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メッセージ

羊飼い 待降節第一週礼拝 『近づいてくる愛』
エレミア書 31章1−6節
2008/11/30 説教者 濱和弘

さて、今年もアドベント(待降節)の季節になりました。こうしてクリスマスの時期になりますと、一年があっという間に経ってしまったような気がします。先日ある方が、教会で使われる暦、これを教会暦といいますが、この教会暦における一年はアドベントから始まるとおっしゃっていました。厳密に言うならば、西方教会の伝統においては、アドベントが一年の始まりになるわけですが、しかし、教会暦の一年はアドベントから始まるといわれて、あらためて「ああそうなんだな」と思った次第です。私たちは日本という国の習慣、それは暦といったものを含んでですが、一年の始まりは元旦におきます。すべてのことがお正月を機に新たにされる。しかし、教会においては、新らしい出発はクリスマスを契機として始まるのだというのです。それはイエス・キリストというお方様によって、すべてが新しくなったからです。それは、イエス・キリスト様によって神と人との間にある歴史に新しい局面をもたらし、神と人との関係もまったく新しいものになりました。たとえば、それまでは、ユダヤ人という一民族の神として崇められていた聖書の神が、ユダヤ人だけでなく全世界の神として崇められるようになったのは、このイエス・キリストという父なる神の一人子なる神がこの事情にお生まれになり、人としてこの世で生きられることによってです。

何年か前に、ルーテル学院大学で教えられている徳善義和という教授が講義の中で、このようなことを言っていました。それは徳善教授が國學院大学の神道研究科のクラスでお話しをなさったときの話でした。國學院大學は、久我山に國學院久我山がありますから馴染みが深いとおもいますが、ご存知のように國學院大学は日本の神道の研究機関であった皇典講究所が母胎ですので、神道系の大学だと言えます。ですから、國學院大學には神道文化学部といったものもあります。この國學院大學の神道研究科で、キリスト教の神学者である徳善教授が招かれて講義をしたのですが、そこ集まっている学生は将来神主になる人たちです。その将来の神主である学生から次のような質問があったそうです。それは「どうしてキリスト教はこのような世界に広がる世界宗教になり得たのか」という質問ですキリスト教も、もともとはユダヤ教の一派であり、日本の神道と同じように一民族宗教でした。それなのに、今日では世界中に広まっており、まさに世界宗教、普遍宗教と呼ばれるにふさわしい状況になっている。神道と同じように、一民俗宗教から出発しているのに、いったいどうしてなのだろうかという率直な疑問からでた質問だろうと思いますが、みなさんならどのようにお答えになるでしょうか。

そのとき、徳善教授がどのようにお答えになったかについては、正確に覚えていませんがたぶん、このようなお答えであったと記憶しています。それは、おおよそ次のような内容です。「キリスト教は、様々な文化に接し、時にはその文化を取り入れ、時にはその文化を呑み込みながら歴史の中で変化してきたが、しかしキリスト教には、決して変わらない聖書というアンカー(船の錨)があった。様々な文化に適合した教会のスタイルやあり方、そしてカトリックやプロテスタントという教派の違いがあるが、しかし、そこには帰るべき原点となるものがあるからだ」というものであったように思います。確かに、キリスト教には豊かな包容力があります。いろいろな国の文化や国柄といったものを受け止めながら信仰を伝えていく、神学の言葉で言うならばインカルチャーとかコンテキスチャライゼーションなどと言いますが、要は、その国にあり方に寄り添いながら信仰を伝えていきます。そういった意味ではキリスト教は決して排他的ではありません。そして、そのように、いろんな文化や国柄を受け入れることができるのは、他の文化を受け入れていったとしても決して本質を見失うことがない揺るがない土台としての聖書を持っているからです。その聖書を皆さんもお持ちになっておられる。そして、その聖書にもとづいてこの三鷹キリスト教会はここに建てあげられていますし、この聖書の言葉を中心にして私たちの礼拝が持たれています。

しかし、よく見てみますと、みなさんのお手持ちの聖書も新約聖書と旧約聖書とに別れている。聖書という一つの書物のはずなのに旧約聖書と新約聖書の二つの部分に分れているのです。そしてこの旧新訳聖書の、旧と新とをわける境目にあるのもイエス・キリスト様の誕生の出来事なのです。旧約聖書と新約聖書の境目にイエス・キリスト様の誕生の出来事があるわけですから、新約聖書のイエス・キリスト様に関する記述があるのは当然です。またイエス・キリスト様の教えに基づいた教会の歴史や使徒たちが書き残した手紙などが納められている。その意味で、新約聖書はイエス・キリスト様があかしされている書物であるといえます。しかし、当然のことですが、旧約聖書にはイエス・キリスト様というお方について具体的には書かれていません。そこにあるのは、ユダヤ民族の歴史であり、ユダヤ民族が歴史の中で時には神にそむき、時には神を求め、時には嘆き、時には喜んだ歴史が記されているのです。なのに、その旧約聖書に対してイエス・キリスト様は、その旧約聖書に記されている出来事は、私について書かれているものだというのです。ヨハネによる福音書5章39節です。そこにはそのように記されています。

「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについて証をするものである。」このヨハネによる福音書5章39節でイエス・キリスト様が語られた時代にはまだ新約聖書といったものはありません。だから、ここで言う聖書とは旧約聖書のことです。旧約聖書には、イスラエル民族の歴史が記され、その歴史の中で生きたユダヤ民族の嘆きや悲しみ、あるいは喜びが記されている。そして、その嘆きや悲しみを通して彼らが待ち望んでいる救い主に対する期待と、また神がその救い主をお送りになるという約束が記されているのです。そして、イエス・キリスト様はその神がお約束なさった救い主なのですが、そのイエス・キリスト様を通して、旧約聖書を見ると、それまでとは違う新しい世界が見えてくると言うのです。それまで、旧約聖書を読むときに見えていた旧約聖書の世界、旧約聖書の神とは違う新しい世界、新しい神の姿が見えてくると言うのです。もちろん、神は一貫したお方ですから、神が変わったと言うことではありません。イエス・キリストというお方の御生涯を通してみるときに、それまで気づかなかった神というお方のお姿、あるいは、それまで漠然としか分からなかった神のお姿がより具体的にわかってくるというのです。

それが神の愛ということです。神は愛であり、ご自分と相反し敵対するものまでも赦し受け入れて下さるほど愛に満ちあふれたお方であるということです。そのような豊かで深い愛を持っておられるからこそ、異なる文化や国柄といったものまでも、決して排他的に拒否するのではなく、むしろそれを受け止め受け入れ、取り込むこともできるお方なのです。その神の愛が、イエス・キリスト様の御生涯に豊かに溢れているのであり、旧約聖書もその神の愛が基盤になって記されていると言うことができます。つまり、聖書が土台であるということは、聖書が指し示すイエス・キリスト様が土台であるということでもあるのです。そして、エレミヤ書31章1節から6節には、その神の愛が記されているのです。では、そのエレミヤ書とは一体どのような書物かと言いますと、神の愛について書かれていると言うよりは、むしろ、神にそむき、偶像礼拝を行なうという宗教的罪を犯し、また神の前に道徳的にも罪を犯しているイスラエルの民に対して、神がエレミヤという預言者を遣わし、そのような罪に陥っているイスラエルの民に裁きを下すということを預言させた書物だといえます。もちろん、神がそのような厳しい裁きの言葉を預言者エレミヤに伝えさせたのは、イスラエルの民が、自分の罪を悔い改め神に立ち帰ることを望んでいるからです。でなければ、イスラエルの民は悪なのだからといっていきなり裁きを下してもかまわないのですが、神はイスラエルの民を愛しているからこそ、このままでは裁きを下さなければならなくなるので、神に立ち帰るようにと呼びかけているのです。ですから、エレミヤが伝える神の裁きのメッセージは、厳しく罪を追求し糾弾するメッセージではあるのですが、その背後には、深い神の愛があるということができます。

ところが、そのような、神のメッセージを伝えるエレミヤの言葉に、イスラエルの民は、特には耳を貸しません。誤りを正し、あるべき正しい道へ立ち返らそうとする言葉は、たとえ愛から発せられた言葉であったとしても決して聞こえの良いものではありません。ですから、かえってそのような神のメッセージを伝えるエレミヤを迫害したのです。それほどまでにイスラエルの民の心は神から離れ、不法と悪に傾いていたのですが、そのイスラエルの民が神の裁きによって滅んでいくことを思って、エレミヤはしばしば涙を流し、そして執り成すのです(エレミヤ14:17-22)。それは、エレミヤが、イスラエルの国と、そこに住む人々を心から愛していたからにほかなりません。愛すればこそ神の裁きの言葉を伝えるのが辛いのです。だからこそ、エレミヤはただ神の裁きを伝えるだけでなく、イスラエルの民にために涙を流し、そして神に執り成すのです。それは、まるで神が、神から離れ罪を犯している人々が神の裁きに合うという悲劇を悲しみ、人々を救おうとする神の御子イエス・キリスト様のような姿です。実際、そのようなエレミヤの滅び行く同胞のために涙を流して執り成しをする姿に、イエス・キリスト様のお姿と重なりあわせて見る人は少なくありません。

そのようなことを思いますと、神がエレミヤを預言者としてお選びになったのは、エレミヤが、イスラエルの国とそこに住む人々を心から愛していたからなのだろうと思わずにはいられません。愛すればこそ神の裁きの言葉を伝えるのが辛いのです。そのように、自分の同胞であるイスラエルの民を愛するエレミヤは、何とか救いたいと願っておられる神の愛を本当によく理解できる人だったのだろうと思うのです。そして、そのように、神の愛を深く知っているからこそ、エレミヤの生涯がイエス・キリスト様に似てきたのかもしれませんいずれにしても、エレミヤの語る神の言葉の背後には、溢れんばかりの神の愛があるのです。そして、さきほど司式の兄弟に読んでいただきましたエレミヤ書31章1節から6節までは、その神の愛というものが、直接的に語られている箇所であります。このエレミヤ書31章1節から6節は同じエレミヤ書30章1節から語られるイスラエルの民に対する救いの約束の中にある言葉です。それは、神を離れ、不法を行ない、悪に染まってしまったイスラエルの民が、神の裁きに合い国が滅ぶという悲惨な出来事を経験することになったとしても、その神の裁きの経験を通して、神を求めるなら神は、それまでのイスラエルの民の罪を全部赦し、忘れ去って下さって、再びイスラエルの国を復興して下さるという新しい約束なのです。

ここにおいて、「つるぎをのがれて生き残った民は、荒野で恵みを得た。イスラエルが安息を求めたとき、主は遠くから彼らに現れた。わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた。」とそう神は語っておられます。それは、神の裁きのゆえに、バビロニア帝国によって国を滅ぼされたイスラエルの民が、はるかに離れたバビロニア帝国に奴隷として連れていかれるが、そこで神に救いを求めるならば、神は必ずそこから回復してくださるという約束の言葉なのです。そして、そのような約束を神がなさるのは、神がイスラエルの民を愛しているからだというのです。「主は遠くから彼らに現れた。」といいます。確かに、イスラエルの民が住んでいたカナンの地から、彼らが連れ去られたバビロニア帝国は位置的にも遠く離れています。その遠く離れたカナンの地から、神は愛を示してくださっているということなのですが、そのような地理的距離を産み出したのは、イスラエルの民の心が神から遠く離れていたからです。つまり、カナンの地とバビロニア帝国との地理的距離の遠さは、イスラエルの民の心の神に対する距離の遠さでもあったのです。しかし、そのような距離の遠さを乗り越えて神は私たちを愛していてくださるというのです。そして、その愛は、誠実で真実さに満ちたもので決して変わらない愛なのです。

だからこそ、イスラエルの民が神から離れ、不法や不義、また悪や不道徳に陥っているときに、神はエレミヤを預言者として送り、そのような生活のさきにある神の裁きを大胆に語らせたのです。そして、神に立ち帰らせようとした。それだけではない。たとえ、イスラエルの民がエレミヤの言葉が伝える神の言葉に耳を傾けず、結果として神はイスラエルの国に裁きを下さなければならないことになっても、なお神は回復の約束を彼らに与えるのです。彼らが、苦しみの中で神を呼び求めるならば、神はイスラエルの民を赦し、再びその国を回復してくださるという新しい事態を引き起こしてくださるというのです。それは、神がイスラエルの民を永遠に変わらない真実の愛で愛しておられるからです。たしかに、それは遠くから現れる神の愛です。しかし、遠く離れているのは神ではない、私たちが神から遠く離れていったためにおこった距離なのです。けれども、それがどんなに遠く離れたものであっても、神は遠くから、しかも愛を持って近づいてくださるお方なのです。そのように、愛を持って近づいてこられる方だからこそ、そこに救いの出来事が起るのです。事実、イエスラエルの民が、神を呼び求めるならば、彼らは新しく再出発することができるのですし、実際、彼らが、バビロニア帝国の地にあって彼らが神を求めたとき、70年という歳月はかかりましたが、彼らの母国、カナンの地にあるイスラエルの国に帰ってくることができたのです。まさに新しい事態、新しい出来事が始まったのです。それは歴史上に起った出来事として世界史の教科書にも記されている神の救いの業です。

このイスラエルの民に示された神の真実の愛は、それが永遠の愛であるがゆえに、イエス・キリスト様というお方によってもう一度歴史にくり返されます。この神の一人子である子なる神が人となってこの地上にお生まれくださったことによってすべてが新しくなったのです。それは、単にイスラエルの民だけに注がれる愛ではなく、すべての国の人々に注がれた愛です。なぜならば、イスラエルの民は、神が神の民としてお選びになったその選びのゆえに、愛を注がれたのですが、すべての国民は、神が人類をお造りになったがゆえに注がれる愛なのです。その神の愛が結実したのがクリスマスであるといえます。なぜならば、クリスマスは、神が私たち人間のところへ下ってこられた日だからです。言うまでもないことですが、神と人との間には、私たち人間には決して超えることのできない大きな断絶があります。人間は決して神になることは出来ません。そこには超えることのできない隔たりがあるのです。そういった意味では神と人との間は限りなく遠いのです。けれども、神はその隔たりを超えて人間に近づいてきてくださった。しかも、ただ近づくと言うだけではない、私たち人間とまったく一つになるために人間にまでなってくださったのです。

超えることのできない隔たりを超えてまで、やってくる。そこには、相手を思う熱い思い、パッションがあります。そして、パッションは神であるお方が人間にまで身をやつされる程の愛という熱情なのです。それは自分のためではない、ただ相手を生かし、相手の幸いを願う愛です。その愛を持って愛する対象として、神は人間を選び、教会を選び、そしてあなたを選んでくださったのです。この神の愛にすがるときに、新しい出来事が始まっていくのです。だからこそ、教会は一年の始まりをアドベントにおいたのです。イエス・キリスト様がお生まれになったクリスマスの出来事から、新しい出来事が始まっていくのです。

たとえば、近代という新しい時代はルネッサンスと宗教改革から始まったと言われます。つまり中世という時代から近代という新しい時代の境目に宗教改革があるのです。中世の時代、特に中世後期にはオッカニズムという考え方がありました。オッカニズムというのは一つの哲学的なものの見方なのですが、中世という時代は神学と哲学は表裏一体でしたので、オッカニズムは神学の分野にも大きな影響を与えています。オッカニズムにおいては神の愛は近づいてきません。人間が神の愛に近づいていかなければならないのです。どういうことかと言いますと、神は遠くにいて私たちに愛を示しておられる。ここまでは、エレミヤ書の表現と同じです。その遠くにある神の愛に、私たち人間が近づいていって、その神の愛のあるところに到達して初めて神から愛されるというのがオッカニズムの考え方なのです。ですから、神の愛は、私たちが神に認めてもらえるように、勝ち取らなければならない目標なのです。平たく言えば、私たちが神に愛されるにふさわしい行ないをし、それによって神に愛されるにふさわしいとされるところに到達して初めて神に愛される者と認められるのです。ですから、人は神に愛されるにふさわしい者となるために努力し頑張らなければならないのです。このオッカニズムの影響を受け、それゆえに苦しみぬいた人がいます。宗教改革者のマルティン・ルターがその人ですが、ルターは、頑張っても、頑張っても決して神の愛に近づけないこと感じていました。そして、それほどまでに、人間と神との間には遠く離れた距離があることに気が付いたのです。

しかし、ルターは神の愛を何とか得たいと願っていたのです。だから苦しんだのです。一生懸命頑張って神の愛に近づこうともがくのですが、どんなにもがいても神の愛は全然近づいてこない。それは遠くに表わされた高嶺の花のように映っていたのです。ところが、ある時にルターは気が付くのです。神の愛は私たちが神に近づいていって神に認められ、神から受け入れられることで私たちが勝ち得るものではなく、神が私たちに近づいてきてくださり、私たちに差し出されるものであって、私たちがその差し出された神の愛を受け取ることによって得られるのだということに気づくのです。そして、その差し出された神の愛を信じ受け入れることが信仰なのだということに気づくのです。そこから宗教改革が始まり新しい時代が始まったのです。その差し出された神の愛こそがイエス・キリスト様というお方なのです。ですから、すべてはクリスマスの出来事から始まるのです。神が、私たちを愛してくださり、その愛を差し出しておられる。エレミヤを通し、厳しい裁きの言葉を語らせ、いつでも変わらずに差し出されている神の溢れる愛に気づかせようとしたように、イエス・キリスト様の十字架の死という、酷い悲惨な出来事を通して、私たちを救おうとする愛を示しておられるのです。

エレミヤを通して語られる神の言葉に耳を傾けなかったイエスラエルの民にとっては、神の愛は遠くに現れたものでした。しかし、その神の愛を求めるときに、それは決して届かないところに留まってはいませんでした。遠くから近づいてきて、イスラエルの民を救ったのです。神の愛は求める者に近づいてきて、そこに喜びをもたらすものなのです。神がひとたび愛する相手と決めたものであるならば、神はその人を永遠に愛し続けます。それが神の真実の愛なのです。ですから神が愛すると決めた相手がどんなに神に背を向け、神にそむき、神から遠く離れていたとしても、そこから立ち帰って神と向き合うならば、神の愛を見出すことができます。そして、その愛はけっして遠くに留まっているのではなく、神の愛の方が私たちに近づいてきてくれるのです。みなさん、神の愛は決して遠くではありません。皆さんの心にどんなに遠くに現れていても、それを見出すことができるならば、それはあなたの近くにまでやって来てくださり、私たちを救い、新しい出来事へと私たちを導いて下さるのです。私たちは、今日、この2008年の待降節を迎えました。このクリスマスの時に、私たちが心を新たにして神に向き合い、イエス・キリスト様に現された神の愛をしっかりとこころにうけとめるならば、新しい一年の歩みが私たちの前に広がっていきます。そのことを心に留めながら、この待降節の4週間を過ごし、クリスマスの時を迎えたいと思います。

お祈りしましょう。