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メッセージ

羊飼い 『教会にある豊かさ』
コリント人への第一の手紙 12章4−11節
2008/12/28 説教者 濱和弘

私たちは、今年のクリスマスの時を終え、レントの時期を迎えるまで、また通常の聖書の連続説教に戻りたいと思いますが、今日の箇所は、コリント人への第1の手紙12章4節から11節までです。このコリント人への第1の手紙は、さまざまな具体的問題を抱え教会が分裂してしまいそうな状況にあるコリントの教会に対して、教会の設立者であるパウロが、自体を収拾させ、教会に一致をもたらすために書かれた手紙です。ですから、この12章に至るまでにパウロは、男女間の問題や、あるいはそれに伴う禁欲主義の問題、あるいは信徒間の訴訟問題や、聖餐の乱れなどの個々の問題について言及してきました。そして、この12章にやってくるのですが、12章は聖霊なる神と教会との関係について書かれている部分です。そして、その12章の冒頭部分の1節からには、「だれも聖霊によらなければ『イエスは主である』と告白できない」と言うことが述べられています。

信仰告白とは教会を教会たらしめている基盤です。 たとえば、マタイによる福音書章16節18節から19節には、イエス・キリスト様に対して「あなたは生ける神の子キリストです」と信仰告白したペテロに対して、「あなたはペテロである。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。わたしはあなたに天国の鍵を授けよう。そしてあなたが地上でつなぐことは天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」といわれたイエス・キリスト様の言葉が記されています。「わたしは、この岩のうえにわたしの教会を建てよう」といわれたその「岩」が何かについては、ペテロ自身であるというカトリック教会の解釈や、いや、そうではなくペテロの信仰告白が「岩」なのだとプロテスタント教会の解釈があります。しかし、仮にカトリック教会の言うようにその「岩」がペテロ自身であったとしても、それは「あなたは生ける神の子キリストです」という信仰告白をしたペテロなのです。つまり、ペテロが信仰告白をしないかぎり、ペテロは教会の基盤とはなり得ないのです。ですから、教会を教会たらしめるものは、私たちがイエス・キリスト様を私たちの信仰の対象として信じるという信仰告白にあるのです。そして、その信仰告白は、聖霊の働きによってはじめて出来うることなのだというのです。

言い換えるならば、私たちが神を信じるという信仰も神によって与えられる賜物なのだというのです。もちろん、私たちは自分の自由な意思で教会に来るようになり、そして自分自身の決断で神を信じ、キリストを信じました。そういった意味では、キリスト教の信仰は私たちの主体的決断にもとづく主体的信仰だといえます。しかし、聖霊なる神の豊かな恵みと導きの中で私たちは教会に導かれ、神と出会い信仰に導かれたのです。ですから、この聖霊の導きなしには、誰も神を信じ、キリストを信じて告白することはできません。だからこそ、神を信じ、キリストを信じる信仰それ自体が、神が与えてくださった賜物なのです。そのことをコリント人への第1の手紙12章1節から3節は語るのです。それは、結局のところ教会は聖霊なる神によって建てあげられるのだということなのです。その聖霊なる神が建てあげられる教会はεκλλησια(エクレーシア)です。

このエクレーシアというギリシャ語は、会衆という意味です。神を信じる会衆の群れが教会なのです。ですから、この三鷹キリスト教会は、こうして三鷹キリスト教会に繋がるお一人ひとりが教会の枝であり葉っぱなのであって、そのお一人ひとりによって教会が築き上げられるのです。もちろん、牧師である私もまたその枝葉の一つです。このような、教会に繋がるお一人ひとりによって教会の業が行なわれていきます。ですから礼拝も、祈りも、伝道もまた奉仕の業も教会に集う一人一人によってなされていくべきものなのです。つまり、私たち一人一人が教会の業を行なう者としてこの場に集められているのです。もちろん、何事かをなすためには、それにふさわしい能力とか才能といったものが求められます。しかし、そのように能力や才能というものが求められると言いますと、いったい私にどんな才能があるのだろうか、どんな能力があるのだろうかといぶかしむ思いになってしまいます。

しかし、聖書は、そのような才能や能力は聖霊なる神が賜物として与えてくださるのだというのです。 コリント人への手紙12章4節から7節にはこのように書いてあります。「霊の賜物については種々あるが、御霊は同じである。勤めは種々あるが、種は同じである。働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである。」言うまでもないことですが、教会が歩みを始めた当初は、今日のように教会の制度がきちんと整えられていませんでした。それこそ制度としての教会は歴史を積み重ねながら整えられ洗練されてきたのです。そういった意味では、今日のように神学校があり、そこで神学教育を受けて教職者になっていくというわけでもありません。ですから、教会に集う一人一人がそれぞれ役割を負って教会の業を進めていったのです。そのような中で、伝道の業を進めていく宣教教師的職務や礼拝や礼典を執行していく祭司的職務やあるいは信徒の人を指導していく牧者的職務が教職者という制度的立場を産み出していったのですが、同時に、それぞれが与えられている賜物による働きもあったのです。そして、その賜物による働きの任を負った人たちが、今日で言うところの牧師や長老といった人とたちの働きを支えたのです。

賜物というのは、ギリシャ語ではカリスマ(χαρισμα)という言葉で、恵みという意味の言葉カリス(χαρια)から派生して言葉です。ですから、神が恵みによって与えてくださった能力であるといっても良いだろうと思います。それは、たとえばピアノを弾いて奏楽をするといったような、技術を習得するような特別な能力もあれば、誰もが生まれたときからもっている才能のようなものもあるだろうと思います。そういった一人一人の持っている能力に応じた働きが教会にあり、それを用いて奉仕する場が教会には様々あるのだというのです。そして、それらの個々の賜物が用いられることによって、初めて教会全体が教会の働きを通して益をもたらすことができるというのです。逆を言うならば、教会というところは、一人の傑出した人の才能や能力で何かできるというようなところではないと言うことです。ですから、誰か一人の人、あるいは一部分の人たちだけによって教会の営みがなされているとするならば、どんなに教会が伸びていっていたとしても、その教会は健全な教会とはいえません。一人一人が神から与えられた賜物を用い、奉仕する時に、教会は初めて健全な姿であるといえますし、 そのようにしながら教会は、神の前に歩みを進めていくのです。

その賜物を用いた働きの具体的な霊として、パウロはここで次のようなものをあげています。たとえば、知恵の言葉。この知恵の言葉が何を意味しているか、あるいは、それに続く知識の言葉とどの様に違うのは定かではありません。しかし、原始教会においては、知恵の言葉とか知識の言葉を語るといった賜物があると考えられ、そのような役割をした人たちがいたのです。ほかにも、信仰の賜物、いやしの賜物、力ある業を行なう賜物、預言をする賜物、霊を見分ける賜物、異言を語る賜物、またその異言を解く賜物などがあげられています。信仰の賜物というのは、おそらく、いわゆる神を信じる信仰という基本的なものではなく、特別な状況、たとえば生死をかけなければならないような場面に立ち向かっていくことが出るような信仰を指すのではないかと思われます。そのような信仰が賜物として与えられて初めて、そこに出ていくことができるのであり、その奉仕が全うできるのでしょう。

またいやしという治癒行為、医療行為にあたる賜物あったでしょうし、奇跡的なことを行なう人もいたのでしょうし、神の言葉を伝える預言者的な賜物を用いた働き、また異言と呼ばれる特別な言葉、これは外国語であると言う説もありますし、人間の言葉ではない不思議な言葉であると言う説もありますが、いずれにしても異言という外国語を話す特殊な言葉の能力などがあり、それが教会の業として用いられていたのです。もっとも、これらは2000年前のコリントの教会という背景の中で用いられた賜物です。ですから、それが機械的に今日の私たちの教会にもあてはまるということではありません。たとえば、先ほどの賜物のリストに霊を見分ける賜物というのがありましたが、このようなことがありました。

ある教会の祈祷会で何人かの小グループに別れて祈っていたのですが、ちょうどその時、私は風邪を引いていたのです。ですから、鼻をぐずぐずさせながらくしゃみや咳などをしていましたので、周りの人も私が風邪だということは当然分かっていました。ですから、祈りの中で私の風邪のためにいのってくださったのですが、その祈りが「濱牧師の風邪の霊よ、イエス・キリストの御名によって命ずる、出て行け」という祈りだったのです。私は、その祈りの言葉にびっくりして、思わず祈りのために頭を垂れていたその頭を上げ、相手の方の顔を見てしまいました。お祈り下さった方は、かなりカリスマ派の信仰の影響を受けておられた方でしたが、どうやら、私の風邪が風邪を引き起こす霊によって起ったとそう考えられたようでした。たしかに、聖書にはイエス・キリスト様が口のきけなくなる霊に命じて、それを追い出したというような記事が書かれています。ですから、イエス・キリスト様が生きておられた時代の世界観の中では、口がきけないという様な症状は何か悪霊の働きによると信じられていた時代であったといえます。つまり、何か良くないことや病といったものを霊の働きによるものとみなした時代であったのです。

そのような世界観の中では霊を見分けるということも必要になってきますし、それが賜物の一つとして考えられただろうと思います。あるいは、癒しといったことも多少呪術的なものもあったかもしれません。しかしそれは、その時代の世界観の中で必要とされた賜物なのです。ですから、このコリント人への手紙の12章にあげられている賜物が、そのまま現代の教会にあてはまるわけではないのです。むしろ現代において、癒しということを考えるならば、やみくもに「風邪の霊よ出て行け」と祈るよりもは、医師の正しい判断と適切な治療、投薬がなされ、充分に体を休め整えられ環境が与えられるように祈る祈りの方が健全であるといえます。もちろん、奇跡的な癒しというものもあるだろうと思いますし、実際に、わたし自身、医療の常識を越えた癒しの業のあることも信じています。しかし、そのような奇跡的癒しが信仰の中心でもありませんし、信仰の本質ではありません。ですから、癒しの賜物がないといいませんが、それが特別な賜物として医療に取って代わるべき物であると考えるのは行きすぎであろうと思います。現在の医学的知識や医学的治療法を踏まえながら、その中で神の御業が働くのであって、奇跡的な癒しは、それこそ特別な状況のもとでの特別な神の意図に中でのみなされるものであると考えるべきです。

つまり、霊の賜物の働きは、その時代時代の世界観の中で用いられる聖霊の賜物として様々な形で教会の中に表わされてきます。つまり、この今の時代にある私たち三鷹キリスト教会が聖霊によって立ち上げられるためには、もっと違った形で聖霊に与える賜物にもとづく奉仕の場というものがあるのです。たとえば、先週のクリスマス・イブに私と家内は教会のはしごをしました。それは、私たちの教会でもクリスマス・イブにイブ礼拝を行ないたいという気持ちがあり、他の教会でどのようにイブ礼拝を行なっているかを学ばさせて頂くために、実際に行なわれている見学させて頂くためでした。そのようなわけで、午後7時からはルーテル学院大学内にありますルーテル三鷹教会のキャンドルサービス礼拝に出席し、そのあと午後10時から、カトリック吉祥寺教会のクリスマス・ミサに出席したのです。

ルーテル教会のキャンドルサービスは、私たちの教会の燭火礼拝とほぼ同じスタイル、ほぼ同じ流れですし、なじみのある讃美歌ですから特別問題はなかったのですが、カトリック教会のクリスマス・ミサは、私たちの教会とは全然違う式の流れであり、また賛美の歌も全く異なっていました。そんなわけで、家内も私も途中何度かとまどってしまうことがありました。そんなわけで、あとから誰かが「こうしたらいいですよ」手助けしてくださったならば、本当に助かったのだがと、そう思ったのです。しかしそれは、何もカトリック教会だけのことではありません。私たちの教会が立っている地は日本であり、私たちの周りにいる人々は、ほとんど教会に来たことのない人たちです。そういった意味では、私たちの教会でも新しい人が初めて礼拝に来られたが手助けを必要としている場合もあるだろうと思うのです。そのようなときに、ちょっと助けの手を差し伸べてあげるということも、教会にとっては大切な業の一つでありますし、それを、相手に負担感を感じさせないでスッとできるというのも賜物の一つであるといえます。

しかし、最近は新しくお見えになった方にもいろいろな方がおられ、逆に人からかまわれるのが嫌で、そっとしておいて欲しい、話しかけないでいて欲しいといった人もおられるのです。ですから、その人がどの様な人かを見分けながら接するということも必要になってきます。そういった意味では、霊を見分ける賜物というわけではありませんが、人を見分けると言いますか、そのような人であるかということを洞察するということも大切な賜物の一つに数えられるだろうと思います。あるいは、教会のために祈ると言う賜物もあるでしょうし、捧げものを捧げるという賜物もあります。そのように、現代の教会には現代の教会の置かれている状況の下でも沢山の賜物があるのです。そして教会は、その沢山の聖霊なる神が私たち一人一人に分け与えてくださる賜物を必要としています。まさしく、こうして教会に集っておられる皆さんお一人お一人に与えられている賜物が必要とされているのです。

その、聖霊なる神が与えて下る賜物を、皆さんはお持ちになっておられる。教会に集っておられる皆さんは、誰一人聖霊なる神が与えてくださる賜物を持っていないという人は、誰一人としていないのです。教会に集うすべての人に何らかの賜物が皆さんに与えられている。先ほどのコリント人への第1の手紙に立ち帰ってみるならば、次のように述べられています。12章7節です。そこにはこう書かれています。「各自が御霊の現われを賜っているのは、全体の益になるためである。」それは、教会に集う各自は何らかの形で聖霊なる神の与える賜物を持っているのです。そして、教会に集うすべての人がその賜物を各々分け合っているからこそ、その一人一人の存在が教会にとってのかけがえのない存在であり、その人が分け与えられている賜物が教会全体の益となるのです。

ですから、是非皆さんご自身でご自分について考え祈って欲しいのです。神様、私にはどの様な賜物があり、どの様にあなたにお役に立てばよいのですかとたずねて欲しいのです。ひょっとしたら、それは何か特別な能力を要することでないのかもしれません。しかし、賜物とは必ずしも特別な能力を有することだけとは限らないのです。ごく普通なことを、ごく普通に自然に行なうということも素晴らしい賜物です。平凡なことを忠実に行なうことができるということは、平凡さの中に顕れた非凡な才能であり賜物だということができます。ともすれば、私たちは賜物というと、何か特別な働きや、目に見える働きをなす事のように思ってしまいます。しかし、賜物は決して目に見える形となっておもてに顕れないこともあるのです。

たとえば、このコリントの手紙を書いたパウロは、キリスト教の歴史にとって極めて重要な人物であり、神学の面においても、伝道の業においても著しい働きをした人です。そういった意味ではパウロは様々な賜物に満ちあふれた人であったのかもしれません。しかし、そのパウロの働きに対して、背後でパウロを支えていた多くの人がいるのです。たとえば、ピリピ人への手紙は、パウロの宣教活動に対して献金を捧げて支えたピリピの教会の人たちへの感謝の手紙です。ここには、パウロの背後にあって捧げる賜物の中で生きた人たちの姿を垣間見ることができます。そのような人たちにパウロは、「あなたもまた福音の広がり与ってきた」というのです。この「福音の広がりにあずかってきた」という言葉は、ピリピ人への手紙1章5節にあることばですが、口語訳聖書は「福音に与っている」と訳されています。しかし、この言葉は、ピリピの人たちが福音に与っているというのではなく、むしろピリピの教会の人たちが、パウロの宣教の業に参加し、福音宣教に参与してきたというニュアンスだと考えられています。

そして、具体的には祈りを献金を持って支えたということなのです。ですから、表面的にはパウロの賜物が用いられ、伝道の業が進められてきたのですが、その背後にはピリピの教会の人の祈りや支えがあったのです。そして、パウロはそのようなピリピの人たちの祈りや支えを、「神があなたがたのうちに始められたよい業」とそう読んでいるのです。それはまさに、祈りや献金もまた聖霊なる神が私たち一人一人に与えた賜物による業であるいうことです。みなさん、祈ると言うことや献金を捧げるということは、何か特別な才能や能力を伴うものではありません。しかし、それは聖霊なる神が与えてくださった賜物なしにはできない神の業なのです。たとえば、御高齢になって教会の礼拝に出席するということですら、神の賜物によると言うことができます。そのような、豊かな賜物に私たちは満ちあふれています。そして、そういった数多くある多様性に満ちた賜物は、すべてただお一人の三位一体なる神から私たちに与えてくださった恵みなのです。だからこそ、じっくりと私に与えられた賜物が何であるかを考え、神に祈り問うて欲しいのです。

そして、ご自分に与えられている賜物を見出したならば、感謝し喜びたいと思うのです。それは神があなたを必要としておられることの紛れもない証だからです。神は、ご自身の教会を、聖霊なる神を通してこの三鷹の地に建てあげるためにあなたを必要となさっておられるのです。私たちが、今日、こうして共にここで礼拝を守っていること自体が、私たちの教会にとってとても素晴らしい益となっている出来事です。そういった意味では、ここに集っておられるお一人お一人自体が、神が教会に与えてくださっている賜物であるとさえ言えます。そして、その存在それ自体が賜物であるお一人お一人によって神の教会はさらに健全な教会として、この地にキリストを証していくのです。

その教会に豊かに満ちあふれている賜物を私たちは、見出し、尊重し、大切にしていきたいと思います。そして、どんな小さな働きであっても神の賜物に支えられていることを忘れないようにしましょう。そうすれば、私たちの生涯は感謝に満ちあふれてきます。なぜなら、私たちは私たちに与えられた賜物の背後にある神の恵みの業を見出すことができるからです。そのような、神の恵みに感謝し、神から与えられた恵みにたって、私たちは、みんなで一緒に、一つになって私たちの教会を建てあげていきたいと思います。教会は決して牧師一人や一部の人たちだけで成り立つものでもありませんし、建てあげられるものでもありません。教会は、みなさんおひとりおひとりが共に成長しながら建てあげられていくものなのです。

お祈りしましょう。