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メッセージ

羊飼い 降誕節第2週礼拝
『導く神の降誕を待ち望む』
詩篇 23編1−6節
2008/12/7 説教者 濱和弘

さて、今年の待降節の第2主日となりましたが、クリスマスは様々な企業や商店にとって、ある意味買い入れ時であるといえますが、今年はそのクリスマス商戦も微妙なものになっています。言までもありませんが、その原因はアメリカのサブプライムローンに端を発した、100年に一度、あるいは未曾有ともいわれる不景気のためです。その不景気のために、契約社員と呼ばれる人たちの多くか契約打ち切りになっているとか、IBMのような大企業でも、正社員に辞職勧告がなされているというニュースを聞くようになりました。そのように、契約社員が契約を打ち切られるとか、あるいは社員が首を切られるということは、即、明日からの生活をどうするかという問題に直面するということです。へたをすれば家族を含めて路頭に迷いかねない状況にあるのです。そういう情勢だからこそ、社会を正しい方向に導いていってくれる頼りとなる指導者が国や会社を導いていって欲しいと思うのですが、そのような頼りがいのある指導者というものはなかなかいないようです。

今日の聖書の箇所には、「主はわが牧者であって、わたしには乏しいことはない」という言葉で始まります。牧者というのは、要は羊飼いであり、羊を飼い、導くものですが、ここでは、主なる神こそが、私たちを導く導き手であるということを「主はわが牧者」という言い方で言い表しているのです。この「主はわが牧者」といっているのは、23篇の表題にダビデの歌とありますから、ダビデといっても良いだろうと思います。実は、この詩篇の表題というものは、元々聖書に初めからあったものではなく、あとから書き加えられたものです。ですから、ダビデの歌と表題がついていても必ずしもダビデが作った詩だとは限らないのです。もちろん、サムエル記下の1章17節から27節などを見ますとダビデは詩人であったことが分かりますから、ダビデの詩という表題が付いている者の中にはダビデ自身が作ったものもその中にはあるだろうと思われます。けれども、ダビデの詩と呼ばれる詩の中には、ダビデ自身が作った詩だけではなく、ダビデが詩篇集を編纂する際に選んで編纂した詩も含んでいるのです。それで、ダビデが選んだ歌という意味でダビデの歌と呼ばれているものもあるのです。では、この詩篇23篇はどうであったかというと、おそらくダビデ自身が作った詩であろうと考えられます。ですから、主はわが牧者というとき、ダビデが神に向って、「神よ、あなたは私を導き養って下さるお方です。」とそう告白していることになります。

松田明三郎という人は、このダビデの告白に対して、「これがダビデの作であるならば、少年時代の作品ではなく、成人して人生の様々な悩みをなめつくした後に、少年時代の牧羊生活を思い出しつつ歌ったものとみなすべきであろう」と述べています。たしかに、ダビデはイスラエルの国の王にまでなりましたが、しかし、それまでは前任の王であったサウル王の嫉妬を買い、命を狙われるなど随分と苦労しましたし、王になった後も息子アブサロムの反乱にあうなど、本当に苦労した人であったといえます。しかし、そのような苦難や苦労を経験しても、人生を振り返ってみると、神が私を導き、守り、支えて下さっていた。だから、この神が、私の神としてわたしを導いて下さるかぎり、私には乏しいことがない。ダビデというのは、イスラエルの民にとっては理想的なリーダーです。それは昔も今も変わらないことでして、ユダヤの人にとっては最高の指導者なのです。しかし、そのダビデであっても、神が自分の牧者でなければならないということをちゃんと知っているのです。いえ、むしろ、神が自分の牧者でなければならないということをちゃんとわきまえ知って王として国を治めたからこそ、ダビデは理想的なリーダーであり最高の指導者と呼ばれたのだろうと思います。

最近、私は「脳死と臓器移植」に関する論文を書いています。もちろん、医学論文ではなく、脳死と臓器移植を神学的にはどう捉え、この脳死や臓器移植の問題が教会にも実際に起こった場合に、牧師はどのように対処すべきかということについて考察した神学論文です。しかし、脳死と臓器移植といったものは医学的な問題でもありますし、そこには医療倫理の問題も関わってきます。そしてその医療倫理の分野において自己決定と呼ばれる考え方があげられるのです。それは他人に害を及ぼさないかぎり、自分のことは自分で決定できるのだという考え方です。つまり、自分の人生にとっては、自分が王なのだというのです。ところが、熊本大学の浅井篤という先生は、そのような自己決定がなされるためには、基本的に身に着けておかなければならない徳ともいえるような人間の姿勢があるというのですが、その一つに、「謙虚さ」をあげておられます。この場合の「謙虚さ」とは、自分の考えが絶対ではないことをみとめ、相手の言葉に耳を傾けることができる「謙虚さ」ということだそうです。自分のことは自分で決められるからこそ、謙虚になって人の意見に耳を傾けることができなければ、正しい判断はできないというのです。

ところが、私たち人間は、指導者的な立場に立つますと、とたんに人の意見に耳を傾けることが出来なくなります。そして、自分の人生を自分が決められるようになってきますと、周りにアドバイスや忠告などに対して「謙虚に」なって耳を傾けていく事などできず、結局自分のやりたいこと、したいことをしようとするのです。ですから、自分の耳に心地よい意見は聞きますが、そうでない意見は、耳を傾けることができないという事になってしまうのです。そのような姿勢は、まさに自分自身の人生の王様は自分であると言っているような者だと言っても良いだろうと思います。けれども、ダビデは、自分自身の人生だけでなく、イスラエルの王となっても、自分を導いて下さるお方は神であるということを忘れなかったのです。そうやって、神の導きを信じ、神の導きに委ねながら歩んできたときに、神は私の命を守られ、支え、くじけそうになり、心が折れてしまいそうになるときにも、私の心に活力を与え、平安を与えて下さったというのです。

前にも、お話ししたかと思いますが、この主は私の牧者であってという言葉の牧者という言葉は、牧場主というニュアンスを持っています。ですから、大きな牧場という囲いの中に私たちを置き、そこで養って下さるお方が神であるといえます。しかし、牧場主はただ、自分の牧場の囲いの中に羊を放り出して、そこで放牧しているわけではありません。具体的に羊飼いをつかって羊を導くのです。たとえばそれが旧約聖書の時代であれば、預言者と呼ばれる人たちでした。預言者は、神からの言葉を託され、イスラエルの民や王が誤った方向に進んでいくときに、神から言葉を託され、「そのような生き方は神の民の生き方として間違った生き方である。そして、その間違った生き方をするかぎり、神はあなたがたを裁かれると警告を発し、正しい生き方、神の栄光を表わす生き方とはこのような生き方なのである」と進むべき道を指し示し、神の民を正しい道に導こうとする人です。たとえば、先週お話ししたエレミヤという人もその神の預言者の一人でした。そのような預言者によって、ダビデ自身も誤りを指摘され正しい道に立ち帰った一人でした。ダビデは王であったとき、自分の部下のウリヤの妻に横恋慕をし、過ちを犯し、その過ちを隠すために、姑息にも策略を練ってウリヤを戦場で死なせるのです。そして、自分の罪を覆い隠してウリヤの妻バテシバを自分の妻として迎え入れるのです。そのとき、ダビデの犯した過ち、罪を指摘して、正しい道に立ち帰らせたのはナタンという預言者だったのです。

ダビデが、自分の人生を振り返りながら、私の牧者である神が私を正しい道に導いて下さるというとき、このバテシバとの過ちの出来事を思い出していたのかもしれません。もし、ダビデがあの時、神が遣わして下さった預言者ナタンの言葉によって、自分の過ちと罪を示され、それを悔い改め正しい道に立ち帰らなければ、一体自分はどうなっていたのだろうか。それこそ、自分の部下を裏切り、自分自身の保身のために策略を練ってその部下を戦場で死なせたのですから、それが分かれば彼の部下はもはや誰も彼を信頼しなくなります。ですから、それは王としてのダビデにとっては最大の危機だったのです。しかし、神がその過ちを示し、正しい道を示して下さったとき、彼は神と人との前に悔い改めたことによって、やり直すことができ危機を乗り越えることができたのです。まさしく、牧場主なる神が、預言者ナタンを用いて、ダビデを正しい道へ導いて下さった出来事がそこにあります。

そのように、神は神の民となったもの、神の牧場の囲いの中で飼われる羊となったものを絶えず見守り、導き、支えて下さるお方なのです。だからこそ、ダビデは確信を持って「たとえわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。」と言うことができましたし、「わたしに生きているかぎりは、必ず恵みと慈しみが伴うでしょう。」と言うことができたのです。それは、ダビデが自分の人生で経験した出来事から得た確信です。もちろん、ダビデがこのように言うとき、私はもはや決して過ちや罪を犯すことがないなどと自負していっているわけではないだろうと思います。むしろ、過ちや罪を犯す弱さを持っていても、神はその時々に、自分を正しく導いてくれる羊飼いのような存在を送り、自分を正してくれるという確信の下で語られた言葉であろうと思うのです。今日(こんにち)の時代にあって、私たちにナタンやエレミヤのような預言者が私たちのところに送られてくるといったことはありません。それは、私たちがダビデのような過ちを犯すことがないからではありません。いえ、むしろダビデよりも私たちは、もっともっと過ちを犯しやすい存在ですし、実際多くの過ちや罪を犯し続けて生きています。なのに神は、今日にナタンやエレミヤのような預言者をお与えにはならないのです。

それは、私たちにはイエス・キリスト様というナタンやエレミヤにまさる最高の預言者を与えていただいているからです。ナタンやエレミヤは神から言葉を託されて神の言葉を伝えましたが、イエス・キリスト様は、その神の言葉そのものであり、三位一体の神における神の一人子なる神なのです。ですから、神から言葉を託されそれを取り次ぐのではなく、神であるお方が直接私たちに語りかけて下さるのです。だから、もはや預言者など必要ないのです。コロサイ人への手紙1章26節、27節には次のような言葉があります。「これ神の言、すなわち歴世歴代(よよよよ)かくれて、今神の聖徒に顕れたる奥義を宣傳へんとてなり。神は聖徒をして、異邦人の中(うち)なるこの奥義の栄光の冨のいかばかりなるかを知らしめんと欲したまえり、此の奥義は汝らの中(うち)に在すキリストにして、栄光の望なり」特に27節の「神は聖徒をして、異邦人の中(うち)なるこの奥義の栄光の冨のいかばかりなるかを知らしめんと欲したたまえり、此の奥義は汝らの中(うち)に在すキリストにして、栄光の望なり」という言葉は、神を信じる者はユダヤ人だけではなく、異邦人であっても、その心の中にイエス・キリスト様というお方が住んで下さっている、それこそが神の奥義であって、私たちに与えられた栄光の冨であるというのです。

神の言葉そのものであるお方が私たちの内に住んでいて下さる、そして私たちを導いて下さっている。 だから、私たちはもはやナタンやエレミヤといった預言者を必要とはしないのです。もちろん、私たちの内に住んでいてくださるということは、一面の危うさを持っています。それは内住するキリストの危うさではなく、私たちの危うさです。その私たちの持つ危うさというのは、私たち神の言葉に対する「謙虚さ」を欠いた姿勢に陥ってしまう危うさです。先ほども申しましたが、謙虚さとは、自分自身の考えや主張、あるいは価値観を絶対視しないで、相手の言葉に耳を傾けて聴くということです。ですから、神の言葉であるキリストに対して「謙虚さ」を持つということは、私たちが、自分の価値観や主張を私たちの内におられるキリストに押しつけるのではなく、逆に、私たちが、自分の価値観や考えをひとまずひっこめて、キリストが語られることに耳を傾けようとする姿勢です。それを欠くときに、私たちは、私たちの内にせっかくキリストが住んで下さっているのにそのお方の声を聞くことができなくなるのです。特に、私たちが自分の内側の声を聞こうとすると、イエス・キリスト様の声ではなく自分自身の声を聞きます。だからこそ、聖書という外側から語りかける神の言葉が必要なのです。外側から語りかける神の言葉には、私たちの主観が入り込みません。

私たちの内側におられるイエス・キリスト様は、私たちの心の内をよくしっておられるお方ですから、その外側から語りかけられる聖書の言葉を用いながら、私たちを導いて下さるのです。ですから、私たちが聖書の言葉を読むことを拒んだり、あるいは聖書の言葉を照らし、私たちに伝えるための礼拝の説教を聞くことを拒むようになりますと、もはや私たちの内側におられるイエス・キリスト様の言葉を聞くことができず、結局、自分自身の主張や願望に耳を傾けているだけになってしまいます。そうすると。私たちは何か判断したり、自分自身の人生の様々なことを決定する際に、神の導きの中で決断することができなくなってしまうのです。せっかく、牧場主なる神が私たちを導く羊飼いとしてのイエス・キリスト様を私たちのところに送って下さったのに、その方の導きの声を聞くことなしに、私たちが歩んでいるとするならば、それは、神が与えて下さった栄光の富みがまったく用いられていないことになります。それは、私たちにとって大きな損失なのです。私たちは、今、今年のイエス・キリスト様がお生まれ下さったクリスマスを待ち望む待降節の時を過ごしています。それは、単に歴史の中に神のひとり子なる神がお生まれ下さったという出来事を記念するためだけのものではなく、私たちの内側に、神の奥義であるキリストがお住まいくださったことを覚え記念する日でもあります。そして、そのように、私たちの内にキリストが内住して下さったということを覚え記念するのは、私たちが、私たちが正しく歩めるように導くイエス・キリストの声を聞くことができるようになるためなのです。

昨日、私は学びのためにある先生の講義を聴きに行ったのですが、そこで講義をしておられた先生がおもしろい話をして下さいました。それは、古代には、本を黙読する習慣はなかったというのです。そして、黙読をするという習慣ができたのはだいたい紀元4世紀頃のアウグスティヌスの時代からだというのです。つまり、それまでは聖書を含めて書物というのは音読をするのが当たり前だったのです。実際、アウグスティヌスという人は、アンブロシウスという人が聖書を開いて黙って読んでいるのを見て大変驚いたそうです。そのように、黙って本を読む人を見たことがなかったからです。そのように聖書を黙読することによって、聖書の言葉を深く内面で問いかけて読むことができるようになりました。それは、聖書の言葉に真剣に向き合うためには良い方法でもあるのです。ですから、聖書を黙読するという習慣も私たちの中に根付いていったのだろうと思います。反面、深く自分の内面で読むために、自分の思いが聖書の言葉に重なり合いながら読み、自分の思いを読み込む危険も出てきました。ですから、時折聖書を音読することも大切でしょうし、説教の言葉を聞くと言うことも、私たちが神の導きの中で生きると言うことにとって、とても大切なことなのです。

私たちの人生を導き、私たちを憩いの緑の牧場、いこいのみぎわに導いて、どんなに悩みや苦難の中にあっても、私たちの心に平安を与え、私たちの魂を生き返らせて下さるお方は、私たちの内に、既にお生まれ下さっています。また、私たちが生きているかぎり、私たちの人生に恵みと慈しみを与えて下さる、私たちを牧者は、私たちに与えられているのです。もちろん、聖書の神を信じ、イエス・キリスト様を信じる者には必ず与えられます。ですから、私たちに求められていることは「謙虚な」心で、私たちの内にあって語りかけて下さるイエス・キリスト様の言葉に耳を傾けて聴く姿勢なのです。そして、そのイエス・キリスト様の声を聞き取ることができるように、外側から語りかけてくる言葉として聖書を読み、また礼拝説教を聞くと言うことなのです。愛する兄弟姉妹の皆さん。三位一体なる神は、私たちの牧者です。そして、この牧者の導きの中にあるとき、内住のキリストという私たちは豊かな冨を得、決して乏しくはありません。この待降節のこの時に、そのことを覚え、イエス・キリスト様が与えられていることを感謝し、「謙遜な」心を持ってイエス・キリスト様の言葉によって導かれていくものになろうではありませんか。

お祈りしましょう。