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メッセージ

羊飼い 『謙遜を学ぶ』
コリント人への第一の手紙 4章6−16節
2008/6/8 説教者 濱和弘

こうして、みなさんと共に今日も神に礼拝を捧げ、神の言葉の前に共に立つことができることを感謝致します。この「共に礼拝を捧げ」「神の言葉の前に共に立つ」という「共に」ということに教会の教会たる所以、いうなれば教会性があると言えます。つまり、教会には交わりがあるということです。その教会の交わりは常に流動的なものであり変化があります。嬉しい変化もあれば、悲しい変化もある。たとえば、今月末には、N家のみなさんが渡米なさる。それは私たちの教会の交わりにとっては悲しい変化です。一方、ここ数年のうちに、K姉妹、T姉妹が私たちの教会の交わりに加わってくださるようになり、さらにこの春からは、K兄弟が韓国から来られ、私たちの教会の交わりに加わってくださった。これは私たちの教会には嬉しい変化でありました。特にK兄弟は韓国からお見えになったということで、私たちの教会にしてみれば、異なった文化に触れる良い機会となり、その意味でも教会に変化があったと言うことができるだろうと思います。

先週も、礼拝後、K兄弟とO兄弟を交えながら、雑談をしていたのですが、その時に、日本語の「『首が回らない』とか『足が出る』などという言葉を、直接英語や韓国語に翻訳してもわからないだろうね」という話がでました。実際、「首が回らない」とはお金がないことですし、「足が出る」という言葉は、予算以上にお金がかかってしまうことで、言葉の持つ本来の意味とはまったく違った内容を指します。これらは、慣用句であって、特殊な言葉の表現方法ですから、外国の方には聞いただけではわからないという事は、当然といえば当然ですが、このような慣用句だけではなく、私たちが日頃使っている言葉の言い回しや気持ちの伝え方なども、外国と日本では随分違っているものです。先日、そのことを痛感する出来事がありました。

私たち夫婦は、所用がありまして、KS教会のK牧師のお宅をお尋ねしました。K牧師は、私たちの教会でもご奉仕下さり、韓国料理教室を開いてくださいましたので、みなさんもよくご存知だと思いますが、韓国から来て、日本の教会で牧師をし、日本人に伝道してくださっています。日本に来てもう20年近くなりますから、日本語もかなり流暢にお話になります。そのK牧師とお話ししているなかで、実は私たちが、普段何気なく使っている表現や、言い回しが、まったく逆の意味で伝わっていることがわかりました。私たちに相手を気遣って、遠回しな表現で相手を思いやっているのですが、それがむしろ相手を拒絶し、傷つけるような感じで受け止められているということがわかったのです。そのとき、わたしは、「文化の違い」というのは、本当に大きなものなのだなと痛感したのです。このような文化の違いというのは、もはや日本と外国というような国と国との間の違い、あるいは東京都と大阪といった地域の違いだけでなく、時代の違い、あるいは世代の違いといった事の中にも現れます。たとえば、わたしは50歳になりましたが、やはり娘の世代や息子の世代の言動をみると、驚くことが沢山ありますし理解できないことが沢山ある。そして、昔とは変わったなと思うのです。このように、同じ日本の中にも文化の変化がある。そして、そのような変化の中には、もの価値観や美徳、道徳の違いというものも含まれてきます。

わたしは、今日の礼拝説教のタイトルを「謙遜を学ぶ」としました。それは、このコリント人への第一の手紙4章16節が、まさに、パウロがコリントの教会の人たちに、この謙遜と言うこと身に着けることを求めているからです。ところが、じつはこの謙遜という言葉も、聖書の時代においては、さきほどわたしが申し上げたような文化の違いにさらされた言葉だったのです。謙遜とは、キリスト教文化における美徳の一つです。聖書には、さまざまなキリスト教文化の中における美徳が何であるかが記されていますが、中には、何が徳であって何が罪であるかということが直接リストとなって記されているところがあります。たとえばコロサイ人への3章5節から14節などがそうです。ちょっとそこをお読みしてみますね。

「だから、地上の肢体、すなわち不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのために、神の怒りが下るのである。あなたがたも、以前これらのうちに日を過ごしていたときには、これらのことをして歩いていた。しかし今は、これらいっさいのことを捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。互いにうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人とその行ないを一緒に脱ぎ捨て。造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。そこには、もはやギリシャ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。だからあなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍びあい、もし互いに責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるしあいなさい。これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。」

ここには、謙遜ということが、神を信じたもの美徳としてあげられている。ところが、ウィリアム・バークレーという人は、この謙遜というのは「キリスト教によって創作され、導入された美徳であるといわれている。」というのです。というのも、古典ギリシャ語には、謙遜という言葉が存在しないからだというのです。謙遜が、キリスト教によって創作されということは、厳密に言えば間違いであって、旧約聖書にもたとえば、箴言15章33節に「謙遜は誉に先立つ」という言葉があるように、何カ所か謙遜を美徳として扱っている所がありますので、ユダヤ教の概念でも、謙遜は美徳だったといえます。ですから、正確には謙遜は聖書の示す美徳だと言えます。その聖書の示す謙遜という言葉が古典ギリシャ語には存在しないので、この謙遜という美徳は、古代ギリシャの文化の中にはなかった美徳だと、このウィリアム・バークレーという聖書学者はいうのですですから、このバークレーの言葉に基づくならば、謙遜という聖書の文化に培われた概念は古代ギリシャの都市国家であったコリントにある教会には、そもそもなかったものだといえます。むしろそこにあったのは、自分の偉大さを示すことができ、それを相手に認めさせることが美徳とされるような文化だったのです。そういった意味では、古代ギリシャにおいて、弁論や弁舌が求められたのもうなずける感じがします。まただからこそ、コリントの教会では、それぞれが自分の主張をぶつけ合って一歩も引かず対立しあっていたのだと言うことなのだろうと思われます。

しかし、いずれにしてもパウロは、謙遜を求めているのです。自らの主張を強くすることに対して謙遜とは自己主張をしないと言うことです。もちろん、まったくしないということではありませんが、自分を高めるために自己主張しないということです。パウロは、そのような謙遜という美徳を、もともとはコリントの教会の人が生まれ育った環境にはない人々に身に着けるようにと求めているのです。それは、彼らが神を信じクリスチャンとなったからです。その謙遜という美徳を求める文書の冒頭で、パウロは「兄弟たちよ。これらのことをわたし自身とアポロに当てはめて言って聞かせたが、それはあなたがたが、私たちを例にとって『記されている定めを越えない』ことを学び、ひとりの人をあがめ、ほかの人を見さげて高ぶることのないためである」とそう述べています。

「これらのことをわたし自身とアポロに当てはめて言って聞かせた」とありますが、これはおそらく、この言葉の前に書き記されたこと、つまり、4章1節2節の言葉、「このようなわけだから、人はわたしたちを、キリストに仕えるもの、神の奥義を管理しているものと見るがよい、この場合、管理者に要求されているのは、忠実であることである」という言葉を踏まえたものであると考えられます。つまり、わたしパウロも、またアポロも、キリストに仕えるものであり、キリストが語った教えのことば、キリストが生き方を通して示した神を信じる信仰、そしてキリストにある福音に忠実な者であるというのです。この「キリストが語った教えのことば、キリストが生き方を通して示した神を信じる信仰、そしてキリストにある福音」これらは、旧約聖書が語っているものです。なぜなら、ヨハネによる福音書5章39節で、イエス・キリスト様御自身が「この聖書は、わたしについてあかしするものである」と言っておられるからです。ここで、イエス・キリスト様が「この聖書」といわれている聖書は、イエス・キリスト様の時代には新約聖書はまだ存在していませんから、旧約聖書のことにほかなりません。ですから、イエス・キリスト様が「この聖書は、わたしについてあかしするものである」と言うとき、それは「旧約聖書は、わたしのことをいっているのだ」ということなのです。

だとすれば、パウロが、「わたしもアポロも、キリストが語った教えのことば、キリストが生き方を通して示した神を信じる信仰、そしてキリストにある福音に忠実な者である」というとき、それは旧約聖書にも忠実な者であるということでもあるのです。だからこそ、パウロは、コリントの人々に対して、「わたしたちを例にとって、『記されている定めを越えない』ことを学び」なさいというのです。この「しるされている定めを越えない」という「しるされている定め」というのは旧約聖書の言葉だろうと思います。ですから、要は、パウロは「あなたがたは神の言葉に忠実に聴き従いなさい」といっているのです。つまり、パウロはこのコリント人への第一の手紙4章6節以降において、「神の言葉に忠実に聴き従い、謙遜になって生きなさい」と言うのです。逆に言うならば、神の言葉に聴き従わなければ謙遜になって生きられないと言うことです。どこかで高ぶりが出てくる。どこかでおごりが出てくる。われわれ人間とはもともとは、そのような者なのです。だから、神の言葉に聴き従わなければならない。では、なぜ、神の言葉に聴き従わなければならないか。

私は、パウロが、ここで、神の言葉に忠実に聴き従うということを述べるときに、「しるされている定め」という言い方をしたところに、パウロの思慮深さを感じます。というのも、先ほど申しましたように、この「しるされている定め」というのは旧約聖書の言葉です。パウロが「しるされたもの」というとき、それは旧約聖書を指すからです。そして、その旧約聖書に何が書かれているかというと、神が天地を造られ、人をお造りになったということです。われわれがこの世界で生きているとするならば、それは神がお造りになった世界で生きているということです。いえ、生きている私たちの肉体も、命をも神から与えていただいた者です。ですから、パウロが「あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。」と問いかけるように、私たちは、すべて神から与えられたものによって生かされているのです。ですから、私たちは何を持っているか、何を持っていないかで、自らをほこることも、誰かを見さげることも、本来はできないはずなのです。なのに、あなたがたは誇っているとパウロはそう言っている。

また、神こそが天地のすべて、また人間をお造りになったとするならば、人間に身分の差や優劣などあろうはずがありません。もし、人間の間に優劣の差があるとするならば、それは神の創造の業が不完全な部分を含んでいるということにほかなりません。しかし、旧約聖書創世記1章31節では「神が造ったすべてを見られたところはなはだ良かった。」と言われています。だとすれば、神の創造の業は完全であり、それゆえに、人間に優劣をつけるようなものなどないのです。もし、人間に優劣をつけるようなことがあるとするならば、それは人間の罪の心から出てきたものであり、それこそが高ぶりであり高慢なのです。そういった意味では8節の「あなたがたは、すでに満腹しているのだ。すでに富み栄えているのだ。わたしたちを差しおいて、王になっているのだ。」という言葉は、パウロのコリントの教会に人たちに対する強烈な批判、皮肉の言葉だと言えます。そうやって、パウロはコリントの人たちの心の中に、いかに高慢で高ぶった心があるかを示しているのです。そして、おそらくは、このコリント人への第一の手紙4章9節10節のコリントの教会の人々とパウロや使徒たちの対比は、コリントの教会の人々が、誰が自分たちに教会の指導者にふさわしいふさわしくないといった議論をしていることは、結局はあなたがたの高慢で高ぶった思いが、パウロたちをいかに辱め、卑しめ見さげているかということを示しているのだろうと思います。

それだけではありません。パウロは、9節10節において、コリントの人たちの論叢が自分たちをいかに卑しめ、辱めているかと言うことを述べたあとに、それに引き続いて11節から13節で、自分たちが伝道をして行く中で、いかに迫害され、卑しめられ、困窮し、この世のチリ、人間のくずのように扱われてきたかと言うことを述べているのです。これは、パウロの極めて優れた修辞法(レトリック)、文章表現だと思います。コリントの教会の人たちがパウロたちを辱めていると言うことを示し、それに引き続いて、今まで、この世の中で人々に自分たちが「この世のチリ」「人間のくず」のように扱われてきたと言うことを書き記す。そうすることによって、結局、コリントの人たちがやっていることは、この世の人たちが私たちとやって来たことと何ら変わりがないことではないかと言うことをパウロは暗に語っているのです。そうやって、あなたがたの心の中には高慢な高ぶった思いがある。それはイエス・キリスト様を信じ生きるキリスト者にとって、決してふさわしい者ではない。私たちはただ神によって造られ、神により頼み、神に生かされているものなのだから、それを知って謙遜になりなさいとパウロは教えるのです。

あなたがたの心の中には高慢な高ぶった思いがあるということを指摘することは、一歩間違えば、その行為自体が相手を辱め、傷つけることになります。だからこそパウロは、このような持って回った言い回しをしたのだろうと思うのですが、しかし、その持って回ったような言い回しであっても、そこには強烈な皮肉も含まれています。それに、いかに持って回ったような言い回しであっても、それが言わんとすることの内容がわかれば、相手を十分傷つけることがあるます。ですから、パウロは、わざわざ「わたしがこのようなことを書くのは、あなたがたをはずかしめるためではなく、愛児としてさとすためである」と書き添えているのだろうと思います。それは、パウロのコリントの人たちへの配慮が伺われる言葉です。「愛児としてさとすためである」という言葉には、コリントの町で伝道し、コリントの教会を産み出したパウロのコリントの教会の人々に対する愛が感じ取られます。それは、その後の引き続く、「たといあなたがたに、キリストにある養育係が一万人あったとしても、父が多くあるのではない。キリスト・イエスにあって、福音によりあなたがたを生んだのは、わたしなのである。」という言葉がそれをよく表わしているとでしょう。

しかし、「愛児としてさとすためである」という言葉はそれだけではなく、神を信じ、クリスチャンとなり、神の子として生み出されたものは、必ずその成長過程の中で、自分自身の高慢さと高ぶりといった罪に向き合うことがあるのだと言うことを示しています。神を信じ、イエス・キリスト様を信じた者だからこそ、神の子供として自分自身の中にある高慢な思い、高ぶった思いに向き合わなければならないのです。それは、私たち人間の心の中に元々あるものだからです。その私たち人間の心の中にある元々あるものを持って、私たちは神の子として新しく生まれるのです。だから、どこかでクリスチャンとして、この私たちの心の中に元々ある罪である高慢で高ぶった思いに気付き、教えさとされ、神の言葉に聴き従いながら生きていく者へと育っていく事が大切なのです。

実際、キリスト教の世界には高慢や高ぶりが横行しています。信仰の立場や理解、神学的見解が違いますと、とたんにそこで議論が起ります。もちろんそれが議論であるならばいいのですが、議論が論争になり、あたかも相手が異端であるかのようさえ言ってしまう。そうかと思えば、都会に大きな教会の中には、田舎の小さな教会に対して、伝道をしっかりやっていないとか、努力が足りないなどという。あるいは、クリスチャンとなり救われたものが、自分たちは神に選ばれた者であると自負し、クリスチャンでない人は滅んで行く人たちであると見さげているようなことだってないわけではない。もちろん、あらためてこのように言いますと、それは良くないことであると、誰もがお気づきになるだろうと思います。そうです。こういったことは決して良くないことであり、神を信じる者の美徳とは遠くかけ離れたものです。先ほどのコロサイ人への手紙3章5節から14節にあったクリスチャンの身に着ける美徳に最後に、リストアップされた様々な美徳に愛を加えなさいと進められていますが、その愛と配慮のかけらも見ることができないものだと言えます。しかし、こうして改めて聞くと決して良くないことだと思えることが、まったく当たり前のように横行している現状が、私たちの住むキリスト教という世界の中に見ることができるのです。そして、それは、私たちが、もともとその心の中に持っている高慢や高ぶった思いが原因なのです。

だから、これらのことは人ごとではありません。私たちだって、同じようなことをしていることがあるのかも知れないのです。またするかも知れないのです。なぜなら、私たちの内には、もともと高慢な思いや高ぶりがあるからです。だからこそ、私たちは、子供のようになって、教え諭されなければなりません。神の言葉である聖書によって、私たちは神よって造られ、神の恵みの中で生かされ、神に支えられなければ生きていけない存在であることを、教え諭されなければならないのです。それだけではない、本当にそのことを悔い改め、神によってその罪をきよめていいただくことも大切です。そして、神の前には、すべてのクリスチャンに優劣はなく、また、すべての人は神の前に等しく神に愛されている尊い存在であるということを学ぶのです。そして、「その愛で私もまた愛されている」という「愛されている者の喜び」を知らなければなりません。そうしなければ、私たちは決して謙遜を学ぶことはできませんし、謙遜になることなどできないのです。

パウロは、コリントの教会の人々に「私にならうものになりなさい。」とそう言っています。しかし、コリント人だけではない、私たちもパウロにならうものにならなければなりません。パウロのように、キリストに仕えるものであり、キリストが語った教えのことば、キリストが生き方を通して示した神を信じる信仰、そしてキリストにある福音に忠実な者となっていくことが大切なのです。パウロは、「私にならうものになりなさい」と、そうコリントの人にいうのは、パウロもまた、誰かを習うことでそれを身に着けていったからです。そして、そのパウロが習った相手はおそらく、イエス・キリスト様であることに、まず間違いはありません。11以降で、パウロが、この世から受けてきた扱いが、「私たちは飢え、かわき、裸にされ、打たれ、宿なしで、苦労して自分の手で働いている。はずかしめられては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉をかけている。わたしたちは、今の今に至るまで、この世のちりのように、人間のくずのようにされている。」述べているその言葉は、そのままイエス・キリスト様の生涯に重なり合うものです。ですから、パウロは、まさにイエス・キリスト様にならい、イエス・キリスト様のように生きてきたのです。ですから、パウロが「わたしにならうものとなりなさい」というとき、それは「わたしが倣ったイエス・キリスト様にならいなさい」ということでもあるのです。もちろん、パウロのように、イエス・キリスト様の飢えや、かわき、裸にされ打たれ宿なしで云々、といったところまでまねる必要はないでしょう。しかし、キリストに仕えるものであり、キリストが語った教えのことば、キリストが生き方を通して示した神を信じる信仰、そしてキリストにある福音に忠実に生きる生き方は倣うべきものなのです。

昨日、漸く私たちの教会の創立50年記念誌が出来上がって参りました。みなさんの長い祈りと協力の賜物です。その巻頭言の所にわたしは、このようにしるしています。お読みします。「その後、神の召しにより牧師となってこの教会に戻ってくることになりましたが、そこには、私の学生時代と変わらない三鷹キリスト教会がそこにありました。それは、何よりも神を畏れかしこみつつ、厳粛かつおごそかに礼拝を守り、愚直と思われる程に、御言葉に生かされる事を重んじる教会の姿勢です。もちろん、時代の流れと共に変わったものもありますが、しかし、根底に流れる信仰の姿勢・態度には一貫したものが流れています。そして、それこそが教会の三鷹キリスト教会の伝統・霊性だと言っていいだろうと思います。今回、この記念誌を発行するにあたり、その伝統と霊性が少しでも伝えられればと願っています。それは、この50年誌がただ過去を顧み懐かしむだけではなく、これからの三鷹キリスト教会の新たなる50年を築き上げていくためのものだからです。そういった意味では、過去は未来を形成するためにはなくてはならない大切な財産だといえます。」この「何よりも神を畏れかしこみつつ、厳粛かつおごそかに礼拝を守り、愚直と思われる程に、御言葉に生かされる事を重んじる姿勢」これこそが、パウロが「わたしにならえ」といったことの中心にある者だと言えます。そして、この「何よりも神を畏れか仕込みつつ、厳粛かつおごそかに礼拝を守り、愚直と思われる程に、御言葉に生かされる事を重んじる姿勢」に生きるならば、私たちは謙遜に生き、他者を愛し敬う生き方に生きることができると確信するのです。

お祈りしましょう。