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メッセージ

羊飼い 『自らのために律す』
コリント人への第一の手紙 9章24−27節
2008/8/31 説教者 濱和弘

さて、今日の聖書の箇所は、コリント人への第一の手紙9章24節から27節までです。先週は、同じ9章の1節から23節までを通して、私たちは神を信じることによって、罪とその罪の裁きから解放され自由にされ、また様々な権利を与えられているが、その自分の権利を行使する自由を、他の人のために、また福音宣教のためには捧げ、自制することも大切なのだということをお話し致しました。それは、私たちは自由な存在として、自分に与えられた時間や物、空間や財産を自由に使うことができ、使う権利を持っているけれども、だからといって、その自由を自分自身の楽しみややりたいことのためだけに費やすのではなく、どこかでその自分の権利を行使することを自制して、神のために奉仕するために、また、他者に対する配慮や福音が広がっていくことために捧げてほしいということでした。しかし、そのように、自らを律し、自制し節制するということは、他者のためや福音宣教のためだけになされるものではありません。それは自分自身のためにもなされる必要があるというのが、今日の聖書の箇所の言わんとしているところではないかと思うのです。

たとえば、今日の聖書の箇所の冒頭の箇所の9章24節では、「あなたがたは知らないのか。競技場で走るものは、みな走りはするが、賞を得るものはひとりだけである。あなたがたも賞を得るように走りなさい。」と言われています。この場合、賞を得るのは、自分です。「賞を得るものはひとりだけである。賞を得られるように走れ」とパウロは言いますが、これはあくまでも、たとえであって、信仰において賞を得る者はひとりしかいないので、頑張って信仰の競争に負けないようにしなさいということでありません。そもそも、賞を得るとありますが、賞を得ることの素晴らしさは、賞賛されほめたたえられるというところにあります。先日、北京オリンピックがありましたが、オリンピックでの1位、2位、3位の人には、金メダル、銀メダル、銅メダルが与えられますが、調べましたところ、原価だけで言うならば、金メダルで一個あたり、1万円そこそこ、銀メダルで数千円、銅メダルになるともう本当に微々たるものだそうです。もちろん、メダルを造るためには、デザインなどもありますので、実際はもう少しかかるだろうと思いますが、それでも金メダルで一個あたり数万円ぐらいといったところなのではないかと思います。ですから、金メダルそれ自体の価値はたいしたものではないのですが、その金メダルに象徴される栄誉やそれに伴う賞賛は測りきれないものがあり意味があります。だからこそ、競技者はこのメダルにこめられた栄誉と賞賛をめざして自らを律し、節制して努力するのです。パウロは、そのような競技者の姿にたとえながら、神を信じる者に名誉と賞賛を得られるものになりなさいというのですが、この名誉と賞賛を与えて下さるのは、ほかならぬ神様です。

25節に「しかし、すべて競技をする者は、みんな走りはするが、何ごとにも節制する。彼らは朽ちる冠をえるためにそうするが、私たちは朽ちない冠をえるためにそうするのである。」とありますが、これは、その当時の、たとえばオリンピックの原型となったオリンピアの競技会や、あるいはコリントの町で行われたイストモスでの競技会で、各競技の勝利者に送られたオリーブの葉や、月桂樹の葉で作られた冠のことが、パウロのイメージの中にあったのだろうと思われます。つまり、競技の勝利者には、人から与えられる栄誉や賞賛のしるしとして、木の葉でつくられた冠があたえられ、そのような誇らしげな勝利者の姿を思い浮かべながら、あなたがたは、信仰者として、人の与える誉にまさる、神から与えられる栄誉と賞賛を得なければならない。そのためには、あなたがたは、自らを節して信仰生活を送りなさいと言うのです。パウロは、競技場で走る者のうちで、「賞を得るものはひとりだけである。」といいますが、ある註解書をみますと、パウロは、ここにおいて競技をする者をたとえとして用いているのであって、信仰における勝利者は、ただ一人ではないと言います。大切なのは賞を得るような走り方をすることだと書いてありました。たしかに、そうであろうとは思いますが、しかし、わたしは妙にこの、「賞を得るものはひとりだけである。」という言葉が心に引っかかったのです。というのも、古代教会の考え方の中に「勝利者キリスト」という考え方があるからです。

この「勝利者キリスト」という考え方は、「イエス・キリスト様は、この世の悪の力、人類を隷属させている悪魔や罪といった暴君に対して戦い勝利された」というものです。そして、十字架は、そのこの世の悪の力や悪魔や罪との戦闘の場であり、イエス・キリスト様の死こそ、その戦いにおける決定的戦闘であったというのです。ところが、普通私たちは、普通、イエス・キリスト様の十字架の死と復活は、私たちの罪の身代わりであり、私たちに代って神の裁きを受けて下さることによって私たちを神の裁きから救い、赦しを与えて下さるためのものであったと理解しています。実は、このような、十字架の死と復活の理解を刑罰代償説といいますが、このような刑罰代償説は、古代の教会に全くなかったというわけではありません。確かにローマ人への手紙にもそのような内容があることを私たちは読みとることができます。しかし、この刑罰代償説が、考え方として整理され、まとまっていくのは、実はずっと後の9世紀から10世紀頃の時代で、カトリック教会やプロテスタント教会を産み出していった西方教会の伝統の中で確立されていった理解なのです。そして、古代の教会では、むしろこの「キリストは、この世の悪の力、人類を隷属させている悪魔や罪といった暴君に対する勝利であった」という「勝利者キリスト」という考え方が、中心であったというのです。このような、「勝利者キリスト」という視点からみますと、パウロ「賞を得るものはひとりだけである。」というとき、それはまさに「ただひとり」であって、その勝利者はイエス・キリスト様ではないかとも思えるからです。この世の悪の力や罪、そして様々な誘惑に真に打ち勝ち勝利を得る事のできるお方はイエス・キリスト様お一人しかおられないのです。

しかし、それでもパウロは「賞を得るように走りなさい。」というのです。そして、「私たちは、目標のはっきりしないような走り方をせず。空を打つような拳闘をしない。すなわち、自分のからだをうちたたいて服従させるのである。」といっています。つまり、目標ははっきりしているのです。それは、勝利者であるイエス・キリスト様です。この世の悪の力、人類を隷属させている悪魔や罪といった暴君に対して戦い勝利され天に昇られたイエス・キリスト様を目標として、生きなさいと言うのです。確かに、勝利者はイエス・キリスト様お一人です。いうならば先頭を走っているのはイエス・キリストというお方なのです。このお方の後を追いかけていくならば、全員がゴールを駆け抜けていけるのです。しかし、そのためには、同じ競技場にたち、同じスタートラインに立って走り始めなければなりません。現代でもそうですが、オリンピックの選手として選ばれ試合に出られると言うだけで大変なことです。それこそ、選手として節制し努力して初めて晴れの舞台に立てるのです。それは古代オリンピックにおいても同じことです。ものの本によりますと、古代オリンピックにおいては、厳しい資格制限があり、生粋のギリシャ人男子で、前科のない、また神々をおそれる者が、まず10ヶ月の準備訓練のすえ、一ヶ月間合宿して、それから検査に合格して初めて出場資格が与えられたそうです。そういった意味では、競技場で走る者になるというだけでも大変です。競技に参加するために、自制をし自らを節制するというのです。ですから、競技に参加するというだけで、それは称賛に値するようなことなのです。そのうえで、勝利者を目標にして競技を行うのです。

みなさん、私たちはみんな競技場に呼び集められています。そういった意味では、すでに競技場で走る資格を与えられているのです。そこは本来、厳しい資格審査を受け準備訓練を受け、一ヶ月間も合宿をして初めて立てる場です。自制と節制をすることによって初めて立てる場なのです。けれども、私たちは、イエス・キリスト様の恵みと憐れみによって、そのよう審査や訓練、そして検査を受けることなく晴れの場に立つことが許されたのです。もとより、私たちがイエス・キリスト様を追い抜いていくことなどはできようはずはありません。しかし、ひたすらその背中を、脇目もふらずに見、後を追いかけていかなければなりません。そのために、手を一生懸命振り、ひたすら足を前に運んでいかなければならないのです。

しかし、実際に運動をしていますとわかることですが、自分の頭の中で考えているとおりに体が動くというわけではありません。みなさんも、ご存知のように、私は四十の手習いではありませんが、数年前から剣道を習い始めました。正直、私なりにかなり一生懸命稽古をしてきたつもりなのですが、習い始めてから今日まで言われていることは、同じことです。すなわち「竹刀を打つときに右腕の力を抜け」と言うことです。剣道の稽古では、身体的能力ではないことを要求されることがあります。たとえば、相手の気を読めとか、気で相手を制しなさいといったことです。こう言ったことは、おそらくは経験を積み重ねていく内に感覚として捉えていく勘どころというか、いわば奥義のようなことだろうと思いますが、「竹刀を打つときに右腕の力を抜け」ということは、身体的なことです。ですから、できないことはないはずのことです。実際、私も稽古中は力を抜くと言うことにかなり意識をして稽古をしています。ところが、自分の体なのに、自分が意識し、頭で描いているようにできないのです。私のついている先生に言わせますと、結局、稽古を繰り替えしするかない、特に素振りをくり返しするしかないと言うことだそうです。もちろん、それがたやすくできる人もいるでしょうし、私のように何年もできない者もいます。しかし、だれも稽古することなくしては。自分のからだを自由に使いこなせないのです。

実は、27節に、「自分のからだをうちたたいて服従させるのである」とありますが、「自分のからだを自分の目標どおりにつかいこなせることである」ということなのだそうです。キリストの背中をめざし、 キリストの後ろを追いかけて走っていくためには、自分で自分のからだを、自分の思いのままに使いこなせなければならないのです。そのためには、使いこなすことができるように訓練しなければなりません。本当に自分自身の体を自由にあやつり、使いこなせるようになるためには、それなりの訓練や稽古が必要なのです。それなしには自分自身を自由に操ることはできないのです。それは、体の問題だけではありません。心の問題も同じです。私たちは、自分の思いや心は自分のものだから、自分の自由にできると思っているかも知れません。しかし、自分の心をコントロールすることだって、結構大変なことなのです。スポーツの大会や音楽のコンクールなどでもそうだろうと思いますが、競技者が、試合会場に立ったときに上がってしまってたり緊張し萎縮してしまって普段の力が十分に発揮出来なかったというケースがあるとききますし、実際にそのようなケースを幾つか見てきました。そんな時は、自分で自分を落ち着かせようとしても、また周りが緊張をほぐそうとしてもなかなかうまくいかないようです。結局、普段からのメンタル的なトレーニングが大切になってくる。そのように、賞を得るためというような場面に立つ者は、自分のからだや心を、自分の思いのままに使いこなせるようにならなければならないのです。そのために、節制し、自制してトレーニングをし、稽古を重ねる。

いうならば、自由を得るために、自らを節制するのです。だれでもトレーニングをさぼることもできますし、稽古で手を抜くこともできる。自分の好き勝手なことをすることだってできます。そういった意味では、私たちは自由を既に手に入れています。けれども、そのような自由の中で勝手気ままに、無節制に生きていくならば、ここ一番というときに、自分の心も、体も、自分の思い通りには動いてくれない。自分のことなのに自分自身を自由に操れないということになってしまう。結局、自分自身の力を出し切れなければ、「賞を得る事ができるような走り」など、到底できないのです。そのようなことが、少なくとも、私たちの信仰の歩みの中で起ってはならないのです。私たちは、神を信じるクリスチャンとして生きていくためには、勝利者であるイエス・キリスト様の後に付いていくことができるようにならなければなりません。そのためには、自分のやりたいことだけをする、したいことだけをするというのではなく、自ら節制し、自らを自制する必要があるのです。そうやって、クリスチャンとしての自分の心と体が自由に使いこなせるようにならなければならないのですたとえばそれは、礼拝を捧げるということや、聖書を読む、神に祈る、奉仕をする、献金を捧げるといったことを通して養われていく信仰の鍛錬だと言っても良いだろうと思います。私の剣道の先生が、「力を抜くためには。ひたすら素振りをするしかない」というように、くり返し、くり返し信仰生活の根本的な歩みを大切にしていく中で養われていくのです。

もちろん、礼拝を捧げる、聖書を読む、祈る、奉仕をする、献金を捧げると言ったことしなければ、救われないということではありません。神の救いは行ないによるのではなく恵みによるものだからです。先日、娘が、信仰に関することで疑問に思うことを私に質問してきました。娘は、ずっと疑問に思っていたことらしいのですが、「洗礼を受けていても、そのあとに礼拝に出ないで、なにもしないでも、神の裁きの日にすくわれるのか」ということでした。「イエス・キリスト様を信じれば、救われるのか。」と聞かれるならば、胸を張って、そうだと答えられます。「自分が罪人であることを認め、イエス・キリスト様が自分をその罪とその罪に対する神の裁きから救ってくれる救い主として信じるならば、本当に天国に行けるのか」と問われるならば、確信を持って、「天国に行ける」と答えられます。もちろん、信仰は行ないではありませんから、何かをしないから救われないということではありません。そして、旧約聖書・申命記31章6節で神は、「私は、決してあなたを見放すこともせず、あなたを見捨てない」と言われる神なのです。事実、イスラエルの民を選ばれた神は、イスラエルの民が、何度も神を離れ、偶像礼拝に陥ってしまっても、忍耐強く、イスラエルの民に関わり救い続けられたのです。ですから、神の側から私たちを見捨てられるということはありません。しかし、私たちが信仰において倒れてしまうということはあるのです。実際、私たちの周りには、私たちを倒れさせつまずかせるようなことは沢山あります。それこそ、イエス・キリストの恵みによってせっかく競技場に立たせていただいているのに、結局、失格して競技に参加できないで終わってしまうこともあるのです。そして、パウロであってですら、そのように、自らを節制し、自制して自分自身の信仰の鍛錬をしていないと、自分は失格者になるかも知れないとう自分自身の不安を語っているのです。それは、パウロだけではない、私たち人間がもつ本質的な弱さなのです。

だからこそ、パウロは、どんな時でも神を信じ、神に従っていくことができるためには、どんなに自由があっても、神の前に自らを節制し、自制して生きることが大切だというのです。私たちは、礼拝に出席することもしないことも自由だと言えば、自由です。聖書を読むも読まないも自由です。祈ることも、献金することも、それらすべては私たちの自由な意志、判断に委ねられています。そして、それらは、私たちが救われるか否かの決定的要因ではありません。救いは、あくまでも神を信じる心によるからです。しかし、その自由を自分自身で節制し、自制して礼拝に出席し、皆と神を畏れ敬い、賛美し、説教の言葉に耳を傾けていくことにより、また、普段の生活の中で聖書を読み、祈り、奉仕に時間を取り、献金を捧げることによって、私たちのクリスチャンとしての人格と神に対する敬虔な思いは、鍛錬され、より敬虔な者にされるのです。私たちは、自由だからこそ、その自由を節制し、鍛錬することで、まさに古い自分ではなく、新しく生まれたクリスチャンとしての信仰的人格が、自由に自分の心と体を使うことができるようになるのです。そして、そのような信仰の訓練や経験の鍛錬があってこそ、私たちは、どんな場面でも大丈夫だと言えるようになるのです。私は、子どもたちに、よく「稽古は裏切らないよ」とか、「勉強は裏切らないよ」と言います。たとえばスポーツや習い事において、一生懸命稽古に励み、鍛錬しているならば、必ず上達しますし、一生懸命勉強したならば、必ず理解することができるようになるからです。けれども、何の稽古であっても、そんな勉強であっても、楽しいときもあれば苦しいときもあります。いつでも楽しいときばかりとは限らないのです。でも、たとえ苦しいときでも、そこを乗り切るならば、それは必ず、血となり肉となります。それは、信仰であっても同じなのです。もちろん、それは無理をしなさいと言うことではありません。信仰は無理をして頑張ることではないのです。ですから、頑張れないときや休みが必要なときだって確かにあるのです。

また、自分自身のために自分の自由を全く使ってはならないということでもありません。パウロは、信仰の鍛錬のために、自分自身のことをすべて放棄しなさいと言っているのではない、ただ節制しなさいと言っているのです。ですから、頑張れないときや休息が必要なときには、無理してまで頑張る必要はありません。けれども、私たちが頑張れないときでも、休息をしているときでも、神は私達のことを決して「見放さず、見捨てない」でおられるのです。ですから、その神のことをわすれてはなりません。そして、その神を恐れる心と、神を見上げる心を失ってはなりません。そして、神を第一に思う心を持ち続けることが大切なのです。神は忍耐と励ましの神ですから、神ご自身が、競技場に招き、選手として晴れの舞台に立たせて下さった私たちが、信仰のゴールに到着するのを忍耐強く待ち続けて下さっています。そのような、寛容な愛で私たちを見守って下さっているからこそ、私たちは、自らを律し、節制しながら、神の前に、信仰の走るべき道のりを走り抜こうではありませんか。もちろん、途中で座り込んでしまうような時があるかも知れません。疲れてしまって立ち上がれないようなときもあるかも知れません。けれども、神は決して私たちのことをあきらめたり、見捨てたりしておられないのですから、決してあきらめてはいけません。たとえ座り込み、動けなくなっても、私たちが、信仰者として自らを節制した生活を経験しているならば、やがて必ず立ちあがり、また走り出すことができるようになります。

今年はオリンピック・イヤーでしたので、オリンピックに関するさまざまなエピソードが、テレビやラジオなどで紹介されていました。その中に、日本人として初めてオリンピックに参加した金栗四三さんという方の話が紹介されていました。このかたは、1912年のストックホルムオリンピックの時に、マラソンの最有力優勝候補のひとりとして、参加したのですが、慣れない環境と極度の緊張感から、それこそ自分自身の力を十分に発揮できず、レース途中で日射病で倒れて民家に担ぎ込まれたため、ゴールすることができず、公式記録では、「競技中失踪のため行方不明」となっていました。日射病で倒れたために、本人の棄権するという意志が確認できなかったからです。それから55年たった、1967年にストックホルムオリンピック開催55周年記念式典が行われたときに、金栗四三さんの記録が棄権ではなく「行方不明」になっており、失格とはなっていないので、その式典で、ゴールするようにという依頼が、ストックホルムから、日本の金栗さんのもとに届いたのです。その依頼に基づいて金栗さんは、55年ぶりのゴールに到達したのです。記録は54年8ヶ月6日5時間32分20秒3でした。この話は、今でも感動的なゴールとして多くのスウェーデンの人の心に残っていると聞きます。彼は、失格者となっていなかったからこそ、54年8ヶ月6日5時間32分20秒3かかってもゴールにたどりつき、多くの人の賞賛を得たのです。ですから、私たちも頑張ることができないで休息し、疲れて座り込むことがあっても、どんなにゆっくりとした足どりでも、信仰のゴールをめざし、そこに到達することができるならば、神から信仰の栄誉と賞賛が与えられるのです。

ですから、みなさん。私たちは、神を恐れる心と、神を見上げる心を失しなわず、クリスチャンとしての自分自身を養い育てるために、節制し、自らを律し、神を第一とする思いと生活を生きる者へとなっていこうではありませんか。そのためには、あきらめない心が大切です。あきらめないで神を追い求める心、それこそがまさに自らを律して自制し、節制しながら生きる生き方によって養い育てられるのです。そうやって、心のどこかで、あきらめないで神を求めて生きる者となるならば、私たちは決して失格者とはならず、必ず栄光のゴールにたどり着くことができるのです。

お祈りしましょう。