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メッセージ

羊飼い 『過去の歴史に学ぶ』
コリント人への第一の手紙 10章1−13節
2008/9/7 説教者 濱和弘

さて、先週の礼拝、また先々週の礼拝と、私は、クリスチャンは、神の前に自由な者とされているからこそ、自分自身を律し、自制していかなければならないということをお話しして参りました。それは、他の人々のために自らの自由を自制しても奉仕する生き方の中に、神の前に生き、神に仕える者としての喜びを見出すことができるからであり、また、自分自身のためにも、自らを律し、神を第一とする生き方を求める中で、決してあきらめずに神を求める心が養われ、神を求めて生きる者となれるからです。そして、そのように、決してあきらめずに神を求める心が、私たちの心のどこかにある限り、どんなに紆余曲折があろうとも、私たちは決して失格者になることなく、神が待っておられる栄光のゴールにたどりつくことができるのです。しかし、逆に言うならば、私たちがそのように自らを律することをしないで、自由気ままに生きていくならば、私たちは失格者になってしまうこともあるのです。そして、気をつけなければ失格者になってしまうことがあるかも知れないと言うパウロの主張は、私たちの教会にとっては、見落としてはならない大切な視点なのです。と申しますのも。私たちの教会は日本ホーリネス教団に属しているからです。そして、この「信仰の失格者になってしまう可能性がある」という見方は、私たちが属する日本ホーリネス教団の持つ信仰の特色に一つでもあるからです。

その日本ホーリネス教団の信仰の特色がどのようなものであるかということが、教会員手帳の中に簡単にまとめられています。ですから、今、壮年会では、毎月の例会において、この教会員手帳を学んでおり、今日の例会でも学ぶのですが、ぜひみなさんにも、この教会員手帳を一度お読みいただければと思うのです。そうすると、私たち日本ホーリネス教団といったものが、どのような教団なのかがわかってくるだろうと思います。特に、その教会員手帳の最終章の所に、日本ホーリネス教団の信仰的特色が記されています。もちろん、日本ホーリネス教団の信仰的特徴といいましても、キリスト教の中の一教派ですから、神というお方の理解、イエス・キリスト様というお方の理解は、他の教派の人たちと何ら変わることはありません。ほかのどの教派の人達であっても、その教派の人たちが、伝統的・正統的信仰の中にある限り、同じキリスト教の信仰に立つものとして交わりを持つことができます。しかし、そのような中にあっても、それぞれの教派において、それぞれが信仰の特色を持ち、違っている面をもっています。ですから、私たちは、せっかく日本ホーリネス教団に属する教会に集っているのですから、その信仰的特徴を知っておくということは、決して悪いことではないのです。

そこで、その信徒手帳の最後の章で私たち日本ホーリネス教団の特色がどのようなものであるかということをどのように取り上げているかというと、一つは聖書信仰(聖書は誤りない神の言葉であって、私たちの信仰と生活を導く規範であるという考え方)であり、二つ目はウェスレアン・アルミニアン主義ということであり、三つ目に、救いということを新生・聖化・神癒・再臨という四つの側面から捉える四重の福音と救いの理解をするということであると述べています。その中でも、ウェスレアン・アルミニアン主義という言葉が、もっとも皆さんにとって馴染みのない言葉であろうかと思いますが、ウェスレアン・アルミニアン主義というのは、一つの神学的立場に対する呼び名です。では、そのウェスレアン・アルミニアン主義という神学的立場がどのようなものかというと、それは、ジョン・ウェスレーという人の神学的伝統に立つ神学的立場でありまして、それゆえにウェスレアンというのです。

このジョン。ウェスレーという人は18世紀の人ですが、このウェスレーという人は16世紀末から17世紀のオランダの神学者アルミニウスという人の影響を受けておりましたので、ウェスレアン・アルミニアンとこう言うわけです。そこで、このアルミニウスという人がどのようなことを行ったのかと言いますと、その当時オランダのプロテスタントの主流的な考え方は、宗教改革者の中でも、最も理性的で体系的な神学者であったカルヴァンという人と、その弟子たちによって基づきあげられた考え方で、カルビニズムという考え方でした。今日で言うならば、改革派教会といった人たちの流れです。私たち、ホーリネス教会の特徴を言い表すことばに、先ほど申しましたように四重の福音という言葉がありますが、カルビニズムの教会にも、カルビニズムの教会を特色立てる言葉があります。それはTULIP(チューリップ)という言葉です。このTULIPという言葉は、カルビニズムの持つ五つの特徴を指し示す言葉なのですが、その五つの言葉というのが、
Total depravity (全的堕落) 人間は神の前に全く堕落している。
Unconditional election (無条件の選び) 神の選びは人間の側の条件によって決まるのではない
Limited atonement (限定的贖罪) 救いは、神によって選ばれているものだけに限る。
Inresistable grace  (不可抵抗的恩寵)神に選ばれているものは、神の選びを拒否できない
Perserverance of the sainta (聖徒の堅忍)救われたものは、一度もった信仰を失わない
ということで、その頭文字をとってTULIPというのです。アルミニウスという人は、このようなカルビニズムの五つの特徴であるTULIPに異議を唱えたのです。ですから、アルミニウスは、Perserverance of the saintaという聖徒の堅忍、すなわち、一度救われたものは、その一度もった信仰を決して失わないということに反対して、一度信じて救われたものも信仰を失って失格者になってしまうことがあるのだと言ったのです。ですから、そのアルミニウスの神学に影響されたウェスレーの流れにある私たちの教会でも、信仰を失って失格者にならないように、それがどんなにささやかなものであったとしても、神を信じる、神を見上げる、神を求める心を失わないように務めましょうというのです。

もちろん、神は愛なるお方ですから、神が神を信じたものを見捨てることはありません。むしろ神は、「決してあなたを離れず、あなたを見捨てない」といわれるお方なのですから、神が人間をあきらめたり見捨てることはないのですが、人間の側が神から離れていくということがある。だから、神を信じ、神を見上げ、神を求める心を失わないようにと、私たちの教会は言うのです。実際、コリント人への第一の手紙9章27節でパウロは、「すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、他の人に宣べつたえておきながら、自分は失格者になるかも知れない」と、自らが失格者になるかも知れないことを恐れています。その、パウロの言う失格者という者が、一体どういう者なのかということを、実はこの今日の聖書の箇所コリント人への第一の手紙10章1節から14節は言い表していると言えるだろうと思うのです。そこで、このコリント人への第一の手紙10章1節から14節までを見ますと、パウロは、1節から5節までこう言うのです。

「兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。また、みな同じ霊の食物を食べ、みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。しかし、彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった。」「わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、 みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた」というのは、出エジプトの出来事です。イスラエルの民は、エジプトの地で奴隷となり、厳しい苦役でうめき苦しみ、嘆き悲しんでいましたが、神がそのイスラエルの民を救い出して下さったのです。ですから、イスラエルの民はみんな、神の救いに与ったのです。その意味において、イスラエルの民は、みんな「雲の下におり、みな海を通り、 みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。また、みな同じ霊の食物を食べ、みな同じ霊の飲み物を飲んだ」のです。けれども、同じように神の救いに与った者の中から、「彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった」といわれる人が出てきたのです。つまり、イスラエルの民族の中に、せっかく神によって救われたのに失格者になってしまった人たちが実際にいたとパウロは言うのです。

それでは、どんな人が失格者になったかというと、それが6節から10節に述べられています。そこにはこう書かれています。「これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。だから、彼らの中のある者たちのように、偶像礼拝者になってはならない。すなわち、『民は座して飲み食いをし、また立って踊り戯れた』と書いてある。 また、ある者たちがしたように、わたしたちは不品行をしてはならない。不品行をしたため倒された者が、一日に二万三千人もあった。また、ある者たちがしたように、わたしたちは主を試みてはならない。主を試みた者は、へびに殺された。 また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはならない。つぶやいた者は、『死の使』に滅ぼされた。」 ここにある、「彼らの中のある者たちのように、偶像礼拝者になってはならない。すなわち、『民は座して飲み食いをし、また立って踊り戯れた』と書いてある」というのは、おそらく出エジプト記32章にある出来事を指していると思われます。そこには、モーセが、神の命を受けて、イスラエルの人たちをエジプトから救いだした後、シナイ山で有名な十戒を授かっていたときのことが記されています。それは、モーセがシナイ山に登って不在の時に。イスラエルの民が勝手に金の子牛の像をつくり、それを神として、その像の周りで、うたい踊ったりしていたという出来事がかかれています。つまり、神によって人々はエジプトから救い出されたのですが、かれらは、昔いたエジプトでなれ親しんだ偶像礼拝に立ち帰ってしまったのです。

また、8節にある「ある者たちがしたように、わたしたちは不品行をしてはならない。不品行をしたため倒された者が、一日に二万三千人もあった」ということは、民数機25章1節から9節に記されている出来事のことでしょう。そこでは、イスラエルの民がシッテムと言うところにとどまっていたときにモアブの娘達とみだらなことをし始め、さらには、その娘達と共に、ここでも偶像礼拝に陥ってしまったことが記されています。さらには、「ある者たちがしたように、わたしたちは主を試みてはならない。主を試みた者は、へびに殺された。 また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはならない。つぶやいた者は、『死の使』に滅ぼされた」というのは、同じく民数記の21章4節から9節の出来事が記されていると考えられます。そこには、エジプトから救い出されたイスラエルの民が、荒野を旅していたイスラエルの人々が、その荒野の旅が困難な旅路だったので、神とモーセに対して、「あなたがたはなぜわたしたちをエジプトから導き上って、荒野で死なせようとするのですか。ここには食物もなく、水もありません。わたしたちはこの粗悪な食物はいやになりました」とつぶやいた記事が出ているのです。このような、イスラエルの民の罪の故に、神はイスラエルの民を罰せられるのですが、そのイスラエルの民の罪の根底にあるのは、イスラエルの民がかつて経験したエジプトでの生活です。たとえば、民数記11章1節から11節には、このような出来事が書かれています。それは、エジプトから救い出されたイスラエルの民が荒野で旅をしている間だ、神が「マナ」と呼ばれる食べ物を与えてくださっていたときのことです。荒野といいますが、要は砂漠地帯です。その砂漠のような所を、何万人ものイスラエル人が旅するのですから、食料を確保するだけでも大変なことは容易に察しがつきます。そこで神は、「マナ」と呼ばれる食べ物を与えて下さっていたのです。しかし、イスラエルの民は、そのように神が食べ物をも与えて下さっていたのに、「ああ、肉が食べたい。われわれは思い起すが、エジプトでは、ただで、魚を食べた。きゅうりも、すいかも、にらも、たまねぎも、そして、にんにくも。しかし、いま、われわれの精根は尽きた。われわれの目の前には、このマナのほか何もない」といって不平不満を述べたのです。

この不平不満をパウロは試みといっています。「ああ、肉が食べたい。われわれは思い起すが、エジプトでは、ただで、魚を食べた。きゅうりも、すいかも、にらも、たまねぎも、そして、にんにくも」食べたいという不満は、神を試みることだというのです。なぜ、いったいパウロは、なぜそのように「試み」というのでしょうか。エジプトにいるときは、奴隷として様々な苦しみや苦難に遭い、うめき苦しんで神に助けを求めていたのに、神によって救い出されたならば、今度はエジプトの生活を懐かしみ不平を言う。それは、単なるつぶやきと言うことでは収らない神を試みることだというのです。イスラエルの民が、奴隷であったエジプトの地から救われるということは、とても大きな出来事です。尋常なことではありません。この夏、夏休みの宿題で、子供が人権に関する作文を書かなければなりませんでした。具体的に人権問題が起っている事例をあげて、それについて調べ作文にするのですが、うちの子はハンセン氏病の人達に対する人権問題を取り上げて作文を書いていました。ハンセン氏病の人達に対する人権問題は、キリスト教会でも、聖書におけるらい病の取り扱いに対する誤解から、多くの反省しなければならない問題ですが、子供のとっては、そもそも人権とは何かということが大切です。そんなわけで、人権とは何かについて、子供と少し話をしたのですが、その話の後、子供の書いた文章を見ますと、「人権とは人間らしく生きることです。けれども、奴隷には人権がありません。なぜなら、奴隷には自由がないからです。」と書いてありました。人間が人間らしく生きるためには自由が必要だ。食べ物を与えられて生きていくことができても、自由が与えられなければ人間は人間らしく生きていくことができない。人権がないというのです。それほど、自由であるということは人間にとって大切なのです。その自由を、奴隷の民であったイスラエルの民は神から与えられたのです。それは大きな恵みです。愛の業です。なのに、そのような、大きな恵みと愛をいただいているのに、イスラエルの民は、「ああ、肉が食べたい。われわれは思い起すが、エジプトでは、ただで、魚を食べた。きゅうりも、すいかも、にらも、たまねぎも、そして、にんにくも」といってつぶやくのです。

パウロは、そのつぶやくは、神を試みることだというのですが、神の何を試みるのかというと、神が、自由という恵みを与えてくれた神が、更に自分たちに何を与えてくれるか、自分たちの望むことを与えてくれるかという試みなのです。そして、それが実際に偶像礼拝や不品行という行動になっていくのです。それは、神が恵みを与え、救いを与え、赦しを与えてくださる神ならば、ここまでやっても赦されるであろうという安易な試みに繋がっていってしまっているのです。たしかに、「肉を食べた、ただで、魚を食べた。きゅうりも、すいかも、にらも、たまねぎも、そして、にんにくも」食べた。それはエジプトでの生活での楽しかった一面かも知れません。偶像の前に祝宴をし、戯れている姿は、楽しかったのかも知れない。けれども、そんなことにまさる奴隷としての苦しさ、苦難のゆえに、彼らは苦しみうめき神を呼び求めたのです。ところが、その苦しみから解放されたとたんに、そのエジプトでの享楽な部分だけをとりあげて、それを求め、偶像礼拝や不品行なことさえも赦されたかのように、それに陥っていく。それは、あたかも、どこまで神に甘えることができるのか、どこまで罪が享受され赦されるかを試みているような姿なのです。しかし、それは間違っている。どんなに神が恵み深い方であろうと、いえ、恵み深いお方であり、私たちを憐れみ救ってくださるお方だからこそ、私たちはもとの奴隷であったエジプトを懐かしんだり、そこに戻ろうと考えてはならないのです。私たちが救い出され、助け出された地を懐かしみ、そこに戻ってはならないのです。そして、私たちが失格者になってしまうとするならば、私たちが救い出された地を懐かしみ、かつての姿に立ち帰ってしまうことによってです。

では、私たちが救いだされた地とはいったいどこでしょうか。私たちのかつての姿とは、いったいどのようなものなのでしょうか。私たちが救い出された地とはどこか、それは罪ということです。私たちのかつての姿とはどのようなものか、それは罪人の姿です。私たちは、罪から救われ、その罪の故、決して逃れることができなかった罪の裁きとしての死、永遠の死から救い出され、人を妬んだり、羨んだり、憎んだり、さまざまな醜い思いに心がかき乱され、恐れや不安に縛られていた罪人の姿から救い出されたのです。だから、けっしてそこに戻ってはならないのです。もし私たちがそこに戻ってしまうなら、私たちは失格者になってしまうかも知れないのです。もちろん、罪の誘惑は非常に強いものですし、私たち自身は、罪の誘惑に対してとても弱い存在です。ですから、神の救いの恵みに与っていても、簡単に罪の誘惑に負け、罪に落ちいってしまうような者です。人を愛し優しくするよりも、憎んだり、嫌ったりする方に傾きがちです。きよく正しく生きるよりも、安易に、自堕落に生きる方が楽しく感じてしまいます。そして、苦しいときには、神に信頼するよりも、神につぶやく者なのです。そのように、私たちは、自己中心的になりがちなのです。だからこそ、パウロは、過去のイスラエルの民の歴史を、思い出させるのです。過去に、神の恵みによって愛され、神に救われた民がどんな過ちに陥ったかを、私たちに思い起こさせ警告するのです。それは、同じ過ちに私たちも陥るからです。

だからこそ、そのような過ちに陥りそうになったら、また陥ってしまったとしても、イスラエルの民の過去の歴史に刻み込まれた失敗の歴史に目をとめて、神に立ち帰ることが大切なのです。なぜなら、さきほども申しましたようが、神は私達を決して見捨ててはおられないからです。そして神は、私たちを愛し、私たちを顧みてくださっているのです。だからこそ、神は私たちの弱さをちゃんとしてくださっている。その弱さを知り、過ちや失敗をしてしまう者であることをちゃんと知って下さっているのです。つぶやきやすく、自己中心になりがちであることをちゃんと知って下さいます。知っておられるからこそ、神の手は、いつも私たちの方に差し出されているのです。この私たちに差し出されている手こそ、試練の中にあっても逃れることができる道なのです。試練の中でつぶやくときも、罪の誘惑の中で過ちに落ちることがあっても、神の聖さと正しさを知り、何よりも真実で変わらぬ愛で、私たちを救い憐れもうとして手を差し伸べ続けて下さることを知って、神を信じ、主イエス・キリスト様に救いを求める者を、子なるイエス・キリストはとりなして下さり、父なる神は、その執り成しによって私たちを赦し受け入れて下さり、聖霊なる神は、その赦しと救いを私たちの心に確信させてくださいます。だからこそ、私たちは、いつでも、どんなときでも、神を信じる心を大切にし、イエス・キリスト様に寄りすがる気持ちを持ち続けなければなりません。

どんな苦難や試練があったとしても、あの奴隷の地で苦しみもがいていた民を、当時の国力では誰も抗うことができないと思われるようなエジプトの大帝国から、救い下してくださった神が、私たちのために、試練から、苦しみから救い出す逃れの道を用意してくださっているのです。そのことを信じて、神を信じる信仰のうちを共に歩いていこうではありませんか。「神は真実で正しい方ですから、あなたがたを絶えられない試練に会わせるような方ではありません。試練と同時にそれに耐えられるように逃れの道をも用意して下さっているのです。」この聖書の御言葉を信じて、神を信じて生きていく者でありたいと思います。

お祈りしましょう。