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メッセージ

羊飼い 『原則は愛』
コリント人への第一の手紙 8章1−13節
2008/8/17 説教者 濱和弘

私たちは、いまコリントの第一の手紙から学び、また神が私たちに語りかけておられる言葉を聞き取ろうとしていますが、今日から、その8章に入って参ります。そのコリント人への第一の手紙第8章は、偶像に捧げられた肉の問題です。おそらくは、偶像に捧げられた肉を食べても良いか食べない方がよいのかと言うことについて、コリントの教会の中で意見が相別れて、論争があったのではないかと思われます。おそらく、パウロに、コリントの教会の人々の間に争いがあり、分裂の危機にあると伝えてきたクロエの家の者(Tコリント1:12参照)が、その争いとなっている内容の一つとして、偶像に捧げられた肉を食べても良いのか悪いのかという論争があることをあげ、それに対するパウロに対して意見を求めたもの問い合わせてきたものと思われます。

そこでパウロは、その問題についてここでパウロの見解を述べているわけですが、このような問題は、以外と私たちにとって極めて身近な問題です。たとえば、先週はお盆でした。お盆というのは仏教的行事ですが、このお盆のお供え物に落雁という砂糖菓子があります。実は、わたしはこの落雁が大好きで、それこそ京菓子のような上品な落雁も好きなのですが、とりわけお盆の時期に出てくるあの、くだものを型取った落雁が大好きなのです。そして。このお盆の時期に出てくる落雁は、お供え物としてお盆の期間中仏壇に供えられものです。今は、こうしてクリスチャンになり、牧師となっていますから、私の家に仏壇もなく、お盆にお供え物をすると言うことはありませんが、しかし、子供のころは、お盆が終わって備えられた落雁が仏壇から降ろされてくるのが本当に楽しみでした。これこそ、まさにこのコリント人への第一手紙の8章で取り上げているような内容だと言えます。もちろん、聖書は、お盆の落雁を問題としているわけではなく、様々な文化や生活様式の中で、われわれクリスチャンはどう判断し、どうその問題に取り組んでいくかと言うことにあります。これは、2000年前のパレスチナ地方からスタートしたキリスト教が世界に広がっていく中で背負わなければならない課題なのです。世界中の様々な国や民族は、それぞれの文化や思想、そしてそれに基づくそれぞれの習慣をもっています。そのなかには、宗教や民間信仰といったものも含まれています。そのような中にキリスト教が伝えられていくとき、一体私たちはどのようにはすればいいのか。また、そのような異なる文化や習慣の中で生きていたものがクリスチャンとなったとき、その文化の中でどのようにして生きていけばいいのかと言ったことは、まさに目の前にある課題なのです。

それが、コリントの教会の場合は、偶像に備えられた肉を食べるかどうかと言う問いになって表れたわけです。そのようなことを、私たち日本という国を舞台にして考えますと、それこそ、お盆の落雁なんてものだけではなく、冠婚葬祭のさまざまな場面で、仏教や神道に基づく儀式がある日本という国にいる私たちは、それこそ、様々な場面でどう振る舞うかとまどうようなことが多くあるのです。そして、そのような問題に対処する方法は幾つかあります。ひとつは、それは偶像礼拝につながるといって、一切排除するパターンです。たとえば、日本にキリスト教が伝えられたとき、多くの宣教師たちは、このような方法をとり、日本的な習慣や文化から離れることを求めることが少なくありませんでした。たとえば、お葬式の時のお焼香など厳しく禁じる宣教師も少なくはなかったのです。あるいは、その全く逆のパターンもあります。それは、その国や民族の伝統を取り込みながらキリスト教化するといった試みです。たとえば、幼児祝福式や婚約式、あるいは葬儀の際の前夜式や献花といったものは、おそらく七五三や結納、そしてお通夜やお焼香といったものを、キリスト教化して取り入れていったものだと言えます。このような他の文化や伝統を取り込みながらその国に適応したキリスト教文化を築き上げることをインカルチャーやコンテクスチャライゼーションなどと言ったりしますが、これは、キリスト教が日本宗教と混合してしまった混合宗教(シンクレティズム)になったということではありません。

たとえば、七五三であるならば、子供の幸せを願う親の気持ちは悪いことではありませんし、むしろ良いことだといえます。ですから、そのような親の気持ちをキリスト教の信仰の中で表現しながら大切にしていくというのがインカルチャーといったことなのです。しかし、たとえ教会が、日本の文化や伝統にあるものをインカルチャーしたものを用意したとしても、わたしたちが異なる宗教、あるいは異なる宗教に起源をもつ文化や習慣に接することは、生活いろいろな場面で必ずと言っていいほどあるものです。たとえば親族の結婚式に招かれたり、家族や親戚のお葬式や法事と言ったことなどが、必ずと言っていいほどあるだろとおもいます。そして、そのような場面でくわす状況は、家族構成や地域性といったことで様々に違って来ます。ですから、そのような、多種多様なさまざまな場面でどうするかは、一人一人が主体的な信仰をもって、決断しなければなりませんし、個人の信仰の決断に委ねられていることなのです。もちろん、だからといって無軌道に自分自身で好き勝手に判断し、決断して良いというわけではありません。そこには、何らかの判断の基準となるべきものがあるはずです。その判断基準というものを、私たちは、今日の聖書の箇所にある偶像に備えられた肉を食べるべきか否かと言う問題に対して、パウロが述べた言葉の中に見ることができますが、それは、概ね二つにまとめられるだろうと思います。

一つは、判断における自由の問題です。パウロは、その自由の問題を何が偶像であるかと言うことを通して示しています。たとえば。キリスト教の信仰と民族の文化や伝統との問題が取り上げられるとき、その背景にあるのは偶像礼拝の問題ですが、それは神以外のものを神と崇め、行動に基準とすると言う問題です。けれども、私たちは、そのような偶像から解放され自由にされているとパウロは言うのです。そして、むしろ本当に問題は、民族の文化や伝統の中にある偶像ではなく、自分自身にあることを示しています。つまり、自分の知識や知性が偶像になっていないかを問うのです。そして、そのように、自分の知識や知性が偶像になるときに、私たちの自由な判断がもたらす結果に、好ましくない結果をもたらすとさえパウロは言っているのです。そして、判断の二番目の基準。それは、愛が基準であると言うことです。この判断の基準としての愛は、神に対する愛であり、隣人に対する愛だといえます。私たちクリスチャンが様々な判断や決断を下すとき、私たちは、自由に判断できますが、その自由を、自分のために用いるのではなく、神に対する愛と隣人に対する愛という動機によって用いて判断し、行動することが大切なのだと言うのです。

そこで、第一のことですが、パウロは、この偶像に捧げた肉を食べて良いかどうかの問題について話し始める前に、パウロは「偶像への供え物について考えると、『わたしたちはみな知識を持っている。』ことは、わかっている。しかし、知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める」と言っています。パウロは「偶像への供え物について考えると、『わたしたちはみな知識を持っている。』ことは、わかっている」といっているのですから、おそらく、コリントの教会の多くの人たちの中には、「偶像に供えたものを食べて良いかどうか」に関して、私たちはどうすべきかについて「知識をもっている」と主張する人たちがいたものと思われます。そしてその人たちは、偶像に供えた肉を食べても、なんら差し支えないと言っていたのです。その偶像に供えた肉を食べてもかまわないと主張する根拠は、「偶像なるものは実際は、世に存在しないこと、また唯一の神のほかには神がないことを知っている。」と言うことです。つまり、神は聖書の神以外は存在しないのだから、そもそも偶像と言った神自体が存在しないものなので、その存在しないものに供えられたもの、この場合は肉ですが、その肉もただの肉であって、特別なものではないので食べて良いというのです。パウロは、この主張を否定しません。神は聖書に示された三位一体の神のみですので、「多くの神、多くの主があるようではあるが、私たちには父なる唯一の神のみがいますのであり、万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する。また、唯一の主イエス・キリストのみがいますのである。万物はこの主により、わたしたちも主によっている」とパウロはいうのです。

ですから、神がこの世界にとって唯一の存在であるということをちゃんと知り理解しているならば、クリスチャンにとって他のどんな宗教的行為も、宗教的に何らの影響を受けることもなければ、意味もないことなので、それをあえてしてはならないなどといって禁じる必要などないというわけです。たしかにそれは間違ってはいません。ですから、パウロはあえてその考え方自体は否定しないのですが、しかし、知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高めると言って「私たちには知識がある」と言ってたしなめるのです。確かに、この「わたしたちに知識がある」と言っている人たちの主張していることは、間違っていないのかも知れません。しかし、たとえ自分たちが正しいとしても、それで自分たちと主張の違う人、ましてやそれが同じクリスチャン同士である兄弟姉妹を裁いているとするならば、それは知識が、人を誇らせていることになるのです。第一、確かに「神は唯一であるので、他に神など存在しないのであるから、偶像の神という存在など初めから存在しない」ということは正しいことですが、だからといって、その知識を持って他の人を裁いたり、「あの人たちは知識がない」裁くとするならば、むしろそのことの方が大きな問題です。なぜならば、自分たちがさばいているその相手は、神が愛しておられてからです。結局、神が、私たちを愛して下さる基準は、私たちがいかに神を知っているかではなく、いかに神を愛しているかということにあるのです。なのに、自分たちの持っている知識で人を裁くとするならば、それは決して神の喜ばれることではないのです。

そもそも、その知識にしても、私たちが神を完全に知りきるとこなどできないのです。以前もお話ししましたが、人間は知性をもって神の子を知ることができると考えている時代がありました。中世のカトリック教会に見られたスコラ神学というものです。このスコラ神学では、アリストテレスの哲学を用い、三段論法を展開することで人間は神についての知識を得ることが出来ると考えていました。けれども、そのように考えていた中世という時代にあっても、一部の人たちの中には、「神はわれわれの知性で知ることはできない。祈りや深い宗教的経験を通してのみ神を知ることができる」と主張する人たちがいました。そのような人たちを神秘主義と呼んだりするのですが、その神秘主義の人たちは、私たちが神を知ることができるのは、知識ではなく、神との交わりを通して神を知ることができると言うのです。たしかに、神は私達の知性や知識で完全に知ることなどできないお方ですし、第一、神の愛を知ると言うことは、知識でわかることではありません。なぜなら、愛は頭で理解することではなく、心で感じるものだからです。

ですから、私たちは神というお方について十分に知ることはできませんが、神は私たちのことを十分によく知って下さっているのです。たとえば、私がよく引き合いに出す、アブラハム・ジョシュア・ヘッシェルというユダヤ教のラビは、聖書についてこのように言うのです。それはこういう言葉です。「聖書は、神について書かれた書物ではない。神の目から見た人間について書かれている書物である。」こうヘッシェルは言うのです。もちろん、聖書は神の啓示ですから、「聖書が神について書かれた書物ではない」というような言い方は、ちょっと誇張しすぎていますが、聖書が神について啓示しているものは、神についての知識ではなく、神がいかに人を愛しているかという神の愛が記されている、それが聖書だとヘッシェルは言いたいのです。そのような、ヘッシェルの言葉にそって聖書、特にヘッシェルはユダヤ教のラビですから、ヘッシェルの言う聖書とは旧約聖書のことをですが、その旧約聖書を見てまいりますと、そこに映った人間の姿は何とわがままで、自分勝手で醜い姿だろうかと思わされます。そのように、神の目に人間は、神から離れ、わがままで、冷酷で醜く自分勝手に生きている存在に映っているのです。

けれども、神は、そのような人間を赦し、ご自分のもとに引き寄せ、救おうとしておられるのです。なのに、コリントの教会の一部の人たちが「自分たちには知識がある。」といって他の人を裁いているとするならばその人たちは神に関する知識は持っていても、結局は、本当に神を知っていると言うことにはならないのです。むしろ、最も知らなければならない神の私たちに対する愛というものを知らないのです。いえ、むしろその人自身は神を知らないのみか、その人自身の知識を神としてしまっているとさえ言えます。私たちを含め、様々な民族や国家の持つ文化や伝統の背後には、その国や民族に宗教があります。しかし、神が唯一である以上そのようなものは、クリスチャンにとってもはや偶像とはなりえないものです。わたしたちは、そう言った偶像からは解放され自由なものとされているのです。けれども、私たちが、その神に関する知識を絶対的なものとして、人を裁くようになってしまうならば、それは自分の知識を誇ることであり、その知識が偶像になってしまっているということなのです。それは、取りも直さず、自分自身が神の立場に立ってしまっているということでもあります。なぜならば、裁くことができるお方は、神以外にはおられないからです。ですから、私たちは、何か信仰的な判断をし、決断をくだすとき、自分は自分の考えや知識を絶対視し、人を裁いていないかをまず振り返ってみなければなりません。それは、私たちは自分の意見を主張しようとしているのではなく、イエス・キリスト様の生き方に倣っているかと言うことを問うということでもあります。つまり、知識という自分自身の内側にあるもの、あるいは人間の内側にあるものを探求するのではなく、イエス・キリスト様という、われわれの外側にあって、自らの生き方を示しておられるお方の、その生き方を探求すると言うことです。

その時、私たちの判断や決断は、知識から生まれる論理的結論によって導かれるのではなく、その判断や決断が神に対する愛と隣人に対する愛に導かれてなされるようになります。というのも、イエス・キリスト様の御生涯は、徹頭徹尾、私たちに対する愛で貫かれているからです。たとえば、パウロは、この聖書の箇所で「食物は私たちを神に導くものではない。食べなくても損はないし、食べても益にならない」と言っています。つまり偶像に供えられた肉を食べても何ら差し支えないと言っているのです。けれども、同時に、みんながみんなそういうわけではないともいうのです。つまり、偶像に供えられた肉を食べることに何らかの影響を受ける人たちもいるのだというのです。そのことを知るためには、このコリントの町で偶像に供えられた肉を食べるということがどういうことかを知らなければなりません。コリントにおいて偶像に供えられた肉を食べるということは、その肉を供えた神がその肉に宿って、自分の中に入ってくると考えていたようです。そのような、長い生活習慣の中にくらしていたコリントの教会の人々の中には、真の神は聖書の神お一人であると聞かされていても、心のどこかにはまだ長い習慣の中で信じていたことから抜けきれないでいる人もいたようです。

だからこそ、コリントの教会では、偶像に供えた肉を食べない方が良いという人たちがいたのです。そのような人たちが、「偶像の神など実際には存在しないのだ」といって、神殿で偶像に供えられた肉を食べている人たちを見て、偶像に供えられた肉を食べても大丈夫なのだと思い、食べるようになるかも知れないとパウロは言うのです。しかし、この「偶像に供えられている肉を食べても大丈夫なのだ」という思いは、偶像の神など存在しないと考える人の思いとは性質が違っています。後者は、偶像の神などいないと思っていますから、はなから偶像礼拝という意識すらありません。しかし、前者は、偶像礼拝という意識を持ちつつ、大丈夫だと思うのですから、偶像礼拝をしても大丈夫なのだという意識のもとで偶像に供えられた肉を食べるのです。そのような人の意識は、依然偶像から解放されているわけではありません。偶像に捕われつつ、偶像礼拝をしても良いのだということになりますと、それは聖書の神を信じつつ偶像の神をも受け入れるということになります。だとすれば、それは大きな問題です。

それは、ただ聖書の神に示された三位一体なる神のみを唯一の神と信じる、キリスト教の信仰の根幹に関わる問題だからです。だからこそ、パウロは、偶像から解放され自由にされたその自由が、また偶像の神などこの世には存在しないのだ」という知識が、「弱い人達」の信仰を、偶像礼拝に走らせ、本来あるべきキリスト教の信仰から逸脱させてしまうことになってしまうかも知れないとパウロは言うのです。そして、そのようなことは、人に罪を犯させることであり、かつ自分もその人に対して罪を犯させることになるのだというのです。だから、パウロは自分は偶像に供えられた肉を食べる自由もあれば、その肉を食べても、自分に何ら悪い影響をもたらさないが、人をつまずかせることになるかも知れないので、あえて肉を食べないと言うのです。それは、パウロのコリントの教会にいる肉を食べないという主張をしている人たちに対する愛の配慮だと言えます。つまり、パウロの判断の基準や信仰の決断の基準が、隣人たちに対する愛にあったということです。それは、言い換えれば、判断の基準が自分に損得があるかということではなく、隣人の益になるかということです。つまり、隣人愛に基づいているのです。

それは、ただ聖書の神に示された三位一体なる神のみを唯一の神と信じる、キリスト教の信仰の根幹に関わる問題だからです。だからこそ、パウロは、偶像から解放され自由にされたその自由が、また偶像の神などこの世には存在しないのだ」という知識が、「弱い人達」の信仰を、偶像礼拝に走らせ、本来あるべきキリスト教の信仰から逸脱させてしまうことになってしまうかも知れないとパウロは言うのです。そして、そのようなことは、人に罪を犯させることであり、かつ自分もその人に対して罪を犯させることになるのだというのです。だから、パウロは自分は偶像に供えられた肉を食べる自由もあれば、その肉を食べても、自分に何ら悪い影響をもたらさないが、人をつまずかせることになるかも知れないので、あえて肉を食べないと言うのです。それは、パウロのコリントの教会にいる肉を食べないという主張をしている人たちに対する愛の配慮だと言えます。つまり、パウロの判断の基準や信仰の決断の基準が、隣人たちに対する愛にあったということです。それは、言い換えれば、判断の基準が自分に損得があるかということではなく、隣人の益になるかということです。つまり、隣人愛に基づいているのです。神から与えられた自由を、自分自身の名誉や損得のために用いず、隣人を愛することのために用いる。それが、神を信じ、イエス・キリスト様を信じるキリストの弟子として生き方なのです。なぜならば、それが、まさにイエス・キリスト様の生き方だからです。イエス・キリスト様は、この地上で生きられたとき、ご自分の名誉や損得のために生きられたのではありません。神の御子であられるのに、人となり、私たちを愛するがゆえに、十字架に架かって死なれました。それは、ご自分が持っておられる自由を自分自身のために用いられるのではなく、愛する者たちのために用いられたのです。ですから、イエス・キリスト様の判断や決断の基準はいつも、私たちを愛する愛にあったのです。

ですから、私たちがキリストの弟子であるならば、私たちの判断や決断の基準は、自分自身にためになるかとか、あるいは損になるかといったことではなく、その判断の基準を、隣人を愛する愛に置かなければなりません。でなければ、どんなに正しい知識を持っていたとしても、その正しい知識は、自分を誇り、自分の名誉を得るためのものとなり、むしろ隣人に対しては、隣人を裁いたり、侮ったりすることになってしまいかねません。そして、そのようなあり方は、神が喜ばれるあり方ではないのです。むしろ、私たちの判断や決断の基準は、原則的に愛に置かれなければなりません。その愛という原則にたちながら、知識や知性といったものを用いていかなければならないのです。キリストの弟子は、何よりも、神を愛し隣人を愛するというところに、行動の原則があるのです。そして、このような、愛という動機が私たちの心を支配するところに、私たちの教会でいうところの聖化というものがあるのです。ですから、私たちも愛を原則として生きる生き方をしていきたいと思います。それこそが、イエス・キリスト様の弟子としての私たちにふさわしい生き方なのです。

お祈りしましょう。