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メッセージ

羊飼い 『自らの意思で』
コリント人への第一の手紙 7章25−40節
2008/8/10 説教者 濱和弘

私どもは、一昨日までお休みをいただきまして、私と家内のそれぞれの実家がある大阪に行って参りました。大阪に参りますと、私は必ずと言っていいほど、古本を探しに行きます。本当は神戸にキリスト教専門の古本屋がありますので、そちらに行きたいのですが、そこまではなかなか時間もとれず行くことはできないのでいるのですが、それでも、大阪市内にも、キリスト教関係や哲学関係の古本を扱っているところがありますので、そちらに出物がないかと見に行くのです。そういったわけで、今回の「何かあればいいな」と思い出かけていったのですが、今回は8冊ばかり買い込んできました。その中で、一番の収穫は「ルター著作集第1集第7巻」でした。ともうしますのも、この本には、ルターの「奴隷意志論」という論文が収められているからです。この奴隷意志論というのは、私が、修養生(神学生)以来テーマとしているとしている人間の自由意志の問題に真っ向から反対しているものでが、この本が出版された1525年当時は、エラスムスという人が書いた「評論・自由意志」という文書に対する反論として書かれたものです。

エラスムスという人は、人間は神の前に良いことを選択する自由もあれば、悪いこともする選択する自由もあるのだというのですが、それに対してルターは、この「奴隷意志論」において、「自由意志とはただ名目上のものであって、人間には自由意志がない。人間は、良いことをすることも、悪いことをすることもできる自由な意志の選択などない。人間は、神の前に悪いことしかできないのだ」というのです。ですから、ルターの考え方によれば、みなさんも神の前では、何も良いことはできず、悪いことしか出来ないということになります。もっとも、ルターの場合。神を信じ救われたものは、イエス・キリスト様に従う自由があり、そのイエス・キリスト様に従うと言うことで、神の前に良いことを行うことができるというのですが、しかし、ルターによれば、皆さんが救われてクリスチャンになる前に行っていたことは、全部、神の前には悪いことなのだというのです。

このように、ルターは、人間は良いことも悪いことも選択する自由もあるという、人間の自由を認めるエラスムスと真っ向からぶつかり合うのですが、ルターとエラスムスの衝突はこれだけではありませんでした。エラスムスとルターは、聖書には信仰に関わるすべての事柄が明瞭に書かれているか否かと言った問題でも衝突するのです。その衝突において、ルターは、「聖書には信仰に関わるすべての事柄が明瞭に示されている」と主張し、エラスムスは「いや、聖書には信仰に関係するものでも、必ずしも明瞭に書かれているわけではなく、聖書を解釈することによって理解されることもあるし、解釈を通して理解しなければならないものもある。」というのです。聖書には、信仰に関わるすべての事柄が明瞭に書かれているか、それとも、聖書は、必ずしもすべてについて明瞭に語っているわけではなく、信仰に関わる事柄でも、ある事柄については解釈を通して理解されものがあると考えるか。さて、みなさんなら、どうお考えになるでしょうか。いったい、ルターとエラスムスとどちらが正しいと思われるでしょうか。

たとえば、こういうことがありました。それは、私が大学生のことですが、当時、この教会に修養生(神学生)として派遣されてきていたのはN修養生でした。そのN修養生から私は、「クリスチャンの男性は、クリスチャンの女性を伴侶として選ぶべきである。」いえ「選ばなければならない」といわれたのです。つまり、選択の余地などないのです。しかし、その当時は、私のクリスチャンの友人たちの中にはそのような雰囲気があり、かくゆう私も、そのように考えていました。そして、そのような考え方の根拠として一様にコリント人への第2の手紙6章15節の御言葉、「不信者とつり合わないくびきを共にするな」という御言葉をあげていたのです。しかし、よくよく考えてみますと、このコリント人への第2の手紙の6章15節は、必ずしも結婚に関する事が述べられている場所だとは言い切れません。いや、むしろ結婚に関して述べられているのではなく、神の前に聖く生きていくことの大切さが述べられている文脈の中で、この世の価値観や考え方に歩調を合わせてはならないといった内容だと思われる箇所です。それを、無理矢理結婚に関わる事に結び付けて考えたのは、そこに「くびき」という言葉が使われていたからでしょう。というのも、「くびき」というのは、2頭の牛を一つに結び合わせる道具だからです。この2頭を一つに結び合わせる農具をたとえとして用い「不信者とつり合わぬくびきを共にするな」と言われていることから、「クリスチャンの男性は、クリスチャンの女性を伴侶として選ぶべきである」といった考えになったのだろうと思います。しかし、当時は、そのコリント人への第2の手紙6章15節は「クリスチャンの男性は、クリスチャンの女性を伴侶として選ぶべきである」と、明瞭に述べていると思っていたのですが、実は必ずしもそうではなかったのです。

そもそも、誰と、またどのような人と結婚するかといったことについて、聖書は具体的に述べているわけではありません。そのようなことは、それぞれが、祈りを持って神の前に立ち、信仰をもって受け止めていくべき問題です。そのように一人一人が信仰により、信仰に立って決断していった結婚であるならば、たとえ相手がクリスチャンの人でなかったとしても、本当に幸せで、祝福された家庭が築かれ、神の祝福と恵みが家庭の中に広がっているという実例が、私たちの教会の中には何組もあり、私たちもそれを見させているではないですか。もちろん、クリスチャン同士の結婚の中にも、そのような祝福と恵みが当然見ることができます。ですから、私たちは具体的な生活に関わることについて、単純に物事を一括りにまとめて言い切ってしまうことはできないのです。そして、おそらくは、そのようなわけで、今日の聖書の箇所で、パウロが「おとめのことについては、わたしは主の命令を受けてはいないが、主のあわれみにより信任を受けている者として意見を述べよう」といっているのだろうと思います。つまり、パウロは、「これからわたしが述べることは絶対ではない。なぜなら、それは主の明瞭な命令ではないからだ。けれども、主から信任を受けた神の働き手としての意見として、十分あなたの参考になるだろう。だから、それを参考にして、一人一人が祈りと信仰をもって神の前に立ち、それぞれの信仰の決断をして欲しい。そして、そうやって決断された信仰の決断は受け入れられる」と言っているのです。しかも、このパウロの言葉は、26節に「現在迫っている危機のゆえに、人は現状にとどまっているがよい。」という特別な状況の下にあると思われる人に対して述べられた言葉です。ですからそれは、ある特定の条件のもとにあると考えられる人が、「どうすべきか」ということを相談して来た際になされたパウロのアドバイスなのです。そして、それはアドバイスなのですから、最終的に、そのアドバイスを参考にしつつも、一人一人が主体性を持って決断していかなければなりません。そのためには、おのおのが、主体性を持った信仰を養っていかなければならないのです。

そこで、パウロが今日の聖書の箇所で、どのような人に、そのような状況の下で、どのような判断基準で主体的な信仰の決断をするように導いているかというと、それは概ね次のようなものになると言えるだろうと思います。すなわち、ここでパウロは「おとめのことについては、わたしは主の命令を受けていないが、主のあわれみにより信仰を受けている者として意見を述べよう」といっていますから、どのような人にアドバイスをしているかというと、「おとめ」のことについて悩んでいる人に対してであると言えるでしょう。この「おとめ」というのは、単に未婚の女性を際しているわけではないようです。というのも、パウロは34節で「未婚の婦人とおとめとは」というように、未婚の女性とおとめとを、明確に区別していっているからです。ですから、「おとめ」というのは、単に未婚の女性のことではなく、特別な人のことを指していたと考えられます。その特別な存在であった「おとめ」がどのような存在であったかについては、諸説があるところですが、その中の一つに、「おとめ」とは婚約中の女性を指しているのではないかという解釈があります。私は、どうやらこの解釈が一番いいように思うのですが、だとするとパウロは、婚約中の女性は結婚しないで現状のままでいなさいと言うのです。もちろん、それはただ婚約中の女性に限ったことではありません。「もし妻に結ばれているなら、解こうとするな。妻に結ばれていないなら、妻を迎えようとするな」というのですから、すべての人が「現状にとどまるがよい」とパウロは考えているのです。

このパウロがいう「現状にとどまるがよい」という現状は、単に婚姻関係や婚約関係を指すだけではありません。29節に「兄弟たちよ。わたしの言うことを聞いてほしい。時は縮まっている。今からは妻あるものは、妻のないもののように、泣くものは泣かないもののように、買うものは持たないもののように、世の交渉のあるものは、それに深入りしないようにすべきである。なぜならこの世の有様は過ぎ去るからである。」と述べられているからです。この言葉は、すべてのことについて現状にとどまっていることを奨めていると考えられます。というのも、私たちの「この世の有様」つまり、目で見、手で触れ、感覚で捉えられるものは、すべて過ぎ去っていくものであって、永遠に存在しないからです。どんなに新しいものを手に入れ、新しい人間関係を求めていっても、そこには永遠のものは存在せず、絶対なものは存在しません。そう言ったものは移りゆくものなのです。ですから、そのような移りゆく「この世のある様」のために、嘆き悲しんだり、それを手に入れることに心を奪われて右往左往せずに、今ある、現在のままで満足し、神に仕え、神のことに心を配って生きていくことを大切にしなさいとパウロは言うのです。なぜなら、神との関係、神と人との間にある信仰の事柄は永遠の事柄だからです。だからこそ、パウロは、「この世の有様」に属することは「現状のままでいるが良い」といい、神の事柄に心を向けるようにと奨めるのです。そして、パウロがそのように奨めるのは、「現在迫っている危機」があると感じているからです。

このパウロが感じていた「現在迫っている危機」とは、29節に「兄弟たちよ、わたしの言うことを聞いてほしい。時は縮まっている」とありますし、31節には「この世の有様は過ぎ去っていく」とありかすから、おそらくは、この世の終り、主イエス・キリスト様が天からふたたびこられる再臨の時、終末の出来事をさしていると考えて、まず間違いはないでしょう。実際、使徒たちの時代の教会(これを原始教会と呼びますが)は、十字架につけられ死に、復活して天に昇られた主イエス・キリストがふたたびこられて、この世をお裁きになるときは、そう遠くはなく、自分たちが生きている内にそれが起ると考えていた節があります。そのような使徒たちの時代にあった、「主イエス・キリスト様がふたたびこられる再臨の日は近い、この世の終りは近い」という切迫した終末観の中で、パウロは、クリスチャンは、この世のことに心を奪われるのではなく、神のこと、信仰のことに心を向けるべきであるとパウロは考えていたのだろうと思われるのです。しかし、実際にはこの世の終りがいつくるかについては、良くわかりません。それこそ、あしたそのことが始まってもおかしくはありませんし、もっとずっと先のことかも知れないのです。第一、聖書自体がそのことを明瞭に語っているわけではありません。

先ほど、エラスムスという人は、聖書の中には信仰に関わるすべてのことが明瞭に書かれているわけではないと考えていたと申しました。そのエラスムスが、聖書にすべてが明瞭に書かれているわけではない顕著な例として、この「この世の終り」といったことや死の日といったことをあげているのです。たしかに、聖書の使徒行伝の1章7節において、復活したイエス・キリスト様に、弟子たちが「イスラエルのために、国を復興して下さる日はいつですが」とたずねる弟子たちに、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない」と、イエス・キリスト様はお答えになったここが書かれています。弟子たちが、「イスラエルのために国を復興して下さる日」というのは、救いの時であり、終末の出来事です。そのような終末の出来事が「いつ起り、いつ来るかはわからないのだ」とイエス・キリスト様はいうのです。同じ事は、マルコによる福音書13章32節でも言われています。そこにはこう言われています。「その日、その時は誰も知らない。天にいる御使いたちも、また子も知らない。ただ父だけが知っておられる」。これは、この世が滅びるときは必ず来るが、それがいつになるのかについては、父なる神以外は誰も知らないと言うことです。このように、聖書の中には信仰に関する事柄であっても、不明瞭な部分があるとエラスムスは言うのですが、それは、このような知られざることは知られざることして、あがめることで、より一層敬虔な生き方に繋がるからだというのです。そして、そのように、終りの日がいつくるかわからないからこそ、人は、敬虔な思いを持って、神の前に恐れをもって生きて行くものになるのだというのです。

そういえば、このようなことがありました。もう何十年の前の話ですが、クリスチャンになりたての私は、友人を神に導きたくて教会のこと聖書のこと、信仰のことを話し伝道したことがあるのです。私たちの罪のこと、その罪を裁かれる神の裁きのこと、そしてイエス・キリスト様の救いという、いわゆる罪・神・救いを伝えたのです。そして、「おまえもクリスチャンにならないか」と奨めました。その時、私の友人は「濱、おまえの言うことはわかった。おれも神の裁きにあって地獄には行くのではなく、天国に行きたい。だがな濱、もうすこしやりたい事があるから、俺が死ぬ前に、もう一度伝道してくれ。」というのです。おそらくは、だれでも地獄ではなく天国に行きたいという気持ちは同じだろうと思います。そして、彼のように、できれば、この世の中でもう少し自由気ままに楽しくやって、その上で地獄ではなく天国に行きたいと考える人もあるのだろうと思います。だから、最後の最後の時に神を信じ、イエス・キリスト様を信じてクリスチャンになるから、死ぬ前にもう一度来てくれというのです。今、正直に申しますが、私の友人の言葉は確かに「むしのいい話」ではありますが、私はそれでも、彼がたとえ最後の最後であっても、神を信じ、自分の罪を認め。イエス・キリスト様がその自分の罪の救い主であると信じて救われるならば、それでも良いと思っています。けれども私には、彼の最後の最後がいつ、どのようにして訪れるかわからないのです。そういった意味では、私たちにとって、今と言うときが大切です。神を信じ、イエス・キリスト様を信じると言うことは、今という一瞬一瞬の積み重ねを生きることが大切なのです。

そういった意味では、確かにエラスムスが言ったように、神があえて、私たちの死ぬ日やこの世の終りの時を明らかにされなかったのは、終末という出来事の前に、私たちが絶えず緊張感を持って、神を敬い、畏れかしこみながら敬虔な生涯をおくらせるためであると言っても良いだろうと思います。同様に、パウロもまた、日々切迫して終末観の中で生きていました。イエス・キリスト様がふたたびこの世にこられ、罪人を裁き、神を信じ、イエス・キリスト様を信じるものを救われるという終末の出来事を意識して生きていたのです。そして、まさにそれが明日起るか知れないと言う緊張感の中にあったと言えます。だからこそ、移りゆくこの世のことに気を奪われないで、神を見上げ、神に心を配り、神に仕える事に心を向けて生きなさいというのです。また、そのような切迫した終末意識に基づく緊張感の中にありましたから、仮に結婚するならば苦難を受けるだろうともいうのです。ともうしますのも、このような「この世の最後の時」、終末の時には、苦難があり、迫害があるからです。そして、そのような苦難や迫害の中で、自分のことだけではなく、家族への愛や配慮が、心に葛藤を覚え、心に苦しみを感じることも少なくはないのです。実際、私たちは、自分のことであるならば、多少の苦しみや苦痛といったものは我慢できるものですが、自分の愛する家族の苦しみや苦痛といったものは、自分自身の苦しみ以上に辛く感じられるものではないかと思うのですが、どうでしょうか。そのようなものではないでしょうか。私たち人間は、そのような存在だからこそ、明日、そのこの世の終りの前にある患難の時が始まるかもしれない今と言うときに、また、そのような患難を思わせる迫害の足音が忍び寄っていると感じられるような今の時に、パウロは「おとめが結婚しても罪を犯すのではない。ただそれらの人々は、そのみに苦難を受けるだろう」というのです。そのように、今日の聖書の箇所で語られているこれらパウロの言葉は、切迫した終末意識のなかで語られた言葉なのです。

もちろん、このような、この世が終りを迎え、滅び、その後に新しい神の国が来るといった終末意識には個人差があります。もう明日にも来ると言った緊張感を持って生きている人も入れは、もっとずっと先の出来事で、自分の生きている間には来ないだろうと思って生きている人もいる。ですから、何でもかんでも、パウロのようにスパッと断ち切って生きていけるかというと、必ずしもそう言うわけには行かないのです。みんながみんなパウロではありませんし、パウロのように生きられるわけではありません。また、いかにパウロといえども、自分自身が強い終末的意識を持っていようと、それを絶対的なものと言い切ることはできないのです。だからこそ、パウロは自分の考えについて語るとき、それは「意見を述べる」事に過ぎず、主の命令ではないというのです。そして、婚約中の女性は結婚せず、「現状にとどまるがよい」といいつつ、その考えを絶対的なものとはしてはいません。むしろ、36節において「もし、ある人が、相手のおとめに対して情熱を抱くようになった場合、それは適当ではないと思いつつ、やむを得なければ望みどおりにして良い」と言うのですし、また、39節以降で未亡人の結婚についても認めているのです。このように、パウロは、自分では「これがよい」と思う信仰のあり方や生き方というものを持っているのですが、しかし、それを絶対視して人の強要するようなことはしていません。ただ自分が考えていると思うことの良い点(今日の聖書箇所の文脈では、結婚しなければ神のことにいっそう専念できるという利点)を述べて奨めるだけで、一人一人の主体的信仰の決断に委ねているのです。

愛する兄弟姉妹の皆さん。聖書は実に細かいところまで、きめ細やかに私たちを教え導いて下さる書物であります。しかし、反面で、何から何まで細かいところまで決定し、決めてしまって、それを私たちに要求しているわけでもありません。むしろ、どの時代のどの地域、文化の中にある人も、神を第一とし、神の言葉に耳を傾けながら、主体的決断をしていくことを求めています。そのために、あえて、聖書には明瞭に書かれていない部分もあるのです。そういった意味では、神は私達に奴隷的な信仰を求めているのではなく、自由な意志による主体性に基づく従順な信仰を求めておられるのです。だからこそ、私たちは、神の前に心していきなければなりません。神を見上げ、神に前にいかに生きるかをたずね求めながら生きなければならないのです。そのためには、神の心に従って生きようとする敬虔な思いと、神のお心を尋ね求め敬虔な探求心と、神に祈りながら、聖書の言葉が私たちに語りかけて下さる事を聞き取ろうとする敬虔な態度を養わなければなりません。

神は、私たち一人一人に具体的な計画をもっておられ、私たち一人一人に、私たち教会の中で具体的な役割を与えておられます。積極的に伝道するもの、熱心に祈るもの、豊かに捧げるもの、静かに神の言葉に耳を傾けるもの、忠実に教会の事務にあたるもの、賛美を支えるもの、奏楽をするもの、この教会に集う皆さんお一人お一人は、そのような神のご計画のもとで、ここに集められているのです。それは、誰かから命じられたからやるとか、誰かに言われてしていると言ったことではありません。もちろん、周りの人の言葉は、様々なことにおいて、それが良いアドバイスとして参考になるでしょう。けれども、何事においても、最後の最後の所では、皆さんお一人お一人が、神の前に立ち、祈り、主体的決断の中で、いかに生きるかを神から受け取らなければなりません。そして、自らの自由な意志に基づく主体的な決断によって、信仰に生き教会生活を送っていかなければならないのです。

パウロも、この「おとめ」の問題を通し、コリントの教会の人々にアドバイスを与えていますが、命令を与えてはいません。そうやって、コリントの教会の人々の主体的信仰の決断に委ねているのです。同じように、私たちにも、主体性のある信仰が求められています。それは神が私たち一人一人を自由な自由人として神に従うことを求めておられるということなのです。だからこそ、私たちは、こころから神の御心を求め、神の御心に従って生きる敬虔なものになりたいと思います。そして、そのために、祈り、聖書の御言葉を読み、聖書の御言葉が語りかけてくる言葉を正しく聞き取るものでありたいと思います。正しく聞き取るためには、聖書とキリスト教の信仰を正しく知る事も大切です。ですから、聖書を学び、キリスト教の信仰について学ぶと言った側面も軽んじてはなりません。しかし、そう言ったものは、私たちが主体的に神に従うという従順な信仰に私たちを至らせるためのものなのです。そのことを心にとめながら、私たちは私たちの自由な心、自由な意志を持って、神に従うものとならせていただきたいと思います。

お祈りしましょう。