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メッセージ

羊飼い 待降節第3週礼拝
『罪を取り除く小羊』
ヨハネによる福音書 1章29−34節
2008/12/14 説教者 濱和弘

さて、来週はクリスマスを迎えます。そのようなわけで、テレビやラジオ等を見聞きしますと、「クリスマスはどのようにお過ごしになりますか」といった問いかけの言葉が、挨拶の言葉として使われてているのを耳にします。普段ですとあまり気にならないのですが、先日たまたま、この「クリスマスをどのようにお過ごしになりますか」という質問を聞いて、ふと考え込んでしまいました。というのも、このアナウンサーは、このように「クリスマスの過ごし方」というものをどのように考えているのだろうか。いやそもそもクリスマスの過ごし方という以上、まず、その前提にクリスマスとは何かということがあって、その次に、そのクリスマスという日をどう過ごすのかという問題があるはずである。だとすれば、この人はクリスマスをどのように考えているのだろうかと疑問に思ったのです。同時に、「それじゃ私は、そのクリスマスをどんな日として過ごしているのだろうか」と考え込んでしまったわけです。

言うまでもないことですが、クリスマスというのはイエス・キリスト様がお生まれになったことを記念し、そのことを感謝し、そして祝う教会の祝日です。けれども、町中に溢れているクリスマスは教会とはまったく関係なくクリスマスという日を過ごしている。そのように、もともとのイエス・キリスト様がこの地上にお生まれになったということとまったく関係なくクリスマスが行なわれているわけですから、いろいろな過ごし方がというのが生まれてくるのも仕方がないと思います。けれども、せっかく今日、こうして教会の礼拝に出席しているのですから、今年のクリスマスはクリスマスの意味を知って過ごして頂ければと思っています。もちろん、ここに集っている多くの方は教会にずっと集っている方々ですから、クリスマスがイエス・キリスト様の御降誕を記念する日であるということは充分に分かっておられると思いますが、しかし、もう一度、このキリストの誕生の意味を考えてみたいと思うのです。

そこで、クリスマスが、イエス・キリスト様がお生まれになったことを記念し、そのことを感謝し祝う日だとして、どうして教会は、そのイエス・キリスト様がお生まれになったことを感謝し祝うのでしょうか。その鍵は、先ほど司式の方に読んで頂いた聖書の中の言葉にあります。その言葉は次のような言葉です。それは、ヨハネによる福音書1章29節にある「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」という言葉です。この「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」という言葉に、イエス・キリスト様がこの地上にお生まれになった目的というものが、実に見事に一言で言い表されています。ここで「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」というその神の小羊というのは、イエス・キリスト様のことです。ですから、イエス・キリスト様は世の罪を取り除くために来られたのです。しかし、世の罪を取り除くと言われましても、世の罪というものがいったい何なのか良くわからない気がします。確かに、今の世相は決して良いものではないような感じがします。日本は治安がよいと言われますが、それでも様々な犯罪があります。昨日も家内と車にのっていましたら、宅配便の方が、マンションの玄関のところでインターホーンで、要件を告げてドアのロックを解除して貰っていました。それを見ながら、最近はセキュリティが厳しくなったねという様な会話をしていたのですが、確かに、以前と比べると安全とは言えなくなってきています。もっとも、それでもまだ日本の治安は諸外国と比べるとずっと良いそうで、私の知り合いの、ブラジルに宣教師として行かれているS宣教師は、ブラジルで車に乗っているときに子どもに銃を突きつけられ強盗にあったそうです。

そのように、私たちの周りには犯罪や不正というものが多くあります。けれども、このようなものは、突き詰めて言うならば犯罪を犯した人や不正をはたらいた人、個人の罪だといえます。そういった意味では、これらの罪は世の罪ではなく人の罪、個人の罪だといえるかもしれません。そうすると、それらの罪は、犯罪を犯した人の罪、不法を侵した人の罪であって私の罪ではありません。だとすれば、キリストがこのような個人の犯した罪や不正を取り除くためにお生まれになったとしても、キリストは私とは関係のない存在になりますし、またあなたとも関係のない存在になります。しかし、聖書の言う罪は、個人の罪や不正いったものではなく、「世の罪」なのです。それは、この世が、私たちの住む世界が持っている罪だと言っても良いだろうと思います。では、いったい私たちの住む世界がもっている罪とは何なのでしょうか。そのためには、この罪という言葉をもう少し分かり易く説明する必要があると思います。というのも、この「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」という言葉を言った人は2000年前のバプテスマのヨハネという人だからです。このバプテスマのヨハネという人はユダヤ人です。その2000年前のバプテスマのヨハネが、同じく2000年前のユダヤ人に向って、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」といったのですから、その当時の人が「罪」といって何をイメージしたかが問題になります。そして、そのイメージしたものが「罪」なのです。

それでは、彼らは何をイメージしたかというと、それは神の言葉に耳を傾けないで自分の好きなように生きていく生き方なのです。そして神の言葉に耳を傾けないということは、神を恐れないと言うことです。神を恐れず自分勝手に自分の好きなように生きていくことが、彼らにとって、そして人間にとって罪なのです。恐れるものをもっているということは、明確な基準を持っていると言うことです。これをしたら怒られる、これをしたら誉められるそう言った基準が、善悪の判断や道徳といったものに繋がっていきます。ですから、恐れるものをもたないで自分の好きなように生きようとするときに、人間は、道徳的な過ちを犯したり、不正なことに手を染めてしまうようになってしまう、いや気づかない内にそのような過ちに陥ってしまっていくというのです。つまり、神を恐れるという絶対的基準を見失ってしまうとき、この世は悪や不正といった罪に支配されてしまい、私たちもまた罪の中に生きてしまっているというのです。

もちろん、私たちは犯罪を犯していると言うことはないかもしれません。道徳的な過ちを犯していると言うこともないかもしれません。けれども、私たちの心に、どこか自己中心的な部分、自分勝手なところ、そして人に対する無関心や冷たい心があるならば、そこには、罪を産み出す種のようなものがあるのです。たまたま、警察のお世話になるような目立った犯罪を犯すような状況になかったり、道徳的な過ちを犯さずに済んだというだけに過ぎないと言っても良いかもしれません。ただ、環境に恵まれ立ていたからこそ、深い罪意識にさいなまれるようなことにであわなかったとも言えるのです。いや、それはそれでありがたいことですし、喜んでも良いことです。けれども、一歩間違えば、私たちも過ちに陥ってしまうような世界に私たちは生きているのです。キリストはそのような世界にお生まれ下さり、私たちがどのように生きていけばよいかということを示して下さるお方なのです。

人間がどの様にして生きていったらよいか。これを指し示すのは、モデルとなるような存在です。あの人のようになりたい、あの人のように生きたいと思う、そのような人の存在を通して、人はどの様に生きていくのかを学ぶのです。そういった意味では、私たちは人間として自分はどの様に生きていくのかというモデルを持っているでしょうか。この私たちはどの様に生きていくかということには二つの側面があります。一つは人としてなすべきことをなすということを示す生き方のモデルとしての存在であり、もう一つは人としてしてはならないことをしないという示す生き方としてのモデルとしての存在です。そして、イエス・キリスト様というお方は、その二つのモデルを私たちに示して下さっています。人としてなすべきことをなす生き方としてのモデルとしてイエス・キリスト様が私たちに示している生き方は、まず第一に愛すると言うことです。聖書の同じヨハネによる福音書15章13節に「人がその友のためにいのちを捨てる、これより大きな愛はない」という言葉があります。

「24時間テレビ」というテレビ番組のキャッチ・フレーズは「愛は地球を救う」というものであったと思いますが、確かにそれはそうであろうと思います。けれども、私たちはすべての人を愛すると言うことがなかなかできない者です。嫌い人もいれば、関心を持てない無関心になってしまう人もいる。もちろん、そのような人が友達になることはありません。けれども、どんなに仲の良い友達であっても、その友達のためにいのちを捨てるということは、到底できることではないように思います。自分が生きることができるのに、その命を友達のために投げ出す。もしそう言うことができるならば、確かにそれよりも大きな愛はないだろうと思います。ところが、イエス・キリスト様というお方は、そのような生き方をなされたのです。同じく聖書にあるローマ人への手紙5章6節には、パウロという人のこのような言葉が書いてあります。そこにはこのように書かれているんですね。「正しい人のために死ぬ者はほとんどいないであろう。善人のためには進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。しかし、まだ(筆者註:私たちが)罪人であった時、私たちのためにキリストが死んでくださったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」

ここに書かれていることは、キリストが私たちのために死んでくださったということです。もちろん、私たちのためにといわれても、私たちはあったことはありませんし、このパウロの手紙が書かれたのは紀元1世紀のローマの人たちに住む人たちに対してですから、ここでいう私たちというのは、直接的にはローマに住むクリスチャンたちのことです。けれども、この当時のローマに住むクリスチャンたちも、誰ひとりイエス・キリスト様に直接お会いしたことがないのです。けれども、一度もあったことがない者たちであっても、聖書の神を信じる者のために、キリストは命を投げ出して死んでくださったというのです。それは、イエス・キリスト様が十字架の上で死なれたということを指しています。みなさんもご存知のように十字架は教会のシンボルです。2000年前のイスラエルの国でキリストは十字架の上で死なれたのですが、それは見も知らないローマのクリスチャンのためであったというのです。この見も知らないクリスチャンのために命を投げ出してくださったということは、今日の私たちであっても、私たちが聖書の神を信じるのであるならば、あの2000年前のイエス・キリストの十字架の死は、私たちのための死であり、私たちに対する神の愛、キリストの愛を示すものとなると言うことでもあるのです。

では、なぜキリストの十字架の死が私たちのための死であり、私たちに対する神の愛、キリストの愛になるかというと、その死が、私たちの罪を赦すものだからです。さきほど、私は、キリストは私たちがしてはならないことをしないという生き方のモデルであるといいましたが、してはならないことをしないということは、罪や汚れ、悪や不正から離れて清い生き方をするということです。しかし、実際には私たちは完璧な聖人になることはできません。人を憎んだり、羨んだり、嫌ったり、あるいは嫉妬を感じたり、あるいは蔑んで見たりします。そして、様々な欲望が私たちの心に中にあります。そういったものは、時としては私たちの向上心となり、私たちを良い方に向わせることもありますが、多くの場合、そのような心はさまざまな影を私たちの社会にもたらします。そういった意味では、私たちは罪に支配された世界の中でいき、罪に支配された世界を創りあげているひとりなのです。もちろん、私たちはそのような憎しみや、羨みや嫉み嫉妬というようなマイナスの心に支配されていたくはありません。できることなら、そのようなものを乗り越えて生きたい。自分の限界を超えていきたいと思うのですが、しかし、実際はそのようなことは無理なことのように思えて仕方がありません。

また、罪は神の前に裁かれると聖書は言うのですが、聖書の語るとおりであるならば、私たちの罪は必ず神の前に裁かれなければならないのです。けれども、イエス・キリスト様の十字架の死は、その私達の限界を超えさせてくださるのです。そして、神の前に必ず裁かれなければならない罪に赦しを与え、私たちがどの様に生きていくのかという生き方を指し示してくださるのです。それは、私たちがキリストのように愛の心を持って、人を赦し受け入れていく、そんな生き方です。「人がその友のためにいのちを捨てる」これは、「それよりも大きな愛はない」といわれる愛ですから、そのような愛し方で人を愛するということはなかなかできるものではありません。けれども命を捨てることはできなくても、相手を許す愛を持つことができる愛は持つことができるのです。神を信じ、キリストを信じ、キリストを私たちの目標として生きるならば、私たちにはできないと思うことであっても、神が私たちを愛してくださった、キリストが私たちのために命を投げ出すほどに、そして実際に十字架の上で死んでくださったということを信じ生きるならば、私たちの心に、キリストの愛が注がれて、私たちは愛する心が豊かにされていくのです。そして、私たちの心にある罪を取り除いてくださるのです。

クリスマスは、その憎しみや、羨みや嫉妬、優越感や劣等感、そして様々な欲望といったものが渦巻き、悪や不正、あるいは不道徳といったものが渦巻くこの世の中から、私たちを救い出してくださるイエス・キリスト様がお生まれになった日なのです。それは、他でもないこうしてクリスマスの時を教会で過ごしておられる皆さんのためであり、あなたのためなのです。ですから、ぜひ、クリスマスと言うときに、このキリストを自分の生きるべき人生の模範とし、いえ模範とするだけでなく、ご自分を、この世の罪から救い出してくださる救い主として信じ見上げて生きていく機会として頂ければと思います。そのような救い主キリストを見上げながら、クリスマスという日を過ごしたときに、私たちは本当にクリスマスを過ごしたということができるのです。

お祈りしましょう。