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メッセージ

羊飼い 『心から神を礼拝するということ』
コリント人への第一の手紙 11章1−16節
2008/10/5 説教者 濱和弘

さて、先週までわたしたちは、このコリント人への第一の手紙、8章、9章、10章から偶像に供えられた肉という問題を中心に、聖書が何を語ろうとしているのかに耳を傾けて参りました。それはつまり神が私たちに何を語ろうとしておられるかということを聞くということでもあります。と申しますのも、聖書は神の言葉であり、聖書を通して、神は私たちを導いておられるからです。それは、私たちクリスチャンにとって信仰の規範であり、生き方の規範でもあります。ですから、この聖書にどのような態度で向き合うかと言うことは、信仰の根本的姿勢として、極めて重要なことなのです。しかし、同時に、聖書は、古くは、3000年以上まえの、パレスチナ地方や、メソポタミヤ、あるいはエジプトといった地域の影響のもとに書かれていますし、新しくても、2000年前のパレスチナや、ギリシャ、ローマ世界の影響のもとで書かれています。ですから、その時代の、その地域の文化や社会といった歴史的背景の元で書かれていることも、また、間違いのないことなのです。そのことは、私たちが聖書の言葉に向き合うときに注意しておかなければならないことだといえます。なぜなら、聖書の言葉は、誤りない神の言葉ではありますが、その聖書の言葉を理解する場合、機械的にそれを私たちの生活に当てはめるならば、そこに無理が生じる場合もあるということです。というのも、時代がちがえば、文化的、社会的背景も違えば思想的な背景も違ってくるからです。ですから、私たちは、聖書は、そのような時代的・文化的背景による制約を受けて書かれている言葉だということも認めなければ成りません。そして、聖書に書かれている内容が、より具体的な問題であるとするならば、よりいっそう注意して、そこに書かれている内容を注意してとらえ、そこで何を言おうとしているのかということを理解しようと務めなければなりません。そして、そこでいわんとしていることを、どのように私たちの生活に反映させるかということが大切なのです。

たとえば、私たちがこのコリント人への第一の手紙の8章、9章、10章から学んできたところも、問題の中心にあったものは、偶像にささげられた肉を食べても良いかどうかでした。たしかに、偶像にささげられた肉を食べても良いかどうかというのは、コリントの町に住む人々にとっては、極めて日常的な具体的な問題だったといえるでしょう。しかしそれは、当時のコリントの町に住むクリスチャンにとっては、日々の生活の中で切実な問題であり、だからこそ、教会を二つにわって分裂を起しそうになるほどの重要な具体的な問題であったのですが、今日の私たちにとって、偶像にささげられた肉の問題が、それほど重要になるかと言ったならば、必ずしもそうではありません。そもそも、私たち日本人にとって、また世界中にいる多くのクリスチャンにとって偶像にささげられた肉に、偶像の神が宿り、その偶像に供えられた肉を食べると、偶像の神の力が宿るなどという考え方はありませんし、そもそも偶像に供えられた肉を食べるという事自体、なかなかピントこない出来事なのです。ですから、ただ単に、この聖書の箇所を読んで、偶像にささげられた肉を食べてはいけませんなどといいますと、それは、徒手空を打つような空しい言葉になりかねません。だからこそ、私たちは、コリントの第一の手紙の偶像にささげられた肉の問題を通して、偶像にささげられた肉を食べることの是非を問うのではなく、そこから神のことより自分のことを第一にしてしまう生き方の危険性を学び、それこそが、真の自分を偶像にした生き方であるということを知って、神を第一にする生き方の大切さを学んだのです。

また、神から自由を与えられている私たちが行動し、決断する際には、その行動に対する動機に、神に対する愛があり、隣人に対する愛があるかどうかを問い、また、私たちの言動が神の栄光を表わすものかどうかを考えなければならないということを学んできたのです。それは、偶像に供えられた肉を食べるかどうかという具体的問題ではありません。しかし、私たちクリスチャンにとっては、どの時代の誰にもいえるような問題です。つまり、クリスチャンの生き方の根底にあるような根本的問題なのです。そこを聖書から読み取っていくことが大事なのです。それは、今日の聖書の箇所、今司式の兄弟にお読み頂いた、コリント人への第一の手紙、11章1節から16節までについてもいえることです。ここで問題になっていることは、祈りのときに女性が、頭にかぶり物して祈らなければならないか、あるいはかぶり物をしなくても良いかという問題です。ご存知かも知れませんが、今日でもカトリック教会では、女性が祈るときに、頭にヴェールをかけて祈ります。しかしながら、私たちプロテスタント教会では、そのようなことをしません。だとすれば、このコリント人への手紙11章1節から16節にある女性のかぶりものの問題は、今日のキリスト教会にあっても、カトリック教会とプロテスタント教会における具体的な問題になりそうですが、私は、それに対して。プロテスタントの諸教会とカトリック教会の間に、そのことについて口角泡立てるような議論があったということを聞いたことがありません。また、この女性のかぶり物についての神学的議論があったということも知りません。いや、ひょっとしたら、多少はあったのかも知れませんが、しかし、それは、末節的な問題であっただろうと思います。というのは、頭にかぶりものをするというのは、その行為自体が礼拝における文化や習慣の問題であって、それが意味しているところの問題だからです。

それは、神に祈る際に、神に対する敬虔さの表れであり、その敬虔さというのは、神と人との間にある秩序にしたがって、神の権威に服するということだからです。だからこそ、私たちが祈るときには、自分の祈りに神を服させ、私たちの願いに神を従わせさせるのではなく、私たちが、神に、私たちの願いや思いを祈りつつも、神の権威に服して、私たちの願いではなく、神が与えて下さる答えに従うという姿勢が大切なのです。その、神と人との間にある秩序や、その秩序に従って神に服するということを、パウロは、このコリントの第一の手紙11章の1節から16節で語っているのですが、そのことを、まず「私がキリストにならう者であるように、あなたがたもわたしにならう者になりなさい。」という言葉から始めるのです。このように、パウロは、コリントの人たちに「わたしにならう者となりなさい」といっていますが、それは、パウロがキリストにならう者だからです。パウロ自身がキリストに習う者として生活し、キリストに習う者として行動しているからこそ、わたしにならいなさいと言うのです。これは、一つには、パウロがキリストにならって生きている生き方を見て、あなたがたも私のように、キリストにならって生きるものとなりなさいという意味もあろうと思います。それは、パウロがコリントの教会の人に、キリストにならって生きるということを示す模範であったということです。

私たちの教会の設立者の一人である加藤亨牧師は、米田豊牧師の薫陶を受け、米田豊牧師の弟子のような存在でした。その米田豊牧師の記念誌追悼する書籍には、加藤亨牧師が書いた「岳父のように」という追悼文が載せられておりましたので、まさに、米田豊牧師にならうものであったことがうかがえます。この米田豊牧師を指導したのが、バックストンという宣教師です。英国の貴族の家庭に生まれ、そのままでも何不自由ない生活ができただろうと思うのですが、神に献身し、宣教師として日本に来て、米子で伝道し、後の日本伝道隊や日本イエス・キリスト教団の母胎となった方ですが、このバックストン宣教師は、きよめを語るのではなく、きよめを見せた人であると言われた人です。まさに、自分の生き方を通して、神の前に、きよめられた生き方とはどんなものかを見せた人であったといわれます。そういった意味では、「私にならうものとなりなさい」というそんな生き方をした人であろうと思います。そのバックストン宣教師に米田豊牧師はならい、その米田豊牧師から加藤亨牧師がならい受けついでいったもの、それは信仰の生き方であり、聖書の前に立つ霊性といったものであろうと思います。米田豊牧師の残していった書物に、旧約聖書講解と新約聖書講解という本があります。この本は、旧約聖書、新約聖書を読みほぐしていった本ですが、決して神学的書物ではありませんし、注解的な書物でもありません。しかし、実に霊的な解き明し、霊解とでも言いましょうか、魂の奥底で聖書を咀嚼し、それを伝えたような書物です。その霊的な深さというのは、おそらくバックストン宣教師に学び、ならったものだろうと思うのです。それを、今度は加藤亨牧師が受けついだといえます。

加藤牧師は、米田豊牧師のような、書物を残しませんでした。唯一「キリストに照らされて」という本を残しましたが、それは説教集です。しかし、それこそがまさに、バックストン−米田豊と受けついだものを、加藤亨牧師が受けついだ証でもあります。米田豊牧師は、バックトン宣教師から受けついだきよめられた生き方というものを、あの旧約聖書講解・新約聖書講解というものの中で表わしていき、加藤亨牧師は、その米田豊牧師から学び受けついだものを説教という形で、私たちに伝えて下さっていたのです。私も、この教会に昔からおられる皆さんと同じように、その説教を聞いて育てられたものの一人です。ところが皆さん、そのように加藤亨牧師の説教によって育てられた一人であるのにもかかわらず、牧師になり、説教をする側の立場になったときに、実は、私は加藤亨牧師の説教を自らの模範とはしませんでした。というのも、加藤亨牧師の説教は、釈義的なもの、神学的なものをこえて、新約聖書と旧約聖書の中に驚くような結び付きを見つけて、そこからメッセージを引き出してくる説教だったからです。それは、ある意味では、非常に独創的な発想であり、発見であったといっても良いだろうと思います。それは、ほとんど天才的発想と言っても良いものでした。それは、神学を学び、聖書釈義を学べば学ぶほど、感じるものでした。だから、私にはあのような説教はできないと思ったのです。

それで、私は松木祐三牧師の説教を模範として、松木祐三牧師の説教をまねするように説教をするようになりました。ところが、いざ、松木祐三先生の説教にならうようになってわかったことは、結局松木祐三牧師のお説教の核にあるのは、説教の仕方や、説教の構造の組みたて方、あるいは言葉遣いといったものではなく、やはり、そこに神の前に真実に生き、心で神の言葉を聞く霊的な姿勢にあったということです。結局、その根底にあったものは、加藤亨牧師と同じものだったということです。それを、どう説教の中で表現するか、あるいは、どのような分野で表現するかの違いはあります。生き方そのもので表現するか、神学の営みで表現するか、あるいは霊的書物で表現するか、説教で表現するかは、それぞれに与えられた賜物によっての違いがあろうかとは思いますが、それぞれの牧師が、私を生かし、私を導き、私を支えて下さったキリストに、私がならい、学んできたように、あなたがたも、キリストにならい、キリストに学んで生きなさいといっているのです。

それでは、この聖書の箇所で、パウロがキリストにならい、キリストに学んだ生き方とは、具体的にはいったい何だったのかというと、それは、あの偶像の肉を食べても良いかどうかという問題でパウロが示した生き方です。つまり、神に対する愛と、人に対する愛を動機として行動するということですし、神の栄光を表わすような生き方をするということなのです。そして、それは、まさにイエス・キリスト様が、この地上で生きられたときに、生きられた姿そのものだったのです。そのイエス・キリスト様の生き方を、パウロは、自分がコリントの人に教え語り、そして、パウロ自身が、自らが教えたように自分自身も生きたのです。だから「わたしにならう者になりなさい」とそう言うのです。しかし、これは本当にすごいことです。自分が語ったように生きるということは、なかなかできるものではないからです。たとえば、私はこうして、講壇から説教を語りながら、正直、本当に自分が講壇から語ったように生きているかと問われると、自分自身を恥じなければならないと思うことばかりです。じつは、今年の3月に私たちホーリネス教団が出版していた「現代の宣教」という小冊子(Journal)の第15号が出版されました。この「現代の宣教」は、この15号をもって、廃刊になったのですが、その15号に私の友人であるS牧師の文章が載せられました。それは、「迷いつつ、導かれつつ 私のスピリチャル ジャーニー」というタイトルで、自分自身の牧師としての歩みを振り返りつつ文章を書いているのです。それは極めて優れた内容でした。その中で、彼は、このように書いているのです。一部省略しながら、お読み致しますが、このように言うのです。

「聖書学院を卒業して最初の5年間は、兼牧でした。無我夢中で奉仕を続けていく中で、自らの霊性について、戸惑いを感じるようになりました。牧師である前に一人の信仰者として、十分な霊性が備わっていないことに気付き始めたのです。駆け出しの牧師であるがゆえに、十分な霊性がそなわっていないことなど、当然といえば当然のことなのかもしれませんが、問題なのは、聖書学院における3年間の訓練が、表面的なものに留まってしまい、魂の深い部分における取り扱いを受けないまま牧師になってしまっていたということです。聖書学院で皆と一緒にいたときは当たり前のように出来ていたことが、牧師として一人で遣わされていったとき「ある」と思っていた信仰が、本当は身についていなかったことを知らされたのです。その中心にあるのは、ひとり神の前に真実に出るという姿勢です。もちろん、いわゆるデボーションをしたり、お祈りしたりは出来るのですが、自分の意識の中で、自分に偽っている姿勢があることをどうしても否定することはできませんでした。すなわち、牧師として信仰的なフリをしている自分が存在すること、偽善が入り込んでいると感じたのです。別の表現をするならば、神のことばに生かされていない自分がいることを否定できなくなってきたということです。会衆のまえで語っていることと生きている自分とのギャップがあり、それが次第に大きくなっていくことを感じ始めました。それは、信仰のリアリティの欠如とも言うべきものであり、自分が語る福音に自らいかされていない現実の姿に気づくべきでした。

このような自分の姿に気づき始めたとき、多くの場合にわたしたちが取る態度は、そのことを素直に認めるのではなく、その事実から目をそむけ、考えないことにしてやっていくということではないでしょうか。わたしたち牧師は自らの霊的な問題をいとも簡単に棚上げしてしまい、自分を素通りしてしまうのです。自分の外にある奉仕のことに心の目をむけることによって、自分の真実な姿に目を閉ざしてしまいます。あたかも、そのような問題など存在しないかのように自らの真実な姿に目を閉ざしてしまいます。あたかもそのような問題など存在しないかのように自らを思いこもうとするのです。(中略)この信仰におけるリアリティの欠如は、わたしの<きよめ>の信仰におけるリアリティの欠如にも繋がっていたように思います。「生きているのは、もはや、わたしではない、キリストが、わたしのうちに生きておられるのである(ガラテヤ2:20)と言われても、本当は何かしっくりこないものを心の底で感じつつ、そのような正直な思いを否定し続けていたのです。そのころのわたしにとっての<きよめ>とは、「無理矢理、自分にそう思い込ませて納得する世界」というべきものでした。思いこませようとすればするほど、「何かが違うんじゃないか?」という心の声が聞こえてくるようでした。しかし、それでは、ホーリネスの牧師としてやっていけなくなってしまうので、わたしたちは急いで自らを(すごろくでいう)<上がり>に位置づけ、「この問題は解決積みである」と自らに言い聞かせてしまいます。実際「きよめられた」という確信のゆえに、どれほど多く人が自らの問題を棚上げにして、自分を素通りにしてしまうことでしょう。そのように、自分の問題を棚上げにしたままではやっていくことができなくなったとき、自らの霊性の問題に正直に目を向けるようになりました。」

このあと、S牧師は、自分自身の真実な信仰の姿に目を閉ざしているご自身の姿をどうやって乗り越えられていったかを語られているのですが、そこでは、坂野慧吉牧師の「スピリチャル・ジャーニー 福音主義の霊性を求めて」(いのちのことば社)やジェームス・フートン牧師の「心の渇望」「神との友情」といった本の出会いを通して学んだことなどもありますが、要は、問題の根底にあったのは、神の恵みに支えられて生きるのではなく、自分で自分を支えようとする姿であり、他人の目、評価などに気を遣いイイ子であろうとする自分であって、すべてを見通しておられる神の前さえも、鎧甲をかぶって少しでも立派であろうと取り繕っている自分であったということです。そして、結局、大切なことは、主の前にありのままの姿で出ると言うことなのだというのです。この世の評価といったものに、自分の姿を依存するのではなく、もはや神の前には取り繕う必要などない永遠の愛によって私たちを受け入れて下さる神の前に、ありのままの姿で出て行くと言うことだったというのです。S牧師は、こう言うのです。「御言葉の黙想(メディテーション)をする前に、神ご自身を思い、そのみ前に静まることを大切にします。何か益になるものをいただこうという態度(下心をもって)神に近づくのではなく、神ご自身を求めてみ前に出ます。それは、わたしの全存在を通して、神によって、愛され、受け入れられていることを受け取っていくときです。そうすることによって、ほんの少しづつではありますが心の中に神のためのスペースが造られていきます。それが、神が生きて働いて下さるスペースです。」

愛する兄弟姉妹のみなさん。わたし自身、深い反省をもって語るのですが、「神に対する愛と、人に対する愛を動機として行動し、神の栄光を表わすような生き方をする」といっても、まず私たち自身が、深い神の愛と、恵みに支えられて生きるということを経験していなければ、それはとうてい出来ないことなのです。パウロは、かつてキリスト教を迫害したものであるという自己意識が、自分の罪深さを自覚させ、それ故に、その自分を救い、今日、自分を生かし、神の働きをさせて下さっている神の深い愛と、神の恵みに支えられて生きている自分の姿を感じ取っていたのだろうと思います。だからこそ、わたしにならう者となりなさいということができたのだろうと思うのです。ですから、みなさん。私たちもまた、ありのままの姿で神の前に出て、私たちの全存在を通して、愛し受け止めて下さっている神を感じ、神の恵みに支えられていることを感じ取っていこうではありませんか。そのために、神の前に一人静まることを大切にしたいと思います。そして、そうやって、私たちが、神に愛され、受け止められ、恵みによって支えられて生きているのだと言うことを受け止められるようになるならば、私たちは、自ずと、「神に対する愛と、人に対する愛を動機として行動し、神の栄光を表わすような生き方をする」と変えられていくのです。

お祈りしましょう。