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メッセージ

羊飼い 『教会の本質』
コリント人への第一の手紙 12章1−3節
2009/1/18 説教者 濱和弘

さて、私たちは今、コリント人への第1の手紙を通して神の言葉に耳を傾け学んでいますが、このコリント人への第1の手紙は、一言で言うならば、「教会とは何か」ということについて書かれたものであるといっても良いだろうと思います。もちろん、この手紙の書かれた本来の目的は、様々な具体的な問題を抱えたコリントの教会に、そのコリントの教会の設立者であるパウロが、どのように対処すべきかということを教え諭すためでありました。しかし、パウロがそこで示したその対処の仕方というのは、当然といえば当然のことではありますが、それは教会としての対処の仕方であり、キリスト教の信仰にもとづく対処の仕方です。

ですから、パウロはこのコリント人への第1の手紙で、何よりも最初に十字架につけられたイエス・キリスト様を見上げなさいというのです。このイエス・キリスト様の十字架での死が、私たちに罪の赦しを与え、私たちを罪と悪の支配から解放してくださる救い主であると信じる者の群れが教会であり、それは、教会にとって、十字架につけられたイエス・キリスト様が私たちの神であり主なるお方だからです。そのように、十字架につけられたイエス・キリスト様こそが私たちの神であり、主であり、救い主であるからこそ、パウロが「十字架につけられたイエス・キリスト様だけを宣べ伝える」という言葉は、教会のアイデンティティはどこにあるかということ指し示しています。つまり、パウロは十字架につけられたイエス・キリスト様のみを宣べ伝えることで教会を築き上げたわけですから、教会は、イエス・キリスト様の十字架の死によって、罪が赦され、罪と悪が支配している世界から解放され、神の民とされた者たちが、神から呼び集められ集まっているところということになるわけです。そして、そのように、罪と悪が支配している世界から解放され神の民とされたものだからこそ、イエス・キリスト様を救い主として信じ受け入れたものは、教会の中におこる様々な問題に対して神の民らしく生きていくべきであるとして、様々な問題に対しての警告や励ましを述べているのです。

同時に、教会は神の民として召し集められたものの集まりですから、そこには、当然、様々な人々が集まってきます。そしてそのように様々な人々が集まってきます。また、それぞれが持っている能力や神から与えられた賜物というものも違っている。そのようにそれぞれ一人一人が違った個性を持つ一人一人が、一つになって神を礼拝し、交わりをなし、互いの信仰を高め合いながら、キリストの福音を宣べ伝えるという使命を負っているところが教会というところなのです。しかし、それぞれに違った考え方や物の見方、またそれぞれに違った才能や神が与えて下った賜物というものが違っているという、いわば多様性に満ちたものを一つにまとめ上げるということは大変なことです。というのも、みんなが一つの目標に向っているということにおいては、一つになることはできるのですが、その目標に向っていくためどうしたらよいか、何がよいかと考え出しますと、「こうしたらよい」、「ああしたらよい」と様々な意見や主張がでてきます。そしてそれが、なかなか一つにはまとまらないといったことがあるからです。

みんな同じ目標をもっている。みんな同じところを見ている。けれどもそこに行着くためにどうしたらよいかという問題になりますと、なかなか一つにまとまることができない現状が、確かに教会にはあるのです。それが、様々な形で顕れてくる。たとえば、神を礼拝することの大切であるということはどの教会でも一致した考えであろうと思います。そしてよりよい礼拝の時を神の前に持ちたいと願っている。けれども、実際には、どのような礼拝の形式を持つかということについては必ずしも一致しているかというと必ずしもそうではなかったりします。それは、私たちホーリネス教団の中にも見られることです。私たちホーリネス教団は、教団が一つの教会であるという考え方を持っています。しかし、その日本ホーリネス教団という一つの大きな教会に繋がる個々の教会においては、たとえば礼拝の音楽ひとつにしても、聖歌や讃美歌を用いるか、あるいはワーシップソングといわれるような曲を用いるかについては統一されているわけではありません。そこで使われる楽器も、オルガンを使うところもあれば、ギターやドラムなどで奏楽をするところもある。そして、おそらく、これを一つに統一しようとすると、なかなか意見がまとまらないだろうと思います。おなじ、ホーリネス教団の信仰告白、神学にたち、神の前によりよい礼拝を捧げたいという一つの思いを持っていたとしても、具体的にどの様な礼拝を捧げるか、礼拝の音楽にどの様なものを用いていくかについてはいろいろな考え方やとらえ方があるのです。

もちろん、たとえばルーテル教会やカトリック教会のように、礼拝の形式や聖書の箇所、説教の箇所、賛美といったものが見事に統一されている教会もあります。しかし、そのような教会であっても、それぞれの個々の教会が持っている重荷や使命は必ずしも同じではないのです。そして、それは必ずしも悪いことではないと思うのです。確かに、個々の教会、個々の教団には、個性とも言えるそのような個々の教会の違いがある。しかしそのような個々の違いはあっても、最終的には一つの教会として結びついている。私たち日本ホーリネス教団にとってみても、そこには様々な多様性のある個々の教会があり、本当に個性に富んでいる。しかし、最後の最後で一つの教会として結びついているのです。そういった意味では、多様性のある教会が多様性のある働きの中で一つに結びあわされているということができます。もちろん、私たちの教団や教会が、より改善され、統一されなければならないところなども数多くあることは間違いありません。しかし、そのような中にあって、様々な賜物やもののとらえ方の違いを乗り越えて一つの教会として結びあわされている姿こそが、キリストのからだなる教会のすがたでもあるのです。

考えてみますとキリスト教の歴史は、ある意味で分裂の歴史であったといえます。イエス・キリスト様の12弟子から始まり、その宣教の広がりが原始教会という一つの教会の群れを築き上げてきました。それは、古カトリック教会という一つの結び付きによる群れを築き上げていたのですが、それが東方教会の伝統と西方教会の伝統、具体的には正教会とローマ・カトリック教会という流れを産み出し、そのローマ・カトリック教会からプロテスタント教会が生まれ、その中からさらに細かく各教派に別れてきました。それらの一つ一つが、福音の宣教の業を負い、神学的営みを積み上げながら現在のキリスト教を築き上げ、キリスト教の世界を築き上げてきたのです。そういった意味では、東方教会の伝統や西方教会の伝統、そしてプロテスタント教会の各教派の伝統が、今日の世界中に広がるキリストの体なる教会を築き上げ、キリストの体なる教会の宣教の業を繰り広げていると言えます。そして、それぞれの立場で摘まれる神学的営みが、より深くキリスト教信仰の理解を深め、神の言葉である聖書の言葉の深みを知らせ、神と神の御子であるイエス・キリスト様に対する理解、聖霊なる神に対する理解を深めてくれています。そして、私たちの教会もまた、その宣教の業の広がりに加わり、また聖書の言葉の理解を深め、神に対する理解を深めることに与っているのです。

先週は、ブラジルに宣教師として遣わされている新谷宣教師牧師夫妻をお迎えし、礼拝でその説教を聞き、午後にはその宣教報告をお伺しました。そうやって、具体的に宣教の状況を知り、その働きのために祈り、捧げるときに、私たちはその祈りを通し、また献金を持ってその働きを支えることで、宣教の業に参加しているのです。同じように、新谷宣教師だけではなく、ペンテコステの時に皆さんが予約し、毎月捧げてくださる宣教献金によって、海外宣教に携わる宣教団体や、国内宣教に携わる伝道団体の伝道の業に参加していますし、また、皆さんが毎月捧げてくださる月定献金が、この三鷹教会の礼拝や伝道のために、またキリストの働きのために用いられています。そうやって、私たち三鷹キリスト教会は、またその教会に繋がる皆さん一人一人は、福音宣教のために、またキリストの言葉を宣べ伝える業に加わっているのです。それは、キリストの体なる教会としての働きに皆さんが神の与えられた賜物に従って参加しているということなのです。

しかし、パウロは、ここでそのように各自に与えられた賜物に従って、神の業に加わる素晴らしさを示しながら最も優れた道を私たちに示そうと言っています。そして、「たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。」というのです。パウロは、人々の言葉や、御使いの言葉を語り、また神の言葉を語る預言者のような働きをし、あらゆる知識や奥義に通じることができるということ、これらのことは、神から与えられた賜物によるものだと考えていたようです。少なくとも、12章からの考えるとそのように考えていたと思われます。

確かに、上手に言葉を用いて、人に神の恵みや憐れみ、また愛といったものを伝えられることができる人がいます。先週も三多摩教区の新年聖会があり、榊原寛牧師が聖会のメッセンジャーとしてお話し下さいましたが、上手に人の心を掴んで神の愛と恵を語り伝えておられました。そのような、メッセージを聞いていますと、同じで牧師でも、私とは随分と違うなと思い知らさる感じがします。そして、上手にメッセージを語ることができるというのは、努力ではどうしようもないことだと感じるのです。もちろん、真摯に聖書の言葉に取り組み、説教の準備をするという努力は必要ですし、そのような中で神の言葉を伝えていくことはできます。しかし、上手に、そして人にうまく語り聞かせるということは、神が与えた賜物だな思うのです。同じように、また神学的な営みをし、神学的な理解を深めていくこともまた神の賜物によるものであろうと思うのですが、パウロは、仮にそのような賜物が与えられ、それをうまく用いていても、愛がなければ何の益にもならないというのです。

いや、それだけではありません、山を動かす程の信仰ですら、愛がなければ無に等しいと言い、自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益だというのです。要は、何ができるかが問題ではなく、また目に見えるところで何をしたかも問題ではなく、さらにいうならば、どの様な結果をもたらしたかでもなく、大切なのはその行動が愛という動機によってもたらされたかどうかということなのです。それは、キリスト教の本質が愛にあり、教会を教会たらしめる本質が愛だからです。だからこそ、教会のすべての業、すべての行動が愛から起ったものでなければ、それは教会の働きとしては無益なものであり、無に等しいのです。なぜか、それは教会はキリストのからだだからです。

みなさん、パウロは、このコリント人への手紙の冒頭で、「ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。 しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える」と言い、「私は十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間で何も知るまいと決心した」とそう述べています。キリストが十字架につけられたのは、最初に申しましたように、私たちに罪の赦しを与え、私たちを罪と悪の支配から解放してくださるためでした。そして、そのキリストの十字架の死は、私たちに対する溢れるばかりの愛が動機だったのです。そのような、神の愛、キリストの愛によって出来上がった教会だからこそ、教会のすべての業に他者に対する愛が貫かれていなければならないのです。それは、私たち一人一人が神を中心に置き、他者を愛するものであると同時に、私たち一人一人もまた神を中心にして他者から愛される存在であるということ意味しています。そのような愛によって一つに結びあわされた結合体が教会というところでもあるのです。また、教会がそのような愛によって一つに結び合わされた結合体だからこそ、パウロは「山を移すほどの信仰があっても、もし愛がなければわたしは無に等しい」というのです。

みなさん、信仰というと、私たちは自分自身の決断で信じ、自分でキリスト教の信仰を選び取ったように思うかもしれません。そして、確かに信仰は私たちの主体的決断なしには、自分のものにはなりません。しかし、そのような、主体的決断に至るまでには、神が私たちに先だって私たちを導いておられたのです。もちろん、信仰の最後の決断は私たちの意志によるものです。ですから、神を信じるか信じないかは私たちの責任です。けれども、本来生まれながらの人間は、本当に神を信じることなどできないものなのです。確かに、「苦しいとき神頼み」といったこともあるでしょう。そういった意味では誰の心にも、神をより頼む信仰心といったものがあるのかも知れません。しかし、ここでパウロが言う信仰とは、山を移すほどの強い信仰です。

キリスト教の信仰においても、まずその第一歩は神が私のために何をしてくださったか、神が私に何をしてくださるかということから始まります。「神が私を愛してくださった」「神が私に恵を与えてくださる」。この信頼が私たちの神を信じる力となります。それは、神が私たちに何をしてくださるかということが問題になります。しかし、キリスト教の信仰は、私たちをその「神が私たちに何をしてくださるか」というところに留めておかないで、「私たちが神に何をすることができるのか」という深みへと導いていくものです。自分自身のために神があるのではなく、神のために自分が存在している、それがキリスト教の信仰なのです。

なのに、本来の人間、生まれつきの人間の姿は、自己中心的であり、自己愛的です。しかし、キリスト教の信仰は、神中心的であり、自己愛ではなく他者愛に生きるところにあります。神は人間を愛しておられるからです。ですから、神を信じ、神を中心にいきるものは、神が愛しているものを愛するようになるからです。そのような生き方に導くキリスト教の信仰は、自己中心的で自己愛にいきる生まれつきの人間の本性では、決して自分自身の力でそれを選び取り、その信仰に生きることはできないのです。だからこそ、神の恵みに支えられていなければ、そのような信仰の決断はできませんし、神の恵みの中で生かされていかなければ、そのような他者を愛する他者愛という信仰の実りを結ぶことができないのです。逆に言うならば、私たちが神を信じる信仰に生きているならば、必ず愛という実を結ぶことができるのです。ですから、どんなに山を動かす程の強い信仰あったとしても、それが自己中心的な思いと自己愛の中で、神が自分に何をしてくれるのかということを求める信仰であったとするならば、それはキリスト教の信仰として実を結ぶ信仰ではないのです。

確かに、私たちの信仰の始まりは、「神が私になにをしてくれるか」というところから始まります。それはキリスト教の信仰であっても同じですし、その意味では他の信仰、他の宗教と何ら変わりはありません。しかし、神を信じ生きるならば、私たちはそのような「神が私になにをしてくれるか」というところにいつまでも留まってはいません。むしろ、そのような自己中心的な自分から解放され、自己愛からも解放されて、自由にありのままの自分を認め、受け入れて神のため生き、人を愛する生き方の中に導かれていくのです。もちろん、そのような信仰は、自分自身の努力で築き上げることはできません。だからこそ、信仰は、自分自身の主体的な決断によるものではあるのですが、神の賜物なのです。神の愛の中で、私たちは導かれ、支えられ、自己中心的な信仰から神中心的な信仰へと育てられ、自己愛的な存在から他者愛的な存在となることができるのです。

今から500年ほど前に、人間は神の前に良い業をすることができるかどうかということで論争が起きました。「自由意思論争」と呼ばれるものです。その時に、人間は神の前に良い業を行なうことが出来ないと言ったのが、マルティン・ルターという人です。ルターは、人間が良い業を行なっても、人間はそれをもって神に私はこれこれの良いことを行ないましたから、救ってくださいというならば、それは自分の業を誇ることであって自己義認に過ぎないといいました。それは、結局、自己中心的な愛であり、本当の意味での他者愛になっていないということだろうと思います。つまり、見返りを期待する愛なのです。そして、そこには、私たち人間の何らかの欲といったものが働いています。今日の聖書の箇所で、「たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である」とパウロが言うとき、それは何かしらの見返りを期待しているのならば、自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、それは無益な行為だということだろうと思います。

そして、純粋に他者のために生きるところにクリスチャンの生き方があり、キリストのからだなる教会の生き方があるのだとそう教えているのです。それは「あなたの隣人を、あなた自身のように愛しなさい」というイエス・キリスト様の教えに通じるものだと言えます。もちろん、「あなたの隣人を愛しなさい」ということの前提には「あなた自身のように愛しなさい」ということがありますから、そこには「自分自身を愛するということが」大切になります。しかし自分自身を愛するということは、自己愛ということとは違います。自己愛は、自分に与えられることを望む愛ですが、自分自身を愛するということは、ありのままの自分を、そのまま愛することです。自分に与えられることを望む愛は、ありのままの自分を受け入れることはできません。だから、与えられることを望むのです。そのように、私たちが、現状の自分を受け入れられず、ありのままの自分を喜ぶことができないかぎり、他者を愛することとなど出来ません。他者に与えることもできません。たとえ他者を愛していたとしても、他者から愛されることを望んで愛するのです。

しかし、私たちが、ありのままの自分を受け入れ、喜ぶことができるならば、私たちは、私たちの周囲にいるものを何の見返りを求めず、そのまま愛することができるようになるのです。そして、そのような愛で他者を愛するときに、私たちは本当に愛する喜びを知ることができます。そのように、自分自身を愛するということは、ありのままの自分を受け入れ、ありのままの自分を喜ぶことです。そして、そのように、自分自身のありのままを受け入れ、ありのままの自分を喜ぶことができるようになるには、ありのままの自分が受け入れられ、ありのままの自分がそのままで愛されていることを経験しなければなりません。その、ありのままで受け入れられありのままを喜び、何の見返りを求められることなく愛される経験を、イエス・キリスト様は私たちに与えてくださいます。だからこそ、このキリストの愛に信頼し、寄りすがるものは、愛と信仰の実を結ぶものになるのです。

みなさん、私たち一人一人はみんな違った賜物を持ち、考え方をし、違った環境に置かれています。 しかし、父なる神も、子なる神キリストも聖霊なる神も、私たちをありのままで愛し、ありのままで受け入れ喜んでくださっています。ですから、私たちは誰とも比較する必要はありませんし、他の人の賜物や働きと比べる必要もありません。私たちのありのままを愛し受け入れてくださる神を信じ、感謝して生きるとき、私たちもまた、自分自身を愛し、また、私たちの隣人を愛する者になっていけるのです。みなさん、私たちは人を愛することができる者になりたいと思いませんか。本当に他者を愛し、他者から愛されるところのキリストの体なる教会を築き上げたいとは思いませんでしょうか。それは必ずできます。私たちが、私たちをありのままで愛し、ありのままで受け入れ喜んでくださっているキリストの愛を意識し、けっして他者を羨むことなく生きていくならば、私たちは、必ずそのようになれるのです。

お祈りしましょう。