『自由と自制』
コリント人への第一の手紙 9章1−23節
2008/8/24 説教者 濱和弘
さて、このコリント人への第一の手紙において、この9章にいたるまでパウロは、分裂の危機にあるコリントの教会に対して、教会の基盤は、イエス・キリスト様の十字架の死と復活によってもたらされた救いにあることを示し、さらに、コリントの教会の中にある様々な問題に、具体的にアドバイスを与えてきました。それは、教会の指導者を誰にするかと言った問題や、教会内の不適切な男女関係の問題や、教会員同志が互いに裁判に訴えあっているような状況や、禁欲主義の問題、そして、偶像に供えられた肉を食べても良いかどうかと言った問題です。ところが、この9章に入って、手紙の内容が大きく変化します。というのも、このコリント人への9章で述べられていることは、パウロが使徒職にあることの主張と、使徒職にある者の権利の問題だからです。パウロは、コリントにある問題について語るのではなく、使徒職というものについて語りだすのです。特に、9章1節から14節までは、その使徒職、あるいは今日で言うならば宣教師や牧師といった教職者の権利について述べられているものです。その内容は、大きく言って、次の2つのことです。@ 教職者は、教職者として働くことによって報酬を受ける権利があるということ A 教職者も、教職者して働くとき、自分の妻を連れ歩くことが出来る権利があるということこの二つのことを、パウロは使徒としての権利として主張するのです。
しかし、それにいたしましても、この9章に入って突然のように、パウロが使徒職としての権利を訴え始めたというのは、あまりにも唐突な感じがします。パウロは一体なぜ、このように使徒の権利を訴えたのでしょうか。それについては、幾つかの説がありますが、一つは、パウロがコリントの教会が抱えている問題についていろいろとアドバイスをしていることについて、パウロの使徒としての資格に対して批判する人たちがいて、その人たちにパウロが使徒であることを主張するためであるという見方です。確かに、9章1節2節には、「わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。私は主イエスをみたではないか。あなたがたは、主にあるわたしの働きの実ではないか。わたしは、ほかの人には使徒ではないとしても、あなたがたには使徒である。あなたがたが主にあることは、わたしの使徒職のしるしなのである。」とあり、パウロの使徒性を主張しているように見えます。使徒職というのは、12使徒という言葉に見られるように、イエス・キリスト様から直接任命を受け派遣された弟子たちのことです。もっとも、12弟子の一人のイスカリオテのユダがイエス・キリスト様を裏切ったことを悔やんで自殺したあとに、そのイスカリオテのユダの後任を選ぶ際には、「(バプテスマの)ヨハネの時から始まって、(イエス・キリスト様が)私たちを離れて天に上げられた日に至るまで、終始わたしたちと行動を共にした人たちのうちのだれかひとり」(使徒1:21−22参照)という条件のもとで、くじを引きマッテヤがイスカリオテのユダの使徒職をついでいますので、そういった意味から見れば、パウロが使徒であるということに対する批判が起ってくることは止む得ないことかも知れません。もし仮に、そのような批判の中で、パウロの使徒性に対して、それを批判する者たちがいたとしたならば、その批判は、パウロは使徒ではないのだから、パウロの言うことには権威がないと言った批判に繋がっていくことは十分に考えられます。だからこそ、パウロは、自分が使徒であるということを強く主張しなければならなかったといえなくもありません。
けれども、パウロは、確かに9章1節2節で自分が使徒であることを述べていますが、しかし、それ以上にパウロが主張していることは使徒の権利についてです。もしパウロが自分が使徒であるということを認めさせたいのであるならば、9章1節2節だけで十分であり、3節以降にみられるような権利の主張は必要ありません。ところが、実際には3節以降の大半が、使徒の持つ権利について述べられているのです。だとすれば、パウロが主張したのは、やはり使徒のもつ権利だと思われます。だとすれば、なぜ、このように文脈のつながりに不適切にパウロは使徒としての権利を主張したでしょうか。そのことについて、パウロの主張した使徒としての権利の内容を見ていくとおもしろいことがわかります。ともうしますのも、パウロが主張した権利は、さきほども申しましたように、「教職者は、教職者として働くことによって報酬を受ける権利がある」ということであり、また「教職者も、妻を連れ歩く権利がある」と言うことです。このように、「教職者は、教職者として働くことによって報酬を受ける権利がある」とパウロは主張するのですが、「教会によって生活が支えられながら、教職者は伝道や教会を建てあげるために働きに専念すること」です。今日的に言うならば、牧師が教職者として牧師給をいただきながら、教会の働きに専念することだといえます。パウロは、そのように、自分が使徒職という教職者の立場にあり、このような「教職者として働くことによって報酬を受ける権利」も「教職者も、その働きの場に妻を連れ歩く権利がある」と主張しながら、パウロ自身は、15節にあるように、そのいずれの権威も行使してはいないのです。
パウロは、現在の小アジア半島からギリシャ・マケドニア地方に伝道して歩き、そこに教会を建てあげていきました。パウロだけではありません、聖書以外の様々な資料を見ますと、ペテロを初め、主の兄弟ヤコブ以外の使徒たちは、エルサレムから、ユダヤ、サマリア、そしてエチオピアなどまで伝道していったと言われています。そのような中で、信徒の人は貴い献金を神に捧げ、教会はその捧げられた献金をもちい、教職にある者達を支えていったのです。けれども、パウロとバルナバは、そのような教会からの支えを得ることなしに、それぞれが労働をし、自分自身の生活を支えたのです。パウロは、9章13節、14節で、「福音を宣べ伝え、福音に仕え、教会の業をなすものが、それによって生活すべきことは、定められている」と言っています。それは神によって定められていることであると言うことです。ですから、パウロは、むしろ積極的に教会は教会の業、宣教の業に従事する者の生活を支えなければならないとさえ考えていることがわかります。なのに、あえてパウロは、そのように神の定められた権利を行使しないのです。それは、そのように教会から生活を支えられて飲み食いする権利が定められ、それを行使する自由が与えられていても、もし、その権利を行使することで、それが福音宣教の妨げになるなら、あえてそれをしないというのです。
パウロがいった、パウロが教職者として、教会から支えられて、伝道や教会の働きに従事することが、福音の妨げになると言う状況がどのような状況であるかについて、パウロはここでは明らかにしていません。しかし、ひょっとしたら、パウロが教会の支えによって生活し、宣教や教会形成をしていくことに対して、パウロは自分の金儲けのために伝道しているといった中傷があったのかもしれませんし、あるいは、他の使徒と呼ばれる立場の人に対するそのような中傷の言葉を耳にしていたのかも知れません。実際、私もインターネットやいろいろな情報ソースを見ながら、一般の人が教会に対してしている批判や宗教に対して持っている批判を見るようにしています。その中には、悪意を持ってなされる不当な批判もありますし、悪意がなくても誤解からなされている批判もあります。また、社会一般の常識的な目から見た批判も見られます。そして、そのような批判は、キリスト教会に対する批判だけではなく、他の宗教に向けられた批判もありますし、宗教一般に対する批判もある。正直申しまして、そのような批判やご意見を見ながら、たとえそれが誤解にもとづくものであったとて、もし仮に、それが福音を伝え、イエス・キリスト様を伝えるための妨げとなっているのであるとするならば、それが悪意でない限り、そのような批判やご意見は、私の行動をかなり規制します。
たとえば、もう何年も前のことですが、N牧師の移植手術のための募金活動を時、私はその事務局の責任を負い、募金活動をしましたが、その募金の使い方については、非常に神経を使いました。それこそ、そのような募金活動に対する様々な世間の批判やご意見といったものを考慮しながら、募金活動と、その使い方について配慮していったのです。それは、私たちの行動によって、神の御名とイエス・キリスト様の御名に傷が付けられるようなことがあってはならないと思ったからです。あるいは、献金についても、正直、私は礼拝の説教や献金のアピールと言うことをあまりしません。献金は、神に対する献身であり、信仰的行為ですから、そのことを取り上げアピールすることは決して悪いことではありません。むしろ、牧師としては、献金の信仰的意義と意味、そして献金を捧げることの大切を伝える必要がある、伝えなければならないとさえいえます。ですから、教会によっては、きちんと月定献金や集会献金の大切さについてきちんと語る教会や語られる牧師もおられます。私は、そう言った教会や牧師は、よくなさっておられるなと思いますが、反面、献金がつまずきになってしまっているケースなども少なからずあり、またそのような話も耳にしています。さらには、宗教の名を借りて、教祖の金儲けが行われているケースなどもあり、実際、司法の手が入ったケースもありますので、どうしても慎重になってしまうのです。それは、献金は、クリスチャンの信仰のあり方の問題であって、教会の目的や使命ではないからです。教会の目的と使命は、一人一人が神を礼拝し、神の前に歩むことであり、そのために宣教の業をなしていくことにあります。ですから、パウロが、「しかしわたしたちは、この権利を利用せず、かえってキリストの福音の妨げにならないようにと、すべてのことを忍んでいる」という言葉の背後には、そのような宣教におけるパウロの配慮があったのではないかと思うのです。
いえ、パウロことですから、献金は神に対する献身であり奉仕ですから、献金を捧げることの恵みや大切さについては大胆に語っただろうと思います。がしかし、そこに、パウロは自分の金儲けのため伝道しているというような中傷があるならば、パウロは、教会によって生活が支えられ伝道に従事する権利を行使する自由があったとしても、その自由を自分のために行使ぜす、かえってそのためにつまずいてしまうかも知れない人のことを思いやって、あえてその自由を行使しない道を選ぶというのです。それは、先週お話ししました、このコリント人への第一の手紙9章の直前の8章でパウロが偶像に供えられた肉について語ったことと同じことです。パウロは、偶像に供えられた肉を食べても良いかどうかをたずねられたとき、そもそも神は唯一なのだから、はじめから偶像の神など存在しない。だから、その存在しない神に供えられた肉など何の意味持ちからもないのだから、それを食べてはならないという理由はなく、食べるも食べないも個人の自由だ。もちろん、パウロもその自由を持っている。しかし、もし、パウロがその偶像に供えた肉を食べることで信仰につまずく人があるとするならば、(そして、コリントの教会にはその可能性があるとパウロは知っていたので)私はそれを食べないというのです。そこには、食べる自由があっても、パウロはあえて、そのためにイエス・キリスト様を信じる信仰につまづく人があるならば、その人のことを思って自らを自制するパウロの姿勢がありますが、それは、この教会から支えられて食べ、飲むことの出来る権利をあえて行使しないパウロの姿勢にも一貫して貫かれているものなのです。
いえ、それだけはありません。パウロが主張したもう一つの使徒としての権利「教職者も、その働きの場に妻を連れ歩く権利がある」ということも、同じであろうと思われます。というのも、そもそも、パウロは独身ですから、あえてここで「その働きの場に妻を連れ歩く権利がある」ことを述べる必要などないからです。そういった意味では、あえてここでパウロが「その働きの場に妻を連れ歩く権利がある」というときに、おそらく、コリント第一の手紙でパウロが述べてきたこととの関連で語られている言葉であろうと考えられます。そのように考えますと、パウロは確かに、7章で、結婚することの是非について述べられています。そして、そこで述べられていることは、誰もが結婚する自由を持っており、結婚しても良いのだが、自制できる者は、余念なく神に奉仕するために独身でいるがよいということです。ここにも、結婚する自由を持ちつつも、その自由を神への奉仕に専念するためにあえて自制するパウロの姿勢が貫かれています。そして、そのように自由を与えられてもあえてそれを自制し、与えられている自由を自分のためではなく、神と人のために用いるのは、それが福音の宣教のためであり、何とかして幾人でも救いたいというパウロの思いがあるからです。
考えてみますと、自由ということがこれほど語られ謳歌されている時代は、歴史の中でそれほどなかったように思います。しかし、今日においてわれわれが自由と言うとき、それは自分が自由であるといことが強調されて、そして、無限にその自分の自由が延長されていきます。ですから、自由が強調されればされるほど、自分中心で自分勝手な生き方がぶつかり合い、問題が多い社会になっています。ですから、どこかで自由は制約されなければなりません。もちろん、自由であることは人間が人間であることのためには、欠くことの出来ない大切なものです。ですから、誰か他者によって、自由が疎外されたり、制約されてはなりません。だからこそ、自由は自分自身によって自制されなければならないのです。そして、自分で自分自身の自由を自制するためには、何か目標や目的がなければ、できません。無目的な中で自らを自制することなどは、私たちにはできないことなのです。自制するということには犠牲が伴うからです。いえ、ある意味では、自制することができて初めて本当に自由なのかも知れません。できることをもあえてしないで自制するということができてこそという本当の自由なのかも知れませんしかし、いずれにしても自制すると言うことには犠牲が伴うのです。そしてそれは、パウロであっても同じだろうと思います。ですから、パウロは、そのように自分自身の自由を自制するのは、多くの人をイエス・キリスト様に導くためだからだと言うのです。多くの人をイエス・キリスト様に導きたいと思うからこそ、パウロは自分自身の権利を行使する自由を行使しないで、自制するのです。
パウロは、宣教という神の業に参加するために自らを自制しました。パウロは23節に、「福音のために、私はどんなことでもする。わたしも共に福音に与るためである」と言っていますが、この「わたしも共に福音に与ため」という言葉は、自分自身が救われるためにパウロが伝道していると取るべきではありません。パウロは、すでに神を信じイエス・キリストを信じ、救いの恵みに与り、福音の喜びに与っているのです。ですから、パウロが私も共に福音に与るというとき、それは「まさに共に、福音を知り、救いに与る喜びを共に与るために」ということであり、伝道する喜びを語っているのです。自分自身が救われる喜びを知っているからこそ、自分の周りにいる人が罪が赦され、永遠の命と神の国が約束される救いの喜びに与るときに、共に喜ぶことができる。それは、私たちが何度も経験したことではないでしょうか。私たちの教会では、ささやかな歩みではありますが、ここ8年間、毎年授洗者が与えられ、洗礼式か行われてきました。そして。洗礼を受けられる方を包み込むようにして取り囲み、共に洗礼式に参加します。その時に、私は多くの方が涙ぐみながらその洗礼式を見守っておられる姿をしっかりと覚えています。洗礼を受けられるかたと、共に洗礼の喜びにあずかっている喜びの涙です。
パウロは、そのように同胞であるユダヤ人のためには、自らその自由を自制して、ユダヤ人のようになり、律法の下にある人のためには、自ら律法の下にあるもののように制約し、律法のない人には、律法のない人のように、弱い人には弱い人のようになるために、自らの自由を自制するのです。もちろん、そのために、当然行使しての良い自らの権利を行使しないのですから、そこには犠牲が払われていると言わざるを得ません。しかし、そのような犠牲を払っても、福音のために生きるならば、救いの喜びに共に与れるという、喜びがあるのです。
私が牧師になって、もう15年になります。15年たって改めて振り返ってみると、「牧師という仕事は決して楽な仕事ではないなぁ」と思わざる得ない感じがします。そして、実際のところ、様々な面で自分自身を制し、自制しなければならないことが多くあります。ときどき、あのまま会社勤めをしていたらと考えるようなことがないわけでもありません。しかし、牧師という職務が委ねられて、人が神を信じ、救いの恵みに与り洗礼を受けられる場面に立ち会うとき、ああ牧師になって本当に良かったと思うのです。自分自身が、福音、すなわちイエス・キリスト様が、私たちの罪に赦しを与え、この世にある苦難と死という運命に勝利を与え、救い出してくだるということの絶大な価値とそれが与える喜びを知っているならば、私たちは、その福音が広がっていく時、共にその喜びに与ることができるのです。
ですからみなさん、ぜひ心に留めておいてほしいのです。私たちは確かに自由な存在です。そして私たちは、自分に与えられた時間やもの、空間を自由に使うことができますし、その権利を持っている。けれども、みなさん。だからといって、その自由を自分自身の楽しみややりたいことのためだけに費やすのではなく、どこかでその自分の権利を行使することを自制して、神のために奉仕するために、また福音が広がっていくことために捧げてほしいのです。その時に、私たちは自分のやりたいことができる喜びではなく、人と主に喜ぶことのできる喜び、聖書の言葉を借りて言うならば、「泣くものと共に泣き、喜ぶものと共に喜ぶ」ことの出来るそのような幸いを得ることができるのだろうと思うのです。そのことを心にとめながら、自分自身の権利を主張し、権利を行使する自由を謳歌するものではなく、自分自身の自由を神と人のために自制しながら用いるものになりたいと思います。
お祈りしましょう。