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メッセージ

羊飼い 『内在と聖別』
コリント人への第一の手紙 5章9−13節
2008/6/29 説教者 濱和弘

さて、先週もお話し致しましたように、コリントの教会は、教会の指導者を誰にするかという問題以外にも幾つかの問題を抱えていました。その一つに、不品行という倫理的問題があったわけですが、倫理的な問題というのは、極めて慎重に扱わなければなりません。と申しますのも、倫理上の問題というのは、それぞれの国の文化や、同じくにでも時代によって違ってくるからです。たとえば、ここで取上げられている問題は不品行という性的な問題であり、男女間の問題ですが、そのような男女間の問題などについても、それぞれの文化的な背景の中で違いがあります。たとえば、今年の四月からK君が教会に出席して下さるようになりましたが、韓国と日本では、結婚に置いては、全く違った基準を持っています。と申しますのは、韓国では、同じ姓を持った人とは結婚することができないからです。もっとも、同じ姓といいましても、韓国ではKという姓が圧倒的に大言い訳ですが、そのKの姓にもじつは、幾つかの種類があるそうで、その範囲の中での結婚はできないということらしいのです。また、聖書の法に目を向けましても、旧約時代のイスラエルには、兄が子供を残さないで死んだ場合は、弟が兄の嫁を娶って兄のために子供を残さなければならないというレビレト婚というような制度がありましたが、このような制度は、今日の日本には決してなじまないものです。そういった意味では、聖書にある制度であっても、それが機械的に今の私たち日本に住むクリスチャンに適用されるかというと、必ずしもそうではないものもあるのです。

先週は、火曜日から金曜日まで、聖書学院で牧師研修会がありました。私も家内もそれに参加していたのですが、アメリカからWesley Biblical Theminalyの教授であるU博士を講師としてお招きして一日90分の講義を3講義、4日間で11講義の講義がありました。講義をきいていますと、U博士は、極めて保守的な立場の神学者だろうという事が、その発言の節々から伺われたのですが、その講義の中で、現代のアメリカの教会の問題点を幾つかあげられました。その中で、現代のアメリカの教派の中で、同性愛者の牧師に按手礼を授けるようになってきたということがあげられたのです。実は、その時わたしは、その発言にちょっと引っかかりを感じたのですね。というのも、同性愛の問題については、現代医学や心理学からの新しい見知があるからです。いわゆる性同一性障害や、性的虐待によるトラウマの問題です。そして、そのような観点から見ると、単純に同性愛者であるかと言うことで按手礼を与えることに問題視をすることはどうだろうかというという思いがあったからです。今回の研修会では、一日の最後の講義の時に、受講していた者達が、幾つかのグループに分れてディスカッションを持つ時間があったのですが、そこで、私はその心に引っかかっていることをお話ししました。そのグループの中のでは、私以外にも同じような感想を持っておられる方が他にもおられ、そこで幾つかの意見のやりとりがあったのです。

こういったことは、実際にこれからの私たちの教会でも話し合っていかなければならないことであるだろうとおもいますが、そのディススカッションの中では、そのことについての意見のやりとりがあったその流れの中で、倫理的な問題のテーマが時代によって違うというような話にまで、話が広がっていきました。たとえば、私が大学生の頃には、デートの時に手をつなぐのは許されるのか許されないのかが大きな問題でした。そうすると、私より一世代前の先生が、自分たちの時にはデートをすること自体が問題だったといわれるのです。これなどは、時代によって倫理的基準が変わってきている一つの例だろうと思います。また、私たちにとっては女性の牧師がおられるということは、当たり前のことなのですが、アメリカの教会では女性が牧師になれない教会もある。事実、私たちの姉妹教会である北米ホーリネス教団などは、現在でも女性は牧師になることができないのです。しかも、その根拠は、聖書の言葉においている。そのように、具体的な教会の営みの中には、実に様々な問題や課題を抱えています。それは、私たちの教会が現代という時代のただ中にあり、また日本という社会の中に置かれているからです。ですから、教会の倫理的な問題というのは、その教会が置かれている時代や文化といったものをよく見ながら、いかにあるべきかと言うことを考えなければならないのです。

もちろんそれは、教会は時代に迎合しなければならないということではありません。先週も申し上げましたが、パウロが教会に求めたものは、この世の在り方よりもより厳しい倫理的な生き方でした。そういった意味では、教会はこの世と妥協してはならないのです。そう言った面で、パウロは「兄弟と呼ばれる人で、不品行なもの、貪欲なもの、偶像礼拝をするもの、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者があれば、そんな人と交際をしてはいけない。食事を共にしてもいけない」といい、「その悪人を、あなたがたの中から除いてしまいなさい」ともいうのです。「その悪人を、あなたがたの中から除いてしまいなさい」というのは、教会から除名しなさいということでしょうし、「そんな人と交際をしてはいけない。食事を共にしてもいけない」とまで言うのです。もっとも、この「そんな人と交際をしてはいけない。食事を共にしてもいけない」ということは、いっさいの交わりを絶ってしまいなさいということではありません。それは、教会の在り方や教会の生き方という面においては、教会は自らを聖別していなければならないということなのです。

そういた意味では「食事を共にしてはならない」という言葉の背後には、当時の教会で行われていた「パン裂き」と呼ばれる聖餐式の原形となった、食事のことが念頭置かれていたのかも知れません。聖餐式は、神と私たちの交わりであると同時に、私たちクリスチャン同士の交わりでもあります。それは、一つのパンから裂かれたものを食し、一つの祝福されたぶどう酒を分かち飲むことで、同じ一つのキリストの体に、私たちは結び合わされているという教会の宣言であるのです。つまり、パウロがここで「食事を共にしてはならない」というのは、一般的な社会的交わりを指すと言うよりは、そのような神にある兄弟姉妹としての交わりにおいて、それを共にすることはできないといっていると考えるべきでしょう。いずれにしても、パウロはこの世の在り方と教会の在り方とは違うのであって、この世の在り方を安易に教会に入れてはならないといっているのです。それは、教会は聖別されたもの存在だからです。聖別されるということは、神に属するもの、神が支配するものとして、この世から分離させられているということ意味しています。それは、神の世界とこの世の世界の間には、決して踏み越えてはならない明確な一線があると言うことです。そして、神を信じる者とされた者は、この神の支配する世界の者とされたのだから、おおよそ罪ということにおいては、この世の中と一線を画していなければならないというのです。

たしかに、何が罪であり、何が罪ではないかと言うことにおいて、倫理的なものについては、今日の時代や社会文脈の中で考えなければならないような問題は確かにあります。けれども、少なくとも社会的にも受け入れられないようなことからは離れ生きて行きなさいとパウロはいうのです。ところが、このようなパウロの発言は、気をつけなければ、一種の誤解を招く危険性がある言葉です。事実、コリントの教会の中では、誤解が生じていたようです。それは、教会は神によって聖別され、分離させられた者なのだから、教会に属するものは、この世の一切のものと交わりを持ってはならないというような誤解です。そのような考え方は確かに、パウロのいわんとしていることに対する誤解なのですが、しかし、起こりうる誤解なのです。皆さんは、修道院という存在をご存知であろうと思います。カトリック教会にも、ギリシャ正教会、あるいはロシア正教会といった正教会にも、またプロテスタント教会にも修道院というものはあります。この修道院では、修道士たちが共同生活をしていますが、もともとは修道士たちは、一人で修道生活をおくっていました。たとえば、砂漠や荒野にいって、穴を掘りそこで、ひとり修道生活をおくり、神の前に自分の清さを保とうとしたのです。この一人で修道生活をおくっていた修道士たちが、やがて集まって共同生活をおくりながら聖なる生き方を追求したのが修道院です。ですから、修道院生活の基本はこの世からの分離でした。そのようなわけで、元々の修道院は、人里離れたところを切り開き、自給自足の生活をすることで、この世との分離を試みたのです。

私は、このような修道院の試みや、修道士たちが真摯な姿勢で聖なる生き方を求めてきている姿は、本当に尊いことであり、評価できると思っています。しかし、本当にそのような生き方がこの世から離れて生きる生き方かというと、必ずしもそうではないと思うのです。それは、まさに今日のコリント人への第一の手紙に書いてあるとおりのことだろうと思うからです。この手紙で、パウロは、教会の内部では聖別されたものとなるべきであることを強く強調します。そして、この世の中でも見られないような不道徳なことを教会に持ち込むならば、教会はその人を除名するほどの厳しい処分を求めています。それは、安易にそのようなことを教会が認めてしまうならば、罪や汚れが教会の中に広がっていき、教会が聖さを保てなくなるからです。しかし、だからといって、パウロは教会の外の世界と断絶してしまいなさいとは言わないのです。だからこそ、9節10節で「わたしが前の手紙で、不品行なものたちと交際してはいけないと書いたが、これはこの世の不品行な者、貪欲な者、偶像礼拝をする者などと全然交際してはいけないと言ったのではない。もしそうだとしたら、あなたがたはこの世から出ていかなければならない」というのです。

この「もしそうだとしたら、あなたがたはこの世から出ていかなければならない」という言葉は、教会はこの世から離れ出て存在するようなものではないという響きがあります。むしろ、教会は内側の清さを保ちつつ、この世の中に身をおくべきであるといっているようですらあります。そして、確かに、教会はこの世の中に身をおくべきなのです。なぜなら、イエス・キリスト様がそうなされたからです。イエス・キリスト様は神の御子であられ、最も聖いお方でした。その最も聖いお方は、私たちの間に身を置き、私たちの間で住んで下さったのではありませんか。そして、イエス・キリスト様が交わりを持たれた方は、当時のユダヤ人社会の中では、汚れたものであると見られた人、娼婦もいれば、取税人や罪人と呼ばれた人たちがいる。そう言った人とイエス・キリスト様は接点を持たれ、そのような人たちのただ中で生きられたのです。

聖書は教会は、このキリスト様の体であると言います。私たちがこうして教会に集まり、礼拝を捧げ、共に祈りあい、共に交わりを持つとき、そこに教会があり、キリストのからだがそこにあるのです。そして、教会がキリストの体であるとするならば、当然、そのキリストの体である教会もまた、かつて、イエス・キリスト様が、この世の中で住まわれ、この世の人々と交わりを持たれたように、私たち教会もまた、この世の中から離れ、分離するのではなく、この世の中に身をおき、この世の中で生きていかなければならないのです。すべては、イエス・キリスト様のようになのです。そのイエス・キリスト様は、神の御子としての聖さをご自身の内に保ちながら、この世の中で生きて行かれたとしたならば、「すべてはイエス・キリスト様のように」である教会もまた、この世の中で生きていかなければなりません。

では、どうして、教会はこの世の中で生きていかなければならないのでしょうか。それは、教会がイエス・キリスト様を証しし、イエス・キリスト様を指し示す存在だからです。教会の生き方や在り方の一つ一つが、イエス・キリスト様というお方を指し示している。だからこそ、教会はその内側に聖なるもの保っていなければなりません。教会が指し示しているイエス・キリスト様が聖なるお方だからです。また、教会は、キリストにある聖い愛を示していかなければなりません。それはイエス・キリスト様が愛なるお方だからです。

先ほど申しましたように、今回、私と家内は火曜日からの牧師研修会に参加させて頂きましたが、非常に多くのことを学ばせて頂くことができる機会となりました。その中のひとつに、神が私たちを神の像につくって下さったが、この神の像は、関係性の中で表わされると言うことでした。神の像が何であるかについては、神学的には議論の多い難しい問題ですが、しかしながら、神の像が神の御本質と深く関係していることは間違いがありません。そして、その神のご本質が何であるかというと、みなさん、それは神の聖ということであり、神の愛と言うことであります。この神の聖と神の愛というものが、関係性の中で表わされるというのですが、要は人と人との交わりの中で神の聖というものを表わしていくために、私たちは、私たちの内にある神の像というものがあるのだというのです。「なるほどなぁー」とおもった。

みなさん、教会は交わりです。神を信じる神の民が、同じ時間に、同じ空間に集まり礼拝する。ですから、礼拝堂や建物が教会ではありませんが、その建物に集い、時間を共有し、共に礼拝を捧げ、共に聖餐に与る。それは神の民の交わりなのです。ですから、神のご本質である神の聖が交わりの中であらわされるとするならば、教会の交わりは神の聖を表わさなければならない。だからこそ、パウロは教会の内なる交わりは、聖別されたものとならなければならないと言って、それを疎外すると思われるようなものとは一線を画することを求めたのです。しかし、同時に、その交わりは神のご本質である愛を示す交わりでもあります。ですから、教会の行動原理は愛によらなければなりません。教会の内に向っても、教会の外に向うときでも、教会は愛を持ってこの世の中で生きていかなければならないのです。しかも、それはイエス・キリスト様の内にあった愛です。イエス・キリスト様の内にあった愛は、私たちにご自身の命を捧げられた愛です。相手のためにご自分の身を差し出す愛でイエス・キリスト様は私たちを愛して下さったのです。ですから、教会の行動はすべて、このイエス・キリスト様の愛で、「イエス・キリスト様はあなたを愛しておられます」ということを表わすものではならないのです。

たとえばそれは、伝道、あるいは宣教という言葉に置き換えられるものだろうと思います。私たちは、教の午後もトラクト配布を行いますが、このトラクトを一軒一軒のポストに入れていくそのことも、イエス・キリスト様の愛を動機とし、イエス・キリスト様の愛に満たされて、イエス・キリスト様の愛を伝えていくものでなければならないのです。同時に、それは教会の内側に向っても向けられなければなりません。私たちは、互いに愛し合い、仕え愛、赦し合うところのイエス・キリスト様の愛で結ばれた交わりを、築いていかなければならないのです。今回の牧師研修会の講師であったU博士は、そのような愛を家族の愛だと言いました。その通りでしょう。教会は神の家族なのですから。そして、教会が神の家族である以上、教会は、イエス・キリスト様の愛で結びあわされた交わりを気づきあげて行かなければならないのです。また、教会は神の家族であるというのですから、その神の家族である教会の原形は私たちの実際の家庭や家族の中にあります。あるいは、その逆に教会が神の家族であるように、私たちの実際の家庭や家族があるべきであるというのかも知れません。いずれにしても、教会が、自らを相手に与える愛で結ばれているものだとするならば、当然、家庭や家族も、そのように自らを相手に与える愛で、互いに愛し合うものとならなければならないということです。

ともすれば、私たちは相手から与えられることによって愛されることを求めがちです。しかし、そのような関係に置いては、本当の家族の愛は育たないのです。家族の愛、家庭の愛は、自らを相手に与えることによってのみ築かれるのです。みなさん、教会が神の家族であるならば、教会はこのような愛に生きなければなりません。そして神を信じる者の家庭もそのような家庭を築いていかなければならないのです。そして、そのような愛の絆で結び付けられていたならば、教会は自ずと聖なる存在になっていきます。なぜなら、この愛は自分に何かをしてもらうことを考える求める愛ではなく、自分が相手に何をしてあげられるかを考える、自らを与える愛だからです。そのように、自分が相手に何をしてあげられるかと言うことを考える愛は、けっして自己中心という者を産み出しません。そして、何をしてあげられるのかというような思いに満ちた愛は、相手に不利益なことを与え、相手に悪いものをもたらせるようなことを考えません。

パウロが、このコリントの教会の不品行な行ないの人を除名しなさいと言うのも、その根底には、その人が悔い改めて神の恵みに立ち帰ることを願ってのことであることは、先週の説教で見てきた通りです。そこには、相手に対する愛がある。愛があるからこそ、けっして聖において妥協しないで、その聖さを通して、罪を示し、悔い改めることを期待しているのです。みなさん。私たちが、そのような愛によって結び付けられた家庭、家族、神の家族である教会が築き上げられていくならば、私たちはこの世の中に合っても、何も恐れることはありません。キリストのある愛はすべてを完全に結ぶ帯だからです。そのことを知って、私たちは教会の内側にあっては聖別されたものとして、神の愛によって結び付けられた神の家族を築きあげ、世の中に向っては、イエス・キリスト様というお方の愛を証するものとして、その中のただ中で住み、生きていくものでありたいと願います。

お祈りしましょう。