『ありのままの中にある恵み』
コリント人への第一の手紙 7章17−24節
2008/8/3 説教者 濱和弘
さて、先週、先々週とコリントの教会の中にあった行き過ぎた禁欲主義が、結婚生活に対して影響を与えてしまうような状況に対して、パウロが指導を与え、そのような行き過ぎた禁欲主義的傾向に修正を加えているということを学びました。そのような禁欲主義的傾向がキリスト教会に起ってくるのは、一つは人間の欲望というものは罪と非常に結びつきやすい傾向があるという、私たちの内的面的性質、罪人としての性質がそこにあると同時に、私たちは神の前に聖くありたいという宗教的動機がそこにあると言えます。特にコリントの教会がある、コリントという町は、非常に乱れた町で、神殿には一千人の巫女が、夜は神殿娼婦として働いていたともいわれます。ですから、コリント人のように振る舞うという意味のコリンティアゼスタイという言葉は、転じて放蕩堕落の生活をするという意味になったほどなのです。ですから。そのようなコリントの町の乱れた風紀は、何らかの形でコリントの教会にも影響を与えていただろうと思われます。実際、5章1節では、自分の父の妻、ですから自分の義理の母親と一緒に暮し不適切な関係に陥っている人のことについて言及していますので、そのような放縦的な生き方が教会の中にも入り込んでいたものと考えられます。だからこそ、そのような乱れた環境の中に置かれたコリントの教会の人たちの中に、聖なるものを求めて、非常にストイックな禁欲主義的傾向が起ってきたのもわかるような気がします。ですから、そのような禁欲主義的傾向に走った人たちは、ある意味で宗教的聖さを持ち、神に対する誠実さを持っていたと言えます。
ただ、彼らの過ちは、何か聖なる聖い状況をつくり出し、その状況に身を置くことで聖くなろうとしたことです。コリントの教会の状況に即していうならば、男女間の性的営みを絶つという状況に身を置くことで聖くなろうとしたということだといえます。しかし、聖いということは、聖い状況や聖なる空間に身を置くことではありません。聖い、あるいは聖くなるということは、私たちの心が神に支配され、私たちが神の言葉に聴き従い、神にむかって生きるときに全うされるものです。ですから、私たちは単に教会と空間に身を置くだけで聖くなるわけではありませんし、教会の交わりに加わっていることで、私たちは聖い生活を送っているということではないのです。もちろん、結果として、私たちの心を神に支配していただき、私たちが神の言葉に耳を傾け、神の言葉に聴き従い、神にむかって生きるならば、私たちは不品行や様々な不道徳なことから離れるという事になるだろうと思いますが、ただ不品行や不道徳なことから離れた状況に身を置きさえすれば、聖いということにはならないのです。むしろ、どのような状況に置かれていても、私たちは神の前に聖なるものとなることはできますし、そのような状況の中にも神の聖は築き上げることができるのです。だからこそパウロは、先ほどお読みただいた聖書の箇所において、「ただ、各自は、主から賜った分に応じ、また神に召されたままの状態に従って、歩むべきである」というのです。
この「ただ、各自は、主から賜った分に応じ、また神に召されたままの状態に従って、歩むべきである」と言う言葉は、おそらくは、その前の文脈にある結婚しているクリスチャン、その中でもとりわけ、 結婚後にクリスチャンとなったために伴侶がキリスト教の信仰を持っていない人たちを意識して語られた言葉であろうと思われます。つまり、自分がクリスチャンとして神に招かれたとき、すでに結婚していて、そのために伴侶がクリスチャンでないからといって、結婚関係を解消して聖くなろうとする必要はない。むしろ、あなたがクリスチャンとなったときに、すでに結婚していたならば、そのクリスチャンになった状況のままで、その中で神に従って行けばよいというのです。それは、聖さとは状況や場所ではなく、私たちの神に従う姿勢の中にあるからです。ですから、どんな状況の中にあっても、私たちが心から神に従って生きていこうとするならば、そこに聖い生き方があるのです。いやむしろ、神は私たちが置かれている状況に中で聖い生き方をするように望んでおられるとさえ考えることができます。それこそが、私たちが置かれた場でキリストを証し者(キリストの証人)として生きるということでもあるからです。
いずれにしても、聖さということは、状況や環境が与えるものではなく、私たちの神に向き合う姿勢の中で全うされるものなのです。ですから、独身であろうと、信者同士での婚姻関係にあろうと、また不信者の配偶者との結婚関係の中にあろうと、その状況と生活の中で、私たちは神の言葉に聴き従いながら生きることで聖い生き方をすることができるのです。それは、何も結婚生活と言うことだけに限ることではありません。私たちの一般の生活、また信仰生活、教会生活といったことを含む私たちの生き方全般に対して言えることです。だからこそ、パウロは、割礼の問題と、奴隷の問題を引き合いに出しているのだろうと思います。割礼の問題は信仰的・宗教的問題ですし、奴隷の問題は社会生活上の問題だからです。
そこで割礼の問題ですが、割礼とはイスラエルの民の中に生まれた男子に与えられる肉体上のしるしで、生後すぐに、男性性器の包皮を切り取るといったものです。しかし、ここでパウロが取り上げているのは、単にそのような肉体に割礼というしるしがあるかないかと言った問題ではありません。むしろ問題は、もっと深いところにあるキリスト教の信仰の根幹に関わるような問題であり、その背後には、初代教会にあったユダヤ主義的キリスト教と呼ばれる人たちが主張した教えにあると思われます。ユダヤ主義的キリスト教というのは、キリスト教もユダヤ教から出たものであるのだから、クリスチャンになるためには、まずユダヤ教に改宗し、改宗のイスラエル人となったのちに洗礼を受けてクリスチャンにならなければならないと主張した人たちです。つまり、イスラエル民族は神に選ばれた聖なる民であり、割礼はその聖なる民のしるしであるから、まず割礼を受けて、そのイスラエルの民に加わってからでなければ、イエス・キリスト様のもたらした救いに与れないというのです。もちろん、パウロはそのような考え方をしていませんでした。パウロにとって大切なのは、神の言葉に聴き従って生きると言うことであって、民族的に聖い民族や聖くない民族という区分けなどないのです。ですから、パウロは神を信じ、イエス・キリスト様を信じた者に、割礼のあるなしにかかわらず洗礼を授け教会の交わりに受け入れたのです。
ですから、民族的にイスラエル人ではない者、たとえば、私たち日本人であるならば日本人のままで、あるいは韓国人であるのならば、韓国人のままで神を信じ、神に受け入れられるのです。それはユダヤ主義的キリスト教が主張するところに対しては真っ向から反対するものでした。そのようなわけで、ユダヤ主義的キリスト教は、パウロにとっては悩みの種であったようで、それが顕著に表れているのがガラテヤ人への手紙です。ガラテヤの教会では、ユダヤ主義的キリスト教が入り込んできて、イエス・キリスト様を信じ、洗礼を受けるだけではダメだ。割礼を受け律法を守る事もしなければ救われないと言う主張をし、教会が動揺し、ユダヤ主義的キリスト教に傾きました。そのような時にパウロは、ガラテヤの教会に手紙を書き、「ああ愚かなガラテヤ人」といって、そのようなユダヤ主義的キリスト教は誤っているといって、ユダヤ主義的キリスト教を退けたのです。そのように、神は民族で人を区別したり、分け隔てをするお方ではないのです。
ですから、私たちは、どのような状況や環境の中にあっても聖なる民として召され、聖なる民となることができるのです。しかし、注意しなければ、このユダヤ主義的キリスト教は、さまざまな形に姿を変えて私たちの中に入り込んできます。たとえば、中世の教会においては、教会、あるいは修道院は聖なる世界であり、一般普通の生活は俗なる世界として区別しました。そして、その聖なる世界に入ることで、初めて自からも聖なる者となる歩みが求めることができたのです。ですから、俗なる世界に身を置く信徒は、聖なるものを求めるということなど考えもおよばない事でした。もちろん、神を信じる者の世界に聖と俗の区別などありません。たとえば、トレルチという学者が、こんな事を言っています。トレルチという学者は、近代の神学に置いては非常に大きな影響を与えた学者ですが、そのトレルチは、「宗教改革がもたらした貢献の一つは、この世を聖化したことである」というのです。トレルチのいう宗教改革がもたらしたこの世の聖化というのは、中世において聖なる仕事や聖なる生活は、聖職者の働きや生活であり、一般の仕事や社会生活は俗なるものとされていたのに対し、宗教改革においては、一般の仕事や生活も神から召されたものであるという、いわゆる天職(ベルーフと言いますが)ということを認められるようになったと言うことです。そして、その神から召された(callingである)その仕事を全うすることが神の御旨を全うすることであり、神の栄光を著わす事になるのだということなのです。つまり、仕事にも聖と俗の区別はなく、どのような仕事に就いていても、それが明らかに罪にかかわり、不道徳なことに関わる仕事でない限り、神から召された天職である限り、私たちはそこで神の聖をあらわし、聖いものとして生きていくことができるのです。
ですから、私たちは、クリスチャンになったからといって、必ずしもみんなが仕事をやめて牧師や宣教師になる必要もありませんし、修道院に入る必要もありません。よほど社会的に問題があり教会的に問題がある仕事でない限り、仕事を通して社会に貢献することで、私たちは神の栄光を顕し、聖いものとして生きていくことができるのです。そのように、私たちのすべての生活が等しく、特別な仕事というものはないのです。でも、そうは言いつつも、私たちは牧師とか宣教師と言った教職者を特別な存在として見がちです。また教職者も、自分が何か教会の中で特別な存在のように錯覚してしまうことがあります。特に、牧師には教会に対する特別な権威があるかのように思ってしまうことがないわけではありません。しかし、私がいつもみなさんに言っていますように、牧師は、この講壇から、神の言葉である聖書の言葉を解き明す説教においては、権威を持って語らなければなりませんし、その説教も神の言葉を説き明かすということに置いて、神の言葉としての権威をもちます。また、その聖書の言葉と、教会が歴史の中で告白してきた信仰告白を守るということに置いては確かに神の権威の下でその職務を果たします。しかし、それとて牧師という職務に与えられた権威があるというのではなく、神の言葉である聖書の言葉に権威があるのです。ですから、牧師も講壇を降りれば、皆さんと何ら変わらない神の民の一人に過ぎません。そして教会の集っている人が奉仕する奉仕のすべてが、神の前に等しく尊い仕事であり、特別な職位など教会の中にはないのです。
そんなわけで、先日もT姉妹の家庭集会でお話ししたのですが、「もし私が、『私は牧師なのだから、私の言うことは神の言葉を代弁しているのだから、私の言うことに教会は聴き従わなければならない』とか『牧師は権威があるのだから、教会は牧師の権威のもとに従わなければならない』とか言い出したら、その時は、役員会で牧師を変える相談をしなければなりませんよ」といったお話しをしました。それは、半分冗談のようにしてお話ししましたが、話した内容は本気です。もし私自身が、自分は教会の中で特別な人間であり、特別な権威を持っているなどと考え始めたならば、それは、教会の本来のあるべき姿に対してとても危険な状態にあるのなのです。実際、まじめに、牧師が「私には神から権威が与えられているのだから私の言うことを聴かなければならない」とか、説教で神の言葉を解き明すのではなく自分の考えを主張するようになったら、その時は、教会は真剣に牧師を代えることを考えなければなりません。もし仮に私がそのようになり始めたとしたならば、まず何よりも注意をしていただきたいと思いますし、その忠告を聞きいれないようになっていたら、自分のことですが、その時は、役員会や教会で私の去就を考えなければならないと思うのです。もちろん、牧師とはそりが合わないからとか、説教が自分の好みに合わないからとか、あるいは伝道の成果が上がっていないなどと言う理由で教会が、牧師の去就を考えるとするならば、それは問題だと思いますが、しかし牧師が特別で絶対的権威を持っているとか、神の代理者などと言い出したなら、その時は、考えなければなりません。それは、教会にとって決して好ましい状況ではないのです。
いずれにしても、どのような働きや職業であっても、そこにおいて、私たちは等しく、聖なるものとして神の前に生きていくことができるのです。だから、私たちは、なにか特別な存在になろうとする必要はありません。私たちが召された状況・状態のままで、神の栄光を表わし、聖なる生活を送ることができるのです。その一つの形として、パウロは奴隷について語っています。もちろん、誤解を招かないために申し上げますが、パウロは奴隷制度を肯定しているとか支持していると言ったわけではありません。確かにパウロは奴隷反対運動のような社会的活動をしたわけではありませんし、奴隷の身分にある人に、そのままの状態でいなさいといったことをいっています。しかし、それは、社会構造の中でのことであって、神の民の交わりである教会の中では、奴隷も自由人も帰属もなく、平等な世界が築き上げられていたのです。そして、奴隷制度といったものがよいとは考えていませんでした。だから、もし自由の身になりうるのならば、自由になりなさい」というのです。それは、状況が自由の身になることを許さないならば、あえて抗ってまで自由のみになろうとはせず、奴隷としてとどまり、逆に、状況が許すならば、あえて奴隷の身分にとどまることをしないで自由のみになりなさいということです。いずれにしても、パウロが奴隷の身分に置かれている人に、あえて抗ってでも自由の身になろうとせず、そこにとどまりなさいと言えるのは、たとえ奴隷の身分でも、神の言葉に聴き従い生きる自由が与えられているからだというのです。
ある注解者(山中雄一郎)は、このようにパウロが奴隷という身分について言及しているのは、奴隷の人たちが「イエス・キリストという主人を得たのだから、人間の主人をもつことができない」と考える必要はないということをいっているのだと捉えていましたが、確かにそう言うこともあったと思われます。たとえ奴隷として人間の主人に仕えながらも、実際は神にあって罪とその裁きである死から自由にされているのです。ですから、たとえ奴隷の立場のままであっても霊的には人に支配されているのではなく、むしろ神に喜ばれ受け入れられているのです。そして、確かに、奴隷という厳しい状況にあったとしても、神はその奴隷の身分のままのものを受け入れて下さり、霊的な自由を与えて下さるのです。しかし、だからといって、神が奴隷制度自体を受け入れているわけではありません。ですから、自由人が奴隷になってはならないと言うのです。それは自由人としてクリスチャンになったものは、自由人として果たせる神の栄光があるからであり、また自由人であるのが人間の本来の姿だからでしょう。というのも、パウロは、自由人は、イエス・キリスト様の十字架の死という代価によって買い取られたキリストの奴隷なのだといっているからです。この世にあって自由人は、奴隷とは違う自由を行使できます。だからこそ、いっそうキリストの奴隷として、この世の主人に縛られる事ない自由を行使して神に仕えることで、神の栄光を表わし、神の聖を生きなければならないのです。それは、誰にも人に縛られることのない自由をえているからこそ、キリストに仕えるキリストの奴隷としての生きるところに、本当の聖い生き方があるからです。
この自由ということが、最も謳歌されている時代が、今の私たちの国の状況なのかもしれません。しかし、私たちが一般に謳歌している自由は、自分のために用いる自由であっても、キリストのそれ意図して生きるために用いられる自由ではありません。そして、そのような自由は、むしろ罪やこの世に支配された、罪の奴隷、この世の支配者によって奴隷にされている状況なのです。それは、せっかく、自由を与えられているのに、奴隷になってしまっている姿だと言えます。そういった意味では、パウロの「あなたがたは、代価を払って買い取られたのだ。人の奴隷となってはいけない。」という言葉は、私たちに対する警鐘なのかもしれません。いずれに致しましても、私たちはありのままの姿で神にされ、救いという恵みを与えられたのですから、何か特別な存在にならなければ神に喜ばれないといった考え方をするのではなく、私たち一人一人が置かれた状況・状態の中で、神を崇め、神を信じ、神の言葉に耳を傾けて従っていくことが大切です。そのように、歩んでいくならば、神はありのままの私たちに、豊かな恵みを与えて下さいます。そしてその恵みが、私たちを新しい状況へと導いて下さるのです。
愛する兄弟姉妹のみなさん。私たちが状況を変えるから神の恵みが与えられるのではありません。神の恵みが与えられるからこそ、私たちの状況や環境が変わるのです。そして、その神の恵みは、私たちが、置かれている状況の中で、私たちがキリストの奴隷として、イエス・キリスト様に私たちの心を支配していただき、神の言葉に耳を傾け、神に従って生きていく中で、与えられていくものなのです。ですから、私たちは、自分の置かれている状況の中で、精一杯神にお従いしていきたいと思います。そうすることが、神の前に聖いものとしていきるということでもあるのです。
お祈りしましょう。