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メッセージ

羊飼い 『愛において固く結ばれる』
コリント人への第一の手紙 7章10−16節
2008/7/27 説教者 濱和弘

さて、先週は、コリント第一の手紙7章1節から10節からお話しを致しましたが、そこにおいてパウロが言わんとしていたことは、コリントの教会の中にある行き過ぎた禁欲的な傾向、特に性に関する禁欲主義的な態度に対して、その誤りを指摘し、修正することが意図されたものでした。このような、行き過ぎた禁欲的傾向は、古来からキリスト教に見られる傾向ですが、それは罪から離れ、神の前に聖い生き方をしたいと願うキリスト教のもつ本質的性格から起るものです。確かに、禁欲的な生き方は罪から離れるための一つの方法です。それは、人間の欲望が度を過ぎてきますと、様々な罪に結びつくからです。だから、そのような過ちに陥らないように、禁欲的生活をするというのは、確かに罪を犯さず、罪から離れるための一つの方法ではあるのです。しかし、禁欲的な生活は、罪から離れるための一つの方法ではあるのですが、しかし、禁欲的な生活自体が目的ではないのです。本当の目的は、神の前に聖なるものとして生きる。神の前に神の喜ばれるものとして生きると言うことにあるのです。

罪を犯さず、罪から離れるというのは、その神の前に喜ばれるものとして、神の喜ばれる生き方をすると言うことの一つの表れだといえます。そして、それは一つの表れであって、神の喜ばれる生き方の全体像ではないのです。その一つの表れである罪から離れるということを、神の喜ばれる生き方のすべてであるかのように捉え、しかも、その罪から離れることは禁欲的な生活を送ることであるとして絶対視しているとすれば、それは行き過ぎであって、決して正しいことではありません。むしろ、神に喜ばれる生き方の全体像は、私たちが神の前に喜んで生きていること、心から平安でいられることなのです。それでは、なぜ罪から離れて生きていることが、私たちが神の前に喜んで生きている事になり、心から平安でいられることになるのでしょうか。むしろ、私たちは、例えそれが罪を犯すことであったとしても。が好き勝手に自分のしたいこと、自分の欲望の欲するままに生きる事ができたなら、その方が楽しく、喜んでいられるようにも思えるのです。だとすれば、罪から離れて生きると言うことは、必ずしも喜んで生きるということにはならないのではないかとも思えるからです。その鍵となる言葉は、「神の前に」と言うことです。というのも、私たちが神を信じ、神を意識して生きるならば、私たちが罪を犯すならば、私たちの信仰的良心は必ず痛み苦しみます。もし、痛まなかったとしたら、それは神を意識して生きていないと言うことです。そして、そのような罪を犯した事による信仰的良心の痛みは、私たちの心を平安に保つこと許しません。なぜなら、罪がもたらすものは神の裁きだからです。罪は、私たちの心に不安と恐れをもたらすのです。ですから、罪から離れて生きると言うことが、神の前に喜んで生きると言うことに繋がり、平安に生きるということに繋がるのです。

だからこそ、私たちは何が罪であり、何が罪でないかを正しく知っておかなければなりません。罪でないことを罪であるかのように教えられているとするなら、それは大変なことです。それこそ、結婚することが悪いことであり、夫婦の間であったとしても性と言うことが良くないことだと教えられ、禁欲的な生活のみが正しいことだとされるならば、それは問題であり誤っているのです。しかし、その正しくないことが、コリントの教会で起っていた。コリントの教会には、独身であることに絶対的価値を与えたり、夫婦の性の問題においても禁欲的生活を絶対視するような傾向の人たちがいたのです。おそらくは、コリントの教会の行き過ぎた禁欲主義のために、すでに結婚していた人たちの中で、離婚をした人々、あるいは離婚しようとしている人たちもいたのだろう思われます。そのような背景の中で、パウロは「妻は夫から別れてはならない。」といい「夫も妻と離婚してはならない。」というのです。もちろん、このパウロの「離婚してはならない」と言う言葉もまた絶対視されてはいけません。それは、宗教的禁欲主義を理由にした離婚というものをしないようにと言うことなのです。だから、パウロは「これを言うのは、主ではなく、わたしである」といっているのだろうと思います。そこには、パウロの細心の配慮が感じ取られます。もし仮に、パウロが「これは主が命じておられることである」と言ったならば、それこそ、離婚することが全く禁じられてしまうかも知れません。しかし、実際には、やむを得ずに離婚する場合があることをパウロも知っているのです。

事実15節では、「もし不信者の方が離れていくなら、離れるままにしておくがよい。」といって、離婚にいたるのも止む得ない場合があるということも、パウロはちゃんと述べているのです。ですから、この10節、あるいは11節で言われている「妻は夫から別れてはならない。」あるいは「夫も妻と離婚してはならない。」と言う言葉は、行き過ぎた禁欲主義のために、クリスチャンが結婚していることが良くないことだと考えて離婚しようとしている夫婦に対して語られていると考えるべきでだと思われます。また、11節の、「しかし、万一別れているならば、結婚しないでいるか、それとも夫と和解するかしなさい」という言葉も、同じように、行き過ぎた禁欲主義のためにすでに離婚してしまった夫婦に対して言われている言葉だと考えるべきです。神を信じる者の間では、そこには、誤った教えや考え方によって離婚したのだから、和解して元のあるべき形に帰るべきであるというパウロの主張が読みとれます。それは、結婚が決して悪いことでも、人間の汚れた欲情から起るものでもなく、神の導きと祝福の中にあるからです。それは、たとえ、夫や妻がクリスチャンでない場合でも、神を信じる者の結婚生活には、神の祝福と恵みがあるからです。

もちろん、これは神を信じる者の結婚関係について語っていることです。ですから、神を信じて生きていない人たちに対して、パウロは語っているわけではありません。そこには、この世の原則が働くでしょうし、この世の考え方や判断基準があるでしょう。しかし、神を信じる者として結婚し、夫婦としての生活をしているのならば、そこには神の祝福があるのだから、むやみやたらと結婚生活を破棄してしまわないようにと、パウロは言うのです。信仰者が独身でいることの良い点を十分に理解し、独身であることを良しとしているパウロですが、しかし、同時に夫婦であると言うことの中にも、神の祝福がある恵みがあることをパウロはちゃんと知っているのです。だからこそパウロは、実に丁寧に結婚がもたらす祝福と恵みを語っています。それは、12節以降の言葉が語られるのです。そこにはこう語られています。「ある兄弟に不信者の妻があり、そして共にいることを喜んでいる場合には、離婚してはいけない。また、ある婦人の夫が不信者であり、そして共にいることを喜んでいる場合には、離婚してはならない。なぜなら、不信者の夫は妻によってきよめられており、また、不信者の妻も夫によってきよめられているからである。もしそうでなければ、あなたがたの子はけがれていることになるが、実際にはきよいではないか。」この言葉は、神を信じる者の存在が家族にもたらす祝福を語っています。あなたが神を信じて来ていることで、その祝福があなたの家族にもおよんでいるというのです。もちろん、この場合に、不信者である夫や妻が、「共にいることを喜んでいる」という中でのことです。そこには、深い愛による結び付きがあります。

愛は、相手の全人格を受け止める事です。そして、神を信じる信仰、イエス・キリスト様を信じる信仰は、私たちクリスチャンの人格の中心にあります。それは決して表面的なものでありません。神を信じ、イエス・キリスト様を信じる信仰は、私たちの人格の最も奥深いところにしみ入ってくるものです。だからこそ、私たちは神を信じるときに新しく生まれ変わるのです。神を信じる前と、同じ体であり、同じ生活をしていたとしても、心の奥底から私たちは生まれ変わっていく、それが神を信じる信仰だといえます。逆に、この中にはクリスチャンの親のもとに生まれ、クリスチャンホームとして生まれたときから教会に来ていたという人も少なからずいます。そう言った人たちは、パウロが14節で「あなたがたの子供はきよいではないか」といわれている存在なのです。ですから、神の恵みがその人格の中心にちゃんと染み込んでいる。その恵みが、その生涯を導いてくれるのです。そのように、神を信じる信仰は、神を信じるものの人格の中心にあるものですから、たとえ、不信者の夫や妻であったとしても、深い愛の結び付きで結び付けられていたならば、その人を通して神の祝福は家族にもおよんでいくのです。

もちろん、だからといって私たちが夫を救うことができるとか、妻を救うことができるということではありません。救いは人の業によるのではなく、神の愛と恵みによるものだからです。ですから、不信者の夫や妻が、その妻や夫のゆえにきよめられるとするならば、神を信じ生きるその妻や夫を深く愛し、その全人格を受け入れることによってなのです。しかし、いずれにしても、神を信じる者が深い愛情によって夫や妻と結ばれていたならば、その愛のゆえに神の恵みと祝福は家族にまでおよぶのです。だからこそ私たちは、結婚を尊ばなければなりませんし、結婚することもまた神の祝福の中にあるのだといえます。もちろん、すべての結婚がそのような深い愛の結び付きで結ばれているわけではありません。また、どんなに愛し合っていたと思っていても、その愛が持続できなくなる場合もあります。だからこそパウロは、「もし、不信者の夫がはなれていくのなら、離れるままにしておくがよい」と言うのです。この場合、パウロは「不信者の夫がはなれていくなら」といい、信仰をもった妻や夫の方から離れていくということを前提としていません。それは、神を信じるものは、その夫や妻を心から愛することが前提となっているからです。みなさん、深い愛で結ばれるということは、自分が深い愛で愛されると言うことと同時に、自分も深い愛で愛すると言うことが求められているのです。

しかし、どんなに自分が深い愛で相手を愛しても、相手がそれに応じてくれないときもある。そのような場合には、必ずしも結婚と言うことに束縛されないと言うのです。なぜなら、結婚は互いに愛し合うことによって結びあわされるものであり、どちらか一方が愛することによって成り立つものではないからです。むしろ、ただ愛されることだけをもとめ、愛することをしないとするならば、それは相手から心が離れていることなのです。心は互いに愛し合うことによって結びあわされるものであって、どちらか一方が心を寄せるだけでは決して結びあわされることがないからです。ですから、本当に祝福された結婚生活のためには、互いに深い愛で愛し合うと言うことが求められているのです。いや、それは何も結婚生活と言うことだけではない、家族が家族であると言うことに求められていることなのだと言えます。それは、自分が愛されることだけを求めるだけではない、むしろ、自分も相手を深く愛しているかがが問われることです。私たちが、相手を深く愛する愛で愛している事から始まっていくことから、結婚生活や家族との生活が、喜びになり平安を生み出すものになっていくのです。だからこそ、パウロは「不信者の方がはなれていくなら」と言って、信仰をもった妻や夫の方から離れていくということを前提とはしないのです。

それにしても、深い愛で結ばれると言うことは、自分が深い愛で愛されると言うことと同時に、自分も深い愛で愛すると言うことが求められているということは、私たちが心しなければならない事だと言えます。それは、単に夫婦の愛の問題だけではなく、私たちと神との関係、また私たちとイエス・キリスト様との関係にも言えることだからです。実際、聖書では、私たちとイエス・キリストの関係を花婿と花嫁に譬えて表現していますし、歴史の中でも、神秘主義と呼ばれる人たちの中で、神と人との神秘的一体化を結婚関係に譬えながら伝えていったグループもありました。そのように、私たちは夫婦の間が固い愛の絆で結ばれているのと同様に、神との愛の絆で結ばれていなければならないということです。つまり、それは、私たちは、ただ神に愛される存在というだけでなく、神を愛する存在なのだと言うことでもあるのです。

だとすれば、仮に私たちが、ただ神から愛されることだけを求めているとするならば、私たちは深く神と愛で結ばれてはいないということです。神と固く結ばれるためには、わたしたちも神を深く愛さなければならないのです。もちろん、それは神が私たちを愛していないと言うことではありません。神の本質は愛です。ですから神は、私たちをいつでもどこでも、変わらぬ愛で深く愛し続けて下さっています。けれども、そのように神が私たちを愛して下さっていたとしても、私たちが神を愛さなければ、それは互いに深い愛で結ばれているということにはならないのです。神が私たちを深く愛して下さっているからといって、私たちはただ神から愛される事だけを求めて、神を愛することをしなければ、どんなに私たちが神を信じているといっても、私たちの心は神と結びあわされてはいません。むしろ、神から離れて自分自身のことしか考えていないのです。そのような態度は、決して神を愛していると言うことではありませんし、神を愛していなければ、神と深い愛で結ばれていると言うこともできません。私たちは、神から深い愛で愛されているからこそ、私たちがその神の愛に応答して、神を愛するときに、はじめて愛で結びあわされていると言うことができるのです。

それでは、いったい神を愛すると言うことはどういうことなのでしょうか。どうすることが神を愛すると言うことなのでしょうか。もちろん、愛とは、心の感情であり思いです。ですから、神を愛するとは、まずは神を思う事から始まります。もちろん、神を思うと言うことは単に思うということではありません。神の事を考え神の喜ばれることは何かを思い考えることです。そして、それは神の言葉を聞くということに繋がるのです。だからこそ、神は旧約聖書において、イスラエルの民に語られるときに「聴け イスラエルよ」といわれるのです。神はイスラエルの民を選びの民として、神の救いの業をイスラエルの民を通して啓示なさいました。イスラエルの民の歴史は、神が人にかかわり、人の業を示した歴史です。そこには、神のイスラエルの民を愛する愛があり、私たちを愛する愛があります。そのようにイスラエルの民を愛するとき、神はイスラエルの民に「聴け イスラエルよ」と呼びかけられるのです。それは、イスラエルの民を愛される神の愛に応えて、イスラエルの民が神を愛するということは、神の語られる言葉にイスラエルの民が耳を傾けて聴くということから始まるのです。

そして、愛を持って耳を傾けるならば、その聴いたことに対して具体的な行動を持って応答していきます。愛すると言うことは、言葉や口先だけで愛するものではなく、具体的な行動となって現れるものだからです。愛している者のために、何かをしたい、何かをしよう。愛すると言うことは、そのような心の情動を産み出します。だからこそ、旧約聖書には様々な律法が記されているのだろうと思います。神の言葉として語られた律法に耳を傾け、それに聴き従おうとする姿勢の中に神を愛する愛が表わされるのです。ですから、神は単に律法を守り行うという表面的なことを見ておられるのではありません。それ以上に、神の言葉に耳を傾け聴こうとするイスラエルの民の姿、生き方の中に、イスラエルの民の神を愛する愛があるということを見抜いておられるのです。つまり、愛すると言うことは、相手の語る言葉に耳を傾けることから始まるのです。たとえばそれは、夫婦の間においても言えることです。相手の語る言葉にじっと耳を傾けるとき、相手の喜ぶことが何であり、愛にとって本当に必要なことが何であるかを知ることができるからです。ですから、私たちの心が神から離れず、神を深く愛するならば、私たちはまず神の言葉に耳を傾け、神が語ることを聴かなければなりません。そこから神を愛すると言うことが始まるのです。そして、神が語る言葉に耳を傾けて聴いたならば、自分は神のために何ができるかを考えることです。そのようなことひとつひとつが、私たちを神と深い愛で結び付けていくのです。

だからこそ、聖書は私たちにとって大切なものです。聖書は私たちの外側から、私たちに語りかける神の言葉だからです。また、礼拝の説教や信仰の養いのためになる書物も有益です。それらは、聖書の言葉を証しし、照らしてくれる導きの光だからです。そのように、神の言葉に耳傾ける事が大切だからこそ、神は教会に神の言葉としての聖書を託し、それを保ち、伝え続けてきたのです。それもこれも、私たちの心が決して神から離れることなく、神と固く結ばれるためです。神は、私たちを変わることのない愛で愛しておられるからこそ、私たちから愛されることを望んでおられるのです。そしてその愛は、言葉や口先だけで愛する愛ではなく、神の言葉を聴き、それを行う行動を伴う愛です。私たちは、そのような愛で神を愛し、神に固く結ばれたものとして歩んでいきたいと思います。

お祈りしましょう。