クリスマス礼拝
『謙遜を学ぶ』
コリント人への第一の手紙 4章6−16節
2008/12/21 説教者 濱和弘
さて、今日はクリスマス礼拝です。今日の礼拝では洗礼式もあり、また聖餐式もありますから、できるだけ説教の時間を短くしなければなりませんので、説教の内容もコンパクトにお伝えしなければならないと思っています。そこで、まず最初に説教の主題をお伝えしたいと思うのですが、今日の説教の主題は「私たちは神と出会うことができるのだ」ということです。もちろん、このような主題でお話しをさせて頂きますのは、今日がイエス・キリスト様がお生まれになったことを記念するクリスマスだからです。その神の独り子であるキリストがこのようにお生まれくださった、それは人類にとってただならぬ日であります。なぜなら、神が人となった日だからです。私たち日本の文化においては、人間が神として崇められることはあります。そろそろ受験の時期でありますが、受験の神様である天神様は、菅原道真が神として崇められたものでありますし、明治神宮は明治天皇を祭神としています。
しかし、クリスマスは神であられるお方が人となってこの地上に下ってくださったことを記念する日なのです。では、なぜ神が私たちのところに下って来なければならなかったというと、それは、私たちが神と出会うためです。私たちが神と出会って、神というお方をよく知り、信じるためなのです。神を知り、神を信じるといっても、見たことも聞いたこともなければあったこともない人を知り、信じることはできません。人が人を信じるためには、具体的に相手の人格に触れるような交わりを通して、相手のことを知らなければ、相手を信じることはできません。ですから、神を信じましょうといわれましても、神というお方がどの様なお方であるかということを知らなければ信じることもできないのです。ですから、そのように、神が私たち人間と人格的な交わりを持ち、私たち人間が、具体的に神を知るために神が人となってこの世に現れてくださったのです。その人となられた神がイエス・キリスト様というお方なのです。このイエス・キリスト様というお方を通して、私たちは神というお方がどの様な方であるかを知ることができるのですが、しかし、私たちがイエス・キリスト様というお方を深く知ると、このお方は私たちの人生に決定的な影響を与え、生き方までも変えてしまうお方なのです。
今、司式の方に読んでいただきました聖書の箇所には、シモン・ペテロとアンデレという人の名前が出ています。シモン・ペテロと名前が出ていますが、正確にはペテロというのは元々の名前ではありません。聖書にもしるされているように、ヨハネの子シモンという人がイエス・キリスト様と出会うことによって、新たにペテロと呼ばれるようになったのです。つまり、ペテロという新しい名前をいただいたのです。聖書において、名前というのはとても重要な意味を持っています。と申しますのは、名前とその人の生き方というのが密接な関わりを持っているからです。たとえば、モーセという人がいますが、このモーセという人の名前は、引き出すという意味です。この引き出すという意味の名前を持つモーセは、大昔にユダヤの民がエジプトに奴隷として働かされていたときに、そのユダヤの民をエジプトの地から導きだし、現在のイスラエルという国があるカナンの地に導いていったユダヤ人にとっては偉大な指導者としての使命を果たしました。まさに、名前が、その人の使命を表わしているのです。
同じように、ヨハネの子シモンは、もともとは漁師の子どもでしたが、イエス・キリスト様と出会い、イエス・キリスト様の弟子となり、その後、キリスト教会の土台となった人の一人なのです。そして、ペテロという名前は「岩」という意味なのですが、まさにペテロという人は、キリスト教創成期において教会の土台となる岩のような存在だったのです。たとえば、今日でも皆さんはローマ法王という存在を知っておられると思います。ローマ法王はカトリック教会においては教会の土台であり、カトリック教会の基盤なのですが、ペテロの後継者という立場なのです。そのように、漁師の子として生まれ、漁師として育ったペテロが全く違った生き方に導かれていったのは、まさにイエス・キリストというお方と出会ったからです。もちろん、このペテロのような例は、全く特別な事例です。しかし、誰であってもイエス・キリスト様というお方と出会い、イエス・キリスト様というお方と触れ合うことができたならば、その人の生き方は必ず変わってきます。人生が大きく変わっていくのです。それは、イエス・キリスト様というお方と触れ合うことで私たちの知らない世界を知ることができるようになるからです。
昨日、私はルーテル学院大学というところで行なわれている「ルターと聖書」という講義に出席していました。そこでは16世紀に宗教改革をおこなったルターという人が、どの様に聖書と関わり、どの様に聖書を読んだかということをまなぶのですが、そのなかで、なぜ人は聖書を読むのだろうかという話になりました。聖書というのは、分厚い本です。旧約聖書ですと(口語訳聖書で)1326頁また、新約聖書で409頁、合わせて1735頁に亘って書かれています。決して読みやすい読み物でもありません。けれども、教会2000年の歴史の中で、多くの人に読まれ、そして現在も読まれ続け、そしてそれらの人の生き方に影響を与えている書物なのです。そのように、なぜ人は聖書を読むのか。それだけでも、考えてみる価値のあるテーマのように思われます。そんなわけで、その講座に出席しているひとりひとりが、どの様なときに、あるいはどうして聖書を読むのかということについて発言をしたのですが、結局、最終的には、何かを求めて、あるいは何かを知りたくて聖書を読むのだということに行着くのです。そして、その何かが問題なのです。
聖書は、いうまでもなくキリスト教の正典です。クリスチャンの信仰の拠り所であり、クリスチャンの生き方を導くものだと言えます。その聖書を読むとき、私たちは何を聖書に求めるのでしょうか。たとえば、人が宗教に求めるものは救いです。しかも、その救いは往々にして具体的な内容をもっています。たとえば、病気だとか経済的な困窮、あるいは人間関係といったものです。そういった場合は、求める救いの内容がはっきりしています。病気でしたら病気が治ること、経済的な問題でしたらお金を手に入れるとか、人間関係でしたら、よりよい人間関係が築き上げられるといったことです。けれども、聖書には病気の治療方法が書いてあるわけではありませんし、お金の儲け方が書かれているわけでもありません。またよりよい人間関係を築くための人生の処方箋があるわけでもないのです。けれども、多くの人が聖書に引かれ、聖書を読む。そして、読んだ人の生き方に大きな影響を与えている。だとすれば、聖書には一体何が書かれているのでしょうか。
新約聖書のヨハネによる福音書5章39節には「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思っていると調べているが、聖書はわたしについてあかしするものである」というイエス・キリスト様の言葉が記されています。つまり、聖書はキリストについて書かれているというのです。また、先ほど申し上げました宗教改革者のマルティン・ルターという人は、聖書についてこのよう言っています。それは次のような言葉です。「聖書は、その中にキリストの伏したもうまぶねである」。「キリストが伏したもうまぶね」とは、飼い葉桶にキリストが寝かされているということですが、この飼い葉桶にキリストが寝かされている様子は、クリスマスの出来事です。ルカによる福音書1章1節から16節には、イエス・キリスト様がお生まれになったときのことが書かれていますが、そこには、イエス・キリスト様がお生まれになったとき、イエス・キリスト様とその両親は旅先のベツレヘムにいたのですが、宿屋に泊るところがなく、そのため、生まれて間もない幼な子のイエス・キリスト様は飼い葉桶に寝かされていたというのです。
聖書は、そのイエス・キリスト様のことについて書かれているのです。もちろん、聖書の隅から隅までイエス・キリストというお方の名前が出てくるわけではありません。特に旧約聖書の1326頁にはイエス・キリストというお名前は、一度も出てきません。むしろ、旧約聖書には神について、また神の民イスラエルということについて書かれているのです。けれども、聖書を良く読んでいくと、その旧約聖書であっても、それはイエス・キリストというお方について書かれていることが良くわかるのだというのです。というのは、イエス・キリストというお方が、神の正しさ(これを聖書では神の義といいますが)と神の愛をよく表わしている方です。まさに、イエス・キリスト様の御生涯には、神の義と神の愛に溢れているのです。
みなさん、愛というものや正しさといったものは、なにか形を持っているものではありません。ただ、人の行動や態度、あるいは生き方を通して明らかにされるものです。つまり、誰か人を通してでなければ、神の愛であるとか神の正義を現すことは出来ないのです。もちろん、私たち人間の中の誰かが、神の愛や神の正義といったものを表わすことはできません。人間は神ではないからです。マザー・テレサという人のことは誰でも知っているだろうと思いますし、誰もがマザー・テレサの生き方を素晴らしい生き方であると思われることだろうと思います。確かに、彼女の生き方には神の愛が表わされている。けれども、そのマザー・テレサの生き方も神の愛に触れた人の生き方ではあるのですが、完全な神の愛ではありません。というのも、以前、「マザー・テレサ」の生涯を描いた映画がありましたが、そのワンシーンで、マザー・テレサが、彼女の働きに対して誹謗中傷する記者に対して怒りの表情を見せるシーンがありました。それは、映画のワンシーンですから、それが実際の史実かどうかは定かではありませんが、しかし、おそらくそのようなことがあっただろうと思われます。自分たちに対して敵意を向け、誹謗中傷する人に怒ると言うことは、人間の自然の感情の中にあるからです。
しかし、イエス・キリスト様はそのような敵対するものにまで愛を注がれたのです。もちろん、聖書の中にはイエス・キリスト様も憤られたことが書いてあります。しかし、そのキリストの憤りは、いつも人それ自身ではなく、人を通して表わされている罪に向けられているのです。キリストは罪に対しては激しく憤ら、罪に支配されている人間の世界を悲しまれますが、しかし、人に対してはいつも慈しみと愛のまなざしを向けておられるのです。だからこそ、イエス・キリスト様は、私たちの罪に赦しを与え、私たちを罪の支配から解放するために十字架に架かって死なれたのです。そのように、イエス・キリスト様の御生涯には、私たちがこの地上では決して知ることのできない、神の愛と正義に満ちあふれています。そのような、神の愛と神の正義を伝えるためには、神が人とならなければできないことなのです。だからこそ、神の独り子が人となってうまれたのです。
そして、それは私たち人間の世界に決して存在しないものだからこそ、多くの人がそれを求めて聖書を読み、聖書を通してイエス・キリスト様と出会おうとするのです。そして、聖書を読み、イエス・キリスト様と出会うことによって、慰めを受け、励まされ、生きる力が与えられていくのです。だから、2000年もの間聖書は読まれ続けているのです。もちろん、ほかにも古典と呼ばれる多くの書物が存在し、研究されています。しかし、聖書のように、研究されるためではなく、人々の生活の中で読まれ、未だに人々の生き方に影響を与え、その人の生き方までも変えてしまうような書物はありません。それは、単に人々の知識を満たし、人々の心を感心させ感動を与えるだけではなく、私たちの心に神に愛されているという喜びを与え、悲しんでいる心に慰めを与え、弱っている人には支えと励ましを与え、悩みや不安の中にいる人には希望を与えるのです。それは、今も生きて働かれておられる神という存在を、イエス・キリスト様というお方を通して私たちに出会わせてくださるからです。私たちが、聖書を通してイエス・キリスト様というお方に出会うとき、私たちは紛れもなく、今も生きて働かれる神に出会うことができるのです。
皆さん。神様というお方は、人が創り出した概念であるとか、妄想といったものではありません。たしかに、神が人となり、具体的に私たち人間とのかかわり合いをお持ちにならなかったとするならば、私たちの想像の産物だといわれても仕方がないだろうと思いますしかし、神はそのような概念や思想の世界の中だけで表現されるのではなく、具体的に人となって私たちの間に住み、私たち人間と関わりを持ち、そして私たちに神の愛であるとか、神の義といったものを具体的に示してくれたのです。だからこそ、聖書を読むならば、私たちは2000年前に神が人となりイエス・キリスト様というお方となって、私たち人間に具体的にかかわってくださったことを通して、より具体的に現実味のあるリアリティをもって、私たちを神と出会わせてくださるのです。
皆さん。この神と出会うならば、神は私たちを慰め、励まし、支え、希望、そして喜びを与えてくださいます。ですから、具体的に病気が治るとか、お金が儲かるとか、人間関係が変わるということがなくても、私たちが最も必要としている「生きていく力」が与えられていくのです。そして、私たちの人生に生きていく意味を見出させてくださいます。だからこそ、多くの人が今でも聖書を読み、イエス・キリスト様に出会い、新しい人生に導き出されていくのです。クリスマスは、イエス・キリスト様が生まれたこと、すなわち神が人となられたことを覚え感謝する日です。このクリスマスの時に、もう一度私たちは生ける神と出会うという経験をして頂きたいと思います。
そして、神が私たちの人生の歩みに共に歩み、人生の良いときにも、悪いときにも、不安や心配で心がツブされてしまいそうな時にも、私たちと共にいて下さり、慰めを与え、励ましを与え、私たちを支え、希望を与えてくださるということを知って頂きたいと思います。神が人となって下さり、私たち人間の世界で生きてくださったからこそ、私たちはそのような神に出会うことができるのです。そういった意味からも、今年のクリマスが皆さんにとって神と出会う日であって欲しいと心から願いますし、みなさんに聖書を是非読んでいただきたいと思います。そして聖書を通して「わたしは今キリストと出会った」とそう言うことができるようになって頂きたいと願うのです。それは、私たちがキリストと出会う時に、私たちの人生が確かに変わるからなのです。
お祈りしましょう。