コリント人への第一の手紙 5章1−8節
2008/6/22 説教者 濱和弘
さて、私たちは、ここまで、このコリントの第一の手紙を通して、コリントの教会が自分たちの教会の指導者を誰にするかということで言い争って来たことを見てきました。そして、それが教会を分裂させてしまうほどの大きな問題になっていたのです。けれども、コリントの教会が抱えていた問題は、それだけではありませんでした。他にも様々な問題があったのです。その一つが、先ほど司式の兄弟に読んでいただいた箇所、コリント人への第一の手紙5章1節から8節に記されている不品行の問題です。不品行というのは、男女関係における在り方ですが、ここで問題になっているのは、「ある人が父の妻と一緒の住んでいる」ということです。父の妻というのですから、ここで問題視されている人にとっては、義理の母親と言うことになります。その義理の母親と不適切な関係になっている人が教会の中にいるのに、なおかつあなたがたは高ぶっているとパウロはコリントの教会の人を叱責するのです。ではコリントの教会の人が高ぶっているとして、何を高ぶっているのでしょうか。おそらく、それは、コリントの教会の人たちが、パウロが指摘した問題に対して、「そのようなことなど大した問題ではない。小さなことだ」と高をくくり、その「父の妻と一緒に住んでいる人」を放置していたからだろうと思います。しかし、それはパウロにとって決して見過ごせない問題だったのです。「現に聞くところによると、あなたがたの間に不品行な者があり、しかもその不品行は、異邦人の間にもないほどのもの」だというパウロの言葉は、パウロがいかにその問題を重要視していたかを伺わせる言葉です。
そして、「異邦人の間にもないほどのもの」という言葉に、パウロが教会にいだいていた思いを見ることができます。つまり、教会は、この世の中の倫理観よりもより厳しい倫理観を持っていなければならないとパウロは考えていたのです。つまり、世の中では認められ受け入れられているようなことであっても、教会では受け入れられないこともあるということです。それなのに、教会の中に、世の中の人が見ても問題があると思われることが、こともなげに放置されている。それがパウロにとっては驚きであり、問題だったのです。そこで、パウロは実に厳しい処分を伝えます。「むしろ、そんな行ないをしている者が、あなたがたの中から除かれなければならないことを思って、悲しむべきではないか。しかし、わたし自身としては、からだは離れていても、霊では一緒にいて、その場にいる者のように、そんな行ないをしたものをさばいてしまっている。」とパウロは言うのです。これは、異邦人の間にも見られないような義理の母との不適切な関係にある人を除名にするべきであるというパウロの勧告の言葉です。少なくとも、コリントの人たちが彼の行ないを見て、それを要にしていたとしても、私は、その人をクリスチャンとは認めていないと、パウロはそう言うのです。
しかし、パウロがそれほどまでに厳しい言葉をいうのは、この義理の母との不適切な関係にある人に対して憤っているのではなく、むしろその人を愛しているからなのです。というのも、パウロは厳しい言葉を語った後に、このように言っているのです。5節です。「彼の肉が滅ぼされても、その霊が主のさばきの日に救われるように、彼をサタンに引渡したのである。」「彼をサタンに引渡したのである」というのは、教会から除名しクリスチャンと認めないと言うことです。けれども、それは彼を滅びに渡すためではなく、その霊が主の裁きの日に救われるようにするためであるというのです。そこには、そのように教会から除名することで、その人が悔い改めて神に立ち帰ることを期待しているパウロの気持ちがあらわれています。パウロは、過ちを犯した人に対して憤り、怒り、そして憎いから除名するのではなく、その人を本当に愛しているからこそ、過ちから立ち帰り、神の前に生きて欲しいと願っているのです。だからこそ、厳しい処分を下すことで、自分の犯したことの重大さに気が付いて欲しいと願っているのです。パウロは、このように言いながら、コリントの教会の人たちに、不品行な行ないをしている人を厳しく罰するように勧告を与えるのです。
それにしても、私は、パウロが、「彼の肉が滅ぼされても、その霊が主のさばきの日に救われるよう」といっているパウロの言葉に、実に深いパウロの人間理解というものを感じずにはいられません。といのも、パウロが肉という言葉と霊と言う言葉を平行して使う場合、往々にして肉は人間の罪の性質として使われ、霊は神と交わり神を求める神を信じる人間の心や思いを指すからです。そして、そのパウロが肉と呼ぶ人間の罪の性質は、例えクリスチャンであっても、いつも私たちの中で、外側からの誘惑に私たちの心を向けさせ、私たちを過ちに導くからです。どんなに頭の中ではそれが悪いことだ、罪なのだとわかっていても、その罪から離れることができないでいる。私たちの良心が激しく痛み罪から離れなければと思っていても、罪に引かれ罪を犯してします。
パウロは、そんな悲しい私たちの罪の現実を知っているのです。たとえば、ローマ人への手紙8章において、パウロ自身が自らを語った言葉などは、そのパウロの人間理解が良く表れている言葉だろうと思います。長くなりなすので全部をお読みすることはできませんが8章15節から25節までをお読みします。それでも少しながくなりますが、次のように書かれています。「わたしは、自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲することは行わず、かえって自分が憎むことをしているからである。もし、自分の欲していない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善をしないで、欲していない悪は、これを行っている。すなわち、わたしの欲していないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。そこで善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのをみる。すなわち、わたしは内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の律法があって、わたしの心の法則にたいして戦いをいどみ、そして肢体の中に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしはなんとみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるのだろうか。私たちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心で神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。」ここでパウロが言っていることは、心では神を求め、神の前に正しく生きようと思っていても、罪を犯し、過ちを犯してしまう現実があるというのです。しかし、そのようなわたしを神が救って下さるのだといって感謝しているのです。
このパウロの言葉がクリスチャンになる前の経験か、クリスチャンになってからの経験かについては解釈が分れるところですが、しかし、たとえそのように見解が分れていたとしても、そこには神の前に正しく良心的に歩もうと思っても歩むことができない人間の実際の姿が現されていることは間違いがありません。そして、そのように、善を行おうとしても悪から離れられない人間だからこそ、神の救いが必要なのだというのです。それは、まさに私たちの内にある罪の性質が私たちを滅ぼすような罪に私たちを導こうとも、神を信じ、神を畏れ、神の前に正しく生きたいと思うものを、神は赦し救って下さるのだと言うことです。だからこそ、神に立ち帰るという悔い改めということが大切になってくるのです。悔い改めるためには、深い罪の自覚が必要です。自分が罪を犯していると言うことを知り、それを悔い、神を求めて生きるそれが悔い改めです。しかし、教会がその罪を容認し、黙って黙認していたならば、その人はいつまでも自分の罪の大きさを知ることができません。そして、自分の罪を悔い改めることはできないのです。だからこそ、パウロは除名という、本当に重い処罰を求めるのです。それはその処罰のゆえに、おかした罪の大きさを、罪を犯したその人に認識させるためです。そして、その罪を悔い改めさせて神の前に立ち帰らせなければならないとパウロはそう言うのです。
愛する兄弟姉妹の皆さん。わたしや皆さんを含め、罪を犯さないでいられる人間などひとりもいません。クリスチャンであろうとなかろうと誰でも罪を犯すのです。もちろん、クリスチャンである以上、きよく罪のない者でいたいという願いはあります。そして、意識してそうなろうと、罪から離れようとしますが、しかし、どこかで過ちをおかし、誘惑に負けてしまうことがあるのです。それは牧師であってもそうですし、わたしだってそのひとりです。ですから、わたし自身が、いつも自分の罪や過ちを繰り改め、神に赦しを請ながら生きているのです。そして、そのような者だからこそ、自分の罪や罪深さを神の前に悔い改め、神に赦していただかなければ生きていくことができないのです。けれども、もし、わたしたちが、「こんなことは、たいしたことはない。」「これくらいは大丈夫だと」思う気持ちを持っていたら悔い改めることはできません。だからこそ、私たちひとりひとりを取り巻く家族や教会の交わりということが大切になるのです。そして、パウロが、ここで、驚くほどの厳しい処分を求めているのは、教会が、この「義理の母と一緒に暮し、不適切な関係にある人」の行ないを容認し、黙って見ているからです。教会が彼の行ないの問題点をしらせ、彼を悔い改めに導く必要があるのです。それが本来の愛であり、黙って黙認していることは愛ではないのです。もちろん、彼が悔い改めれば除名などする必要はありません。悔い改めて神に立ち帰る者を、神は赦し救われるからです。しかし、どのような罪であっても、私たちはその罪を神に悔い、神に許しを請いながら私たちは生きていかなければならないのです。
だからこそ、パウロは、6節以降で、「あなたがたが誇っているのは、よろしくない」といって、パン種のたとえを話し出すのです。パン種のたとえ話というのは、イエス・キリスト様も用いられたたとえ話ですが、要は次のようなことです。パンだねというのは、いわゆるイースト菌のことです。このイースト菌がパン種としていれられるからこそ、あのようにパンはふっくらとふくらむのですが、パン種をいれなければ、それこそ煎餅のようなパンになってしまいます。このパンをふっくらと大きくふくらませるのは、パン種であるイースト菌です。それは菌と呼ばれるものですから、実に小さいものなのです。その小さなパン種がパンを大きくふくらませるように、例え誤った考え方や、過った生き方が教会の中で黙認されるようなことがあったとしたら、それがもたらす罪は教会に大きく広がってします。ですから、教会の中にはそんなに小さな罪であっても、それを放置して黙って黙認してはダメだ、必ず悔い改めに導かなければならないというわけです。
イエス・キリスト様は、このパン種を良い意味においては、福音だと言われました。福音は、「イエス・キリスト様が私たちの罪のために十字架について下さった。それを信じるものは救われて神の子となり、天国に迎え入れられる」ということです。ですから、数多くある律法を守り行わなければならないという当時のパリサイ派や律法学者が語る教えみれば、「ただ信じる」と言うことを強調するものでしかありません。けれども、そのような「ただ信じる」というような実に単純な教えであっても、それはより大きな天国の祝福をもたらすのです。
ところが、イエス・キリスト様は、このパン種のたとえを悪い意味でも使われました。その場合、パパリサイ派や律法学者たちの教えを指してパン種といわれたのです。つまり、キリストの教えの中に誤った教えがはいってくるならば、それがやがてパン種のように全体を悪いものにふくらせていって純粋な教えが損なわれてします。だから、パリサイ派や律法学者たちの教えをキリストの教えの中に持ち込んではならないというのです。パウロが、ここでパン種をたとえに用いている、その用い方は、後者の用い方と同じ用い方です。まさにどんな小さな罪や過ちもそのままにしておかないで、絶えず、悔い改めて、神に立ち帰り、神の前に生きていかなければならないのです。なぜならば、わたしたちは、すでに神を信じ神の前に生きていくものとなったからです。
たとえば、パウロはこのパン種のたとえを用いながら、わたしたちの過越の小羊であるキリストはすでにほふられたというのです。パン種のないパンは、ユダヤ教では過越祭りの食事で食べられます。その過越の祭りは、昔、イスラエルの人々が、エジプトで奴隷だったとき、預言者モーセを通して、神がその奴隷状態だったイスラエルの民を救って下さった出来事を記念するためのものです。その過越の祭りでは、イスラエルの人々の罪を贖い神のもとであることを明らかにするための犠牲の小羊がほふられますが、パウロは、その犠牲の小羊として、イエス・キリスト様は、すでに私たちのためにほふられている。だから、私たちはすでに神のものだとパウロは言うのです。そのように神の民とせられ、神の前に生きるものとされたのであるから、そこから道を踏み外したならば、そこに戻ってこなければならないのです。それが悔い改めると言うことなのです。
もちろん、先ほども申しましたように、私たちは罪を犯さざるを得ないような存在です。ですから、きよく正しく生きようとしても、過ちを犯しますし、誘惑にまけて罪を犯すことだってある。だからこそ、悔い改めることが大切なのです。むしろ、神の前に聖く正しく生きたいと願う者の生涯は日々悔い改めの生涯といっても良いだろうと思います。そして、私たちクリスチャンの生き方は、そのような日々悔い改めの生涯であるからこそ、教会は、わたしたちが悔い改めの生涯を送ることができるように、教会の中に、過ちや罪があったならば、それを放置しておかないで、その罪を悔い改められるようにしていかなければならないのです。そのために、悔い改められるような環境を教会は備えていかなければなりません。自分の罪に気付き、その罪のために心を痛めている人があれば、神はその罪を赦して下さるのだということを伝えていかなければなりません。そして、神もその罪を赦し、教会もまたその人を受け入れてくれるのだということを、治安と示していかなければなりません。それは、神の前に悔い改める者は徹底して赦され受け入れられるのだというキリスト教の根本精神に教会が生きているということです。
しかし、その反対に、自分の罪が認められない、自分の犯した過ちを過ちとしてうけいれられない者には、断固としてそれが罪だということを示していかなければならないのです。そのことにおいても、教会は神の前に歩んで行かなければなりません。それもまた、神の愛に生きる生き方だからです。パウロにとって、このコリントの教会はそのような状況の中にあったのです。このように、教会に集う者が、日々悔い改めて、神の赦しを頂いて神の前に生きることができるようになっていく、そこに聖なる教会の姿があります。逆にいえば、教会が聖なる教会として歩めるかどうかは、教会がそこに集う一人一人を悔い改めに導けるかどうかにかかっているのです。そのために、絶対に必要なものが愛なのです。その人の霊が、神の裁きの日に何としても救われるようにと願う、相手を愛する心なのです。
確かに、罪を指摘されると言うことは誰でも心地よいものではありません。同じように、自分の罪みを悔い改めると言うことも、決して楽な事ではありません。だからこそ、安心して、心から悔い改めができるように、私たちは、私たちの教会に集う一人一人を愛で包まなければなりません。愛がなければ、忠告の言葉も教え諭す言葉も裁きにしかならないからです。そして、裁くだけの言葉は決して人を救いには至らせないのです。私たちは、神の教会に集うものです。神の教会は私たち一人一人によって気づかれています。ですから、私たち一人一人が日々悔い改めの生涯を送り、神に立ち帰って生きなければ、教会は聖い姿を保つことはできません。過ちや罪の多い私たちだからこそ、神にその罪や過ちを悔い改めさせていただき、クリスチャンとして、少しづつイエス・キリスト様のお姿の近づこうとしている中に教会の聖さは現れてくるのです。そのことを覚えながら、私たちはお互いが、罪や過ちや汚れを心から悔い改め、私は神に受け入れrたれているのだということを実感できる教会を気づいていかなければなりません。また、神だけではない、教会からも愛され受け入れられているのだと言うことを実感できる教会を気づきあげていくことが大切なのです。だからこそ、罪が語られるときも、裁きの言葉のひびきではなく赦しの言葉のひびきによって、悔い改めが起る教会でありたいと思います。
お祈りしましょう。