『神を第一として』
コリント人への第一の手紙 10章14−21節
2008/9/21 説教者 濱和弘
さて、今日の聖書箇所は、「それだから、愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。」という言葉で始まります。「それだから」という言葉は、その前に書かれている10章1節から13節に記されている内容を受けて、「愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。」というわけですが、その10章1節から13節までに何が書かれていたかというと、そこには、イスラエルの過去の歴史の中で、イスラエルの民がさまざまな過ちを犯し、信仰から離れてしまい、神から裁かれてしまった出来事が記されていました。そのように、イスラエルの人々がさまざまな過ちを犯し、信仰から離れていった原因は、おおよそ次のようなものです。イスラエルの人々は、かつて奴隷としてはエジプトで奴隷として捕われていました。しかし、神はその奴隷としての生活の苦しさに呻きあえぐイスラエルの民を救い出してくれたのですが、イスラエルの民がエジプトで奴隷として生活した期間は、おおよそ400年間にもおよびましたから、そこでさまざまなエジプトの生活習慣に慣れ親しんでいったのです。その中には、偶像礼拝する際に持たれた祝宴で食べた食事や踊り戯れたこと等があります。
10章7節には、「民は座して飲み食いをし、また立って踊り戯れた」というのですから、それは楽しいものだったのでしょう。その、楽しかったことを思い起こし、その「飲み食いをし、踊り戯れる」楽しみを求めて、イスラエルの人々の中の一部の人たちが偶像礼拝に立ち帰ってしまったのです。そのため、彼らは聖書の神を信じる信仰から離れてしまったのです。あるいは、エジプトから救い出されたイスラエルの人々が、神が与えると約束した約束の地を目指して旅をしている途中で、シッテムという地にやって来たときに、そこにいたモアブ人の娘たちとみだらなこと、すなわち不品行に陥ってしまい、偶像礼拝をするようになってしまって神から離れてしまったということもあります。それは不品行という快楽によって偶像礼拝を行うようになったと言うよりは、偶像礼拝に参加し、その偶像礼拝の中で行われていたみだらな行ないに加わり、その儀式で覚えた快楽に引き込まれて、聖書の神を捨ててしまったといった方がよいかも知れません。いずれにしても、イスラエルの民が、神を捨て、信仰から離れてしまった原因は、偶像礼拝に伴う饗宴の楽しさや、古代の偶像礼拝の儀式で行われていた性的儀式の快楽に溺れてしまったからです。そのように、イスラエルの民は、せっかく神が奴隷であるエジプトの地から救い出してくださり、神の民としてくださったのにもかかわらず、偶像礼拝の儀式によって、その救いの恵みから離れていったのだから、あなたたちも、同じ過ちに陥らないように「偶像礼拝を避なさい」というのです。
もっとも、「偶像礼拝を避けなさい」とパウロはこういうわけですが、パウロは偶像そのものに何か力があると考えて恐れているわけではありません。すでに、コリント人第一の手紙8章において見ましたように、パウロは、偶像に供えた物を食べても良いかどうかという問いに対して、この世に偶像なるものは存在しないとはっきりと明言しています。ですから、どのような偶像を見せられても、それは単に人間の手によって作られたものに過ぎず、何の意味もないものです。それは、パウロだけの理解ではありません。コリントの教会の中にもパウロと同じように考えている人たちがいたのです。彼らは、聖書の神が唯一の神であるならば、他に神など存在しない。だから偶像の神など神ではないのだ。わたしたちは、そのようなことは知識として持っている、と自らを誇っていたのです。だとすれば、パウロの、この「偶像礼拝を避けなさい」という言葉は、コリントの教会にあって、いまだ偶像には何らかの力があると信じている人たちに向けられて語られた言葉でしょうか。いや、そうではないのです。むしろパウロは、「神が唯一の神であるならば、他に神など存在せず、偶像の神など存在しない。わたしたちは、そのようなことは知識としてちゃんと持っている」と自負している人たち、彼らは、自分たちのことを「強い人」と呼んでいたようですが、その「強い人」に対しして、「偶像礼拝を避けなさい」といっているのです。
考えてみますと、偶像には何かしら力があると考える人は、偶像に近づくことはありません。偶像の怖さを感じ、偶像に近づくことは自分の信仰にとって危険なだと思っているからです。だから危険なものに近づこうとはしませんし、むしろ、それから遠ざかろうとさえします。当然、偶像礼拝の儀式自体も避けようとするのです。しかし、偶像それ自体には何の力もないと確信しているならば、それこそ偶像に供えられた肉であったとしても平気で食べることができますし、偶像礼拝の儀式に参加しても、それ自体は何ら意味のないものなのです。だから、偶像礼拝の儀式に平気で参加することもできるのです。しかし、パウロは、この、偶像の神など存在ないのだから、別に偶像礼拝の儀式に参加しても平気だという意識が問題なのです。実際、パウロがここで偶像礼拝を避けなさいといっているのは、偶像礼拝の祝宴に参加することを避けなさいということなのです。実際に、コリントの教会では、犠牲がささげられた場合、そのささげた肉の一部がささげた人に返され、その人はその肉で祝宴を開く習慣があったようです(バークレー注解)。パウロは、その祝宴に参加することは偶像礼拝に繋がるから避けなさいというのです。これは、考えてみると支離滅裂な主張です。パウロ自身、偶像の神など存在しないと言います。また、それだから偶像にささげられた肉を食べることも本来的には問題がないと言うのです。しかし、その偶像にささげられた肉を用いて開かれる祝宴に参加することは偶像礼拝になるから、避けなさいと言うのです。
このような主張は、極めて不思議な感じがします。それこそ、ご飯を食べても良い。梅干しを食べても大丈夫、だけどもおにぎりを食べたら毒になるから食べるのを避けなさいと言っているがごとしの発言のように思われます。だとすれば、パウロは一体何を言おうとしているのでしょうか。わたし自身、なんとも理解しがたいことだと思い、しばらく考えてみました。そうすると、ふとあることに気が付いたのです。それは、どうしてコリントの教会の人たちの中であえて、この偶像にささげられた肉によって開かれる祝宴に参加するのだろうかということです。もちろん、その祝宴を開いた人は偶像に肉をささげた人ではありませんから、祝宴を開いた人は宗教的な意味をもって、その祝宴をコリントにある偶像の神殿(アフロディアの大神殿や、女神デメテルやコレの神殿、医の神アスクレピオスの神殿等)で開き、客を招きます。その祝宴のもつ宗教的意義とは、おおよそ次のようなものです。それは、その祝宴の場には神も招かれて臨席しており、そのささげられた肉を食べるとき、そのささげられた肉の中にも神が入っており、それを食べた人の体の中に偶像の神が入り込み、偶像の神と人との間に解かれることのないちぎりが結ばれるのだということです。それだけではなく、そのような宗教的意味を持った祝宴に参加することは、その交わりに加わるという事を意味するのです。つまり、クリスチャンが、そのような偶像礼拝に基づく祝宴に参加するということは、単に食事をするということだけではなく、それは偶像の神を崇める宗教的交わりのメンバーになるということでもあるのです。ですから、このコリントの町で行われていた偶像礼拝の祝宴は、今日の私たちが仏式の葬儀に出席するようなこととは全く性質が違っています。つまり、もっと積極的な意味で信仰的共同体を形成するような交わりに加わっていくことだと考えられるのです。だとするならば、それはやはり避けるべきことだと言えます。
たとえ、いかに偶像の神が存在しないとわかっていても、また偶像にささげられた肉を食べることは何の問題もないとしても、そのような祝宴に参加することは、唯一の神を信じるものが、偶像の神を信じる宗教的交わりに身を置くことは問題なのです。だからこそ、パウロはここで、教会の聖餐のことを持ち出すのです。それは、聖書の神を信じ、クリスチャンになったものは、キリストの聖餐という祝宴に与るからです。聖餐式において、私たちはキリストの体なるパンと、キリストの血である杯を食します。もちろん、聖餐式で用いられるパンとぶどう酒は(ぶどうジュース)、神学的には物素といいますが、このパンとぶどう酒は、物質としてはパンでありぶどう酒でしかありません。しかし、そのパンとぶどう酒には、キリストが共にいて下さるのです。ですから、私たちが聖餐のパンと杯に与るとき、私たちはキリストとの固い絆に結ばれるのです。同時に、私たちはキリストの体である聖餐のパンと、キリストの血である聖餐の杯に与るとき、共に一つのキリストの体に結びあわされるのです。この一つのキリストの体、それは教会です。しかも、この三鷹キリスト教会という、具体的に目に見えて存在している教会ではなく、世界中の教会を包み込みキリスト教の2000年に歴史にまたがるところのすべての教会を包み込む、スケールの大きい目に見えない教会に結びあわされているのです。そういった意味で言うならば、キリスト教会は聖餐共同体、聖餐の交わりと言うことができます。だからこそ、一日も早く洗礼を受け、この聖餐の共同体に加わって欲しいと願うわけですが、しかし、いろいろな事情で洗礼を受けることができないでいらっしゃる方もいる。そのように、事情があって洗礼を受けることができず、聖餐に与ることのできない方も、こうして礼拝を共に守るものとされているということは、その方も、そのような聖餐を中心にした聖なる共同体に招き入れられています。
そうやってキリストと深いちぎりを結び、またキリストを信じる信仰によって結ばれた共同体である教会に招かれ、教会を築き上げている一人ひとりだからこそ、信じるお方は、ただ一つ、父なる神、子なる神、聖霊なる神が一つに結び合わされているところの三位一体の神以外にはおられないのです。だからこそ、神を信じ、キリストを信じたものは、もはや他の神々を信じるところの信仰共同体に身を置くことができないのです。そのような思いの中でパウロは「偶像を避けなさい」とそう言うのです。なのに、現実には、コリントの教会に中の「私たちは、知識を持っている」と自負している人は、そのような偶像礼拝に基づく祝宴に、あえて、しかもたびたび出席していたのです。それは、一つに、このコリントにある神殿で行われていた偶像礼拝の祝宴の社会的・文化的背景があるのです。というのも、この偶像礼拝の祝宴は、宗教的意味合いと同時にコリントの人たちにとって社会的立場の安定と昇進にとって、重要な役割を果たしていたからです。ですから、政治的野心や上昇志向の強い人にとって、この偶像礼拝の祝宴に参加することは必要不可欠なことであった(村山盛葦)ともいわれますし、偶像礼拝の祝宴に参加しなければ社会的地位が危険にさらされることもあったのではないかと推測する人(G・Thiessen)もいるぐらいです。
また、この偶像礼拝での祝宴は、彼らにとって楽しいものでもあっただろうと思われます。と申しますのも、以前にもお話ししましたが、このコリントの町の風紀は極めて良くなく、ギリシャ語でコリント人のように振る舞うという意味のコリンティアゼスタイ(κοριντιαζεσται)という言葉は、放蕩するとか自堕落な生活をするという意味であったほどに風紀が乱れていたのです。ですから、コリント人といえば、何かどんちゃん騒ぎにあけくれる向こう見ずな金持ちのどら息子のことを思い出させるようなイメージであったほどなのです(W・Barclay)。また、コリントの町にある神殿、特に女神アフロディアに神殿には千人もの神殿娼婦がいたというのですから、不道徳なこともコリントの町では日常的に、当たり前のように存在していました。そのようなコリントの町の人が催す祝宴ですから、そこで行われていた祝宴は、いわゆるディナーのような社交的なものではなく、それこそ健全なものではなかっただろうと思われます。そして、それは人々の享楽や快楽の心を満たすものであっただろうと想像できるのです。そのように、考えますと、パウロが「それだから、愛する者よ、偶像礼拝を避けなさい」と命じる根拠に、かつて、イスラエルの民が、偶像礼拝をし、「飲み食いをし、立って踊った」という享楽に溺れ、モアブ人の娘たちと偶像礼拝の場で行われていたみだらな行ないの快楽に陥って、神から離れていった姿をあげたこともうなずけます。おそらく、コリントの町で行われていた偶像礼拝の祝宴は、それを彷彿させるようなものだったのでしょう。つまり、偶像礼拝の祝宴は、享楽や快楽といった人間の肉欲を満たすものでもあっただろうと思われるのです。
ですから、コリントの教会の中にいた「強い人」と呼ばれる人たちは、「偶像の神など存在しないのだから大丈夫だ」と理由づけて、そのような偶像礼拝の祝宴に参加することは、人々の出世欲や、政治的野心を満たすために、その偶像礼拝の祝宴に参加し、キリストのからだなる教会に属しつつも、偶像を中心とした宗教的共同体の中にも身を置くかのようにしていたのです。しかし、それはけっして正しいことではないのです。確かに、知識においては彼らは正しいかも知れません。事実、聖書の神以外に真の神は存在せず、偶像礼拝など何の意味もないことです。しかし、だからといって、それを理由にして、享楽や快楽にふけるような場に参加するというのは、正しいあり方ではないのです。パウロは、そのようなあり方を「神ならぬ者に仕える」ことであり、「悪霊の仲間」になることだといって、激しく非難するのです。それは、本当に厳しい言葉です。けれども、それほど厳しい言葉で望まなければならないほど、それは重大な問題なのです。
彼らは、偶像の神を求めてその祝宴に出席するわけではありません。その意味で彼らは偶像礼拝するものではありません。しかし、彼らは、自分の出世欲や政治的野心、あるいは肉欲を満たすためにそこに出席するのです。ですから、彼らは、人間の手で彫った偶像に仕えることはしませんが、自分自身の欲望に仕えているのです。そういう意味では、彼らは、自分自身の欲望を偶像にしてそれに仕えているのです。つまり、自分の欲望や願いが第一となっていて、神との関係は第2、第3になってしまっているのです。だから、その自分の欲望を満たすために、偶像の神とちぎりを結び、その偶像の神を中心とした宗教的共同体を築く祝宴に、あえてしばしば出席するのです。パウロは、そのような人の姿をピリピ人への手紙3章19節でこのようにいっています。「彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。」文語訳聖書では「おのが腹を神となし、己が恥を栄光となし、ただ地の事のみ念(おも)ふ」となっていると思いますが、ここでいわれているのは、「おのが腹を神となし」とは、自分の欲望や願いが、何よりも優先されなければならない第一の存在であり、この地上での豊かな生活や名誉、地位といったもの栄光を手に入れることが第一となっている人の姿であり、それが行き着く先は滅びなのだというのです。それは、第一としなければならない神を第一とせず、自分自身の欲望を神としているからです。じつは、これこそが、本当の意味での偶像礼拝であり、恐るべき偶像礼拝の実体なのです。けれども、それは、この当時のコリントの教会の、その中でも特に「自分は知識を持っている」と誇っている「強い人」と呼ばれている人だけの問題ではありません。どの時代であっても、クリスチャンでありながら、同時に、自分自身の欲望を第一とする、いわば「自分教」の偶像礼拝に陥る可能性は十分にあるのです。
たとえば、皆さんは、私が非常に保守的な礼拝観を持っていることをご存知です。それこそ、ホーリネス教団の中にあってはかなり保守的であり、礼拝ではいわゆるゴスペルを用いたりしません。むしろ、 指向としては、カトリックよりの古典的なスタイルの方を向いています。けれども、これまた古い皆さんはご存知のように、昔は、教会でギターを弾き、当時キリスト教会内の若者の間で流行っていたゴスペルなどを積極的に取り入れていこうとするようなものだったのです。実際、教会の礼拝でも、そのようなゴスペルを取り入れるべきだとおもっていました。しかし、あるとき、礼拝ということを真剣に考えたときに、そのような自分自身の姿勢について考えさせられたのです。それは、なぜ自分は、ゴスペルのようなものを、もっと教会に、また礼拝に取り入れた方が良いと考えているかということです。結果として行き着いたのは、要は、自分はその当時ゴスペルフォークと呼ばれていたような音楽が好きだったからです。そこには、神を礼拝するということがどういうことであるかを考え、神を畏れ敬うところの礼拝に、どのような曲調がよく、どのような歌詞が良いかを考えて賛美をするのではなく、自分の好きな音楽スタイルで、自分の歌いたいもの、自分の歌いたい曲を歌おうとしている自分の姿があったのです。私は、そのとき自分自身に愕然としました。神を第一とするべき礼拝の場なのに、その礼拝に対して自分自身の思いを優先し、それを求めている。それは神を第一としている姿勢ではなく、自分自身を第一としているまさに「おのが腹を神となし」ている姿であり、自分自身を偶像としている姿だったからです。神を賛美するのだといいつつ、結局は自分の好きなこと、やりたいことを求めている。それは、ここでパウロが「偶像礼拝を避けなさい。」といわれている人の姿と何ら変わりないのです。
また、聖書学院で学んでいるときに、聖書学院の学生で賛美の集会を持った事があります。実際、その当時の聖書学院では、たびたび賛美集会がもたれたのですが、ある時、みんなで賛美している時に、ふと自分がその賛美の中で陶酔感を感じている事に気が付きました。陶酔感というのは、心地よい快感です。いつまでもそこに浸っていたいような感覚がそこにあります。けれども、自分が陶酔感に浸っていると気が付いたとき、同時に非常な恐れを感じました。というのも、キリスト教の信仰は、特にプロテスタントの教会は、神の言葉にたち、神の言葉に養われ、現実の世界の中で神に従って生きることであり、その喜びは、神が私たちの罪を赦し、確かな救いの約束を与えてくださっているという確信の中にあるのであって、陶酔感の中にその喜びを見出すものではないからです。むしろ、そのような陶酔感の中に喜びを見出す生き方は、原始教会が必死に戦っていた東洋神秘主義的密議宗教のあり方なのであって、それはキリスト教のあり方ではありません。そして、そのような陶酔感の中に、神を見出していく姿は、聖書の言葉の中に神を見いだし、日々の生活の中に神を見だしていくキリスト教のあり方とはことなるものです、そして、それは、自分自身を神とする生き方に繋がっていく危険性が非常に大きいものなのです。ですから、それ以来、わたしは賛美ということに非常に注意を払うようになりました。それは、私たちの信仰生活において、第一とされるべき神が第一にされず、自分を第一とされてしまうことがないようにです。それは賛美だけではない、すべてのことについて言えるのです。もしそうでなければ、私たちは、信仰の知識は正しく持っていたとしても、そのあり方においては、このコリントの教会の「強い人」と同じになってしまいます。そして、かつてのイスラエルの民が、自分の楽しみや快楽をもとめ、神から離れていった過ちと同じ過ちを犯し、それこそ神のねたみを引き起してしまう者となるかも知れないのです。
ですから、私たちは、神を第一し、神を第一に考えるという姿勢を大切にしたいと思います。何か行動をするとき、何か考えるとき、ちょっと立ち止まって、「自分は、本当に神を第一としているだろうか」を考え、自分自身をチェックしてみるものになりたいと思います。そして、「このような場合、神を第一とした行動はどのようなものか」を考えたいと思うのです。そのように、考えて「何が神を第一にした行動か」がわかっても、必ずしもそうすることが出来ないこともあります。いや、そういったことの方が多いのかも知れない。しかし、「何が神を第一にした行動か」がわかっていれば、それをすることができないありのままの自分を神の前に持ち出し、神の赦しとあわれみの恵みの中で生きていくことができます。自分自身のあり方も修正できます。ですから、私たちが「神を第一にする」ということが意識されている限り、私たちの信仰は決して揺るぎこともなく、失われることもありません。また、私たちが目指しているところを見失うこともないのです。私たちは、神を信じるものとして、「神を第一とする」ことを意識して生きていくものとなりましょう。
お祈りしましょう。