日は普段からみんなのことを大切にしてくれているお母さんに感謝する日です。感謝する心があるからこそ、お母さんが喜んでくれる顔を見たくてお手伝いをしたり、プレゼントをするんですね。だから、母の日には、お母さんを怒らせたり、お母さんに悲しい顔をさせたりしてはいけませんよ。お母さんがにこにこしていられるようにしまければなりません。そこで、2人の子供のお話をします。一人は隆二君7歳の小学校2年生、もう一人はあゆみちゃん6歳。小学校2年生と年長組さんの兄弟のお話です。

2人は、母の日にお母さんに喜んでもらおうと秘密の計画を話し合っていました。あゆみちゃんは母の日にお母さんにお花をプレゼントしたいと思っていました。そこで、あゆみちゃんはお兄ちゃんの隆二君に、「ねえねえ、お兄ちゃん。今年の母の日は、お母さんに、お花をプレゼントしようよ。私、パンジーがいいと思うな」とそう言いました。ところが、隆二君はあゆみちゃんの言うこと賛成できませんでした。というのはね、隆二君は隆二君で、母の日にお使い券と肩たたき券をつくって、それをプレゼントしようと考えていたからです。だから、あゆみちゃんが「お母さんに花をプレゼントしようよ」といっても、「そうだね。そうしよう」と言うことができなかったのです。それで、隆二君はあゆみちゃんに「あゆみちゃん。今年の母の日は、お花じゃなくて、かたたき券とお使い券をつくって、お母さんのお手伝いをするようにしようよ。」とそう言いました。でも、あゆみちゃんは、お兄ちゃんの言うことが聞けません。あゆみちゃんは、どうしてもお母さんにお花をあげたかったのです。それは、おかあさんがお花が大好きだったからです。

それで、「いやだ、いやだ、あゆみはどうしてもお母さんにお花をあげたい。だって、お母さんはお花が大好きなんだから。お母さんにあげるプレゼントは、絶対にお花が一番なの」といって聞きません。それで、お兄ちゃんの隆二君は「でもね、去年もお母さんにお花をプレゼントしたじゃないか。今年も同じプレゼントだとおかあさんかわいそうだよ。」と、なんとかあゆみちゃんにお花のプレゼントを止めさせようとしました。それでも、あゆみちゃんは、どうしてもお花をプレゼントしたいと言って、隆二君のいうことを聞いてくれません。困ってしまった隆二君は、あゆみちゃんに言いました。「それじゃ、僕はお母さんに肩たたき券とお使い券をプレゼントするから、あゆみは自分でお花を買ってお母さんにプレゼントすればいいよ。」お兄ちゃんに、あゆみは自分でお花を買ってプレゼントすればいいよ。」といわれてあゆみちゃんは困ってしまいました。だって、あゆみちゃんはまだ6歳で幼稚園に行っているのです。だから、自分でお花を買ってプレゼントしなよ」といわれても、お花を買うお金を持っていません。それで困ってしまったのです。

だからあゆみちゃんは「私お金持ってないから、お兄ちゃんと一緒でなければ、お母さんにお花買ってあげられないもん。だから一緒にプレゼントとしなければだめ」と言いました。実は、去年の母の日にも、隆二君がお小遣いを貯めていたブタの貯金箱からお金をだして、お母さんにお花をプレゼントしたのです。その時、隆二君とあゆみちゃんからお花をプレゼントしてもらったお母さんはとっても喜んでくれました。だから隆二君もとっても嬉しい気持ちになったのですが、でも、すこしだけがっかりする気持ちもありました。それはね、プレゼントのお花を買ったために、一年間一生懸命貯めたブタの貯金箱にたくさん入っていた10円玉が、たった3枚、30円しか残っていなかったからです。もちろん、隆二君もお母さんの喜ぶ顔を見たいと思っていました。でも、貯金箱の中のお金も使いたくありませんでした。隆二君はもう少し貯金箱にお金が貯まったらポケモンカードを買おうと思っていたからです。それで隆二君は、考えました。どうしたらブタの貯金箱のお金を使わなくても、お母さんを喜ばすことができるだろうか。そこで隆二君は名案を思いついたのです。それが、かたたき券とお使い券をつくってお母さんにプレゼントすると言うことだったのです。これだったら、ブタの貯金箱のお金を使わずにお母さんを喜ばすことができますし、お母さんのお手伝いもできます。それこそ、最高の名案でした。

けれども、あゆみちゃんは、「どうしてもお花をプレゼントする」といって聞かないのです。とうとう隆二君は怒り出してしまって「あゆみは、お花をプレゼントするっていうけど、そのお花を買うのは僕の貯金箱にあるお金でかうんだろ。あのお金は僕のものだ。あゆみが勝手にお花を買うってきめないでよね。今年はあのお金は、僕が使うんだ」とそう言ってしまいました。「貯金箱のお金でお花を買わない」といわれたあゆみちゃんは、とうとう泣き出してしまいました。あゆみちゃんが、お母さんに一番いいと思うプレゼントがあげられなくなったからです。そこに、お父さんがやってきました。実はお父さんは、さっきから隆二君とあゆみちゃんの話を、隠れてじっと見守っていたのです。でもあゆみちゃんが泣き出したので、それで、「どうしたんだい」って二人の前に出てきてくれたのです。それで、隆二君とあゆみちゃんは、それまでのことを全部お父さんに話しました。そして、あゆみちゃんは、「お母さんの母の日のプレゼントには、お花が一番いいのでお花を買ってあげたい思うんだけれど、お花を買うことができるお金を持っているお兄ちゃんはお花を買わない」と言っているといい、隆二君は隆二君で、「貯めているお金はポケモンカードを買うためのお金なので、肩たき券とお使い券をあげるのが一番良い方法だ」といって、自分の言うことを変えようとしません。

そこで、お父さんは二人に、それじゃどうすればいいか神様にお祈りしてごらんと言いました。そこで、二人は神様に「お母さんの母の日のプレゼントを何にすればいいですか」とお祈りし始めたのです。神様にお祈りし始めると、隆二君はお祈りしながらあることを思い出しました。それは日曜日の教会学校で聞いたお話しのことでした。その教会学校のお話しで、教会学校の先生がこんな話をしてくれたのです。それは、「私たちは、食べ物だとか、空気だとか、自然だとか、お金とか、みんな自分のものだと思って好きに使っているけれども、食べ物も、空気も、自然も、お金も、そしてこの地球も、本当はみんな神様のものなのです。神様は、食べ物や空気や、自然もお金も、みんな自由に使っていいよって私たちに与えてくださっています。でも本当は、それらはみんな神様のものなのです。ですから、神様が喜ぶことに使わなくてはならないんですよ。」というお話しでした。そのお話しを思い出した隆二君は、はっとしました。というのも、隆二君は、ブタの貯金箱の中のお金は、頑張って自分が貯めたお金だと思っていたけれども、本当は神様のもので神様が与えてくださったものなんだということがわかったからです。

そこで、隆二君は神様にもう一度お祈りしました。今度は、「神様、ぼくは貯金箱のお金は、自分のものだと思って、自分のために使おうと思っていました。でも、あのお金は神様ぼくに与えて下さったものだと言うことがわかりました。ですから、神様の喜ぶことのために使いたいと思います。どうしたらいいですか」とお祈りしたのです。そしたら、今度は別の日に聞いた教会学校のお話しを思い出しました。それは、イエス様の十字架の話でした。こんな話です。「イエス様は、私たちを愛して下さり、私たちがいつまでも喜ぶことができるように、自分の命をプレゼントして下さいました。イエス様が十字架で死なれたのは私たちの罪が赦されて天国で生きることができるようにするためなのです。神様であるイエス様は、一番大切な命を投げ出して、私たちに永遠の命という素晴らしいプレゼントして下さり、私たちにを与えて下さったのです。神様は、人が喜ぶことをしてあげることを喜び、それを願っておられるのです。そして、その神のこであるイエス様は、十字架で私たちが喜ぶことができるようにと、命を投げ出されたのです。」

その話を聞いたとき、隆二君は、一番大切な命を投げ出してまで、永遠の命を与えて下さったイエス様は素晴らしいと思いました、そして、自分もイエス様が命を投げ出して、永遠の命というプレゼントを下さろうとしていると聞いて嬉しくなったことを思い出しました。それで、隆二君は、自分が大切に貯めていたお金だったけれど、自分のためにではなくお母さんが喜ぶことのために使おうと決めました。なぜならば、人が喜ぶことをしてあげることが神様の願っていることであり、神様が一番喜ぶことだとわかったからです。神様がお祈りに答えて下さったんだね。母の日がやって来ました、隆二君とあゆみちゃんは、お母さんにお花をプレゼントしました。あゆみちゃんがいっていたパンジーの鉢植えでした。お母さんはとっても喜びました。実はね、お母さんはお父さんから、隆二君とあゆみちゃんが母の日プレゼントをどうするかで兄弟げんかをしたこと、柳子君がお祈りして、お母さんの喜ぶことのために、自分がポケモンカードを買おうと思って貯めていたお金をお花を買うために使う要に決めたことなど、みんなお父さんから聞いていました。

お母さんはね、欲しかったポケモンカードを我慢してまで、お母さんの一番喜ぶもののために、自分の貯めていたお金を使おうと思った隆二君の優しい気持ちが嬉しかったのです。そして、神様にお祈りして、喜ばれることをしようと思った隆二君の気持ちも嬉しかったのです。なぜならね。神様が一番喜ばれることをするならば、それは人のためになるからです。そして、神様の喜ばれることをしようとおもうならば、かならず優しい人になり、正しい人になるからです。神様にお祈りし、神様の喜ばれることしようと考えた隆二君は必ず、優しい人になり正しい人になれる。そう思ってお母さんは本当に嬉しかったのです。みんなも、神様にお祈りして、神様の喜ばれることをする人になって欲しいと思います。みんなも隆二君みたいに、神様にお祈りし、神様の喜ばれることを使用とするならば、必ず心の優しい人になれますし、正しい人になれます。そして、みんなが心の優しい正しい人になることが、お母さんへの一番のプレゼントですし、神様への一番のプレゼントでもあるのです。

さて、そこで大人の人たちへのお話です。神様が、人間を創造なされたとき、神様は人間にこの世界のすべてのものを与えて下さいました。しかし、その中で最も素晴らしい贈り物は、人間の理性と、自由な意志だと言えるだろうと思います。私たち人間は、自分たちの頭で考え、自分が正しいと思うことをすることができます。ところが、この神様の与えて下さった最も素晴らしい贈り物である理性と自由意志とが、私たち人間にのっぴきならない状況を生み出すことがあります。今まで、私たちはコリント人への第1の手紙を学んでまいりましたが、その根底にあったのは、コリントの教会の分派・分裂の問題でした。コリントの教会の人々がそれぞれ教会をどのように建てあげてていくかと言うことで、意見が分れ、それが主義主張となって分裂の危機を産み出したのです。主義主張の背後には、人間の理性の働きがあります。自分の頭で考え、これが一番良い、最善だと思うからこそ、それが主義主張となって現れてくる。しかし、これが絶対に一番良い、最善だという思いの背後には、他者を受け入れない排他的な要素がそこに含まれていることを忘れてはなりません。だからこそ、お互いに違う主義主張がぶつかり合うところでは、自分とは異なる主義主張に対して、相手を排除していこうとする力が働くのです。

自分の考えが絶対に正しいと思うときに、人は寛容になることができず、相手を受け入れることができないのです。そうなると、相手の主義主張だけでなく相手の存在さえも受け入れられなくなって来ることさえあります。16世紀の中盤に、ルターの宗教改革より25年程遅れて、カルヴァンという宗教改革者が出てきます。このカルヴァンという人は非常に頭脳明晰な人で、宗教改革の神学を体系的にまとめた「キリスト教綱要」という長大な書物を著わした人で、今日の改革派教会や長老は教会の源となった人です。この改革派教会、あるいは長老教会といったいわゆるカルヴァン派の教会は、今日のプロテスタント教会の圧倒的多数派です。ですから、宗教改革の本家であるルター派を席巻して、プロテスタントの主流派になっていると言うことができます。そのような、グループを産み出したカルヴァンですが、彼には一つの消すことのできない汚名があります。それがセルヴェトゥス事件と言うものです。このセルヴェトゥス事件のというのはセルヴェトゥス、人の名前です。とセルヴェトゥスいう人はルネッサンス的なものの見方を影響を受け、近代の科学的・合理主義的ものの見方をする人でした。そのため、三位一体の神という考え方を受け入れることができずそれを否定したのです。

そのため、ローマ・カトリックから異端宣告を受けてしまいました。当時、異端宣告を受けると言うことは大変なことです。このセルヴェトゥスが異端宣告を受ける100年ほど前に異端宣告を受けたボヘミヤの教会改革者ヤン・フスは火あぶりの刑で処刑されるというような悲惨なこともありました。ですから、宗教改革が始まった当初、宗教改革の生みの親であるルターは、ルターの考えが異端かどうか審議するためにローマ教皇庁に来るように命じられたのですが、ルターは一歩もドイツのザクセン地方から出ませんでした。へたにローマ教皇庁に出向いていって異端の宣告を受けると、自分の身の安全が保証されないからです。そのような、状況ですから、セルヴェトゥスは、ローマ・カトリックから逃れるために亡命し、プロテスタントの地域であるジュネーブへ逃げ込んでいました。しかし、セルヴェトゥスが主張したのは、三位一体の神の否定です。三位一体の神を否定すると言うことはキリスト教自体を否定することであり、プロテスタント教会においても異端だと言えます。そのようなわけで、セルヴェトゥスは逃亡先のジュネーブでも捕えられ、そこで宗教裁判にかけられ、結局セルヴェトゥスは火あぶりの刑で処刑されてしまったのです。

当時、ジュネーブで宗教改革を指導していたのはカルヴァンでした。ですから、そのジュネーブで起った事件なので当然カルヴァンもそのことに関係がないわけはありません。実際、カルヴァン自身がズルツァーという人に宛てた手紙から、カルヴァンがセルヴェトゥス事件に関与していることがあきらになっています。そんなわけで、このセルヴェトゥス事件以後、カルヴァンに対する批判がおこり、宗教的寛容に関する論争が起るのです。宗教的寛容とは、宗教的に主義主張の違いはあっても、相手の生存権や存在までも抹殺するのではなく、それは守ってやらなければならないという考え方で、今日で言うところの信教の自由を保障するべきだという考え方です。言うまでもないことですが、今日でも、三位一体の神を否定するような主義主張をキリスト教会は受け入れることはできません。それはキリスト教の根幹をなすものだからです。ですから、三位一体を主張する考え方は今日の教会においても明らかに異端なのです。そのような三位一体を否定する立場の人たちが、自分たちはキリスト教ではないとか、聖書に立脚した宗教ではないというならば、それはそれで問題はありません。しかし、彼らが、自分たちが本当のキリスト教であると主張するならば、私たちは、そのような三位一体の神を否定するような考え方に、正面から対峙し、議論を戦わせなければなりませんし、相手の間違いを指摘し説得しなければなりません。

けれども、だからといって、主義や主張の違う相手の生存権を脅かしたり、抹殺するようなことはしてはなりません。もちろん、現代の法律や人権思想の中では、そのようなことはできないのは当たり前のことになのでありますが。しかし、単に実際に相手の生存権を奪うと言うことだけでなく、相手を憎んでもならないのです。もし、私たちが、主義主張を対立させる相手や、考え過去となる相手を憎むとしたならば、カルヴァンの火種は私たちの中にもあるのだと言えます。そして、カルヴァンの火種は、このコリントの教会の人たちの争いの中にもあったのです。そしてその火種が、争いやねたみというものを引き起こしていた。けれども、みなさん、私たちの周りにある存在のすべては、けっして憎むべき存在ではありません。確かに、私たちの感情の中には好き嫌いの感情があります。しかし、それでも、私たちの周りにぞんざいする全てのものは、私たちの愛の対象なのです。それは、すべての存在が神のものだからです。この世にある全てのものは神から作られ、神に属しています。だからこそ、神はこの世を愛されるのです。そして、この世を愛しておられるからこそ、神は、この世に生きる人は誰一人失われることを望んではおられないのです。むしろ神が望んでおられるのは、すべての人が救われることです。

ですから、神はその一人子であるイエス・キリスト様を十字架につけて死なせてまでも、私たちを救おうとなさったのです。そうやって、自らの一人子を惜しまれないほどの私たちを愛し救おうとしておられる神は、神を信じその救いに預かった者を守り慈しまれるのです。そのように、神がこの世を愛しておられる以上、私たちクリスチャンにとっても、この世に存在する全てのものは愛すべき対象となります。ですから、私たちが神のことを思い、神の喜ばれる生き方をしたいと願うならば、たとえ主義主張が違い、意見を対立させる相手であっても、その相手を憎むべきではありません。それは憎悪の対象ではなく愛すべき対象なのです。私たちは理性を持ち判断し、自分に意志で物事を決定します。そういった意味では、自分のことは自分で決められる主体性を持っています。しかし、そのように、自由な意思を持ち自分の生き方を主体性を持って決められる私たちであっても、その主権は神にあるのです。私たちは神に属するものであり、神の民だからです。ですから、私たちは神の願うこと、神が喜ばれることを求めて生きていかなければなりません。そして、神が喜ばれることは、互いに愛し合うことなのです。

意見が分れ、主義主張が対立する中で、自分が絶対に正しい、自分の考えは間違っていないと思うとき、私たちは、得てして自分の考えに相手を従わせようとします。自分に相手を従わせるということは支配をするということです。そして、支配のあるところに愛はありません。18世紀に入って、啓蒙主義というものが生まれてきました。これは人間の理性を絶対とし、人間中心のものの考え方や見方をする思想風潮です。たしかに、この啓蒙主義によって、人権思想が育まれ、また科学の発展にも啓蒙主義は大きな力となりました。反面、人間中心のものの考え方は、神の存在をこの世界から押しだし、この世界を支配し治めているのは私たち人間であるかのよう思い振る舞ってきました。その結果、今になってエコロジーの問題や様々な問題を産み出されてきています。結局、人間が絶対的存在として自然を支配してきた歴史には自然に対する配慮や愛が欠けていたのです。そのように、愛の欠けるところには様々な歪みが産み出されてくるのです。

ですから、みなさん。神を信じる私たちは支配するものではなく愛する者にならなければなりません。親は子供を支配するのではなく、夫が妻を支配するのではなく、もちろん、妻が夫を支配するのでもありません。牧師が教会を支配し信徒を支配するのでもなく、教会が世界を支配するのでもない。また人間が自然を支配するのでも内のです。支配するのではなく、互いに愛し合って寄り添いながら生きていく。それがクリスチャンらしい生き方なのです。もちろん、神様も私たちを支配なさるお方ではありません。支配されるお方ではないからこそ、この世のすべての主権者でありながら、私たち人間に主体性という賜物を与えて下さったのです。ですから、神様もまた私たちを愛し、私たちに寄り添いながら生きて下さっているのです。みなさん。今日は母の日です。母の日は、母親の無償の愛に感謝する日です。だからこそ、私たちは、この母の日に愛すると言うことを考えたいと思います。そして互いに愛し合うものになっていきたいと思うのです。それこそが、神を信じ神に喜ばれるものとしていきたいと願う、神の民にふさわしい生き方だからです。

そして、互いに愛し合うためには、この世にあるすべての存在を神が愛しておられるということに築くことから始まります。ここにいる、あなたも、あなたも、みんな神が愛しておられる。そして私たちの周りにいる一人一人も神は愛しておられる。たとえ、それが私たちが教会に来ることを好ましく思っていない人たちであっても、神はその人を愛しておられるのです。その神の愛を知ることから、私たちの互いに愛し合うという神とイエス・キリスト様のお心に添った生き方の第一歩が始まるのです。

お祈りしましょう。