『真実な裁き』
コリント人への第一の手紙 4章1−5節
2008/6/1 説教者 濱和弘
さて、私たちは、このコリント人への手紙第一の手紙によって、パウロが論争の起きているコリントの教会に、その論争の解決の糸口を指し示している姿を見て参りました。コリントの教会に起っていた論争の争点は、「誰を自分たちの教会の指導者として仰ぐか」という問題です。パウロを指導者として仰ぐか、それともペテロを指導者として仰ぐか。あるいはアポロ、キリスト派と呼ばれる人たちか。様々な名前を挙げてコリントの教会の中は相分れて議論を戦わせていたのです。そのようなコリントの教会の人たちに、教会がよって立つ土台は、ただイエス・キリスト様というお方、しかも、それは「十字架につけられて死んだイエス・キリスト様というお方以外にはないのだ」と言うのです。なぜならば、イエス・キリスト様が十字架につけられて死なれたのは、罪人であり、罪を犯すことなしには生きることのできない罪人である私たちに対して、神が罪の赦しを与えてくださる神の知恵だからだというのです。
私は今、「罪人である私たち」と言いましたが、私たちは、以外と自分が罪人であるという自覚を持っていないものです。いえ、むしろ毎日毎日自分が罪人であるという意識をもって生活していたとするならば、ノイローゼになってしまいかねません。実際、宗教改革者のマルティン・ルターという人は、自分のおかした罪に対して、びくびくと怯え暮していました。そんなルターの姿を見て、ルターの上司(贖罪司祭)であったシュタウピッツは、「あなたは、罪に対して神経質すぎる。そんなに気に病んでいると病気になるので、あまり気にしないように」とアドバイスをしたという話もあるぐらいで、罪意識に捕われすぎるのも心理学的には良くないのかもしれません。
しかし、パウロという人は、その自分の罪と言うことにしっかりと向き合った人なのです。そして、自分が罪人であるということを本当によく知っていた人です。たとえば、テモテへの第一の手紙1章15節には、そんなパウロが、自らについて語った言葉が記されています。そこにはこのように記されています。「『キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世にきて下さった。』という言葉は、確実で、そのまま受け入れるに足るものである。わたしはその罪人のかしらなのである。」ここでパウロは、自分自身を罪人のかしらであるといっています。それは、自分は罪人の中の罪人、であり、もっとも罪深い存在だと言っているのです。このようなパウロの深い罪意識は、彼がかつて、教会を迫害し、クリスチャンを迫害したからです。聖書の別の箇所でパウロはこう言っています。それは、今日の聖書の箇所と同じコリント人への第一の手紙の15章9節ですが、次のようにパウロは言うのです。「実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値打ちのない者である。」
パウロという人は、いわゆる倫理道徳的な面では、決して他の人に劣るような人ではなかっただろうと思われます。というのも、パウロはかつてはパイサイ派と呼ばれる律法を厳格に守って生きていく立場にあった人だからです。けれども、パウロは、教会がイエス・キリスト様を救い主であると伝え、その教えを広めることを快く思わず、それを迫害したのです。それゆえに、彼は、自分は使徒たちの中で一番小さいものであると自覚し、自分の罪人のかしらであると思っている。それは彼が、神の知恵によって、罪人を救うためにこの世に来てくださり、十字架について死んでくださったイエス・キリスト様を伝えている教会を迫害したことによって、神のお心にそむいてしまったという、深い宗教的な罪意識であったといえます。そこには、「どんなに、人から見て正しいと思われる生き方をしていたとしても、神のお心にそむいて生きていた以上、自分は罪人である。それだけではない、『キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世にきて下さった。』という福音を伝え広める働きを妨害し邪魔をしてきた。これ以上の罪はない」という、パウロの罪意識が垣間見えるのです。
なのに、そのパウロが、このコリント人への第一の手紙4章3節「わたしはあなたがたにさばかれたり、人間の裁判にかけられたりしても、なんら意に介しない。いや、わたしは自分をさばくこともしない。」というのです。「自分は罪人のかしらである」というほどの、だれよりも深い罪意識を持っているパウロであるのに、「わたしはあなたがたにさばかれたり、人間の裁判にかけられたりしても、なんら意に介しない。いや、わたしは自分をさばくこともしない。」という。それは、パウロ自身が、今では『キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世にきて下さった。』という福音を伝え広める働き全力を注いでいるからであっただろうと思います。
パウロが3節で「わたしはあなたがたにさばかれたり、人間の裁判にかけられたりしても、なんら意に介しない。いや、わたしは自分をさばくこともしない。」という前に、パウロは、1節2節で次のように言っています。「このようなわけだから、人は私たちを、キリストに仕える者、神の奥義を管理している者と見るがよい。この場合、管理者に要求されているのは、忠実であることである。」「このようなわけだから」というのは、どのようなわけであるかというと、このコリント人への第一の手紙の4章の直前にある3章の後半部分、特に「『主は、知者たちの議論のむなしいことをご存知である』と書かれているとおりである。だから、誰も人間を誇ってはいけない。すべてはあなたがたのものなのである。パウロも、アポロも、ケパも、世界も生も、現在のものも、将来のものも、ことごとく、あなたがたのものである。そしてあなたがたはキリストのもの、キリストは神のものである。」という言葉を受けてのものだろうと思われます。
つまり、自分たちの教会の将来のために、どの指導者が良いだろうかと言い争っているコリントの教会の人たちに、「誰が良いとか、誰が悪いと言うことではない。あなたがたがイエス・キリスト様を信じ、イエス・キリスト様の御思いにしたがって生きていこうと考えているならば、あなたがたは、イエス・キリスト様のものであり、それはすなわち、あなたがたが神のものなのだ。その、神のものであるものに、神は現在も、また将来をも与えてくださるのだ。」「だから、誰が自分たちの指導者としてふさわしいか、良いか、悪いかではない。アポロも、ケパも、そしてパウロも、キリストに仕え、神の奥義を管理しているものなのだ。」とそう言っているのです。そして、「この場合、(神の奥義の)管理者に要求されているのは、忠実であることだけ」なのです。
おそらく、コリントの人たちが、「パウロが指導者としてふさわしい」、「いやアポロだ」、「いやいやケパがふさわしい」と議論して行く中で、それぞれの良いところを持って、彼こそがふさわしい人物だという議論もあっただろうと思います。しかし、同時に、その反対の議論も、おそらくあったにちがいないだろうとも思うのです。つまり、「パウロは、これこれこういう理由で、私たちの教会の指導者にはふさわしくない。」あるいは「ケパは、これこれこういう事があるから、私たちの教会の指導者にふさわしくない。」という議論です。現在、アメリカの大統領選挙が行われていますが、その選挙戦で良く行われるものにネガティブキャンペーンというものがあります。それは、自分と対立して争っている候補者の問題点や欠点をあげて、それを大々的にPRして、「あの人は、こんな人なのだから大統領としてふさわしくない。ですから自分を大統領に選んでください」といったやり方です。おそらく、コリントの教会が分裂してしまうのではないかと思われるほどに、激しい論争を持って、自分たちの教会の指導者に誰を建てるかという論争をしていく中で、そのようなネガテブキャンペンーのようなことがあったのではないかと思われます。
そのような中で、パウロは、教会を導いていく教職者、今日で言うならば牧師のような立場に立つものに求められるのは、神に忠実であることだというのです。それは神を信じる信仰に生き、神の言葉を忠実に語ること、それだけが教職者に求められていることなのだというのです。実は、私の元には一枚の文書があります。それは、私が如何に牧師としてふさわしくないかが書かれている文書です。もちろん、私が書いた文書ではありません。私について書かれた文書です。そこには、これこれこういう問題点があるので、私がその教会の牧師としてふさわしくないという理由がそこに箇条書きにして書かれている。それこそ説教の問題点や言動、立ち振る舞い、あるいは人間性に関わるような問題が記されていますが、つまりは、だから牧師を換えなければならないということなのです。その文書のコピーをある方が、こういう風に言っている人たちもいますよと私に下さった。それは、私にとっては私自身の人間性を否定されているような感じがして非常につらい文書なのですが、私はそれを今でも手元に残しています。そして、それを見て、自分は人の目にこのような姿で写っているのだと言うことを確認し、自分自身に対する戒めとして、今でもそれを手元に置いているのです。そして、そのような姿で映っているものだからこそ、神を信じる信仰に忠実であり、神の言葉を語ることに置いて忠実にあろうと思う。私の人間的資質が牧師としてふさわしいかどうかを問われれば、決してふさわしいものではないだろうと思います。実際、私自身、自分が牧師としてふさわしい人間だと思ったことはありません。いつも、自分は足りない者だと思う。だからこそ、神の召しというものにすがり、自分が信じるところに立って、神の言葉を忠実に語っていかなければならないと思うのです。
パウロが、「わたしはあなたがたにさばかれたり、人間の裁判にかけられたりしても、なんら意に介しない。いや、わたしは自分をさばくこともしない。」といった背後には、おそらく、パウロに対する批判があることをパウロ自身が知っていたのだろうと思います。実際、コリント人への第二の手紙10章10節にはパウロ自身が、どのように批判されていたかを知っていたことを伺わせる言葉が記されています。そこには、次のように書かれています。人は言う「彼の手紙は重みがあって力強いが、あってみると外見は弱々しく、話はつまらない」あるいは10章の1節には「あなたがたの間にいて、面と向ってはおとなしいが、離れていると、気が強くなる」とも書かれています。おそらく、パウロはそのような批判がコリントの教会の中であったことを知っていたのでしょう。またコリント人への第一の手紙の9章には、パウロが使徒であるということに対する批判がありそれに対してパウロが反論しています。
そのように、外見や性格を批判され、あるいは使徒としてキリストに仕える職務の正統性さえも疑がわれる中で、パウロは、「わたしはあなたがたにさばかれたり、人間の裁判にかけられたりしても、なんら意に介しない。いや、わたしは自分をさばくこともしない。」と、はっきりそう言い切るのです。私は、このパウロのはっきりと言い切る言葉をみますと、パウロは強い人なのだなと感じずに入られません。私の場合、正直、濱は牧師にふさわしくないという文書を見たときに正直、気持ちがへこみましたので、はっきりと「わたしはあなたがたにさばかれたり、人間の裁判にかけられたりしても、なんら意に介しない。」と断言できるパウロは、とても強い人間に見えるのです。
しかし、あらためてこのコリント人への第一の手紙の4章1節から5節までを読み返してみますと、それはただパウロの性格的強さ、人間的強さではなく、イエス・キリスト様への信頼の強さなのだと思うのです。というのも4章の4節にこうあるからです。「わたしは自らを省みて、なんらやましことはないが、それで義とされているわけではない。私をさばく方は主である。」自分自身の罪に向き合い、自分が罪人のかしら、罪人の中の罪人であるという自意識を持っていたパウロです。だからこそ、いつも自分は使徒の中で最も小さいものだと思っていたパウロが、「わたしは自らを省みて、なんらやましことはない」というのです。そんなはずはないはずです。自分が罪人のかしらだという言う自意識をもっているのですから、自らを省みるならばやましいことだらけのはずです。何にパウロは「わたしは自らを省みて、なんらやましことはない」とそういうのです。いったいどういうことなのか。
それを知る鍵となるのは、「私をさばく方は主である。」という言葉にあるだろうと思います。さきほども申しましたように、パウロはクリスチャンになる前は熱心なユダヤ教徒でパリサイ派という律法を厳格に守って生きている人でした。ですから、人の目から見れば、あの人が神の前に義と認められないことなどあり得ないと思われるような人だったのです。だからこそパウロは、ピリピ人への手紙3章4節から6節(口語訳p311)でこう言っています。「もとより、肉の頼みなら、私にもなくはない。もし、だれかほかの人が肉を頼みとしていると言うなら、わたしはそれをもっと頼みとしている。わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエル民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のないものである。」「肉の頼みならと私にもなくはない」とパウロは行っていますが、「肉の頼み」というのは「人間の目から見れば」ということ、あるいは「人間的な考えでは」ということです。人の目から見れば、私は義と認められてもおかしくはない存在である。それほどに、人の目から見ればパウロは落ち度のない存在なのです。けれども、如何に人の目からみれば落ち度のない、神から義と認められても然るべきパウロであったとしても、さばきをなさるお方は神です。その裁きをなさる主なる神の目から見るならば、そのような「肉の頼み」、「人間的な考えでは義と認められてふさわしいとおもわれるような行ない」であっても、それで神の義にかなうわけではないのです。
パウロはそのことをよく知っていた。そんなに人の目に正しいこと、立派なことをしても、神の目から見るならば、それで神の目を満足させるほど十分な行ないでないということを、パウロはよく知っていたのです。だからこそパウロは、外見や性格、あるいは、「話はつまらない」と批判され、使徒という立場さえ疑われるようなことがあっても、それらに対して、「わたしは自らを省みて、なんらやましいことはない。」と言いきることができたのです。どんなに、人間的に欠けがあり、問題があっても、神を信じ、神の言葉に忠実であり、『キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世にきて下さった。』という福音の言葉を伝え広める働きにおいて、パウロは忠実にその勤めを果たしてきた。だからどんなに人の前には不十分でとるに足らないものであったとしても、そのことにおいて、神の前では、「わたしは、自らを省みてなんらやましいことはない」とパウロは、そう言えるのです。まただからこそ、「わたしはあなたがたにさばかれたり、人間の裁判にかけられたりしても、なんら意に介しない。いや、わたしは自分をさばくこともしない。」と言いきることもできるのです。人の前には、義と認められる、正しいと認め受け入れられるだろうものでも、神の前には、決して正しいものではなく、むしろ罪人である。逆に、人の前には罪人としか見えないものが、神の前には義と認められ正しい人として受け入れられる。
この人の前と神の前にある、一見背反する逆説をかたったのは、パウロだけではありません。先ほどパウロと同じように自分のおかした罪に向き合いびくびくと怯えていたルターも同じ事を言うのです。ルターは、人の前に自分は十分に義と認められるにふさわしい正しいことを行ったとしても、それで自分は正しいとか、自分は神に十分喜ばれることしたと思うならば、それ自体が傲慢の罪であり、人の前では義人であっても、神の前では罪人だと言います。反対に、人の前に罪を犯し、彼は罪人だと言われるようなものであっても、その罪のゆえに、神の前に、自分の罪を悔い改め、神によりすがるならば、そのものは、人の前には罪人であるが神の前には義と認められると言うのです。結局、ルターが言っていることは、神は人の心の中を見られるというのです。外側に現れてくる言葉や行ない、あるいは人の性格といったもので神は判断されるのではなく、心の中の神を求める心を神は見られるのです。
だから、私たちは、主イエス・キリスト様が再び来られ、最後の審判が下されるまで、何事についても先走りしてさばいてはならないのです。私たちは、目に見える事柄で物事を判断します。しかし、神はけっして目に見えることで判断なさいません。旧約聖書サムエル記上の16章7節で、預言者サムエルに対して主なる神が「私の見るところは人とは異なる、人は外の顔かたちを見、主は心を見る。」と言われましたが、まさしく、神は私達の心を見られるのです。そして、その心の中に、神を信じ、神により頼み、神の言葉に従って生きようとする信仰があるならば、神は決して、その人をさばかず、むしろ誉を与えてくださるお方なのです。ですから、私たちは誰からもさばかれることはありませんし、誰をも裁いてはなりません。人を裁くだけではない、自分自身をさばく必要もないのです。わたしたちは欠点の多いものです。性格や行ない、またその言動に置いても過ちの多いものです。
それらは、人の目から見れば、「あれでもクリスチャンか」といわれるようなものかも知れません。しかし、たとえそのような不十分な者でであったとしても、決して、先走って自分自身をさばいてはならないのです。神は、私たちが、そのようなもの罪人だからこそ、神を信じ、神によりすがり、神の言葉に従っていきたいという心を持つものであるとするならば、神は、真実を持って私たちに誉を与えてくださるお方なのです。神が与えてくれる誉は、人が与えてくれる誉ではありません。イエス・キリスト様が十字架の上で成し遂げてくださった罪の赦しと、永遠の命を持って迎え入れられる天国の栄光なのです。その栄光が、神を信じる私たちには確かに与えられるのです。
お祈りしましょう。