『信頼の絆に結ばれた群れとしての教会』
コリント人への第一の手紙 6章1−11節
2008/7/6 説教者 濱和弘
さて、先週礼拝において、私たちは教会はこの世のあり方とは一線を画し、その意味に置いて分離した聖別された存在でなくてはならないと言うことを学びました。しかし、それと同時に、教会は、世の中のただ中にあって、キリストの愛を証するものとして生きていかなければならないと言うことも学んだのであります。この、教会が証しするキリストの愛とは、キリストが、私たちのためにご自分の命をも捧げて下さった聖い愛です。それは、私たちのことを思い、私たちのために相手に尽くす愛です。ですから、教会に集う私たちは、自分のために何かをしてもらうと言うことを望む、相手から与えてもらう愛を望むのではなく、相手のために何かをしてあげる与える愛を意識することが大切なのです。もちろん、それは教会の中だけのことではありません。家庭においても、家族の中においても同じ事は言えます。そして、私たちが、家庭において、また家族の中においても与える愛で家族を愛するならば、そこにキリストの聖なる愛が証しされるのです。
ところが、コリントの教会は、そのような存在ではなかったようです。そのために、一つの問題が起っていました。それが、先ほど司式の兄弟にお読みいただいた6章1節から11節にあります、裁判の問題です。もちろん、パウロが裁判の問題を、問題として取上げたのは、訴える者も、訴えられる者も同じ教会に属する者だったからです。同じ、キリストの体なる教会を築き上げている兄弟姉妹(教会の中では、男性信徒を兄弟とよび、女性信徒を姉妹と呼びます。ですから兄弟姉妹とは、信徒間相互の間柄にあってということを意味します)が、相争い和解することのできない状況にあり、教会もまたその二人の争いに解決を与えることができない状況にある事を聞いて、パウロは、それは問題なのではないかと言うのです。もちろん、パウロはクリスチャンが裁判によって問題を解決することが良くないといっているわけではありません。ここでパウロが言っているのは、教会内の兄弟姉妹の間のしかも、極めて小さな問題までも裁判によらなければ解決できないのかといって嘆いているのです。ですから、たとえば教会内部の問題だけにとどまらない社会に関わるような問題であれば、裁判によってということもあるでしょうし、重大な事件の場合は、教会の内部で解決できずに裁判によって解決すると言うこともあったでしょう。パウロはそういったことまで取上げて裁判に訴えるのはおかしいのではないかと指摘するのです。
実際、ここで問題になっているコリントの教会の問題は、パウロが言うように極めて小さな問題であったようです。と申しますのも、3節に「あなたがたは知らないのか。わたしたちは御使いをもさばく者である。ましてやこの世の事件などは、いうまでもないではないか」といわれている、「この世の事件」という言葉、これは4節にも、「それだのに、この世の事件が起ると、教会では軽んじられている人たちを、裁判の席に着かせるのか」と言う具合にくり返して使われていますが、この「この世の事件」という言葉は、3世紀ごろのギリシャ語では「法廷に持ち出すべきでなく、家で解決すべき、重大な罪と対比される日常の喧嘩」を意味する言葉が使われているのです。ですから、この時のコリントの教会で問題になっていた信徒同士の間で起っていた争いは、裁判に訴えるほどの問題ではない、日常のごくありきたりないさかいであったろうと思われます。そのような、日常にある些細な出来事を裁判に訴えて解決しようとするなどといったことは、私たちが考えても、おかしいと思われることですが、ものの本によりますと、ギリシャ人は裁判が好きな人たちであったと書かれているものもありましたから、ひょっとしたら、そのような背景があったのかも知れません。しかし、先週も申し上げましたが、教会には世の中のあり方を持ち込むことには慎重でなければなりません。ですから、たとえ、周りの人たちが裁判好きで、ごく些細なことを裁判でかたづけようとする風潮があったとしても、教会の中に同じような風潮が持ちこまれてはならないのです。
もっとも、この箇所については、このパウロが言う「極めて小さな問題」、「この世の問題」というのは、信仰上の問題であって、信仰上の問題は裁判に訴えて信者でない人に裁かせても、正しい裁判などできないので、パウロはこのように言っているのだという解釈もあるようです。もしそうであるとするならば、それは確かにそうだろうと思われます。それこそ、教理上の問題や、信仰上の行為の問題などは、教会外の人にはなかなか理解できない問題も多いだろうと思われるからです。たとえば、私たちの教会では、副牧師が任期途中で辞任すると言うことがありました。もちろん、牧師であっても、やむを得ない事情で任期を途中にして辞職しなければならない事もあります。ですから、その理由が納得できるものであるならば問題とはなりません。しかし、私たちの教会の場合は、必ずしもそうではありませんでした。もちろん、おやめになった副牧師の方にも、それなりの言い分や主張があろうと思います。しかし、教会の皆さんにとっては、そのことが献身とは何かということを真剣に考えさせられる信仰上の問題となったのです。
このようなことは、裁判に持ち込んで解決するような性質のものではありません。裁判官に献身とは何かと言うことを問うたとしても答えようがないからです。むしろ、一般の会社の雇用契約といったことから考えると、仮に教会が裁判に訴えても、勝つことなどできないだろうと思います。実際、任命に際して、ある牧師が転任するように求められ、その牧師が、裁判に訴えて、教団が敗訴し、教団が謝罪をしなければならなかったというような事例があったと聞いています。その任命は、まさに信仰上の問題です。しかし、その信仰上の問題も、日本の裁判にかかるとパワーハラスメントとして取られてしまうのです。しかし、パウロがここで言っていることは、そのような信仰上の言い争いや、教理上の問題ではないだろうと思います。と申しますのも、7節8節にこう書かれているからです。「そもそも、互いに訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだ。なぜ、むしろ不義を受けないのか。なぜむしろだまされないのか。しかるに、あなたがたは不義を働き、だまし取り、しかも兄弟に対してそうしているのである。」「あなたがたは不義を働き、だまし取り、しかも兄弟に対してそうしているのである」という言葉からは、問題が信仰上の問題であったとはとうてい考えられません。むしろ、「不義を働き、だまし取り」という言葉は、何かしらの経済的なトラブルがそこにあった印象を与えるものです。
もちろん、たとえそのような経済的トラブルがあっても、それが本当に相手からだまし取るような、それこそ、詐欺や横領といった刑事罰にあたるようなトラブルではなかったのだろうと思います。パウロが、ごく小さな問題であり、そのよう「法廷に持ち出すべきでなく、家で解決すべき、重大な罪と対比される日常の喧嘩」をあらわすような、「この世の事件」といっているからです。もしそうであったならば、仮に裁判に訴えると言うことがあっても、パウロはこの6章に書かれているようなことは書かなかっただろうと思います。それこそ、「不義を働き、だまし取り」というような言葉遣いをしていますが、実際に起っていることは、そのような重大な問題ではないけれど、相手が、あるいは誰かが「だましと取った」に言っているか、あるいは「だまし取った」と思っている程度のことなのだろうと思われます。しかし、そのような問題によって、互いに訴え合うような事態に陥っているとしたならば、それは基督にある教会としては、教会の敗北だとも言えるゆゆしき問題なのです。というのも、そのように「だました」とか「だまし取られた」といって互いに訴え合うような状況であるということは、教会は、教会内部の人間関係に置いて信頼が無いと言うことだからです。それは、取りなおさず、教会には信頼がないということにつながるからです。
私たちの教会は、K牧師の肝臓移植の募金の時に中心となって活動を致しました。それこそ、多くの募金をお預かりし、移植手術を行いましたが、その資金の用途と管理には本当に注意を払いました。と申しますのも、その募金に対しては、些細な疑いも持たれないようにするためです。実際、このような募金活動には、さまざまな批判の目が向けられます。それこそ、集めた募金の用途などについては、あらぬ疑いさえ欠けられることがあります。その用い方に問題があったならば、教会は信頼を失ってしまいかねません。教会が信頼を失うと言うことは、キリストが信頼を失うことであり、それは宣教における敗北につながります。ですから、慎重にそれを行いました。それは教会の聖さの証であり、信頼の証しのためだったのです。それこそ、N兄弟のお父様が経理畑の方でしたので、帳簿付け等をお願いし、通帳と印鑑、そしてキャッシュカードなどは、それぞれ別々の人間が管理しました。それは、募金活動に参加しているものの間に信頼関係がなかったからではなく、誰から聞かれても、一切不正などないことを証するためだったのです。あるいは、私たちの教会では、毎年総会で、きちっと会計報告がなされます。それこそ、会計の方のご苦労があって、きちっとした会計報告がなされています。私も教会の会計をやったことがありますが、それこそ、教会の会計は大変なご奉仕ですが、そのご奉仕を歴代の会計の方々は、本当にきちっとやって下さって下さいました。また、最近は毎月の会計報告も出されるようになってきています。正直申しまして、私は、そのような会計報告がなくても、何ら心配がないほど、教会は信頼の置けるところだと思っています。しかし、それこそ、外部の方が見られたときに、年次の会計報告や毎月の会計報告がありますと、それは教会の信頼の証になりますので、そういった意味から、毎月毎月の会計処理や毎月の会計報告を出して下さる方にご苦労を欠けて申し訳ないと思いつつ、本当に感謝しているのです。
ところが、コリントの教会では、そのような信頼のかけらなどない。そして教会は信頼できないところであると宣伝するかのように互いに裁判に訴えあっているのです。そのような状況をおもいますと、パウロが、「なぜ、むしろ不義を受けないのか。むしろだまされていないのか」と言っている言葉は、「なぜ、あなたがたは互いに信頼し合わないのか」と嘆いている言葉に聞こえてくるような気がするのです。教会は、そのような信頼に結びあわされたところだからです。もちろん、教会に問題が起らないなどというつもりはありません。むしろ、教会には様々な問題が起りうるのです。信徒間相互の間で、あるいは牧師と信徒の方々の間で、また牧師同士の間で行き違いがあったり、ちょっとした意見の対立が起ることもないわけではありません。だからこそ、教会は、そのような問題が起ったときにどう解決するかというすべをもっていなければならないのです。それは問題を裁き白黒をつけるためのすべではありません。むしろ、それを執り成し仲裁するためのすべを、教会は身に着けなければならないのです。そして、教会が、問題が起ったときに解決するすべを身に着けていなければならないということは、わたしたし一人一人が、そのような問題が起ったときに、執り成すなり、仲裁をすることができるものとなっていなければならないということです。ですから、教会が信頼できる存在となるためには、教会に集う私たち一人一人が、神の前に誠実な者となっていかなければならないのです。なぜなら、信頼は誠実さに対して生まれてくる心の思いだからです。そして、その誠実さは、神の恵みの中で養われるのです。
そして、その神の恵みは、神の赦しの出来事の中に表わされています。パウロはこのように行って言います。「それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、しらないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像礼拝をする者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪をする者はいずれも神の国をつぐことはないのである。あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである。」パウロは、このように神の国を受けつぐのにふさわしくない者がどのような者であるか、具体的な罪のリストをあげて一つ一つ言っていきます。「あなたがたの中には以前はそのような人もいた」と言います。しかし、このような罪のリストを一つ一つ読み上げられていく中で、自分はその罪のリストに挙げられた罪状には関係がないから大丈夫だとは思わなかっただろうと思います。なぜなら、教会に集っている一人一人は、自分自身に何らかの罪があることを認め、その罪を神の前に悔い改めてクリスチャンとなったからです。少なくとも、人間の罪を犯さずにはいられない深い罪性を知り、その罪を赦すためにキリストは十字架に架かって死んでくださったのだと言うことを、深く刻み込んでいるパウロによって伝道されたコリントの教会の人たちが、自分もまた、イエス・キリスト様の十字架の恵みによって救われたのだという恵みを知らないとは思えません。
ですから、パウロが、こうやってひとつひとつ罪のリストを数え上げていく中で、例え自分の罪がその中に入っていなくても、その罪のリストはコリントの教会の人々に、自分の罪を思い起こさせ、そしてそこからイエス・キリスト様が救い出してくださった恵みと愛とを思い起こさせたはずです。そのようなコリント教会の人たちに対して、パウロは「しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである。」というのです。それは、コリントの教会の人たちが、神の愛と恵みによって救われたということを強調する言葉です。そして、神によって救われたということは、洗われ、きよめられ、義とせられたということなのです。そのように、神の愛によって、洗われ、きよめわれ、義とされたのだからこそ、神の前に、誠実に生きていかなければならないのです。クリスチャンが、神の前に誠実に生きていくならば「不義を働いている」とか「だまし取られた」などといった疑いの心が起ってくることはありません。そこには誠実さに対する信頼があるからです。また、仮に何らかの問題が起ってきても、信頼の置ける第三者の執り成しは和解を生み出すことができるはずです。そのような信頼に結びあわされた教会になることを、パウロは求めているのです。
先ほども申しましたように、コリントの教会がおかれていたギリシャの文化は訴訟を起されると言うことが当たり前のような文化であり環境でした。だからこそ、パウロはそのような文化の中に置かれた教会だからこそ、なおのこと、信頼に結ばれ、裁判ではなく互いの信頼関係の中で問題を解決していく本来の教会のあり方を求めていったのかも知れません。みなさん、信頼という言葉は信仰という言葉に置き換えることができます。信仰とはイエス・キリスト様の十字架の出来事、つまりイエス・キリスト様が十字架で死なれることで、私たちは罪赦され救われるということを信頼し、イエス・キリスト様の十字架に寄りすがることだからです。ですから、教会はまず、このイエス・キリスト様の十字架の出来事に信頼するという信頼関係が、神と人を結び付ける縦の線としてあるのです。そして、そのような神と人との信頼関係があるからこそ、神を信じる者同士の横の信頼関係が横の線としてあるのです。そのように、教会は神と人との信頼、人と人との信頼によって築き上げられた信頼の共同体であると言えます。
みなさん。その信頼の共同体が、互いに訴えあい、相争う社会の中に置かれているのです。そして、私たちは、今、この信頼の共同体としての教会と言うことを、しっかりと心に留めて、そのような教会の基盤をより強めていかなければなりません。今、私たちは疑いと、訴訟の横行する社会の中でいきています。最近のニュースは、食品の偽装問題や、消えた年金の問題、あるいは政治家の金の問題など、社会の根底となり社会基盤の信頼が損われている時代です。そういった意味では、私たちは信頼していたものから裏切られる世界に生きているのです。そしてそれは、政治や経済といったことの中だけではありません。友人や兄弟や親子、家族といった間でも、殺人や様々なトラブルが起きている。それこそ、社会全体が信頼といったものを失いつつある時代に生きているのです。また、アメリカほどひどくはないにしても、訴訟社会になりつつあると言えます。そこには猜疑心や、欲望、報復や正義感といった様々なものがあります。そのような中で、本当に、罪を悔い改め、神の前に聖くいきるということに裏付けされた信頼の共同体は、大切な「世の光であり、地の塩」(マタイ5:13)なのです。
ですから、私たちは、イエス・キリスト様の十字架の死による神の赦しの愛と恵みを、いつも心に思っていたいと思います。そして、神を信じる、神を信頼するものとされたことを感謝して生きるものでありたいと思うのです。その感謝の心が、私たちの心に神に対する誠実さを産み出してくれます。そして、私たちが神に対して誠実に生きていくならば、そこにはきよめられたものとしてのきよい生き方があり、義とされたものとしての正しい生き方があります。それは努力や頑張りによってなされる生き方ではなく、神に対する誠実な思いの結果、自然と産み出される生き方です。そしてそこには、きよさと義によって裏打ちされた信頼によって結ばれた兄弟姉妹の交わりが生まれてくるのです。そのことを覚えながら、私たちは信頼によって結ばれた教会をこれからも築き上げ、信じ信頼することのできる世界が教会という神の国の中にあるのだと言うことを証していきたいと思います。
お祈りしましょう。