三鷹教会のロゴ

メッセージ

羊飼い 『永遠を思う』
コリント人への第一の手紙 6章12−20節
2008/7/13 説教者 濱和弘

私たちプロテスタント教会は、ルターの宗教改革に端を発しています。もっとも、私たちホーリネス教会の源流のジョン・ウェスレーと言う人とマルティン・ルターとでは、時代的には200年ほどウェスレーの方が後の世代の人ですし、神学的にもいくつがの違いがあります。その最も大きな違いは、救いにおける人間の主体性の問題をどの程度認めるかということにあるのですが、ルターは、救いは神の恵みのみに依存するので、救いにおける人間の主体性を認めませんでした。しかし、ウェスレーは、確かに神の恵みによるのですが、神を信じる信仰は、人間の主体的決断が必要だと考えました。そして、神の恵みは、人間が主体的に神を信じる決断ができるように導く、先行的恩寵として働くと考えたのです。ですから、ウェスレーの神学に置いては、人間の主体的決断による信仰という、主体性を認められています。この人間の主体性の問題において、ウェスレーとルターを見比べますと真反対のように思われますが、しかし、よく見比べてみると、違いよりもむしろ同じと思われることの方が多くあるのです。

実は、私が、東京聖書学院で学んでいるときに、最終学年になって卒業論文を書かなければならなかったのですが、私は、人間の自由意志をテーマに論文を書いたのです。この自由意志の問題こそ、ルターとウェスレーを分ける大きな違いの部分なのですが、もちろん、わたしは自由意志を認める立場から、その論文を書こうとしていました。その時、私の指導教授であった小林和夫教授は、私にルターの「キリスト者の自由」を読みなさいと奨めてくださったのです。「キリスト者の自由」というのは、先ほど申し上げましたマルティン・ルターによって、1520年に書かれた本ですが、宗教改革の三大文書といわれるものです。しかし、先ほど申しましたように、ルターは自由意志を否定する立場の人です。その、自由意志を否定する立場の人の本を、あえて読めといわれたわけですが、指導教授からの指導でもありますので、私はこの「キリスト者の自由」を精読致しました。そうすると、ルターは人間の救いに関してのみ、人間の自由な意志を否定しているのであって、必ずしも、人間の自由意志を全的に否定しているのではないと言うことがわかってきました。そして、むしろ神を信じクリスチャンになったものには、神の前に良いことを行う自由が与えられているのだという主張が、この「キリスト者の自由」という書物には書かれているということがわかってきたのです。そして、良く読んでみると、ルターとウェスレーが言っていることは、決して相容れることができないような違いではないと言うことがわかって来ました。その時、小林一夫教授が「キリスト者の自由を読みなさい」と奨めて下さった意図がわかったのですが、その「キリスト者の自由」の冒頭には、次のような言葉が書いてあります。それは、つぎのような二つの命題ですが、ルターは次のように言うのです。

「キリスト者は、すべてのものの上にたつ自由な君主であって、何人にも従属しない。キリスト者は、すべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する。」このルターのあげた人は「何人にも従属しないが、何人にも従属する」という二つの命題は一見すると矛盾しています。しかし、けっしてルターは決して矛盾したことを言っているわけではないのです。それでは、いったいルターが言いたかった真意は何だったのでしょうか。

そのためには、中世の教会の事情や宗教改革が起った際の教会の状況を正しく知らなければなりませんが、一般に、私たちは中学校や高校で宗教改革は、当時のカトリック教会が堕落し、免罪符を販売したことにルターが抗議して宗教改革が起ったかのように教えられてきたのではないかと思います。しかし、カトリック教会というのは、私たちが思っている以上に自浄能力をもった集団であり、確かに、ルターの時代の教皇ユリウス2世やレオ10世という人には、確かに問題もあったように思いますが、しかし、カトリック教会の歴史では、教会が腐敗し問題を抱えてくると、修道院が改革をすることで、教会の誤りを是正してきたと言う歴史を持っているのです。ですから、ルターのもった問題意識が、単に教会の腐敗と言うことだけでしたら、あのような宗教改革というような歴史的事件にはならなかっただろうと思います。実際、そのような教会の改革に対する声は、エラスムスを初めとするキリスト教人文主義者たちの中で起っていたのです。ですから、ルターが問題にしたのは、教会が腐敗をしているということではなく、むしろ、もっと根底的なこと、つまり、「たとえ神を信じたクリスチャンであっても、天国に行くためには、良き業である功徳を十分に積まなければならない。そうしないとクリスチャンでも煉獄に言って、そこで何万年、何百万年も苦行を積んでからでなければ、天国行くことができない」という煉獄という考え方と、その煉獄から救い出してくれる贖宥(この贖宥をあたえるのが、いわゆる免罪符というもの)という考え方にあったのです。

そのような考え方に対して、ルターは、人は何か良い業を、具体的に体を使って行うことで救われ天国に行くのではない。ましてや煉獄で苦行を積んでから後に天国にうけいれられるというのでもない。ただ神の恵みによってのみ、救われて天国に行くことができるといったのです。ですから、ルターが、先ほどの「キリスト者の自由」において、「キリスト者は、すべてのものの上にたつ自由な君主であって、何人にも従属しない。」といったのは、「天国に行くためには、具体的に何か体を使って、あのような良い業をしなければならない、このような事はしてはならない」といった具合に、クリスチャンは、決まり事や規則に律法的に縛られているのではない。むしろ、神を信じたクリスチャンは、信仰によって救われ、それによって魂に自由が与えられているので、自由に自分の思うところによって、行動することができるのだということなのです。要は、外的な体によって何かをするということではなく、魂という内なる体がどのような状態なのかが問題なのだということなのです。

しかし、ここからが大切です。ルターは、本当に神を信じ、イエス・キリスト様を信じたものは、イエス・キリスト様と一つに結び合わされているものだ。だから、本当に魂が自由にされているならば、神のお心を喜んで行う者となるはずである。なのに、自分は自由なのだからといって、自分の思うままに勝手気ままに生きていき、自分の好き勝手なことをしているとするならば、それは神のお心を喜んで行う真の魂の自由さではなく、いまだ罪のよって支配されている不自由な心のままなのだと、ルターは言うのですですから、神を信じクリスチャンになった者は、何かしなければ天国に行くことができないといった、律法的な考え方から解放されることで魂に自由が与えられているのだから、その魂の自由さを持って、喜んで神を愛する思いから神に仕え人、また人を愛する思いから、人に仕える者とならなければならないいし、そのようなものとしての自由があたえられたのだというのだというのです。実は、そのことこそ、私たちの教会の源にある、ジョン・ウェスレーという人が「キリスト者の完全」という本で言いたかったことであり、また、私たちの教会でいう「聖め」ということなのです。ですから、みなさん、私たちが「聖め」ということを語り、「聖め」ということを求めるとき、それは単に、行ないとして正しいことをするということ以上に、神を愛する愛において、聖別され、純粋に神を思い。神を愛する心から神のためお役に立つことをする者となることであり、純粋に人を愛し、人のためになることを思い行うことであるという事を知らなければなりません。そして、先ほど司式の兄弟がお読み下さった聖書の箇所は、まさにそのことが語られている箇所であると思っていただいて差し支えないだろうと思います。たとえば、12節には次のように書かれています。

「すべてのことは、わたしに許されている。しかし、すべてのことが益となるわけではない。すべてのことがわたしに許されている。しかし、わたしは何ものにも支配されない。」ここにおいてパウロは、まさしくキリストにある自由を感じ取っているのです。しかし、そのようなキリストにある自由を勝ち得ているパウロは、キリストにある自由を勝ち得ているからこそ、このように言うのです。「食物は腹のため、腹は食物のためである。しかし、神はそれもこれも滅ぼすであろう。からだは不品行のためにあるのではなく、主のためであり、主はからだのためである。そして、神は主をよみがえらせたが、わたしたちもよみがえらせてくださるであろう。」「食物は腹のため、腹は食物のためである。しかし、神はそれもこれも滅ぼすであろう。」というのは、これから述べようとする「からだは不品行のためにあるのではなく、主のためであり、主はからだのためである。そして、神は主をよみがえらせたが、わたしたちもよみがえらせてくださるであろう。」ということを、より分かり易くするために用いられた対比であろうと思われます。つまり、食物は私たちの体を養うものとして私たちの胃に収りますし、私たちの胃はその食べ物を消化するための器官として存在しています。ですから、食物と胃はお互いが深く結びついた関係にあります。しかも、それは私たちの食欲という欲望を満たすためのものです。そのような関係は、ただ外側の外的な体だけのことです。しかし、ただ自分の欲望を満たすためにそれがなされているとするならば、神はそれをお裁きになるというのです。

それに対して、「からだは不品行のためにあるのではなく、主のためであり、主はからだのためである。そして、神は主をよみがえらせたが、わたしたちもよみがえらせてくださるであろう。」というとき、それは単に外側の体だけのことを言っているわけではありません。むしろ、私たちの霊の体、魂の問題を含んで「からだ」といっているのです。そして、「食物は腹のため、腹は食物のためである。」という言葉と対応させるように「体は主のためであり、主はからだのためである」というとき、それは私たちの主であるイエス・キリスト様というお方と私たちの内なる霊の人として、お互いが深く結びついているのだ。だから、あなたがたの外側の体も、欲望に任せて不品行なことをしてはならないと、そう諭しているのです。このようなパウロの背後には、コリントの教会のメンバーの中に、遊女と不適切な関係を持つ人たちがいたと言うことが、15節から18節までに記述からうかがい知れます。それは、まさに自分の欲望を満たすために、そのようなことがなされていたのです。そのような中で、パウロは、欲望に身を任せて生きている生き方は、決してキリストを信じるクリスチャンにふさわしい生き方ではないと言うのです。なぜならば、私たちクリスチャンはキリストと一つに結ばれているからです。

食物が私たちの腹にはいることで、私たちの血となり、肉となって私たちと一つになり、私たちの肉体を築き上げていくように、イエス・キリスト様が、私たちと一つになって、私たちの神の子としての「からだ」、それは内なる霊のからだだけでなく、この肉の体を含んだ全人格・私たちの全存在と一つになって下さったのです。だから、私たちは、単に罪がゆるされる私たちの内側だけが聖められるのではなく、この外側の体をも聖めてくださっているのです。ですから、パウロは、14節で、「神は主をよみがえらせたが、その力で、わたしたちをもよみがえらせてくださるであろう」という体のよみがえりを語ったのだろうと思います。私たちは、罪が赦されて内なる霊が洗い聖められているだけではなく、イエス・キリスト様と一つに結び合わされることによって、私たちの肉体を聖められているのです。だから、欲望に身を任せ、罪に身を任せるようなる生き方をしてはならないとパウロは命じるのです。

皆さん、私たちは神を信じ、イエス・キリスト様を信じたときから聖められているのです。もちろん、あやまちや間違いを犯す不完全なものです。また、いわゆる「聖め」の経験といった「聖化」の経験を自覚的に経験していないと言う方もおられるだろうと思います。けれども、私たちが神を信じ、イエス・キリスト様を信じたその時から、私たちの内に聖霊なる神が宿り、また神の命が宿っているのです。まさしく、聖書が語っているように、私たちは、聖霊なる神が私たちの内側にいてくださる「聖霊の宮」なのです。聖霊なる神は、父から起り、また御子イエス・キリスト様から起っている三位一体なる神の第三位格です。その聖霊なる神が、私たちの内側に住み、私たちが聖霊の宮とされている。それは、私たちはすでに聖められているということなのです。もちろん、それは、イエス・キリスト様が聖なるお方であったような完全なものではないでしょう。ですから、私たちは、聖められるということにおいても、成長しなければならないものです。しかし、イエス・キリスト様が、神の御子の尊い命を捧げることによって、私たちの罪を贖い、私たちを買い取ってくださり、神に属するもの、すなわち聖なるものとして下さったのです。私たちが、どんなに罪深いものであり、過ちが多いものであっても、私たちと一つに結び合されたイエス・キリスト様という聖なるお方によって、また、私たちの内に住んで下さっておられる聖霊なる神によって、私たちは聖いのです。

この、イエス・キリスト様という聖なるお方と一つに結び合わされているということは、私たちにとって大きな希望です。なぜならば、この聖なるお方は、死からよみがえられたお方であり、天に昇られた神の御子だからです。今夜、私たちは加藤幸子姉妹のお別れの会を持ちます。また、あしたは告別式が執り行なわれますが、このことは、私たちのこの世の生が限られた有限なものであることを、私たちに強く感じさせます。私たちは、この世に生を受け、そして死んでいく。そのように、私たちの命は限られた有限なものです。この命の有限さは、単に生命としての有限さだけではく、私たちのもつ能力や可能性と言ったことにおいても限りがあると言うことです。それこそ、私たちは全てのことに置いて限界があるのです。限界を感じる時というのは、けっして嬉しくはありませんし、心地よいものでもありません。それは、わたしたちにあきらめを感じさせ、寂しさを感じさせます。そして、無力感を感じさせられます。だからこそ、その限界の最も大きな出来事である生命の限界である死は、悲しく寂しいものなのです。しかし、私たちは、イエス・キリスト様とひとつに結ばれています。このお方は、死からよみがえられたお方、すなわち、私たちの限界を乗り越えられたお方です。そのお方が、私たちとひとつに結ばれているのです。罪人で欠けが多く、汚れた私たちが神の前には聖なるものとなっている。それは、イエス・キリスト様と一つに結ばれることによってです。同じように、限界をもつ有限な私たちは、私たちと一つになって下さったイエス・キリスト様によって、その限界を乗り越えていくことができるのです。

それは、死という、絶対的な限界をも乗り越えさせていただくことができるものです。死を乗り越えた先、それは永遠です。聖書は、この有限な世界を乗り越えた先にあるものを「永遠」と呼んでいます。 有限というものを乗り越えた世界を「無」とも「無限」とも「永久」とも言わず「永遠」と呼んでいるのです。「無」とは何もないことです。何も存在しない。限界を超えた世界には何もない。けれども聖書は、死という命の限界を超えた先には何も存在しないとは言わないのです。それでは、「無限」や「永久」というものはどのようなものかと言いますと、「無限」とは、限りがないことですし、「永久」とは時間の終りがなく、ただずっと続いていく世界です。そして、聖書は、そのような限りのない、終りの世界が、私たちが有限な世界の先あるとも言わないのです。それは、今の私たちの世界にあるものが無限にあり、今私たちが生きている時間が際限なく続いていくということではないからです。もし、今私たちに生きているものが際限なく存在するとすれば、それは必ずしも喜ばしいことではありません。というのも、私たちの生きている世界には、悩みや苦しみ、また争いや憎しみといったものも存在するからです。もちろん良いものもあるでしょうが、しかし、決して喜ばしくもないものも存在する。そして、それが、際限なく続く「永久」という時間の中で繰り広げられていくとするならば、無限とか永久ということは、本当によいことなのだろうかと考えさせられてしまいます。しかし、神は私達の限界を超えた世界はそのような「無限」や「永久」といった世界ではないと言うのです。

そして、神は、私たちが死に代表されるような私たちの限界や有限性を感じさせられるその先に、「無限」でもなく「永久」でもなく、ましてや「無」でもない「永遠」という思いを与えて下さったのです。みなさん、「永遠」は、「永久」とは違います。キルケゴールという、デンマークのクリスチャン哲学者は「永遠」ということについて、「永遠」とは私たちの住む世界とは全く質の異なったものであると言っています。皆さん、私たちが住む世界は様々な乗り越えられない限界に縛られています。そのために、私たちの世界には、様々な不安や恐れ、悲しみや憎しみ、争いや悩み、それこそ、数えあげていったら切りがない様々な苦悩があります。そのようなこの世界とは全く異なった世界が、私たちの限界、有限な存在を乗り越えた先にある。また、聖書は「永遠」は神の御性質だといいます。ですから、永遠とは、神のことを意味する場合もあるのです。その「永遠」が、私たちの限界を超えた先で待っていて下さるのです。だからこそ、死は終りではなく、永遠の始まりなのです。

このような「永遠」が私たちに与えられているのだとすれば、私たちはこの永遠を思って生きていくことが大切な事となります。そして、神は私達の心の中に永遠を思う思いを与えて下さっているのです。だから、私たちは、「永遠」を思い生きていかなければなりません。そしてそれは、神を思って生きると言うことでもあるのです。私たちは、そのように永遠を思うものとされているのです。そのような私たちだからこそ、私たちは神の前に、身を引き締めて生きていかなければなりません。と申しますのも、「永遠」は、私たちの死という出来事の後にくるものだけでは無いからです。確かに、今日、そして明日、別れの時を持つ加藤幸子姉妹も、私たちの限界をこえた、私たちが「永遠」へと旅立たれました。そういった意味では、「永遠」は、死という限界を超えた先にあるものであると言えます。しかし、同時に私たちは、「永遠」であるところのイエス・キリスト様と一つに結ばれた存在なのです。そのように、私たちがイエス・キリスト様と一つに結ばれたとき、私たち自身は、罪や過ちが多く、汚れた思いが心に湧き上がってくるような罪人であるにも関わらず、イエス・キリスト様の聖なる御性質のゆえに、この世にあって聖なる者とされ、その神の聖さの中で聖い者として成長させていただいているように、イエス・キリスト様と一つに結ばれているがゆえに、私たちは、今、この世にあっても、すでに「永遠」は、私たちの内に始まっているのです。

それは、私たちが罪に縛られ、欲望やわがままな思いに縛られて生きていくのではなく、そのような欲望や罪から解放された自由な存在とされていると言うことです。「キリスト者の自由」が私たちに与えられているのです。もし、私たちが罪の奴隷ならば、罪に縛られて、罪を犯さざるを得ない悲惨な運命を生きなければなりません。律法の奴隷ならば、重荷を背負うようにしながら、神の前に認めていただくために正しく生きなければならないと骨を折り、苦労しながら生きなければなりません。けれども、私たちは、神の前にすでに罪から解放され、神によって義と認められているのです。ですから、私たちは、自由な存在なのです。この自由を、私たちは自分の放縦や欲望のために使ってはいけません。このような自由は、私たちと一つに結ばれた永遠である神なる御子イエス・キリスト様によって与えられたものなのです。ですから、私たちはこの自由を、神のために用いなければなりません。私たちは、神によって何者にも属さない自由が与えられました。だからこそ、その自由をもって神に従い、神のために生きるものとなるのです。それこそが、永遠という、私たちの限界を超えた先にあるものを思う思いをあたえられた私たちにふさわしい生き方だと言えます。そして、わたしたちが神のために生き、人のために生きるとき、私たちは、私たちの体を持って神の栄光を表わすものとなることができるのです。そのことを心にしっかりと留めて、神の御前を歩むものとさせていただきたいですね。

お祈りしましょう。