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メッセージ

羊飼い 献堂記念礼拝
『キリストにある教会』
コリント人への第一の手紙 11章23−34節
2008/11/16 説教者 濱和弘

さて、先週は幼児祝福合同礼拝でしたが、コリント人への第一の手紙11章17節から22節から、仮に教会では意見の違いや考え方の違いがあったとしても、喜びや悲しみを分かち合うものの集まりでなければならないということを学びました。その分かち合う者の交わりであるということは、主の晩餐と呼ばれる今日で言うところの聖餐式ということの中に表わされているのです。だからこそパウロは、その主の晩餐の秩序の乱れに対して11章の17節から22節で、「このことでは、(説教者註:あなたがたを)誉めるわけにはいかない」と叱責するのです。それでは、どのようにして聖餐を正しく、しかも秩序あるものとして守るのか。それについて、私たちは今日の聖書の箇所であるコリント人への第一の手紙11章23節から34節は、実に多くの示唆を私たちに与え、教えてくれていると思うのです。そこで、今日私たちは、このコリント人への第一の手紙11章23節から34節を通して、正しい聖餐とは何かについて考えていきたいと思います。それは教会の大切な礼典であり、この聖餐を中心にして教会が建てられていると言っても良いからです。

私たちの教会は、いわゆるプロテスタント教会です。プロテスタント教会は宗教改革の時にカトリック教会から分離する形で出来上がったわけですが、決して穏やかな分離をしたわけではありません。それこそ、お互いが相手のことを異端であると断罪するかのようにして別れたわけで、要は喧嘩別れになったというような感じです。この喧嘩別れのようになったカトリック教会とプロテスタント教会ですが、1999年にルター派教会とカトリック教会の間で「義認に関する共同宣言」というものが出されました。義認というのは、プロテスタント教会がプロテスタント教会である生命線の様な教理です。だれでも、行ないによらず、業によらす、ただ神を信じる信仰によってのみ、私たちは神から罪赦され救われて、天国に行くことができるということが、「信仰義認」といわれるプロテスタント教会の中心中の中心教理なのです。これに対して、カトリック教会は、確かに神を信じるものは罪赦されて天国に行くことができるのだが、しかし、この世で犯した罪に対しては、償いを果たす必要がある。その償いは良い業を行なうことで、もし充分な償いができていないものは、まず煉獄にいって、そこで充分に償いを果たしてから天国に行くことができると言っていました。ですから、償いなしで直接天国に行けるのか、償いを果たしてから煉獄経由で天国に行くのかでカトリック教会とプロテスタント教会はあい別れて、500年あまりも互いに別々の道を歩んできたのです。

ご存知のように、昨日、H・E姉妹の告別式が行なわれました。私たちはH姉妹が、今、罪の償いのために煉獄で苦しい償いをしているなどとは、これっぽっちもおもっていません。ただただ、神の恵みと慈愛に注がれて平安の内御国に招かれていると信じて疑っていないのです。それは、私たちがプロテスタントであり、信仰義認という救いの理解に立っているからです。イエス・キリスト様が十字架の上で、私たちの罪のすべてを償って下さり、罪とその裁きである死に完全に勝利して下さったので、ただ神を信じ、イエス・キリスト様を信じるだけで真っ直ぐに天国に行けると信じて疑わないのです。そのプロテスタント教会の根幹にある信仰義認の教理について、プロテスタント教会のルーツであるルター派教会とカトリック教会が和解したのですから、それはまさに歴史的な出来事であったといえます。もちろん、この「義認に関する共同宣言」はカトリック教会とルター派教会に間でなされた共同宣言ですから、プロテスタントの教会全部がそれに拘わっているというわけではありません。けれども、プロテスタント教会とカトリック教会の分離の原因となっていた根本的問題において、双方が歩み寄れる土台ができたわけですから、それは単にルター派教会とカトリック教会だけの問題だけではなく、私たちホーリネス教団を含むプロテスタント教会全体の問題でもあるのです。

このように、プロテスタント教会とルター派教会は互いに歩み寄る事ができました。ですから、一緒に聖餐式を持つと言ったことが起ってきました。まさに、一つに結ばれると言うことが聖餐式を通して具体的に表わされてきたのです。ところが、そのように共に聖餐式を持つようにはなったのですが、確かに、両者が同じ場所で聖餐式をおこなうのですが、カトリック教会はカトリック教会の方法で聖餐を行ない、ルター派教会はルター派の方法で聖餐を行なうのです。そして、それぞれの信者は、カトリック教会はカトリック教会の聖餐に与り、ルター派教会はルター派教会で聖餐にあずかるのです。このように、同じ場所に集まりながらそれぞれが違った方法で聖餐式を行なうのは、聖餐に対する考え方が違うからです。カトリック教会は、聖餐はキリストの犠牲を捧げることであり、聖餐のパンとぶどう酒は、司祭が高く掲げて祝福し祈るとき、それがキリストの血となり肉となると考えます。しかし、プロテスタント教会は、聖餐式は、私たちが神の救いに与り、罪の許しに与っていることを私たちに知らせる恵みの手段であると考えます。そして、パンとぶどう酒とは、パンとぶどう酒にすぎませんが、そこにイエス・キリスト様が臨在して下さっていると考えるのです。ですから、互いに歩み寄ることはできましたが、まだまだ違いはたくさんあるのです。

このカトリック教会とプロテスタント教会との間にある聖餐の理解の違いは、先ほどお読みいただいたコリント人への第一の手紙11章23節から26節の言葉の理解の仕方・解釈の違いです。どのように、理解の仕方が違い、解釈が違っているかというと、大まかに言ってこのような感じです。たとえば、ここには、「主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、『これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい』。食事ののち、杯をも同じようにして言われた、『この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい』」とあります。カトリック教会は、「これはあなたがたのための、わたしのからだである」「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」と主イエスが言われたのだから、聖餐のパンとぶどう酒はイエスの血であり肉なのだ。だから聖餐のパンとぶどう酒はキリストの肉と血に変わるのだと理解するのです。しかし、プロテスタント教会、とくにルター派の教会は、どう見てもパンはパンでありぶどう酒はぶどう酒で、味もパンの味でありぶどう酒の味がするので、それで、物質としてパンが肉に、ぶどう酒に変わるのではなく、物質としてのパンとぶどう酒にキリストが共に臨在して下さることで、パンを共にいるキリストの肉としてあずかり、ぶどう酒を共にいるキリストの血としていただくのだと言うのです。さらには、カルヴァンという人になると、キリストは「わたしの記念として、このように行ないなさい」というのだから、パンもぶどう酒もキリストを記念する象徴なのであって、そこにキリストご自身が臨在しているのではないとそう理解する。そのように、聖餐に関する聖書の言葉の理解・解釈がいくつにも別れるのです

もちろん、これらの違いは神学的な理解の違いですから、そのような違いにこだわるのは、牧師や神学者であって、神を信じるキリスト者一人一人は、聖餐式に臨み、聖餐に与るときに、自分自身に与えられた神の恵みを感じ受けとれるならば、それで充分なのかもしれません。実際、このような立場立場による神学的細かい違いがあったとしても、どの立場にあるものも、この聖餐が主の定められたものであり、それ故に大切にされなければならないし、聖餐に与るということは、私たちキリスト者にとっては、私たちが救われたということを私たちに明らかにしてくれるものであるという理解においては同じなのです。だから、カトリック教会もルター派の教会も細かいディテールの違いがあり、それゆえにそれぞれのやり方のもとで聖餐に与りますが、しかし同じ場所で、しかも共に、一つの聖餐式として聖餐に与ることができるのです。ですから、牧師や神学者のような、細かい神学議論を積み重ねてそれぞれの違いを主張し合うのではなく、もちろんそれはそれで大切なことではあるのですが、しかし、もっと大切なこととして、聖餐が指し示しているキリストの十字架の死をしっかりと見つめることが大切なのです。そして、自分自身が、そのキリストの十字架の死を度どのように受け止め、どのように信じ、どのように生きているかを見つめ直すことが大切なのです。

ですから、パウロはコリントの教会の人たちに、「ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲むものは、主の体と血を犯すのです。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ、杯を飲むべきです。」 というのです。つまり、自分がキリストの十字架の死をどのように受け止め、どのように信じ、どのように生きているかが問われているのです。それは、聖餐のパンも杯もキリストのよって定められ、教会がそのことを守り伝えてきたからです。パウロは、23節から26節でこう言っています。「わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、『これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい』。 食事ののち、杯をも同じようにして言われた、『この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい』。だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。」

このパウロの言葉は、二重構造になっています。つまり、「主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、『これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい』。食事ののち、杯をも同じようにして言われた、『この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい』」という主イエス・キリスト様の直接の言葉による聖餐の制定と聖餐を守る行なうことを命じる言葉の部分と、「だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。」という、そのイエス・キリスト様の言葉に対する教会の理解の部分という二重構造になっているのです。そのように、教会は主イエス・キリスト様の言葉に従って、聖餐を行なってきたのですが、ただ主の命令だからというので、それを守り行なってきたわけではないのです。その聖餐のたびごとに主イエス・キリスト様の十字架の死を思い起こし、その死の意味を思い起こしながら聖餐を守ってきた。ですから、聖餐は単なる儀式ではない。その中心にイエス・キリスト様の十字架の死という歴史的事実があり、その死によって私たちの罪が赦され、死から救われたという信仰の事実、救いの経験があるのです。そしてそれは、神が私たちを愛して下さったということの証であり、また神の一人子である子なる神イエス・キリスト様もまた命を投げ出すほどの愛を私たちに注いで下さったということの証でもあるのです。このことのゆえに、主イエス・キリスト様が制定された聖餐は、「神の私たちに対する救いの業と愛とを私たちに思い起こさせるために定められたのだ」と弟子たちは受け止め、そして教会の聖礼典として伝えていったのです。

だからこそ、あなたは自分を吟味してそれからパンを食べ、杯を飲むべきだというのです。「私は主イエス・キリスト様を信じ救われた」そのことの上に立って、この聖餐のパンに与りと聖餐の杯を飲んでいるか、私は主イエス・キリスト様の弟子としてふさわしくあゆんでいるか?そう自らの歩みを振り返りながら聖餐にあずかっているかと、パウロはそうコリントの教会の人に問いかけているのです。それは、コリントの教会で行なわれていた聖餐が、とてもそのような聖餐だと思えないような状況だったからです。おのおのが自分勝手にパンを食しぶどう酒を飲む。そこには秩序もなく、聖餐と共に行なわれた愛餐の食事も、貧しく飢えた人を顧みる愛もないような状況で行なわれている。そのようなコリントの教会の状況を見て、それで本当に良いのかとパウロはそう問うのです。もちろん良いわけはありません。それは教会としてのあるべき姿ではないからです。教会は、イエス・キリスト様の体です。私たちを愛し、私たちのために命を投げ出して下さったお方の体なのです。その教会の中に、愛の交わりがないとしたならば、そのような教会は神の裁きにあうことになってしまうとパウロは言うのです。

そして、「あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、眠ったものも少なくないのは、そのためです」とパウロは言う。実は、私はこの箇所を読んだときエッと思ったのです。今まで何度も何度もこのコリント人への第一の手紙を読んできましたが、しかし今までは気づかなかったのですが、パウロは、コリントの教会の人たちの中に、体の弱い人や病人が大ぜいいることや、亡くなられた方がおらえることを、神の裁きだと捉えていたのだと思ってびっくりしたのです。そして、「ああ、パウロでもこんなとらえ方をするのだ」と思い、驚きを隠せなかったのです。実際に、弱さや病気や、あるいは亡くなると言うことを、神の裁きと結び付けて考えることは、キリスト教の考え方、物の見方としては正しいことではありません。弱さの中に、神は恵みを与えて下さるお方であり、病の中でも希望を与えて下さるお方です。そして、死という私たちの命にとって最も深い悲しみをもたらすも敗北も、永遠の命という勝利への始まりに変えて下さるお方なのです。ですから、あなたがたが聖餐をいい加減にしているから、神の裁きを受けて、あなたがたの間に弱い人や病気の人がたくさんおり、死んでいく人も少なくないのだというかのようなパウロの言葉は、何ともキリスト教的ではない感じがして不思議な気がしたのです。しかし、考えてみたならば、パウロの言わんとすることも分からなくはないのです。というのも、依然このようなことがあったからです。

それは、私の母のところにある牧師が訪ねて下さったときの話です。もう随分と昔の話ですが、私は、当時私の両親が住んでいたところの近くにあった教会の牧師に、是非母のところを訪問して欲しいとお願いしたことがあります。それでその牧師は、時々、私の両親をたずね下さっていたのです。そして、何度目かの訪問の時、その牧師は母に仏壇の位牌などは偶像礼拝になるので、焼いた方が良いと奨めたそうです。それで、その奨めに従って母は仏壇も位牌も焼き捨てたそうなのですが、後になって身の回りに病気や何やらと、いろいろと良くないことが起ってきた。それで、母は私に電話をしてきて、仏壇と位牌を焼いたから悪いことばかり起るのでないかと聞いてきたのです。その電話での母の話を聞いて、私は、まだクリスチャンでもない母に仏壇を焼きなさいと言う牧師も、また随分と思い切ったことを言うなと驚いたのですが、しかし、まぁともかく、「仏壇を焼いたことと悪いことが起ったことと関係はないから安心して良いよ」伝えました。それで一件は落着したのですが、しかし仏壇や位牌を焼いたから悪いことが起った、あるいは逆に、クリスチャンになってもいつまでも仏壇や位牌が家においてあるのだから良くないことが起る等という考え方は、少なくともキリスト教的な考え方ではありません。むしろ、そのような恐れや不安から解放してくれるのが神を信じる信仰なのです。

「仏壇や位牌を焼いたから悪いことが起った、あるいは逆に、クリスチャンになってもいつまでも仏壇や位牌が家においてある。だから悪霊が働いて良くないことが起る」といった考え方が、私たちクリスチャンの中にないわけではない。実際、以前、私がいた教会のある信徒の方が、私に「あの人が病気なのは、家にいつまでも仏壇をおいているからだ。だから、仏壇をなくすようにアドバイスをしてあげて下さい」といわれたことがあります。しかし、そのような考え方はキリスト教的な考え方ではありません。そしてキリスト教的な考え方で物事を見るからこそ、そこにありもしない裁きがあると考えてしまうのです。というのも、そのような考え方をして、神の裁きでもないことを裁きであるかのように感じてしまうということは、その人の心がまだ神の愛と恵みとが充分に受け取っていないからです。神の恵みと愛が私たちの心に注ぎ込まれているならば、いろいろな悪いことが私たちの身の回りに起ってきたとしても、それを神の裁きや罰であると考えることはありません。なのに、良くないことは神の裁きや罰のように考えてしまう。それはまるでヨブの三人の友人のような考え方なのです。パウロは、「あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、眠ったものも少なくないのは、そのためです」とそう言っている。その言葉だけを捉えれば、そのような良くないことが起っているのは、あなたがたが聖餐をいい加減に行なっているそのことの裁きとして悪いことが起っているのだといっているように思われます。しかし、パウロが「あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、眠ったものも少なくないのは、そのためです」といったその後に、「しかし、自分をよくわきまえておくならば、私たちはさばかれることはないであろう」とそう続けるのです。

聖餐に与る私たちは、こうして教会の礼拝に招かれ神の言葉の前に立たされている私たちは、神の赦しに導き入れられ、神の豊かな愛の包まれている一人一人です。そのことをしっかりと心に留めているならば、そこに弱さがあっても、病があっても、その弱さの中で支えて下さる神を見出すことができますし、病の中で希望を与えて下さる神に出会います。そして、死という最も恐れおののくような不安を感じさせるものですら、勝利にかえてくださるお方を知るのですみなさん。昨日、この場でH・E姉妹の告別式が行なわれましたが、ここに集っているだれ一人も、姉妹の死が神の裁きであったと思っている人はいないだろうと思います。いやむしろ、その死はキリストにあって天国への旅立ちであり、むしろ永遠の死に対する勝利であると、そう思っておられるのにちがいないと私は思っているのですが、どうでしょうか。もし、私たちが、自分がイエス・キリスト様に愛されているということが分かれば、私たちは、私たちの周りにいろいろと良くないことが起っても、それを神の裁きだと受け取ることはありません。むしろ、そのような良くないこと、悪いこと、辛い試練と思われることの中にあっても、私たちと共におり、私たちを慰め励ます神に愛によって支えられていくのです。

だからこそ、私たちは神が私たちを愛してくださっているということを繰返し、繰返し思い起こして忘れないようにしていかなければなりません。愛する愛されるということは、心の中に染み込むものですから、うっかりすると忘れてしまいます。夫婦の間でもそうです。長く一緒にいると、互いに相手から愛されているということを忘れてしまいがちです。また愛するということを忘れると大変なことになってしまいますから、愛することも、愛されているということもわすれてはなりません。そのように、私たちは神に愛されている。主イエス・キリスト様に愛され救われているそのことを必一つ確認しながら聖餐に与っていくのです。

また、私たちが自分自身を顧みながら聖餐に与るとき、自分はキリストの弟子としされているのに、それにふさわしくないようなことがあった、神を信じ罪を許された者であるのに、依然として罪を犯し続けていると心が責められることもあるだろうと思います。神の前に真実であればあるほど、そのように思うことがあるだろうと思うのです。最近になって、私は聖餐式の式分を、従来使っていた日本基督教団の式分から、ホーリネス教団の式分に変えて聖餐式を行なっています。そのホーリネス教団の式分の中には、黙祷を捧げ、悔い改めることがあるなら悔い改めの祈りを捧げる時を持っています。もちろん、主イエス・キリスト様を信じたときに全ての罪は赦されているのですが、そうやって悔い改めの祈りを捧げることによって、私たちを徹底的に愛し、私たちの罪を完全に罪を赦してくださった父なる神、子なる神イエス・キリスト様、そして聖霊なる神の愛と恵みを確認し、そのことを心に思いながら、繰返し、繰返し、その神の恵みと愛が歴史の中で具体的に表わされたイエス・キリスト様の十字架の出来事を、聖餐に与ることで心に思い起こしていくのです。

みなさん、こうして今日、私たちはこの2008年度の献堂記念礼拝をおっています。この会堂は、私たち三鷹キリスト教会の一人一人が、礼拝を捧げ聖餐を守り行なうために、建てあげられたものです。それは、私たちが礼拝を守り、聖餐を守るなかで、神の愛を確認し、また神の愛をもって互いに交わりを持つためです。それは、この教会がキリストの教会だからです。キリストの教会には、キリストの命が必要です。キリストの愛が必要です。キリストの赦しが必要なのです。そして、それは私たちが、神を信じ、神を信じる者の群れとして互いに赦し合い愛し合う中に築き上げられていくものなのです。ですから、そのことを覚えながら、これからも私たちは、真実な思いで礼拝を守り、心からの賛美を捧げ、感謝と献身のおもいをもって聖餐に与り、そして神にある交わりをなす者でありたいと思います。

お祈りしましょう。