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メッセージ

羊飼い 『愛の特質』
コリント人への第一の手紙 13章4−7節
2009/1/25 説教者 濱和弘

さて、私たちは先週の礼拝において、教会が行なうすべての行ないには、一貫して愛が貫かれていなければならないということを学びました。また、教会は、様々な才能や能力を持った人が集められ、また様々な考え方や物の見方を持った人が集められている多様性に富んだところですが、そのような多様性に富んだ教会を一つに束ねあげているものは愛であるということも学びました。それは、教会が愛をその本質とする一人子なる神イエス・キリスト様の体だからです。もちろん、身体という表現は比喩的な表現でありまして、その意味するところは、教会とはイエス・キリスト様のお心に従って、この地上でイエス・キリスト様がなされるであろう業を、具体的に行なう者達の集まりであるということです。

だからこそ、教会は宣教の使命を負い、伝道の業を行うのです。それはイエス・キリスト様は、この地上にあって福音を宣べ伝え、伝道の業を行なったからです。またイエス・キリスト様は、弱い人や痛んでいる人と共に生き、慰めを語りました。ですから、教会もまた、弱い人や痛んで傷ついた人と共に生き、慰めを語るのです。そして、イエス・キリスト様は、十字架の上に磔られ、その身を裂かれ血を流されました。それは、私たちの罪に赦しを与え、私たちを支配している罪と悪、そしてその罪と悪の結果もたらされる死すべき運命から私たちを解放するためでした。そのように、罪と悪の支配から私たちを解放して、私たちの内にある神の像(かたち)を回復させてくださる道を開いてくださったのです。そのように、イエス・キリスト様は十字架の上で救いを成し遂げてくださったのですから、私たちは、その十字架の死を覚え聖餐のパンと杯に与り、神を礼拝するのです。けれども、私たちがその業を単に模倣するかのようにして行なうとするならば、それは形だけをまねているだけに過ぎません。大切なのは、そのような業をなしたイエス・キリスト様のお心を知り、それを私たちの心とすることです。

イエス・キリスト様が福音を語り伝道をなさったとき、そのお心には人々に対する愛がありました。弱い者、痛み傷ついた人々のところに行かれたとき、そこには溢れるばかりの慈しみという愛のお心がありました。十字架の上で死なれるときに、この世に存在するすべての人間に対する愛があったのです。だからこそ、教会が、そのイエス・キリスト様がこの地上でなされるであろうことを、具体的に行なっていく者達の集まりであるとするならば、その動機もまたイエス・キリスト様と同じように愛でなければならないのです。同時に、そのような愛が動機にあるならば、どんなに才能や能力、また神から与えられた賜物といったものに違いがあっても、教会は一つになることができます。なぜなら、今日の聖書の箇所にあるように、「愛は寛容であり、愛は情け深い、また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義をよろこばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」からです。このような、愛の性質があるからこそ、教会が愛という本質をそのうちに持っているならば、教会は決して分裂することがなく一つになることができるのです。

この愛の持つ性質の第一のものとして、パウロは、愛は寛容であるといいます。寛容という言葉を国語辞書で引きますと「心が広く、他人をきびしくとがめだてしないこと。よく人を受け入れること」となっていますが、この寛容と訳された言葉は、感情が持続されると言ったニュアンスであり、つまりは、相手に対する怒りや憤りといった感情を抑え、相手に対する穏やかな気持ちを持ち続けると言った感じの言葉です。そして、そのような、怒りや憤りの抑え、相手に対する穏やかな気持ちを持ち続けるというニュアンスを持つ寛容ということは、特に信仰を持つ者には大切なことなのです。

皆さんもご存知のように、私が学び研究課題としている分野は宗教改革の時代のプロテスタントの教理形成についてですが、プロテスタント教理形成がなされていく過程の中で、プロテスタント教会は幾つかの悲劇的な歴史を経験していきます。それは、ルターの農民戦争に対する態度や、ルーテル派教会や改革派の教会のアナバプテスト派に対する迫害といったもの、そして30年戦争といったものです。30年戦争それ自体は、宗教的内容というよりも政治的意味合いが強いものだと言えますが、当時のプロテスタント教会とカトリック教会の対立がそれに用いられたらということも確かです。つまり、信仰の立場の違いが、一方を迫害したり弾圧するといったことがそこに存在したのです。そのような弾圧や迫害が起ったのは、自分の立場、つまり自分たちの教会がよって立つ教義が絶対的に正しく相手が間違っているという信仰の確信によるものです。このような迫害や弾圧の背後には、宗教改革の時代から30年戦争にいたる時代の「一人の領主・国王が治める領地では、領主や国王が信じる信仰の立場を信じなければならない」という原則が社会的背景にあったという社会的背景も見逃せないことです。しかし、自分たちの信じる教義が絶対に正しく相手が間違っているという、その強い宗教的確信が、自分と信仰的見解が違う立場に対する激しい憤りとなり、力で相手をねじ伏せようとして、迫害や弾圧に繋がっていったということも否定できないのです。

そのような、悲劇的な経験を通して教会は、宗教的寛容ということを学んできました。つまり、自分の信仰的見解や神学的理解の違う人たちに対して憤り、相手を力でねじ伏せるのではなく、その憤りや怒りの感情を抑え、相手に対する穏やかな感情を持ち続けるという心を持つことを学んできたのです。それが、様々な信仰的見解や神学的理解、そして伝統が異なる様々な教派が今日(こんにち)存在し、 それぞれが対話の中で、様々な教派という多様性を持ちながら、しかし一つのキリスト教という世界を築き上げてきたのです。そして、その対話が、1999年には宗教改革によって相対立したルター派の教会とカトリック教会の歴史的和解といった出来事まで起したのです。それは、この寛容という愛のもつ性質です。そして、その宗教的寛容を、教会は手痛い歴史の教訓を積み重ねながら学び取ってきたのです。今日の教会は、そのことを決して忘れてはいけません。寛容は教会の持つ特質であり、その寛容を特質に持つ愛こそが教会を教会たらしめるものだからです。

もちろん、今日の教会が、かつての宗教改革の時代や30年戦争が行なわれた時代のようであるとは言いません。しかし、教会の中で、自分とものの見方や考え方の違うものに対して憤り相手を力でねじ伏せようとする様なことがあるとするならば、それは教会が教会の本来の姿を見失っていると言わざるを得ません。それは、この三鷹教会の皆さんにあてはまることだと私は思ってはいません。少なくとも、私たちの教会にそのような事実を私は認めることはできません。しかし、今日の教会の中にも、特に牧師と呼ばれる教職者の世界の中にそのようなことがあるのではないかということは危惧しています。と申しますのも、牧師が教会の中で権力者のようにして振る舞ってはいないだろうかということを危惧するからです。つい最近、滋賀県の教会で牧師が、教会の若い女性たちに性的虐待をして問題になり逮捕された事件がありました。テレビや新聞なので報道されましたので、皆さんの記憶にも新しい事件ではなかろうかと思います。

確かに、この教会の問題点の一つは教会がカルト化してしまっていたことにあります。しかし、日本におけるカルト問題に詳しいウィリアム・ウッド宣教師などは、ごく正統的の教会であっても、カルト化してしまう危険があると指摘するのです。それは、教会においては牧師が、説教という神の言葉を取り扱う立場にあり、また教会の指導的役割をおっているからです。先ほどの問題となった教会では、牧師が、神の言葉を取り扱うところから更に進んで、自らが神の代理者であるとして、教会の中で非常に強い立場、言うなれば、教会の権力者となっていたのです。ですから、だれもその教会の牧師に聞き従うことを求められ、逆らうことはできませんでしたし、牧師のいうことを従わないものは「悪魔」呼ばわりされ糾弾されていたのです。たしかに、この教会の出来事は極端な例だと言えます。しかし、牧師が教会で特別な存在となっていることは確かです。それは、説教という神の言葉を解き明すという特別な職務を負い、聖餐と洗礼という礼典を執行するという大切な役割を負っています。また、教会の指導的立場にあるということも否定しません。

けれども、決して権力者でもなければ、独裁者でもない。指導的立場にあるということと権力を持っていると言うことは別のことです。むしろ、牧師が教会の指導的立場にあるということは、教会に集う人に仕える奉仕職に任じられているということであると言い換えることができるものなのです。しかし、指導的立場にあるということと権力ということは結びつきやすい性質を持っています。指導的立場にあるというその立場を利用して、自分と異なる意見を持つ人たちを排斥するようになってしまうならば、それは教会から寛容さを奪い取り、あるべき姿から逸脱させていくことになってしまいます。ですから、私がこのように申しますのは、自戒をこめて皆さんにお願いしたいのです。この教会がキリストの教会として、キリストの教会らしくあるためには、皆さんが教会を守って行く存在になって頂きたいと願うのです。

たとえば、もし私が、今申しましたような寛容さを失い、様々な意見や物の見方の違いがある時に、怒りや憤りの抑え、相手に対する穏やかな気持ちを持ち続けるという寛容さを失い、権力者のように振る舞っていたとしたならば、その時はどうぞ私を諫めて欲しいと思うのです。もちろん、私だけではない、こうして教会に集う一人一人が、そのような寛容な心を失ってしまっていることがあるならば、互いに諫め、教会が教会のあるべき姿から逸脱しないためには、寛容さを失わないようにしていかなければならないのです。愛が産み出す寛容さとは、ただ単に「心が広く、他人をきびしくとがめだてしないこと。よく人を受け入れること」ではありません。どんなに違った意見や物の見方があったとしても、相手に対して、穏やかで平穏な心に満たされ、対話する心を失わないことです。諫めると言うことは対話すると言うことでもあるのです。

教会がそのように愛の性質である寛容さの中で対話をするならば、どんなに意見の違いや見解の違いがあったとしても、必ず神のお心に添った方向に教会は進んでいくはずです。なぜならば、愛は不義を喜ばないで真理を喜ぶからです。口語訳聖書の訳では、うまく訳出されていないのですが、真理を喜ぶという言葉は、正確には「真理を一緒に喜ぶ」「共に喜ぶ」というふうになっています。ここで聖書の言う真理とは、それが信頼に価することであり、それが如何にあるべきかということ、つまり正しい生き方、正しいあり方です。愛の性質にもとづく寛容さの中で対話がなされるときに、その対話をするお互いは、共に信頼に価するあるべき姿を受け入れる心を持っているのです。そのような「共に喜ぶ」心は、お互いの意見の違いや考え方の違い、物の見方の違いを通して、本当に自分たちのあるべき姿を求めていくことができるのです。だからこそ、愛が教会に必要なのです。そしてそのような愛の持つ寛容という性質が、教会を一つに結び合わせていく力となるのです。

そして、仮に自分の考えが正しいと思うことがあっても、高ぶることはありませんし、誇ることもない。また、仮に相手の意見が受け容れられ、自分の意見が受け容れられないことがあっても、妬んだり、恨んだりすることはありません。また、愛は不作法をしないのです。ここで不作法をしないと訳されている言葉は、周りの人に迷惑をかけたり、不愉快な気持ちにさせないと言うことです。時折、町を歩いていると、何か怒鳴り散らしながら歩いている人に出くわすことがあります。きっとおもしろくないことか、機嫌をそこねるようなことがあったのかもしれません。しかし、理由はどうであれ、街頭で怒鳴り散らしている姿は、見ていて気持ちの良いものではありません。しかし、そう言う私にも苦い思い出があります。会社勤めをしていたとき、電話で仕事の相手先から無理難題を言われ、最後に相手が電話を切った後、私は憤りの感情を抑えきれずに思わず電話の受話器を思いっきりたたきつけたことがありました。その時、私の上司が「どんなに腹が立っても、周りの人を不愉快にするようなことをしてはいけない。頭を冷やしてこい」と怒られたことがありました。寛容さを失っていたのです。

しかし、考えてみますと、そのような感情の爆発は、職場だけではなく、きっと教会の中でも何度もあったのだろうと思います。そしてそれが、教会の皆さんの気持ちを害することも少なくはなかっただろうと思うのです。そのような激しい私を、教会の人は寛容を持って見守り包んでくださった。寛容という愛のもつ性質が私を救ったのです。そう思うとき、まさに愛が持つ寛容という性質が、愛は妬まず、高ぶらず、誇らない、いらだたないといった特質を産み出していき、教会を愛の共同体にして、神を信じる者たちを育て育んでいくのだと言うことができるだろうと思うのです。

また、愛は情け深いといわれます。この情け深いと訳されている言葉は、慈しむとも訳されることばですが、キリスト教の文書以外で残されているギリシャ語の文章には見られない言葉だそうです。つまり、この情け深さ、慈しみというものは、キリスト教の愛のもつ独自性であると考えられます。その情け深いという言葉が使われている聖書以外のキリスト教の文書にクレメンスの第1の手紙というものがあります。そのクレメンスの第1の手紙には、このように書かれています。「わたしたちの造り主の憐れみと優しさに従って、わたしたちは互いに慈しみ合おう」「私たちの造り主の憐れみと優しさに従って」とクレメンスはいいますが、「私たちの造り主の憐れみと優しさ」が最も顕れているのは、罪人である私たちが神を信じ、イエス・キリスト様の十字架の死がもたらす罪の赦しを信じて神に立ち帰ることを、忍耐を持って待ち続けておられることであろうと思います。そこには、罪人の私たちを赦す神の愛があります。そして、その愛が、どんなに至らないクリスチャンであろうと受け入れ続けてくださっているのです。

だからこそ、その神の憐れみと優しさにより、忍耐を持って私たち受け入れてくださっている神を信じる者は、互いを慈しみあう心、情け深さを持つことが大切なのです。そして、そのような神の忍耐にもとづく慈しみに従うものだからこそ、「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」ことができるのだろうと思います。この「すべてを忍び」という忍ぶという言葉は「屋根」という言葉から起っている言葉です。ですから「忍ぶ」とは、私たちを覆い雨露から守り、私たちをかばうことだと言われます。つまり愛はすべてを忍ぶというとき、その根底には、イエス・キリスト様が私たちの罪をかばい、神の裁かれても仕方のない罪人の私たちが、その罪の裁きから守られるように覆い赦していてくださっている愛があるのです。そのような神の愛が私たちを覆っている。だからこそ、私たちは私たちの身に起ってくるすべてのことを耐え忍ぶことができるのです。そして、どの様な試練や困難さがあり、心痛むことがあっても、決して私たちを見捨てない神を信じ、希望を持って生きることができる。

それは、私たちの力では決して乗り越えることのできない死というような大きな壁ですら、天国という希望を私たちにもたらしてくれるのです。そうやって、このコリント人の手紙を初めとする、私たちの信仰の先輩たちは、天国への希望を持って火のような試練を乗り越えてきました。そして、神の愛を信じて、この地上の生涯を生き抜いていったのです。そのような神の愛に覆われている私たちこそ、私たちもまた、私たちの周りにいる人の罪を覆い、かばい、赦していく、そこにすべてを忍ぶということがある。そこに愛は情け深いと言うことが起ってくるのです。そして、私たちの隣人のために心を配り愛していくというキリスト者としてのあるべき姿、如何に生きていくかという真理を見出していったのです。そこには、愛は情け深いといわれる、愛の持つ慈しみの性質があります。

このような、愛の持つ情け深い性質、慈しみの性質を榊原康夫という人は、次のような二つの内容を持つといいます。すなわち愛の持つ情け深い性質とは、「怠惰な自分に勝つこと、自分の喜びにふけろうとする欲に勝つことであるということ、そしてもう一つは他人に対してサービスの精神、態度、立場をとること」だというのです。他人に対するサービスの精神、態度、立場とは、他人に対して奉仕する心であり、姿勢であり、志しだといえます。このような心は自分を喜ばすことに心向けられている限り、決して私たちの内に起ってこないものです。そして、他人に対して奉仕することに怠惰になっていく。だから情け深いこころは、自分の怠惰な心に勝ち、自分の喜びにふける欲に打ち勝って、他人に対してサービスの精神、態度、立場をとる者と私たちをなさしめるのです。そのような心を持つときに、私たちは、自分の利益を求めないといった特質を産み出していくのです。不作法をしないということは、周りの人を不快にさせないというニュアンスを持つ言葉です。

愛、忍耐です。私たち人間の中にある「ねたみ、高ぶり、誇り、人を不愉快にさせる不作法、自分の利益を求める自己中心、いらだち、恨み、不義」といった罪と言っても良い性質をことごとく否定しながら、それらのすべてに耐え忍びながら、私たちを穏やかな心で見守ってくれる心です。その心で、神は私たちを忍耐を持って見守ってくださっているのです。そのような愛で見守られているからこそ、私たちもまた、互いに見守り合うのです。また、私たちは自分自身も、穏やかで平静な気持ちを持って見守っていかなければなりません。以外と、自分自身が、自分自身のだめなところを受け入れられず、自分自身が自分自身に対して怒り憤っているということが多いものです。ですから、私たちは、まず自分自身を自分自身が穏やかな心で見つめることも必要なのです。

そのようにして、愛は互いに互いの罪を屋根のように覆いながら、私たちを神の民として教え育みながら養い育ててくれるのです。そして、神が与えてくださる希望の内に、私たちを生きさせてくれます。この愛はイエス・キリスト様の内に溢れるほどにあり、イエス・キリスト様から溢れ出て私たちの内に注がれているのです。ですから、その愛をいただき、愛の持つ寛容と情け深い性質を持って、私たちは本当に神の前に一つの愛し合う群れ、神の家族を築き上げていきたいと思います。

お祈りしましょう。