『与える神』
コリント人への第一の手紙 12章1−3節
2008/11/24 説教者 濱和弘
さて、先週まで私たちは、コリント人への第一の手紙11章を通して聖餐式ということを中心に聖書を読んで参りましたが、それはコリントの教会においては聖餐の秩序が乱れ、それが正しく行なわれていなかったためでした。私たちは、このコリント人への手紙から礼拝説教をするようになって、繰返し見てきたげことですが、コリントの教会には信仰生活上の様々な具体的な問題がありました。誰を指導者として仰ぐかと言うことにおいて、教会が分裂してしまうのではないかと思われるようなこともあれば、男女間の問題もあり、あるいは教会員が教会員を裁判に訴え合うようなこともあり、更には、行き過ぎた禁欲主義に走る人もいれば、偶像礼拝の問題などもあったのです。そして、聖餐もその問題のひとつでした。このような様々な問題に対して、結局パウロが指し示していた解決方法というのは、一言で言うならば、十字架につけられたイエス・キリスト様を見上げると言うことです。私たちの罪を赦し、神の子として天国に迎え入れてくださるために、イエス・キリスト様が十字架に架かって死なれたのだという、その神の一人子の贖いの業に立ち帰ることが問題の解決なのだというのです。いうなれば、キリスト教の基礎、教会の土台はイエス・キリスト様の十字架の死を、神の救いの業と信じ、私たちが、死すべき運命にある罪人である私たちが、このイエス・キリスト様の十字架の死に救いの業によって救われたのだということをしっかりと心に刻むことにあるといえます。
そして、このイエス・キリスト様の救い業によって、私たちは救われたのだということが分かれば、どんなに教会内に意見の食い違いや主張の違いがあっても互いに愛し合うことができます。それは、イエス・キリスト様の十字架の死は、父なる神と子なる神イエス・キリスト様が抱いておられる私たちに対する愛を示すものだからです。ご自分の命、あるいはご自分の愛する一人子なる神の命を投げ出してまで私たちを愛する愛が、あの十字架の上で死なれたイエス・キリスト様のお姿にあるのです。だからこそ、その裂かれた肉と流された血潮である聖餐のパンとぶどう酒を食するときに、クリスチャンの一人一人はイエス・キリスト様の十字架の死を思い起こし、神の愛が私たちに注がれていることを思い起こさなければならないのです。そのような聖餐のときを、単なる食事のように飲み食いに変えてしまうならば、神の愛も救いの恵みも私たちの心に留まりません。どんなにクリスチャンが集まって食事をして楽しんだとしても、それだけで終わるならば、この世の楽しみと同じであり、それによって一番大切な神の愛と恵みが忘れ去られるなら、試練や試みが訪れたときに、それを乗り切る力を得ることができないのです。
神の愛、キリストの愛は、そんな試練や試み、また私たちが恐れおののくような出来事でさえ、恵みと慰めの時と変えてくださいます。たとえば死という、もっとも悲しく、私たちが恐れている出来事でさえ、天国への旅立ち、死と罪に対する勝利と変えてくださるのです。だからこそ、この聖餐という恵みを大切にし、その意味を見失わないように秩序正しく行なうことをパウロは、コリントの教会の人たちに求めたのです。それほど、聖餐という聖礼典は私たちにとって大切なものなのです。その聖礼典は、聖餐式だけではなく、もうひとつ洗礼というものがあります。洗礼は、イエス・キリスト様を信じたものが、その信仰を神と人の前に言い表して、クリスチャンになったことを公に示すと共に、この洗礼を通して、聖餐を中心にして結ばれた神の教会の正式なメンバーとして迎え入れられるための聖礼典です。 聖餐が、私たちのためにイエス・キリスト様が十字架に架かって死んでくださったことを繰返し、繰返し思い起こさせるものであるとするならば、洗礼は、私たちがイエス・キリスト様を信じて、古い自分に死に、新しい神の命をいただいた神の民として生まれ変わったことを永遠に刻む消えない刻印です。神を信じて、永遠の命をいただいたのですから、永遠に神の民であるというその約束の刻印が私たち一人一人に打たれるのです。
私たち人間は、弱いものですから過ちを犯します。ですから、クリスチャンであっても失敗をしますし、罪を犯すことだって有る。だから、繰返し、繰返し、私たちは神の罪の赦しを頂き、神の愛に心を満たしていただかなければなりません。神の民として完全なもの、それと神と人を愛する愛において完全なものへ成長していくために、神の罪の赦しと愛ということを繰返し味わなければなりませんから、聖餐式も繰返し行なわれます。しかし、神の救いに与り、永遠の命をいただいた私たちは、新しく神の民として生まれ変わったのですから、何度も何度も、繰返し洗礼を受ける必要はありません。ただ一度、神の民として生まれ変わり永遠の命をいただいたものを、神は永遠に忘れないからです。だから洗礼は一度かぎりなのです。それだけに、洗礼と言うことは極めて意義ある事です。そして、その洗礼を受けるためには、私はイエス・キリスト様を信じますという信仰の告白が不可欠なのです。
私たちは、先ほど使徒信条を皆さんで唱和いたしました。毎週、毎週の礼拝で私たちは、この使徒信条を礼拝の中で唱和します。この使徒信条は、中世の時代から西方教会の伝統の中で受けつがれてきた信仰告白の言葉です。その使徒信条を、なぜ毎週の礼拝で皆さんと共に、神を信じイエス・キリスト様を救い主して信じる信仰告白として唱和するかと言いますと、この礼拝に集っている人は、みなさんは神によって招かれてこの礼拝に集っているからです。洗礼を受けている人も、受けていない人も、だれひとり神の招きなしに礼拝に集うことはできません。つまり、今こうしてこの場に集まっているみなさんは、神の愛され、神の恵みの内にあるのです。そして、その神が私たちを招いてくださった礼拝で、私たちが、心からこの使徒信条の言葉を受け入れ唱和するならば、その人は神を信じる信仰を告白しているのです。実は、この使徒信条は、今日のような形に整えられたのは、先ほど申しましたように中世の頃なのですが、その原型は2世紀半ばのローマ信条であると言われています。ローマ信条というのは、洗礼を受ける人が、洗礼の準備をし、その洗礼式の時にそのローマ信条を信仰告白として読み上げて洗礼を受けたといわれるものです。
そのローマ信条が、4世紀頃には定式化されて使徒信条と呼ばれるようになり、そしてそれが中世(だいたい9世紀頃だといわれますが)のころに、現在のようなものに整えられたのです。しかしその中世に整えられたものをなぜ使徒信条と言うかというと、それは使徒たちが抱いていた信仰の内容と同じものが告白されているからなのです。ですから、使徒信条を唱和するということは、ペテロやヤコブ、ヨハネ、そしてパウロといった原始教会の使徒たちが信じていたキリスト教の基礎となるような信仰内容を告白しているということなのです。そして、使徒信条を告白するたびに、私たちは、神を信じ、イエス・キリスト様を信じる信仰を告白しているのです。そういうわけですので、私たちは、毎週、毎週の礼拝において、この使徒信条を心して唱和なければなりません。ただ、お題目のように繰返し、繰返し唱えていればよいというものではありません。それは、私たちが信じていることの具体的内容だからです。使徒信条にはそのような背景がありますので、宗教改革の時代には、人々に対する信仰教育の方法として、この使徒信条の内容にそって、カテキズムいう信仰問答、つまり、信仰に関する問いと答えを作り、それを学ぶことで、信仰を養うといったことがなされたのです。
ところで、今日、先ほど司式の兄弟にお読みいただきましたヨハネによる福音書12章1節から3節において、3節の後半部分に、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である。』ということができない。」と書かれています。この『イエスは主である』という言葉は、キリスト教におけるもっとも古い信仰告白であると言われています。つまり、最も古い教会では『イエスは主である』ということは、イエスは私たちが信じる神であり、救い主であるということを意味していたのです。どうして、『イエスは主である』ということが、イエスは神であり、救い主であるということの告白になったのでしょうか。一つにはユダヤ教的背景が考えられます。
イエス・キリスト様やパウロが生きていた時代のユダヤ人たちは、十戒に「みだりに神の名を唱えてはならない」と書かれていますので、だれも神の名を唱えることをしませんでしたし、神の名が何であるかを知ることさえありませんでした。ただ、大祭司が年に一度神殿の至聖所でその名を唱えることが許されていましたので、そのために、大祭司の間だけで秘伝として伝えられていたのです。そのため、その当時のユダヤ人が神のことを呼ぶときには「アドナイ(主)」とそう呼んだのです。ですから、「イエスは主である」という信仰告白は、ひとつには、イエス・キリスト様こそ、あの旧約聖書によって著されている神アドナイであるということを意味しているといえるのです。しかし、この「イエスは主である。」という言葉は、もう一つの背景を背負って、神を信じ、イエス・キリスト様を信じる信仰を言い表す言葉となったのです。それは、その当時の地中海世界を支配していたローマ帝国という状況です。というのも、この「イエスは主である。」という言葉は、ギリシャ語で「κυριοσ Ιησυσ(キュリオス イエスース)」といいます。
実は、ローマ帝国では、同じ表現を用いて「κυριοσ καεσαρ(キュリオス カエサル)」という言い方がありました。これは「ローマ皇帝は主です」という言葉であり、ローマ皇帝に忠誠を誓う言葉であり、ローマ皇帝を神として崇める皇帝崇拝の言葉です。ですから、ローマ帝国に住むものは、「κυριοσ καεσαρ(キュリオス カエサル)」と誓うことで、ローマに忠誠を誓うものであるとみなされたわけで、逆に「κυριοσ καεσαρ」と言わない人間は、ローマ皇帝に忠誠を誓わないのですから、迫害されてしまう可能性があったのです。けれども、この時代のキリスト者たちは、そのような迫害に遭うという危険に身をさらしても、決して「κυριοσ καεσαρ(キュリオス カエサル):ローマ皇帝は私たちの主です。」とは言わないで、「κυριοσ Ιησυσ(キュリオス イエスース):イエス・キリスト様のみが私たちの主です。」とそう告白したのです。それは、自分の身に危険が降りかかることでしたから、とても勇気のいることであったろうと思います。それでも、当時のクリスチャンたちは、そうやって『イエスは主である』と信仰告白をして、教会に加わっていったのです。そして、コリントの教会もそのようにしてクリスチャンとなった一人一人であったのです。そういった意味では、相当な覚悟を持って、彼らはクリスチャンになったといえます。
それなのに、このように教会では分派・分裂を起しそうになり、聖餐という使徒たちが大切に受けつぎ伝えてきた礼典でさえ、無秩序に、その本質を見失うような守り方をしているのです。いったい、どうしてこんな人たちが、コリントというローマ帝国の支配下におかれている町で、身の危険を冒すような「イエス・キリストが私の神です」というような、勇気ある信仰告白ができたのだろうかと思うと、実に不思議な気持ちになります。けれども、聖書はちゃんと、そのことに答えを与えてくださっています。すなわち、「だれも聖霊によらなければ、『イエスは主である』と言うことができない。」というのです。つまり、信仰告白というのは、人間の力や勇気やあるいは思いつきでできることではない、聖霊なる神様が私たちの内にあって、イエス・キリスト様こそ私たちの真の救い主であると知らせて下さり、洗礼をうける勇気や力をも与えて下さるからこそ、ローマ帝国の皇帝カエサルが地中海世界を支配し、そのローマ帝国にすむものに「カエサルは主である」といって皇帝崇拝をさせ、皇帝に忠誠を誓わそうとする中にあっても、『イエスは主である』という信仰告白ができるのだというのです。
今年も、クリスマスが近づいてきています。今年のクリスマスにも、洗礼式が予定されており、今年はS・Mちゃんが洗礼を受ける予定です。そのために、今洗礼準備会を行なっていますし、今日も、その洗礼準備会を行なう予定です。ですから、ぜひMちゃんの受洗のためにお祈りいただきたいと思います。ご存知のように、私たちの教会の洗礼式においては、私たちの教会が属する日本ホーリネス教団の信仰告白を読み上げ、それに同意できるかどうかを訪ね、そのあとに短い証をして貰います。そうやって、自分の口で、神を信じキリストを信じるという信仰の告白をしていただくのです。もちろん、現在の日本では、パウロがコリント人への手紙を書いた時のように、イエス・キリスト様を神として信じるという信仰告白を言い表しても、私たちの身に危険が及ぶと言うことはありません。これが第2次世界大戦のころであれば、クリスチャンになるということで迫害を受けるということはあったかもしれません。たとえば、T姉妹のお宅で行なわれている家庭集会で、T・K姉妹のお父さんお母さんのお話しを伺うことがありますが、それこそ、その時代にはクリスチャンと言うだけで村八分に合うようなことがあったと聞きます。
あるいは、今年はプロテスタントの信仰が日本に伝えられてから150年目に当たりますが、その明治初期のプロテスタントの信仰が伝えられたときに、最初の洗礼がなされるときには「あなたは切腹する覚悟があるますか」と聞かれれたそうです。まだ、キリスト教の信仰を信じることが許されていなかったからです。ですから、そのような時代に信仰を告白するというのは命がけだったのです。幸いなことに、今日ではそのような迫害や、洗礼を受けると切腹しなければならないというようなことは一切なく、安心して信仰告白をし洗礼を受けることができます。けれども、信仰告白をするということの重みは、その当時と何ら変わりはありません。ですから、考えようによっては、何の迫害もなく、危険もありませんから、『イエスは主である。』とか『私は聖書が指し示す三位一体の神を信じます。そしてイエス・キリスト様、救い主として信じます』ということは、誰にでも言えるようなことだと言えないわけでもありません。けれども、そのような、たやすく言えるのではないかと思えるようなことであっても、その信仰を心から言い表すことは聖霊の働きなしにそのようにいうことはできないのです。ですから、信仰告白は迫害の時代であってもまた安全な時代であっても、その重みは同じものなのです。
ですから、聖霊の導きと働きによって信仰を告白し洗礼を受けようとしているS・Mちゃんのために祈っていただきたいと思うのです。なぜなら、一人の人が神を信じ生きるときには、必ずそれを惑わそうとする悪の霊、サタンの働きがあるからです。そして、神を信じ、イエス・キリスト様を信じる信仰の告白ではなく、キリストを呪うものとしようと働きかけるからです。逆にキリストを呪うというのは、今日の聖書の箇所にあるように「イエスは呪われよ」と口で言うことだけではありません。おそらく、この言葉が「イエスは主なり」という言葉と対称的に書かれていますことから見ますと、この当時、キリスト教を迫害する人々をキリスト教の信仰から離れさせようとした人たちは、キリスト教徒ではないと、キリスト教を信じていないということを証明するために「イエスは呪われよ」と言わせたのではないかと思われます。そのように、イエス・キリスト様を信じる信仰から離れさせ惑わせようとする力が働くことがあっても、本当に神を信じ、イエス・キリスト様を信じ、聖霊によって「イエスは主なり」という信仰告白を言い表す者は、聖霊なる神に守られながら決して信仰から離れることはないのです。
そういった意味では、こうして私たちが毎週の礼拝を守り、礼拝の中で使徒信条を唱和し、信仰を告白しているということは、私たちが聖霊なる神に守られ導かれているあかしなのです。しかし、洗礼を受けるということは、その信仰告白に基づき、たった一度の消えないキリストの刻印を打つということですから、洗礼を受けるに至るまでは様々な迷いがおこるのです。また迷いが起こるということこそが、神を信じているということの証でもあるのですが、そのような中で、聖霊なる神の導きに守られるように、Mちゃんのためにお祈りいただきたいのです。いや、Mちゃんだけではない、私たち一人一人はお互いのために祈り合う存在とならなければなりません。先ほども申しましたように、こうして礼拝に集い、神を賛美し、信仰告白である使徒信条を唱和し、また神の教会に与えられた主の祈りを共に祈り、そして、同じ説教の言葉を聞くということは、神の導きなしには決してあり得ないことです。
みなさん。パウロは、今日の聖書の箇所でこのように言っています。「兄弟たちよ。霊の賜物については、次のことを知らずにいてもらいたくない。あなたがたがまだ異邦人であった時、誘われるまま、物の言えない偶像のところに引かれて行ったことは、あなたがたの承知しているとおりである。」パウロは、このように、かつてはコリントの教会の人々が「誘われるまま、物の言えない偶像のところに引かれて行った」様を思い起こさせながら、今は聖書の神、三位一体の神を信じる教会の集いに加わるようになったということに目を向けさせています。そして、それは神が私たちの内に、私たちを導く聖霊なる神を送って下さっているからなのです。ですから、パウロの時代だけではなく、今という時代の中で、今日こうして礼拝に集っておられるお一人お一人もまた、神が私たちに与えて下さった聖霊なる神の導きの中で、父なる神の豊かな愛と、子なる神イエス・キリスト様の溢れる恵みの中に招き入れられているのです。それは、私たち一人一人が、神を信じ、イエス・キリスト様を信じる信仰を告白しながら、クリスチャンとして生きていくためです。そして、どのような、苦しい試練や試みに合い、恐れを感じるような出来事にであっても、そこに神の愛を見出し、キリストの恵みを見つけて喜ぶことができるものとなっていくことができるようになるためなのです。
そのような私たちひとりびとりには、私たちを、この神の愛と、イエス・キリスト様の恵みと、聖霊なる神の導きから遠ざけ、引き離そうとする誘惑と惑わしが絶えず襲ってきます。だからこそ、互いに祈り合いながら信仰の生涯をおくっていくことが大切なのです。そして、本当に愛し合うということは祈り合うということの中であらわされるのです。みなさん。神の愛は、私たちの祈り合うその祈りの中に表わされてきます。またキリストの恵みは、私たちが互いに声を合わせて賛美するその中に喜び表れてきます。そして、聖霊の導きは聖書の言葉を通して語りかけられてくるのです。こういったものすべてが、日曜毎に守られる礼拝の中にすべて行なわれています。だからこそ、礼拝を守るということが大切になってくるのです。そして、その礼拝において、私たちは、私たちの信仰を告白し、私たちが神のものであること、神の民であることを告白し確認しながら歩んでいくのです。ですから、礼拝を守るということは大切なことなのです。もちろん、それは信仰の義務として守らなければならない大切なものというのではありません。
信仰に義務などありません。礼拝も祈りも、聖書通読も献金、それらの一切は守らなければならない義務などではありません。礼拝を守ることができなくても、祈りができなくても、聖書通読ができず、献金をしなくても、それで神が私たちをさばかれるということはありません。むしろこれらのものは、むしろ私たちの信仰を豊かにし、私たちの喜びをささえる恵みの手段なのです。そして、それが私たちの心を豊かにし、苦しい試練や試みに合っても、また恐れを感じるような出来事にであっても、それを乗り越えていくことのできる力となる神の愛を見出し、キリストの恵みを見つけて喜ぶことができるものへと育っていってくれるのです。だからこそ、私たちの教団は、こういった礼拝や、祈りや聖書を読むこと、献金をするといったことを大切にしてきたのです。
先日、ある方からこのような話を聞きました。ある牧師が、ホテルと契約を結んで結婚式を専門に行なう牧師になられたそうです。そうやって、伝道するということを考えたのでしょう。そして、教団に私たちホーリネス教団の牧師としてその働きに任命して欲しいと願いでたそうです。けれども、教団はその申し出を受け入れなかったそうです。それは、私たちの教会が日曜日ごとに行なわれる聖日を何よりも大切なものとして聖日を守ることを奨めてきた教団として、いかに伝道のためという大義名分があったとしても、日曜日の礼拝よりも結婚式を優先することに牧師を任命することができなかったからだというのです。賢明な判断です。確かに伝道は大切な教会の使命です。けれども伝道は、人間の力による働きではありません。人間の知恵や努力でどうなるものでもありません。それだけではない、伝道は、私たちが「誘われるまま、物の言えない偶像のところに引かれて行った」ところから導き出し、神を信じる信仰を告白し、心を一つにして祈り、賛美を捧げる、神の言葉の前に耳を傾ける礼拝に私たちを導き出す聖霊なる神の業なのです。だからこそ、いかに伝道のためとは言え、礼拝を捧げるということを軽んじてはならないのです。聖霊によって「イエスは主なり」という信仰告白にたち、私たちの信仰を表わし、祈り合い、賛美を捧げることで、神の愛と神の恵みを示していく礼拝を捧げることが、私たちの信仰の証なのです。そして、それは結果として、私たちが神を礼拝することそれ自体が伝道の業となっていくことにもなるのです。
愛する兄弟姉妹のみなさん。私たちは今日、そのような礼拝に招かれ、そして聖霊の導の中で、この礼拝の場に集っています。このことこそが、神が私たちを愛して下さり、イエス・キリスト様が私たちに恵みを与えて下さっていることの紛れもない証です。そして、その礼拝に集っている私たちが、心から神を崇め、神を信じる信仰告白をすることができるように、聖霊なる神様を私たちに対する贈り物として与えて下さっています。その神の与えて下さった贈り物、賜物として与え下さった聖霊なる神が、私たちを信仰告白に導いておられます。ですから、私たちは、いつでも神に向い「私はあなたを信じて生きています。」とそう告白しながら生きていくものでありたいと思います。
お祈りしましょう。