『心備えのある生き方』
コリント人への第一の手紙 4章16−21節
2008/6/15 説教者 濱和弘
さて、先週、私たちは、コリント人への第一の手紙4章6節から16節までを通して、謙遜を学ぶと言うことを学びました。クリスチャンとして、聖書が示す謙遜という美徳を身に着け、自己主張をするのではなく、謹んでキリストに仕えるものであり、キリストが語った教えのことば、キリストが生き方を通して示した神を信じる信仰、そしてキリストにある福音に忠実に生きる生き方をするものとなることの大切さを、聖書の言葉を通して学んだのです。パウロは、そのような生き方をコリントの人々に求める際に、わたしにならうもとなりなさいとそう勧めています。それは、神の言葉に聴き従い、福音に忠実に生きているというパウロの自負のようなものがそこにあったのかも知れませんが、それ以上に、パウロ自身が、イエス・キリスト様を見習いながら生きていたからだろうと思われます。ですから、パウロが「わたしにならうものとなりなさい」というとき、それはイエス・キリスト様に倣うものとなりなさいということでもあるのです。このように、パウロは、コリントの教会の人たちに自分にならうものとなりなさいと呼びかけながら、そのためにテモテをあなたがたに送ったと言っています。それは、テモテがパウロの代理として、コリント人教会の人々の手本となるような人であったからです。
17節の「わたしは、主にあって愛する忠実なわたしの子テモテを、あなたのところに使わした。彼は、キリスト・イエスにおけるわたしの生活のしかたを、あなたがたに思い起させてくれるであろう。」と言う言葉は、そのテモテに対するパウロの絶大な信頼が語られている言葉だといっても良いだろうと思います。そのように、パウロから絶大な信頼をえていたテモテとは、一体どのような人物であったかといいますと、テモテは、2代目のクリスチャンでありました。テモテへの第2の手紙1章5節には、次のようなパウロの言葉が記されています。それはテモテについて語られた言葉でありますが、このように書いてあるのです。「また、あなたの抱いている偽りのない信仰を思い起こしている。この信仰は、まずあなたの祖母ロイスとあなたの母ユニケに宿ったものであったが、今あなたにも宿っていると、わたしは確信している。」このように、テモテは、祖母、そして母親から信仰を受けついだのですが、パウロから伝道者として建てられ、パウロの働きを手助けしていたのです。ですから、新約聖書を見ますとテモテの名前は、テモテへの手紙以外にも、使徒行伝の中に何カ所か見ることができます。実は、パウロがコリントで伝道をし、教会を建てあげていたときにもテモテはシラスと共にパウロの伝道を手助けしていたのです。ですから、コリントの教会の人たちにとって、テモテは全く知らない間柄ではありませんでした。そのテモテをパウロは送ったと言うことは、まさしくテモテは混乱したコリントの教会を収拾させるためにパウロの代理としてコリントの教会にやって来ていたのです。
コリントの教会が分裂の危機にあるということを、また教会の中に様々な問題があるということを聞いたパウロは、このコリント人への第一の手紙を書く以前にも、どうやらコリントの教会宛に手紙を書いていたようです。コリント人への第一の手紙5章9節で、パウロが「わたしは前の手紙で、不品行な者たちと交際してはいけないと書いたが、それはこの世の不品行な者、貪欲な者、略奪をする者、偶像礼拝をする者などと全然交際をしてはいけないと、いったのではない」という言葉が、その手紙の存在を示唆しています。」おそらくパウロは、その前の手紙でコリントの教会の人たちを諭し、事態の収拾を図ろうとしたものと思います。ところが、そのようにパウロの手紙がおくられてきていたのですが、そのことがかえって事態をより混沌とさせてしまっていたようなのです。というのも、パウロが手紙をしたためたために、コリントの教会の中の一部の人たちの間に、どうせパウロはやって来ないのだと「高ぶる思い」が起ったからです。そして、そのような高ぶった思いで、パウロが手紙で語る言葉に耳を傾けず、むしろ、パウロの言うことなど聞く必要がないといったようなことを言って、事態をますます混乱へと導いていったと思われるのです。それは、パウロが、こうして前の手紙に引き続いて、今日コリント第一の手紙と呼ばれるこの手紙を書き、自分の代理としてテモテをコリントの教会にむかわせたということが何よりもそのような事態を現していると言えます。そして、おそらく、この手紙がコリントの教会に届いた頃には、テモテは、すでにパウロの元を旅立ちコリントの教会にむかっている途中だっただろうと思われるのです。
しかし、前の手紙が届いたとき、手紙でパウロがいろいろと行ってきたけれど、どうせパウロが来ることはないだろうと高をくくって、パウロの言葉を無視した人々は、パウロに反対する人たちです。反対までしなくてもパウロのことを評価していない人たちですから、パウロの代理として、テモテがやってきても、テモテの言うことを聞くという保証はありません。いえ、むしろ、聞かない可能性の方が高いのです。だからこそ、パウロは、「わたしはいつでもあなたがたの所に行く用意はできている。あとは、神がわたしをあなたがたの所に使わそうと言うお心があるかどうかである。神がわたしをあなたがたの所に使わそうと思うならば、わたしはすぐにでもあなたがたの所へ行く。」というのです。そして、わたしがあなたがたの所に行ったならば、あなたがたが語る言葉に、本当に神の力があるか見せて欲しいというのです。どんなに雄弁な言葉をかたろうと、あるいは語気の強い言葉で語ろうと、その言葉によって出来事が起らなければそれは、それは何の意味もないというのです。「神の国は言葉ではなく力である。」このパウロの言葉は注意深く読まなければなりません。というのも、ここで「言葉ではなく力である。」といわれる「力」は聖霊の力のことだからです。どんなに雄弁な言葉が語られていても、聖霊の力によって出来事が起っていかなければそこには神の国は存在しないのだとパウロは言うのです。神の国という言葉は、教会と置き換えても良いだろうと思います。
というのも、新約聖書に於いて、イエス・キリスト様が福音書の中で何度も何度も語られたことは神の国ということでした。ところが、イエス・キリスト様が十字架にはり付けられ死なれ、黄泉に下り、三日目に死人の内からよみがえり、天に昇られ、そして聖霊が私たちの所にやって来てくださった後に、弟子たちが福音を伝え始めますと、その神の国ということが語られなくなり、むしろ教会と言うことが語られるのです。それは、イエス・キリスト様が語られた神の国というものが、教会というところに現されているからです。純正な意味で神の国はやがて来る終末に現れるものであり、私たちが天国と呼ぶ所だと言えます。しかし、それは遠い将来の出来事だけでなく、今日の教会の中にも、それこそ天国の前味のように現されているのです。なぜならば、神の国、天国と言うところは神の支配が行き届いているところだからです。神の言葉が語られ、それが人々の生き方を導き、神のお心が実際に行われているところ、それが神の国であり、教会はその神の国が具体的にこの世の中に姿を現したものなのです。だから、イエス・キリスト様の弟子たちは、もはや神の国について語るのではなく、具体的に教会というものを語るようになったのです。だとすれば、教会では、ただ言葉が語られるだけではなく、それが人々の生き方を導き、神のお心が実際に行われていなければならないのです。そして、そのように、人々の生き方を導き、神の御心を実現させていくのは人の力ではなく、聖霊の力なのです。
では、神のお心とはいったい何なのでしょうか。それは、すべての人が神を信じるものとなり、救われて神の御言葉に聴き従って生きるものとなることです。ですから、教会が、神の国のこの世のあらわあれであるとするならば、そこに救いの喜びが起ってこなければなりません。どんなに説教が語られ、聖書の言葉が語られていても、そこに救いの喜びがなければ、教会は教会として神の国を現していないのです。牧師として、伝道の業に携わっていますと、「人が救われるということは決して人の業によるものではないなぁ」ということを痛感させられます。どんなに努力して、相手のために尽くし、親身になって相談に乗り、そして人間関係を深めていって、そのうえで更に言葉を尽くし、福音を語り説得しようとしても、また、うまく伝えられたと思っても、結局の所聖霊が働かない限り人は救われないのです。反対に、言葉足らすで、十分な人間関係を気づけていなくても、その短い言葉の中で、聖霊が働かれるときには、その短い言葉が、人を救いに導くこともあるのです。そんな時に、本当に、人が救われるというのは、聖霊の力によるのだなということを痛感します。聖霊が働くとき、神の言葉がその人の心を支配し、その人を救いに導く。聖霊が働くとき、神の言葉が、その人の心を支配し、その人の生き方を導き、神の言葉に従わせる。だから、言葉ではなく力だというのです。
ときおり、「神の国は言葉ではなく、力である。」と語られているから、どんなに聖書の言葉が語られていても、聖霊の御業である奇跡や、特別な出来事がなければだめなのだという方がいらっしゃいますが、パウロが言っていることはそのようなことではありません。神の国とは、聖書の言葉が語られ解き明されるとき、そこに聖霊が働き、語られた言葉が、その人の心を支配し、その人を救いの喜びを与えることであり、また、語られた言葉が、その人の心を支配して、神の前に生きる生き方を導いていくことなのです。ですから、どんなに大声で自分の主張をしようと、また雄弁に自分の論を論述し説得しようと、聖霊の働きがなければ、その言葉の中に救いの喜びは起ってきませんし、人々の生き方を導き換えていく、つまり悔い改めということは起ってこないのです。そういった意味では、この言葉は実に鋭く私たち説教者の心を貫き通します。なぜなら、私たち説教者は、それこそ、毎週毎週の礼拝で説教を語らなければならないからです。そして、一歩間違うと、私たちは、自分の体験したところ、あるいは思うところを語り、自分の学んだ学びの結果を発表してしまうだけの説教をしてしまっているかも知れないからです。
わたし自身、以前からわたしの説教は、講義を聴いているようだと指摘を受けることも少なくなく、実際、今でもそのようなアドバイスを受けることがあります。自分自身でも気をつけているのですが、まだまだ至らないと思のです。それは、語り口の問題ではない。本当に、聖霊なる神に明け渡しきって語っているかどうかの問題だろうと思うのです。本当に、聖霊の力に委ねられた説教の言葉が語らえているならば、その説教の言葉は必ず人の心に救いの喜びをもたらし、その説教の言葉はその人の人生を導いていくはずです。なぜならば、神は教会に集うすべての人を愛し、罪を赦し、神の前に生かして下さるからです。ですから、聖霊の力がそこに働いているならば、毎週毎週の礼拝に救いの喜びがあるはずなのです。どんなに、厳しい説教が語られたとしても、それは厳しい叱責だけで終わらない。そこに救いの喜びがあり人を生かしていく。私たちの先輩の大説教かと言われるような中田重治牧師や、車田秋次牧師、ウェスレーやカルヴァン、ルターといった人たちもそう言う説教者であったろうと思うのです。ですから、かれらは、説教一つで宗教改革を推し進め、メソジスト運動を推し進め、そしてホーリネス運動を推し進めていった。そこで、人々に救いの喜びを伝え、人々の生き方を変えていくことができ、それが歴史の荒波にもまれても今日まで生きつつづけているのです。ですから、わたし自身、本当に説教者として自分自身を反省し、自分自身を問わなければなりませんし、問い続けなければならないと思うのです。しかし、同時に、みなさんもまた、礼拝に集い、説教を通して神の言葉を聞くものとして自分自身を問わなければなりません。
パウロが直面した人々は、パウロが語る言葉に耳を傾けませんでした。パウロが、コリントの教会の人々、特にパウロに反対し、「どうせパウロなど来ることがない」と高ぶっている人たちに、「主の御心であれば、わたしはすぐにでもあなたがたの所に行って、高ぶっている者たちの言葉ではなく、力を見せてもらおう。神の国は言葉ではなく力である。」と言うとき、その背後には、わたしは、わたしの言葉に聖霊の力を見せることができるという自信が隠れています。事実、パウロはその聖霊の力によって、今まで福音の言葉を語り続けてきたのです。けれどの、そのパウロの言葉に耳を傾けない人たちがいる。それは、聖霊の働きに背を向け拒んでいるからです。そして、自分自身を聖霊の委ねることなく、神が私たちの心を支配して下さることを望むのではなく、自分自身の思いや願いが自分自身の心を支配してしまっているのです。そのようなときには、どんなに聖霊の力が働いていたとしても、神の支配が心を占めることはできません。ですから、わたしは説教者として、聖霊の力が働く所の説教が語られるように、自らの霊性と敬虔な思いを研いていかなければなりませんし、みなさんもまた、語られる説教の言葉に中に働かれる聖霊の力を信じて、神に対する従順な思いで説教の言葉に耳を傾けて聞く敬虔さを鋭くしていくことが大切なことなのです。
パウロは、いろいろと伝え聞いていることから判断して、おそらくコリントの教会の中でパウロに反対している人たちの中に、そのような敬虔な思いを感じることができなかったのだろうと思います。だから、テモテを代理として送ったけれども、彼らが、テモテの言うことを行かないのではないか、心配があったのだろうと思います。だからこそ、パウロは21節で、わたしはあなたがたのところにすぐに行く備えができている。神がわたしをあなたがたのところに遣わすとき「あなたがたは、どちらを望むのか。わたしがむちをもって、あなたがたの所に行くことか。それとも、愛と柔和な心を持っていくことであるか。」と問いかけるのです。テモテはパウロの代理としてコリントの教会にむかっている。そのコリントの教会に、さらにパウロが行くとするならば、パウロはイエス・キリスト様の代理として行くのです。いえ、パウロはすでにイエス・キリスト様の代理として語り、そのパウロの代理としてテモテが語ろうとしている。だとすれば、テモテの語ることを拒絶するとするならば、それはパウロを拒絶することであり、ひいてはイエス・キリスト様を拒絶することになるのです。だからこそ、パウロは「わたしがむちをもって、あなたがたの所に行くことを望むのか、それとも、愛と柔和な心を持っていくことを望むのか。」と鋭く迫るのです。
カトリック教会における聖職者に対する理解には、キリストの代理という一面があります。司祭はキリストの代理として、キリストの犠牲であるミサのパンとぶどう酒を、最高の奉仕として捧げますし、 キリストの代理として、懺悔において罪の告白を聴き、赦しの宣言を与えるのです。そして、司祭という職位は、そのようなキリストの代理としての権限と権威を持っているという理解の上に、カトリック教会の教職者制度は成り立って立っているのです。それに、対してプロテスタント教会は、教職者、つまり牧師という立場は、けっしてキリストの代理と言うことではありません。また、教会において牧師という職に権威や権限があると考えているわけでありません。プロテスタント教会において権威があるものはただ一つ、神の言葉であるところの聖書だけなのです。それは、聖書の言葉が、主なるイエス・キリスト様を指し示すものであり、また神が私たちに語り返る啓示だからです。ですから、この御言葉が聖霊の働き、聖霊の力の内に語られるとき、私たちに救いの喜びをもたらすものであり、私たちを導いていくのです。ですから、権威はただ神の言葉にある。そういった意味では、牧師はその神の言葉に仕えるだけの存在です。けっしてキリストの代理などではありません。しかし、牧師は、その神の言葉に仕えるもの奉仕として、講壇から説教を語ります。そして、語られた言葉が聖書の言葉を解き明すものである限り、その説教は、説教が指し示す聖書の言葉において権威があるのです。語る牧師に権威が在るのではない。語られた説教の言葉が指し示す聖書の言葉に権威がある。だから、説教の言葉に耳を傾ける必要があるのです。そして、語られた言葉に働かれる聖霊の力に委ねて、自分の心の中に説教の言葉を通して語りかけられる神の言葉に忌諱したがって生きるものとなることが大切なのです。
パウロが、テモテを自分の代理だとする根拠は、「彼は、キリスト・イエスにおけるわたしの生活の仕方を、わたしが至るところで教会で教えているとおりに、あなたがたに思い起こさせてくれるであろう」からです。それは、テモテがパウロの生き方を指し示しているからこそ、テモテはパウロの代理者なのです。おなじように、聖書の言葉はイエス・キリスト様を指し示しています。そして、イエス・キリスト様を代理するものとして、聖書は私たちの手元にあり、毎週の礼拝事に説教の言葉として語られるのです。そういった意味で、キリストの代理者は、今日も私たちの所にやって来ているのです。その代理者にそう向き合うのかによって、聖書の言葉は、私たちに裁きの鞭ともなりますし、赦しの愛と柔和にもなります。だからこそ、私たちは謙遜な思いとなって、神の言葉に耳を傾ける心備えをして聖書の言葉の前に立たなければなりません。
私たちが神の言葉に耳を傾けて聴く心備えができているならば、聖書の言葉は必ず私たちに赦しを語ります。そして、謙遜で、柔和で寛容な心を与えてくれます。なせなら、それが聖書の言葉が指し示すイエス・キリスト様というお方だからです。そのイエス・キリスト様というお方によって、私たちの心を支配して頂くならば、わたしたちもまた、謙遜、柔和、寛容、愛、平和といったクリスチャンの身に着けるべき美徳を身に着けていくことができるようになるのです。ですから、私たちは聖書の指し示すイエス・キリスト様のことをいつも思っていたいと思います。イエス・キリスト様ならどうするだろう。イエス・キリスト様ならどう語られるだろう、そう心に思い描いていくならば、私たちは、この世にあって神の国の民として生きていくことができますし、やがて来るキリストの再臨の時に対する十分に心備えができた生き方を生きることができるだろうと思うのです。
お祈りしましょう。