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メッセージ

羊飼い 『正しい自由の用い方』
コリント人への第一の手紙 10章23−33節
2008/9/28 説教者 濱和弘

さて、私たちは、コリント人への第一の手紙8章1節から、今、司式の兄弟にお読み頂いた今日の聖書箇所まで、ずっと、コリントの教会で問題となった偶像に供えられた肉を食べてよいのかどうかというテーマから、さまざまなことを学んできました。パウロが、この偶像に供えられた肉を食べて良いかどうかという一つのテーマで、8章から10章までの3章をかけてさまざまな話をしているということは、それがコリントの教会の文化や生活の中に、いかに深く根ざしているかということを物語っています。じっさい、偶像の肉を食べて良いかどうかということの結論は、8章の段階で、本質的には偶像に供えられたのに肉を食べても何ら支障はないということが明らかにされています。けれども、だからといって、すべて事に問題がなく、すべての人に問題がないというわけではありません。たとえば、その具体的な例のひとつが、先週お話し致しましたところの、偶像礼拝の祝宴に参加して良いかどうかという問題でした。コリントの町においては、立身出世や政治的野心を満たすためには、偶像礼拝の場で持たれる祝宴に出席することは大事なことでした。そして、偶像礼拝における祝宴は、私たち人間の享楽や肉欲を満足させるような席でもありましたから、そのようなものを求めて偶像礼拝の席に出席するのは避けなさいとパウロは、そう言うのです。それはまさに、偶像にささげられた肉を食べても問題はなく、食べる自由も与えられているのだが、それを理由に、自分自身のことばかり考えて、神を第一とすることを忘れてしまっているならば、それは問題があるのだというのです。まさに、今日の聖書箇所の冒頭にある23節、「すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。しかし、すべてのことが、人の徳を高めることがない」ということであろうと思います。

そして、偶像の肉を食べることがすべての人に問題がないわけではないということが、今日の聖書箇所の24節以降の問題に関わってくるのです。つまり、本来は、偶像の肉を食べてもなんら差し支えがなく問題もないのですが、偶像を食べることで問題となる人もいるということなのです。では、どういう人が問題になるかというと、偶像にささげられた肉には、何か特別な宗教的な意味があると考える人たちです。つまり、当時のコリントの町では、偶像にささげられた肉には、偶像の神がその中に入り込み、それを食べる人に、偶像の神の力をあたえると考えていたのです。そして、クリスチャンであっても、そのような力があるのではないかと考える人がいました。ですから、そのような、人の前で、偶像に供えられた肉を食べることは、その人をつまずかせてしまうことがあるから、食べることは控えようというのが、コリント人への第一の手紙8章13節のパウロの態度です。もちろん、クリスチャンであってかつ、偶像に供えられた肉に何らかの力があると考えていた人がいるのは、そのような考え方が、根深くコリントの町に浸透していたからです。ですから、クリスチャンでないコリントの町のほとんどの人は、当然そう考えていたと思われます。

パウロは、そのような人の前で、クリスチャンが、いかに問題はないからといって、偶像に供えられた肉を食べることには配慮する必要があるというのです。特に、今日の聖書の箇所においては、市場で売られていた肉を食べる際にという、特別な状況での配慮について語られています。もっとも、市場で売られている肉を食べるということは、決して特別な状況ではありません。それは、極めて日常的なことです。しかし、それでもあえて、市場で売られている肉について、言及されているのは、おそらく市場で売られている肉の中に、偶像に供えられた肉が出回って売られているという状況があったからだろうと思われます。ですから、コリントの教会のクリスチャンは、普段の生活で、偶像に供えられた肉を口にするという状況が、ごく自然にあったと考えられるのです。そのようなときに、パウロは、あえてその市場に供えられた肉の出自を問うような特別な配慮をしなくても、25節26節にあるように、自由にそれを食べてよいというのです。そこには、クリスチャンの持つ自由さがあります。むしろパウロが問題にしているのは、クリスチャンでない方に食事の席に招かれた場合の話です。この場合、10章14節から21節までで述べられた偶像礼拝の祝宴の席ではなく、ごく普通の食事の席に招かれた場合であろうと思われます。それは、25節26節で、あえて市場の供えられた肉を、自分の家庭の食卓で自由に食べても良いという言葉と対比させていることからもうかがえます。いずれにしても、クリスチャンでない方に食事に招かれた時には、出されたものは何でも自由に食べても良いが、しかし、だれかが、「これは、偶像にささげられた肉ですよ」と言うのであるならば、それは食べない方が良いというのです。

この「これは、偶像にささげられた肉ですよ」と言ってくれた誰かとは、一体どのような人かについて、パウロは明確に記していません。それで、いったいどんな人だろうと思い、幾つかの注解書を見てみましたが、ある注解書では、それはクリスチャンであっても偶像の肉には何らかの偶像の力が宿っていると考え、偶像に供えられた肉を食べることに対して、不安と恐れを感じている人だと断定していました。確かに、招いてくれた人はクリスチャンではない人だと、27節はっきり書かれていますが、自分一人だけではなく、他にも招かれ、同じ食卓に着いている人がいる場合もあるのですから、その列席者の中に、そのような恐れを感じている人がいるということも考えられます。そのような場合には、先のコリント人への第一の手紙8章13節にある、「もし、食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは永久に、断じて肉をたべることはしない」という、パウロの原則が働いているといえます。つまりそれは、そのような恐れを抱いている人の前で、食べることによって、そのような不安と恐れを持っている人が、そのような恐れと不安を持ったままで、偶像に供えられた肉を食べることによって、その人の信仰の確信が揺るがされてしまう事がないようにという配慮からの行動なのです。そこには、偶像に供えられた肉を食べることに躊躇を感じるクリスチャンの対する配慮があるのです。

しかし、招いて下さった方がクリスチャンでないのですから、必ずしも他にクリスチャンの同席者がいると断定できない場合があります。特に、出された肉が偶像にささげられた肉であるかどうかまで知っているとなると、同席者がそれを知っていると言うよりは、普通に考える限り、招いて下さり、その肉を料理してくれた人がそのことを知っていると考える方が妥当な事のように思われます。ですから、この「これは、偶像にささげられた肉ですよ」といってくれた誰かというのは、クリスチャンの同席者というのではなく、招いて下さった招待者である可能性も純分に考えられます。いえ状況から言ったら、その可能性の方が多いだろうさえ思うのです。この場合、相手がクリスチャン以外の人ですから、どのような意図、どのような気持ちで「これは、偶像にささげられた肉ですよ」と言ってくださったかということが問題になります。あえて、「これは、偶像にささげられた肉ですよ」といってくださるのですから、何らかの考えがあるはずです。一つは、伝えてくださった方の悪意によるものです。つまり、「これは偶像に捧げられた肉だけれども、どうだ、食べることができるか。食べるのが恐いのだろう」といった挑戦的な態度です。もしそのような挑戦的な態度であれば、それこそ、偶像の神など存在しませんから、食べても何も恐いものはありませんといって、食べてもかまわないのでしょう。もちろん、そのような悪意を持って、自分の家に人を招待する人など、あまり見かけたこともありませんし、私自身そのような経験はありませんので、それは2000年前のコリントの教会でも、そのようなことは、ほとんどなかっただろうと思います。人間、時代や地域が違っても、本質的なところではさほど変わらないものです。

ですから、ここで、「これは、偶像にささげられた肉ですよ」と言ってくだっている方というのは、そのような悪意から、挑戦的な態度で言っているわけではありません。28節、29節にささげてくれた人のために、良心のため食べないが良い。良心とは、自分の良心のためではなく。他人の昇進のことである。」とありますので、それは、悪意ある人のためではなく、善意をもって言って下さった人のために食べないが良いということだろうと考えられるのです。では、どのような善意であったのか。おそらくそれは、「これは、偶像に供えた肉ですが、クリスチャンのあなたは、この偶像に供えられた肉をお食べになっても、大丈夫ですか。」という気持ちで、言ってくれたのだろうと思うのです。そして、その方は、真剣に偶像の神を信じ、偶像にささげられた肉には、神の力が宿っていると考えている。だから、あえて「これは、偶像に供えた肉ですが、クリスチャンのあなたは、この偶像に供えられた肉をお食べになっても、大丈夫ですか。」と問いかけているのだろうとおもうのです。そこには、違う信仰の立場に立つ人に対する配慮があります。当然、そのような配慮の背後には、ですから「信仰的に問題があるとお感じになられるのでしたら、お食べにならなくても良いですよ。」という善意の思いがあると考えられます。

だとすれば、「偶像の神などは、もともと存在しないのですから、偶像に供えられた肉にも何に意味も力もありません。だから食べても大丈夫です。」といって食べるならば、それは、相手の人の信じている信仰を頭ごなしに否定することになり、善意の配慮に対して挑戦的な態度で応答することになります。もちろん、言っていることは正しいのですが、そのような態度は、反感を生み出すようなものであっても、うるわしいものではありません。だからといって、そうですか、といって黙って食べるならば、偶像の供えた肉がもつ力といいますか、御利益といったものを認めることになります。特に、クリスチャンは、食事を感謝して頂くわけですから、そのように、あえて「これは偶像に供えられた肉です」と告げられ肉を感謝して食べるとするならば、偶像の神を認めることになりますし、相手の偶像を信じる確信を更に増し加えるようなことになってしまい、それも良くないことです。どんなに謙遜になっても、私たちは聖書の神が、神以外に神は存在していると考える事はできませんから、偶像の神をみとめ、その偶像の神に対する信仰を強め、増し加えるとするならば、やはり偶像にささげた肉を食べるわけにはいかないのです。それは、相手の偶像を信じる信仰を増し加えることによって、真の神につまずかせる事にもなるからです。

たとえば、私は皆さんもご存知のように剣道を学んでいますが、剣道では、だいたい稽古の初めに正座をし、黙想をして心を静めて整えて稽古に望み、最後に同じように心を静めてその日の稽古を思い返し、反省して稽古を終わります。その正座の時、普通は手を前にしおへその下のあたりに置き、手のひらと手の甲を合わせるかたちで下にして親指を薄紙一枚分のすき間を空けて触れ合うようにして印を組みます。これは、仏教で言うところの定印とか法界印と呼ばれる印で、釈迦が悟りを開いたときの手の組み方で心の安定をあらわすものなのだそうです。じつは、私自身は、稽古の始まり、終りの時の正座の時には、この印を結ぶ坐り方をしません。むしろ、柔道の正座の仕方で座っているのです。というのも、道場によっては、剣道の正座における手の組み方が仏教由来のものであることを示し、その意味を伝える所も少なくないからです。私も実際にそのような、正座の仕方をする意味を、剣道を始めて教わったのです。たとえば、仮に印を結んだとしても、それは形だけの事ですから、印を結ぶ剣道式の正座をしても良いのですが、そのことによって、何かが変わるということではありませんが、しかし、印を結ぶ事で仏教的思想をキリスト教でも全面的に認めているというような、そんな感じになるのが嫌で、印を結ばないでいるのです。もちろん、剣道をしているほとんどの人は、そのような仏教思想をもとに印を結んでいるわけではありませんし、印を結ぶことに対する宗教的意義を認めているわけでもありませんので、別段、私が印を結ぼうと結ばまいと、何らも関係もないので、別に咎められることもありませんが、そこには私の小さなこだわりがあるんです。

そのことを、思いながら、さらに「これは、偶像に供えられた肉です」と言われたこの聖書の場面に対して想像力をふくらませるならば、「これは、偶像にささげられた肉ですよ」と言って下さった方は、偶像の神など全く信じていないけれど、相手がクリスチャンだから「これは、偶像に供えた肉ですが、クリスチャンのあなたは、この偶像に供えられた肉をお食べになっても、大丈夫ですか。」と気遣って下さったという事だって考えられるかも知れません。そのような、場合は、そのような気遣いに感謝しながら、「私たちは、聖書の神のみが、唯一の神であって、偶像の神など存在しないと考えていますので、偶像にささげられた肉であっても、それはただの肉と何ら変わりがない普通の肉です、食べても何も問題はありません」といって、それこそ、感謝を捧げて、それを食べればよいのです。むしろ、それが真の神を証することにも繋がることさえあるからです。このように、異教的信仰が根付いているところに暮しているならば、食事に招かれ、そこに信仰的意味を持った食べ物が出てくるという、ごく日常的な出来事の中にも、さまざまな状況が想定できるのですが、しかし、どのような状況であっても、じつは私たちは自由に振る舞うことができるのです。ですから、今日の聖書の箇所におけるような状況においては、場面場面、状況状況において、さまざまな対処の仕方があるのです。そして、私たちは、どのような対処の仕方においても自由に対処することができる。

しかし、そのように自由に対処ができるのに関わらず、パウロは、あえて食べないが良い、とアドバイスを与えているのです。クリスチャンは、そのように自由にされたものであるからこそ、パウロはここで、クリスチャンは、その自由をどのように用いるべきであるかという行動の基準を、私たちに教えているのです。それは、その行動が、神の栄光を表わすかどうかということです。私たちは、キリストを信じる信仰によって自由にされています。だからこそ、キリストによって与えられている自由を、自分のために用いるのではなく、人の心を思いやり、かつ神の栄光になることのために持ちなければなりません。いくら自由だからといって、人の心など顧みず、また自分の行動が神の栄光をあらわすものとなっているか、など意識しないで自由気ままに振る舞っていると、それは、人の対して躓きを与えてしまうこととなってしまうのです。聖書が躓きとなるというとき、それは、信仰に対する躓きです。私たちが、相手の心など顧みず、また自分の行動が神の栄光を表わしているかどうかなど一切気にしないで、私たちは自由なのだからといって好き勝手をするということは、大変なことなのです。だからこそ、私たちたちクリスチャンは、与えられている自由を正しく用いる必要があるのです。そして、その正しい用い方として、パウロは、第一に人の心をくみ取り、相手の心を思いやった行動を取りなさいと言うのです。それこそが、他の人の益を求める行動だといえます。そして、さらに、その行動が、神の栄光が表わされるような用い方をしているかどうかということを問いなさいと言うのです。

もちろん、人の益とならないことの中に、神の栄光が表わされることはありません。人の反感を買ったり、憎まれるような行動が神の栄光を表わすことがないからです。もちろん、私たちの行動の結果だけを見るならば、そこには多くの過ちがあり、失敗があり間違いがあります。けれども、相手のことを思いやり、相手の心を気遣って行なった行動は、どんなに過ちや失敗があっても、それが神の栄光を傷つけることはありません。私たちの教会は、ホーリネス教会ですが、ホーリネス教会の言うホーリネスとは、まさに、その相手を思いやり気遣う心を指します。ですから、たとえば、チャールズ・インウッドというひとは、聖化を「全き愛」とよびかえるのです。つまり、きよめとは、神と人とに対して、「全き愛」を動機として振る舞うことなのだというのです。それは、神が与えて下さった自由を、自分自身のために用いるのではなく、神を愛し隣人を愛することのために用いる所に、私たちホーリネス教会のいう、聖化の真骨頂があるということなのです。

そして、その上でさらに、それは人の信仰の躓きになるようなものになってはいないかと問いかけるのです。たとえば、かつてのホーリネス教会は、そしてそれは今もそうなのですが、聖化というものに倫理的な正しさ、そして人格的な正しさを強調してきました。それは、私たちの行動が、神の清さを傷つけ、人が神を信じることの躓きとならないためです。もちろん、それが行き過ぎてしまって、律法的になってしまった側面もあり、それについては素直に反省しなければならないと思います。けれども、あの人がクリスチャンなら、私はクリスチャンになりたくない、などと言われるようになってはならないのです。むしろ、それは、私たちが、多くの人が救われるために、あの人でも、天国に行けるのならば、私も天国に行きたいと思われるようになる必要があるのです。神は、私たちに完全で本当の自由を与えて下さっています。当たり前のことですが、自由には責任が伴います。その責任とは、われわれに与えられた自由を、人の益となり、人に喜ばれ、多くの人の救いのために役立つように用いることなのです。

お祈りしましょう。