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メッセージ

羊飼い 『目的を見失わないように』
コリント人への第一の手紙 7章1−9節
2008/7/20 説教者 濱和弘

さて、今日からコリント人への手紙の第7章に入って参りますが、この7章に入ってから、コリント人への第一の手紙が取上げる内容は、極めて具体的な生活の上に起ってくる事が取上げられてきます。もちろん、それまでも、5章において、ある人が自分の父の妻と一緒に住み、不適切な関係に陥っているとか、6章に記されている、教会のメンバーが互いに裁判に訴えあっているとか、あるいは遊女と不適切な関係になっているといった具体的な問題が取り上げられています。しかし、これらの問題に対しては、コリントの教会の人たちは、自分から積極的に問題を解決しようとしている様子が見られませんし、ひょっとしたら、それが問題だと思っていないような感じさえ受けます。実際、パウロはそのようなコリントの教会に対して、かなり厳しい口調で、そのような問題を起している人に対処するように言っています。

ところが、7章1節に「あなたがたが書いてよこした事について答えると」と書いてあるところをみますと、どうやらこの7章以降に記されているいくつかの問題は、パウロが問題を指摘するというのではなく、むしろコリントの人たちのほうからパウロに「いったいどうしたらいいのでしょうか」あるいは「どのように考えたらよいのでしょうか」と相談してきた問題ようです。だとすれば、このパウロのコリントの教会の人々に対する答えは、当時のコリントの教会の置かれていた背景といったものを無視して、一般化し、どの時代の、どの地域の教会に対しても、この言葉通りに当てはめて考えると無理が生じます。ですから、そのあたりのことは慎重に考えなければなりませんが、しかし、例えそうであったとしても、そこに大切な信仰のエッセンスはあるはずですし、それが聖書に収められている以上、神は、この聖書の言葉を通して私たちに、クリスチャンとしてあるべき姿を指し示しておられるはずです。

それは、聖書が神の言葉だからです。その聖書は神の言葉であるという聖書の権威の下で、このコリントの教会に起っていた具体的問題の中から、私たちに対する神の語りかけを聞きたいと思うのですが、 その問題の一つが結婚に関する問題であったようです。1節2節に「男子は、婦人にふれないがよい。しかし、不品行に陥ることのないために、男子はそれぞれ自分の妻を持ち、婦人もそれぞれ自分の夫をもつがよい。」と書かれていることがそのことを示しています。ここでパウロは、このように「男子は、婦人にふれない方がよい」と言っていますが、パウロ自身は、独身でしたし、独身でいる意味や意義を積極的に評価していたように思われます。なぜならば、パウロは8節で「未婚者たちとやもめとに言うが、わたしのように、ひとりでおれば、それがいちばんよい。」といっていますし、7節で「わたしとしては、みんなのものがわたし自身のようになってほしい。」とも言っているからです。

ですから、この「男子は、婦人にふれない方がよい」と言う言葉は、パウロが独身でいることを奨める言葉のよう解釈し受け取ることもできます、しかし、ここでパウロが「男子は、婦人にふれない方がよい」と言っている言葉が、そのようなパウロが独身である事の意味や意義を評価している内容にもとづいて、「結婚しないで独身でいる方が良い」と言っているのかというと、必ずしもそうではないように思われるのです。というのも、パウロが独身でいることの優れた点として評価している点は、独身でいると、神のことに、よりいっそう気を配ることができ、またよりいっそう神に奉仕できると言う点にあるからです。そのことは、同じコリント人への第一の手紙7章32節から36節で次の述べられていることからうかがい知れます。そして、そこにはこうあるのです。「わたしはあなたがたが、思い煩わないようにしてほしい。未婚の男子は主のことに心をくばって、どうかして主をよろこばせようとするが、結婚している男子はこの世のことに心をくばって、どうかして妻を喜ばせようとして、その心が分れるのである。未婚の婦人とおとめとは、主のことに心をくばって、見も魂もきよくなろうとするが、結婚した婦人は、この世のことに心をくばって、どうかした夫を喜ばせようとする。わたしがこう言うのは、あなたがたの利益になると思うからであって、あなたがたを束縛するためではない。そうではなくて、正しい生活を送って、余念なく主に奉仕させたいからである。」

正直もうしまして、私はこのように、単純に「独身であると、主に心をくばって主を喜ばせようとす るが、既婚者は、この世のことに気を配って配偶者を喜ばせようとする」といった形で言い切ってしまうことは、いかがなものかと思わされます。実際、既婚者の方でも、本当に主に心をくばり、精一杯捧げ、精一杯奉仕して下さる方も少なくありませんし、逆に独身者であっても、自分の事ばかりに心をくばり、神のことに心をくばり、神のために奉仕するということがおろそかになってしまう人もいるのです。ですから、パウロがここで述べているような単純な色分けはできないだろうと思いますし、また、してはならないだろうと思うのです。むしろ、パウロが言いたかった強調点は、独身でいることでよりいっそう神に心をくばり、神に対してよりいっそう奉仕できるのであるならば、独身でいる意味や意義もあると言うことであって、決して独身であることが絶対な善であるとパウロが考えていたわけではないだろうと思います。ですから、ここでパウロの「男子は、婦人にふれない方がよい」と言っている言葉の背景に、パウロ独身でいることが絶対的善であるという主張があったと考えなくても良いだろうと思うのです。

実は、「男子は、婦人にふれない方がよい」と言う発言そのものが、パウロ自身の主張なのか、あるいは、その当時のコリントの中にそのような禁欲主義的主張をしている人がいたか、もしくは当時のコリント地域にそのような格言があったのに対し、パウロが、そのような意見もあるが、「しかし、不品行に陥ることがないために、男子はそれぞれ自分の妻を持ち、婦人もそれぞれ自分の夫をもつがよい。」と、その格言に修正を加えたのではないかといった解釈上の議論があるのです。そして、おそらくは、この「男子は、婦人にふれない方がよい」と言う言葉は、コリントの教会の中にいる禁欲主義的な人たちが言っている言葉を背景にして、パウロが、それを否定するのではなく、肯定しつつも、行き過ぎた禁欲主義、あるいはあやまった禁欲主義を修正するために、「しかし、不品行に陥ることがないために、男子はそれぞれ自分の妻を持ち、婦人もそれぞれ自分の夫をもつがよい。」と言ったと考えるのが良いだろうと思います。というのも、1節2節の発言に続く3節以降の文章、特に「夫は妻にその分を果たし、妻も同様に夫にその分を果たすべきである。妻は自分のからだを自由にすることはできない。それができるのは夫である。夫も同様に自分のからだを自由にすることはできない。それができるのは妻である。」とある言葉は、夫婦の間の性の問題について述べられた言葉だと考えられるからです。

それでは、行き過ぎた禁欲主義や誤った禁欲主義というものは一体どのようなものだったのでしょうか。そもそもキリスト教というのは禁欲主義に走りやすい傾向を持っています。というのも、キリスト教のよって人間の罪ということは、極めて重要な問題の一つだからです。そして人間の欲望は、一歩間違えると、過ちや罪に陥ってしまうからです。ですから、むかしからキリスト教会は禁欲主義に陥りやすい傾向を持っていたのです。それは、キリスト教が人間の罪と言うことを意識する宗教であり、神の前に聖い歩みを求める宗教だからです。みなさん。今日の礼拝の招詞は創世記17章1節「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み全き者であれ。」という言葉でした。この「全き者であれ」ということは、聖きものであれと言うことです。だから、その聖を求めて、多くのクリスチャンたちが聖さを禁欲生活に求めたのです。

その顕著な例が、修道院だと言えるでしょう。その修道院のモットーは、「祈り、働け」です。それは、この世は罪の染まった俗なる世界である、その俗なる世界であるこの世と一線を画し、この世から離れて生活するために、自分たちで自給自足の生活をし、祈りに専心し、聖い生活することが修道院の目的だからです。だから自給自足のために働き、世俗から離れて祈りという聖なる修道生活に専念しようとしたのです。その聖い生活ということを、具体的に三つの規則によって全うしようとしたのです。それが、まず第一の終生の独身生活です。修道士たちは、独身を全うすることで、性に対する欲望を克服しようとしましたのです。そして、第二に清貧です。貧しい生活を強いることで、物質に対する欲望や金銭欲を克服しようとしました。そして、第三に従順です。修道士たちは、自分の上司にあたる役職のものには、絶対に服従すると言うことで、権力欲や名誉欲に打ち勝とうとしたのです。この三つの事を通して、修道士たちは聖なる生き方を全うしようとしていましたので、宗教改革の時に、宗教改革の祖であるマルティン・ルターが修道士の身分のままで、同じく修道女であったカタリーナ・フォン・ボラという女性と結婚したことは、当時の修道士たちにとっては、驚愕の出来事でした。彼らにとって、修道士の結婚という出来事は、彼らにとっての聖さを踏みにじる行為だったからです。

わたしは、そのような修道士たちの神の前に聖い生き方をしたいという心構えや生き方は、それはそれで尊いものだと思いますし、それを全うするために修道士として厳しい禁欲生活を生きている人たちを素晴らしい信仰者だと尊敬する思いがあります。しかし、修道生活は聖さを全うするため方法であって、修道生活は目的ではないはずです。そして方法が絶対化されてしまいますと、かえって過ちを犯してしまうこともあるのです。独身であること、それも聖い生き方をする一つの方法であり、神によりいっそう心をくばり、神によりいっそう奉仕するための方法であろうと思います。だからこそ、パウロは、独身であることの素晴らしさを認めた。けれども、禁欲を強いることだけが、神の前に聖い生き方をする方法ではないのです。第一、人間の欲望というものは、人間が生きていく上で決して悪いものではありません。食欲がなければ、それこそ医者が心配して診察をし、検査をするように、食欲という欲望は、人間になくてはならない欲望ですし、性欲だって、子供を生み、子孫を残していく上では大切な欲望の一つです。いえそれ以上に、自分の妻を愛し、また自分の夫を愛すると言うことの愛情を深めていくためにも大切な欲望の一つだと言えます。だからこそ、パウロは、「夫は妻にその分を果たし、妻も同様に夫にその分を果たすべきである。妻は自分のからだを自由にすることはできない。それができるのは夫である。夫も同様に自分のからだを自由にすることはできない。それができるのは妻である。」と言うのです。

このパウロの言葉は、夫、もしくは妻が、自分が聖い生活をしたいと願い、一方的に禁欲生活に入ることを戒めています。というのも、本当に聖い生活、神の前に全き歩みというのは、相手を愛する愛において全きものであり、聖いものだからです。相手のことを思い、相手に自分を与えること、それが本当に聖いということなのです。だから、自分が愛すべき夫や妻の事など考えず、また自分を相手に与えることもしないで、自分勝手に禁欲生活に入るというようなことは、けっして聖い生き方ではありません。それはむしろ、自己中心的なものに過ぎないのです。もちろん、お互いが神の前に聖さを求め、祈りに集中するために、お互いの霊性を高める目的のためにしばらく分れることパウロは禁じてはいません。しかし、それでもパウロは、「しばらくは相別れ、それからまた一緒になることは、差し支えない。」というのです。それは、禁欲生活や独身生活を決して絶対視してはならないからです。だからこそ、パウロは「わたしとしては、みんなの者がわたし自身のようになって欲しい。しかし、ひとりびとり神から賜物をいただいており、ある人はこうしており、他の人はそうしている。」というのです。つまり、独身を全うする生き方もあれば、結婚して家庭を持つ生き方もある。それは、むしろ一人一人に与えられた賜物によるのだというのです。いえ、むしろパウロは、独身であるということや禁欲生活をしていると言うことが絶対視されるならば、サタンがあなたがたを誘惑することさえもあるかも知れないとまで言うのです。

たとえば、現代においても、カトリック教会の聖職者は、終生独身を貫きます。近年になって、終生助祭として働き、司祭にならないと誓約された方は、結婚が認められるようになりましたが、司祭を志している方は、独身の誓約をしなければなりません。それは、カトリック教会では、司祭は修道士がその職務を務めるからです。しかし、数年前に、アメリカのカトリック教会で、その司祭や修道士たちによる、児童性虐待の事実が明らかになり、しかも、それが広く蔓延していたということがわかり、大きな問題となりました。もちろん、カトリック教会もその事実を明らかにし、教会の聖性の立て直しを図っていますが、これなども、独身性を聖い生活の柱として、禁欲生活を絶対視してしまい、制度化してしまったカトリック教会の問題点の一つではないかと思われます。まさに禁欲が、絶対視され、制度化されてしまったことで、われわれの心の自制力のない弱さに乗じて、サタンに誘惑された一例がそこにあると言っても良いのかもしれません。もちろん、そのような過ちを犯した司祭や、修道士たちが神を信じていないというわけではないだろうと思います。しかし、神の前に聖なる生き方は、禁欲的な生き方をするしかないと限定され、それが絶対視されていたからこそ、独身という生き方が無言の圧力となっていたからこそ、そのような過ちに至ってしまったのです。行き過ぎた禁欲主義や誤った禁欲主義といったものはそのようなもので、パウロが、まさにこのコリント人への第一手紙七章1節から9節まで取り上げた問題は、そのような問題だったのです。

けれども、わたしたちは、このような問題を単にコリントの教会の問題やカトリック教会の問題、あるいは性に関する欲望の問題といった具体的なことに限定して考えてはいけません。むしろ、問題の本質は、何度も申し上げておりますように、禁欲と方法を絶対化してしまい、より神との交わりを深め、神にいっそう心をくばり、神に仕えるという目的を見失ってしまっているところにあるのです。つまり、目的と手段を取り違えてしまっていることが問題なのです。そういった意味では、私たちは教会の営みの中で、あるいは私たちの信仰生活の中で、本来は、方法であるものが絶対視されてしまい、目的を見失ってしまっていることがないかどうか点検する必要があるように思うのです。

たとえば、教会には伝道の働きがある。それにそって伝道会や、トラクト配布と言った様々な伝道活動があります。私たちの教会も、それこそ、伝道会もトラクト配布も、また、クリスマスコンサート等々、いろんな伝道活動をしています。今年の9月からは、毎月第2礼拝を伝道礼拝にして、礼拝メッセージを伝道メッセージにすることが役員会でも決められました。これは、教会が教会の使命である伝道をするためです。伝道は、例えひとりの人であっても、神の愛に導き、イエス・キリスト様の十字架の救いに導く事が目的です。伝道会も、トラクト配布も、コンサートも、その目的は人々の救いにあります。ですから、伝道会を開くこと、トラクトを配ることも、そのための手段であって、それ自体が目的ではありません。幸いなことに、今、私たちの教会は、その目的を決して見失ってはいません。しかし、もし仮に、これからの将来で、その目的である伝道を見失ってしまい、伝道会を行うこと、トラクトを配ること、コンサートが行われることが目的になるようなことがあったならば、その時は、立ち止まって自分たちの姿勢を見なおさなければならないと思うのです。

また、礼拝も同じです。礼拝は、神の民が一つになって集まり、神を崇め、神を讃え、そして、共に神の言葉によって養われ、慰められ、励まされ、そして神の民として派遣されていくためのものです。ですから、礼拝に出席することが目的ではなく、礼拝を捧げることが大切なのです。けれども、もし礼拝に出席することで満足してしまって、自分は責任を果たしたと思うようなことがあったとしたら、やはりそれはそれで問題だと言えるでしょう。もちろん、わたしは、皆さんが、心からの礼拝を神に捧げ、説教を通して神の言葉を聞き、神の交わりによって養われ、礼拝で慰めを受け、憩いを得て、神の民としてこの世に派遣され、生きていることを知っています。だからこそ、そのような皆さんの信仰のあり方を、これからも見失わないで欲しいと心から願うのです。結局、このコリントの教会では、禁欲的な生活をおくることが、信仰的な生き方だと考え、禁欲的な生活自体が信仰の目的になっていた事に問題があるのです。そうではなくて、本来は、そのような禁欲的な生活をしたのは、それによって祈りに集中し、よりいっそう神に仕えるためだったのです。その、目的が見失われて、もともとは方法の一つであった禁欲が目的になってしまったときに様々な問題や軋轢が生まれてくるようになってしまったのであろうと思うのです。

以前もお話ししたことがあるかも知れませんが、わたしが東京聖書学院で学んでいるときに、断食がよく行われていました。もちろん、誰も強制するわけではありませんが、祈りの課題が起ると、修養生はよく断食をして祈ったのです。そのように、断食をして祈るというのは、自分自身を祈りに追い込み、祈りの集中するためです。けれども、わたしは修養生時代は、断食をして祈ると言うことをしませんでした。わたしは決して断食をすることに対して否定的ではありません。ですから、信徒時代にも、断食をして祈るということもありましたし、牧師になってからも断食をして祈るということもあったのです。しかし、あえて修養生時代は断食をしませんでした。それは、その時代のわたしは、断食をすることが目的となってしまう危険性を感じていたからです。その時、そのように私が考えていたのは、それなりに理由があったからです。実は、先ほども申し上げましたように、私は信徒の時代にも、何度も断食をしたのですが、一日断食をして祈るとか、2,3日断食をするといったもの以外に、一年間、毎週、曜日を決めて、その日の夕食を断って祈りに集中しようと決めて断食をしたことがありました。

ところが、断食を初めて何ヶ月かたちますと、4時頃に、それこそ「うどん」とかサンドウィッチのようなものを、食べるようになっていました。夕食というのはだいたい夜食べる食事ですから、夜の6時からあさの7持までを断食の時間として何も食べないと自分自身で解釈して、6時になる少し前に、軽い食べ物を胃に入れるようになっていたのです。それは、断食をする、厳密に言えば夜の6持から朝の7時までの半日、何も食べないと言うことが目的となり、その時間に何も食べなかったという結果が大切になって、断食をしたという信仰の敬虔さをあらわすための実績を残すことが目的となっていたからです。ある時に、私はその事実に気がついて愕然としたのです。断食をしたのは、真剣に祈らなければならない祈りの課題にぶつかり、心を込めて祈りに集中するためでした。なのに、途中から、「私は断食をしてまで祈っています。」という信仰の敬虔さをあらわす実績のために断食それ自体が目的になっていたのです。そのようなことがありましたので、私は修養生時代に断食をしませんでした。断食をしているということが本来の目的を離れてしまい。断食自体が目的となってしまうことに恐れを感じていたのです。そのように、断食自体が目的になってきますと、何日断食したということが敬虔さをあらわす指標のようになってきて、何日断食をしたということが、信仰の素晴らしさをあらわすようなものになってしまいます。そして、何日断食したかが誇りになってしまうようなことにもなりかねない。

みなさん、信仰の敬虔さは、何日断食したとか、何時間祈ったとか、一日何章聖書を読んだとか、そう言ったことで比べられることではなく、神に対するその人の姿勢が問題なのです。確かに、断食をする、祈る、聖書を読むということは、その人の魂を養い育てるためにはとても大切なものです。ですから、こういったものを決して軽んじてはなりませんが、何日断食するとか、何時間祈るとか、一日何章聖書を読むといったものは、目的ではありません。目的は、あくまでも私たちの魂を養い、神と深い交わりを持つことなのです。もし、そのようなものが目的になってしまっていたならば、そのような生活ができなければ、敬虔ではないとか、信仰熱心ではないと言った烙印を押されかねません。あるいは、コリントの教会ではそのようなことが起っていたのかも知れません。だからこそ、パウロは、禁欲の良い点を評価しつつ、本当の目的を見失わないように、コリントの教会の人々を諭していたのだろうと思うのです。みなさん、教会は、神の民が共に交わり、共に礼拝し、共に神に使命に生きるためにあるものです。そして、その交わりによって私たちは慰められ、励まされ、力づけられ、生かされるからです。私たちはそのことを忘れてはなりません。けっして、何かをすること自体が目的ではない、礼拝も、交わりも、私たちにとっては、神の民としてこの世の中にあって生かされていくために必要なものであり、神にとっては、神の栄光が表わされるために必要なものなのです。ですから、教会も教会生活も、神の民として、この世の中で生き生き輝いて生きていくためにあるのです。私たちは、そのことを心に留めて、礼拝や交わりを目的にしてはなりません。むしろ、深く神と交わり、また兄弟姉妹と交わりを持つことで、生き生きとした信仰生活を送っていくものでありたいと願います。そうやって、神を喜び神に喜ばれる者として生きていきたいと思うのです。

お祈りしましょう。