『いつまでも存続するもの』
コリント人への第一の手紙 13章13節
2009/2/22 説教者 濱和弘
さて、今日の聖書の箇所は、教会の中で非常に有名な聖書の言葉の一つです。ですから、私たちの教会でも、この言葉を心に留めておられる方も少なくはないだろうと思います。たしかに「いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。そのうちで最も大いなるものは、愛である。」という言葉の響きは、私たちの心の内を何となく温かくしてくれます。特に、今は世界的な不況の中にありますし、先行きが見えない状況の中にあります。そのような中で、いつまでも残るもの、存続する三つのものの中に「希望」が含まれているのを見ますと、暗い世情の中にも光があるような感じがして、ありがたい感じがします。また、「愛」というものが、このいつまでも残るものの中に入っているということは、私たちの心の中に温かい思いを与えます。愛が私たち人間にとって大切なものであり、失ってはならないものであるということは、今日の私たち、世界中の誰もが認めるものであろうと思います。
しかし、この今日の私たち、世界中の誰もが大切なものであると認める愛は、実は極めてヒューマニスティックな愛です。もちろん、そのようなヒューマニズムにもとづく愛も大切です。人が自分の周囲の人のことを慈しみ大切に思うことは決して否定されるべきものではないのです。それだけではありません、ヒューマニズムは、神が私たち人間を創造して下さったときに、私たちの心に刻んでくださった神の像の現われです。つまり、私たち人間の心の中にあるヒューマニズムは、私たちをお造り下さった創造主である神の愛に通じているのです。ですから教会は、私たちの心の中にあるヒューマニステックな愛を否定してはなりません。むしろ、ヒューマニズムというものをもっと積極的に評価すべきであろうと思うのです。
しかし、今日の聖書の箇所で言ういつまでも残るものとしての愛は、そのヒューマニステックな愛、ヒューマニズムに基づく愛とはちょっと違っています。ともうしますのも、13節には、「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」というように、その冒頭で「このように」と言われているからです。もっとも、ギリシャ語の原文をみますと、この「このように」と訳されている部分に該当する言葉は見あたりません。ギルシャ語本文を直訳しますと、ただ、「しかし今、残っているものは信仰、希望、愛、これら三つ。そして偉大なものは愛。」とだけなっているのです。なのに、口語訳聖書も新改訳聖書も新共同訳聖書も、この13節の冒頭に「このように」にあたる語を補って訳しているのです。それは、この13節の言葉が、その前のコリント人への第一の手紙12章1節から13章12節までの議論と関係しているからです。特に、8節以降に深くかかわっています。
コリント人への第一の手紙12章1節から13章13節までは、コリントの教会の中にあった霊の賜物とよばれる、特別な能力についての混乱を収拾するためにパウロか書きつづったものです。当時のコリントの教会には、異言や預言、あるいは癒しを行なう力というような様々な能力や才能を持つ人が与えられていました。これらの霊の賜物は神が神の教会を建てあげるために人々に与えたものであったのですが、人々は、その賜物が与えられていることで自分の信仰を誇り、どの賜物がより優れた賜物であるかで競い合っていたのです。そのような状況に対してパウロは、神が与えた霊の賜物と呼ばれる才能や能力は、それらが調和して一つに結ばれて教会を建てあげるために用いられるもので、どれが優れた賜物であるというように比較するものではないと、12章以下で述べているのです。そして、そのような賜物よりももっと大切なもの、もっと優れたものが与えられるだからそれを求めなさいというのです。12章31節です。そこにはこうあります。
「だが、あなたがたは、更に大いなる賜物を得ようと熱心に努めなさい。そこで、わたしは最もすぐれた道をあなたがたに示そう。」 このパウロの、「そこで、わたしは最もすぐれた道をあなたがたに示そう。」という言葉に呼応するのが、13章13節の「このうちで最も大いなるものは、愛である」という言葉なのです。そして、愛が最も優れた道であるかというと、13章8節に「愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう」とあるからです。
当時のコリントの教会では、キリストの教会を建てあげて行くために、預言と呼ばれる神の言葉、神の御心をかたる人がいた。また異言と呼ばれる不思議な聞いたことのないような言葉を語る人がおり、また信仰に関する知識を語る人がいました。これらの人は、それぞれ預言の賜物や異言の賜物、知識の言葉を語る賜物が与えられていると考えられていました。しかし、パウロはそういった賜物はやがて必要とされなくなるもので、過ぎ去っていくものである、けれどもいつまでも残るものがある、それが信仰と希望と愛だというのです。ですから、先ほど、13節の言葉をギリシャ語で直訳しましたが、その、「しかし今、残っているものは信仰、希望、愛、これら三つ。そして偉大なものは愛。」という言葉の中で、「今残っているものは、」という言葉は「今、生き残るのは」とも訳せるのです。
つまり、預言や、異言、知識を語る賜物が教会を建てあげるために用いられていたとしても、そう言った賜物はやがてなくなっていくが、信仰と希望と愛だけは、やがてイエス・キリスト様がこの地上再びに来られ、神の国が完成するときに至るまで、どの時代の、その地域にあっても教会を建てあげるためにけっしてなくならない大切なものなのだというのです。そして、その中で最も大切なもの、もっとも重要なものが愛だというのです。ですから、パウロがこのコリント人への第一の手紙13章13節で語っている愛は、単なるヒューマニズム的な愛ではなく、教会を建てあげるための愛、神の国がやがて来るまで、教会の中で伝えていかなければならない愛なのです。それは、イエス・キリスト様の十字架の死によって表わされた罪を赦すところの三位一体なる神の愛です。神学の言葉で言うならば贖罪愛というものです。
同様に、「しかし今、残っているものは信仰、希望、愛、これら三つ。」といわれるように、愛と並べて語られている信仰も希望も、イエス・キリスト様の十字架によって示された罪の赦しに対する信仰であり、また罪の赦しによってもたらされる希望なのであって、決して不況の中にもそれを乗り越える希望があるといったような希望ではないのです。もちろん、これらいつまでも残る三つのもの、すなわち信仰と希望と愛の関係は決して並列的なものではありません。聖書自身が「そして、偉大なものは愛」といっているように、信仰も希望も愛に従属するものです。つまり愛がなければ、信仰も希望も無益なもの、虚しいものになってしまうのです。表現を変えるなら、信仰も希望も、愛によって支えられていなければ成り立たないということだろうと思います。では、信仰が愛によらなければ成り立たないとは一体どういうことでしょうか。もちろん、ここで言う信仰とは、イエス・キリスト様の十字架の死によってもたらされた罪の赦しの信仰です。
もちろん、この罪の赦しの業は、私たちの罪を赦そうとする父なる神の愛がなければ成り立たないものです。また、その父なる神の私たちの赦しの愛をうけて十字架で命を投げ出された子なる神の愛がなければ実現しませんでした。そして、その父なる神の愛、子なる神イエス・キリスト様の愛を、忍耐強く私たちに示し、教え、私たちを導き続けた聖霊なる神の愛なしには、私たちには伝えられなかったのです。そういった意味では、確かに神の愛なしには罪の赦しの信仰など起こり得なかったと言えます。しかし、ここでパウロが言う愛は、そのような神の私たちに対する愛だけが語られているわけではありません。教会が立てあげられるためには、私たち自身にもこの赦しの愛が求められているのです。
そもそも教会とは、εκλλησια、神に呼び集められた民の会衆です。ですからいろんな人が集まってきます。人が集まるところには様々な問題が起ってくるものです。ですから、コリントの教会にもいろいろな問題がありました。中には、信徒が信徒を裁判に訴えるというようなことさえあったのです。また、誰の持っている賜物が選りすぐれているかといったことで言い争ったり、誰の教えが正当化といったことで争っていたのです。そのような中で、パウロはキリストの贖罪愛で愛し合うことが大切だというのです。具体的にいうならば、あなたがたは、たとえ相手が間違っている、相手に非があると思っていても互いに許し合うそのような愛で愛し合いなさいということです。それが信仰、イエス・キリスト様の十字架に示された赦しの愛を信じる信仰だというのです。
この信仰という言葉は、キリスト教会の歴史の中では様々な理解の仕方や取り扱いを受けてきました。その信仰という言葉の理解に大きな転機をもたらしたのが宗教改革だったのです。ともうしますのも、宗教改革以前の中世カトリック教会においては、信仰とは教会によって信じられている内容が信仰だったのです。中世のカトリック教会の時代を、ラテン語でスコラ時代と呼ぶことが出来ます。スコラとは、学者を意味する英語のschplarの語源となったもので、中世カトリック教会の時代は、信仰を学問的に整理し組織的に体系化しました。そして、その整理され組織的に体系化された内容、具体的には教理が信仰であり、その信仰を受け入れることで人々は信仰に繋がると考えたのです。これをラテン語で、fides quae credetur といいます。この fides quae credetur に対して、宗教改革者であるルターは fides qua credetur といったのです。quae と qua とは、ほんのわずかな違いです、スペルでいうならば e があるかないかの本当に小さな違いでしかありません。しかし、その意味するところは大きく違います。
ルターは、われわれは、中世カトリック教会がいったような、整理され組織的に体系化された内容、具体的には教理の言葉を受け入れることで人々は信仰に繋がるのではなく、イエス・キリスト様がわれわれの罪を赦し、神と和解させるという救いの業のために十字架に付いて死なれた、その十字架に業に顕された神の愛に信頼することが信仰なのだというのです。それが、 fides qua credetur ということなのです。教理の言葉を重んじ、それを学び受容することが信仰ではない、イエス・キリスト様の十字架の死が私を救うということを心で信頼することが信仰なのだといったのです。それは神の愛を信頼することから始まる私たちの心が問題なのです。私たちの教会はプロテスタント教会です。週報の裏側の一番下のところに「私たちの教会は伝統的なプロテスタント教会であり」とはっきりそう謳っているではないですか。だとすれば、私たちは、イエス・キリスト様の十字架が私達を救う救済の業であるということを心から信頼する信仰に立たなければなりません。そして、このイエス・キリストの十字架によって示された神の愛と救いの業が信頼にたるものであるということを伝えていかなければならないのです。そこに、教会のよって立つ信仰があり、教会の立つべき信仰があるのです。
ところが、宗教改革が推し進められヨーロッパで、特にドイツで一定の成果を収めた後に、プロテスタント教会でも、自分たちの信じていることは一体どのようなものであるかということを整理し体系化する動きが起ってきました。そして、中世カトリック教会のスコラ時代のように、それを正しい教理としてまとめる動きが起ってきたのです。そうなってきますと、その体系化された教理に反するものは間違った教えを語っているということになります。そうなってきますと、自分たちの考えと違った考えや立場の人たちを非難し、断罪するようになってくるといったことが起ってきます。やがてそれが礼拝の説教にも反映されるようになってきました。つまり、説教において、正しい教えは何であるかが語られ、それが説明され、その正しい教理に反する人たちを非難し断罪するような説教になっていったのです。そこには、赦しの愛にもとづく互いに愛し合う愛をみることはできません。たしかに、信仰を整理し教理として体系化することは教会にとって大切なことです。それが教えられることも重要なことです。しかし、教会は何よりもイエス・キリスト様の十字架によって示された神の贖罪愛に生かされることが大切なのです。この神の愛に心がゆり動かされて、私たちも互いに愛し合うことなしには、教会は教会として成り立たないのです。
みなさん、私たちの教会のすぐ側にナザレ修道院という聖公会の修道院があるのをご存知でしょう。聖公会というのは、イギリスの国王ヘンリー8世が離婚をしたいがために、離婚を禁じているカトリック教会に絶縁してできた教会です。ですから、もともと神学的な意味からできた教会ではありません。そのために、聖公会には、プロテスタント的な考え方の人やカトリック教会的な考えの人が入り交じっています。ですからいろいろな立場の人がいるのです。そのようないろいろな立場の人が入り交じっている教会で、神学論争や教理論争を始めたら収拾がつかなくなってしまうだろうと思います。では聖公会の人たちはどうやって教会を一つにまとめているかというと、祈祷書と呼ばれる礼拝の行ない方を一つに統一したのです。神学や教理上の立場の違いはあるけれども、それでどちらが正しいとか、どちらが間違っているということではなく、ともかく、同じ神を見上げ礼拝するということで一つに結ばれているのです。それは、ある意味賢明であり、教会のあるべき姿の一つであろうと思います。礼拝は、私たちを救うために十字架につけられたイエス・キリスト様を見上げ、三位一体なる神の赦し愛に触れる場だからです。そのような、私たちの罪を赦す神の愛に触れる場において一つになるとき私たちは互いに愛し合うものになっていけるはずです。
そこに、誰が正しい、誰が偉い、誰が優れているといったものを持ち込まない限り、私たちは互い許し合う愛で愛し合うことの出来る一つの教会を築けるはずです。だからこそ、愛に支えられた信仰こそが教会を築き上げるための大切な道としていつまでも存続するのです。そして、もう一つのいつまでも残るものである希望です。そしてその希望はイエス・キリストの罪の赦しにもとづく希望です。ですから、それはこの世の終りのときにおとずれる救いの完成を仰ぎ望む希望であるといっても良いだろうと思います。神学的にいうならば終末論的希望です。ときにこの終末論希望は、永遠の命という表現をとって現れます。たとえば、あの有名なヨハネによる福音者3章16節にはこのように書かれています。あまりにも有名な箇所ですので暗誦なさっている方も少なくはないと思いますが、そこにはこのように述べられています。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」
ここでは、神の救済の業は永遠の命を得るためであると言われています。しかし、永遠の命といわれても、何やら漠然とした感じがします。永遠の命といわれますと決して死なない命のようにさえ思ってしまうのですが、実際にクリスチャンといえども一度死ぬということは定まっているのです。ですから、永遠の命とは、再びイエス・キリスト様がこの地上に来られて救いが完成し、私たちが神の国に招き入れられたときに与えられる命であると言うことができるでしょう。つまりそれは、まさに終末的希望が語られたことばなのです。もちろん、それでも依然として漠然としている感はぬぐえません。それは、永遠という言葉が持つ曖昧さのためだろうと思います。
その永遠ということについて、ドイツの神学者のエミール・ブルンナーという人が書いた本を読みました。私がキリスト教における時間の問題について調べたことがあり、その関係で最近手に入れて読んだのですが、ブルンナーは、永遠とは時間と相対立するものだというのです。時間は、刻々と移り変わっていくものであり、それにたいして永遠は変わらない静寂だというのです。そして、われわれ人間は、この刻々と移り変わっていく時間の中で追われるようにして生きている。「いついつまでにあれをしなければならない」「何日までに、これを完成させなければならない」と時間に追われているというのです。私自身、原稿を頼まれることがあり、その締切りに追われることがありますので、時間に追われるという実感は確かにかんじることがあります。また教会は教会で年間の行事予定が決まっていますので、その行事予定に追われることも少なからずあるでしょうし、みなさんもそう感じられることがあるのではないかと思います。
そのような中で、時間はどんどん失われ、自分の手の中からこぼれ落ちていくのです。それだけではない、時間は限られたものであり失われていくものですから、その限られた失われていく時間の中で、私たちは、多くのものを得ようとしているのではないかというのです。そして、得ることが出来なくて失われていくものの不安や恐れが、私たちの心を支配しているのではないかとブルンナーは問いかけるのです。そして、その限られた時間、失われていくときの決定的なものが死であるというのです。そして、生から死までの限られたどんどんと失われていく時間の中で、私たちは焦燥感を感じたり、恐れたり、不安を感じたりするのではないかというのです。それに対して、永遠は移り変わる時間の喧騒さの全く逆にあって、けっして移り変わることのない静寂さをたもったものであり、そこでは失われるものないというのです。ですから、永遠の命という言葉はそのような、限られた失われていく時間の中で生きていく私たちに、決して変わらない静寂の時が与えられるという終末的希望なのです。
一昨日、私と家内はS姉妹のご主人のところをお尋ね致しました。ご存知のようにS姉妹のご主人は食道がんで、もう治療の方法がない状況です。そのような枕べで、私はここ一ヶ月毎週お伺して、神のこと、イエス・キリストのことを語り、福音を語らさせて頂いています。そして、一昨日は、ブルンナーの本から、この永遠の命の話をさせて頂いた。それこそ、「Sさん。私たちは、毎日時間に追われるようにして生きてきましたよね。そして、その中で、少しでも多くのことをし、多くのものを得ようと頑張ってきました。でもね、神様は、神を信じるもの、イエス・キリスト様を信じる者は、そのように時間に追われ、何かを得ようとして生きている者を、救い出して下さり、決して変わることのない静寂さの中で生かして下さるんですよ。私たちが時間に追われている中で、時間に間に合わなかったらどうしよう、いついつまでにあれが手に入らなかったら間にあわないといった生活の中で感じた不安や恐れから解放して下さり、変わらない神の愛で包まれて安心して静かに落ち着いて生きる生き方に私たちを導いて下さるんですよ。」と話しかけたのです。
S姉妹に聞きますと、医師からはいつ食道がんが破裂するか、あるいは肺が破裂するかわからない状況で、それが一ヶ月先になるか、二ヶ月先になるか、あるいは、数週間先になるか数日先になるかといわれているということです。そして、S姉妹のご主人も、うすうすはそれを感じているようだとのことなのです。そのような中ですから、私も言葉を選び選び話していますので、先ほどのような回りくどい言い方になるのですが、その回りくどい言い方の言葉する私の言葉を、S姉妹のご主人は食い入るような目で聞き入っておられるのです。ご存じのように、S姉妹のご主人は大きな事故で、全身不随になり、言葉を発することも出来ませんので、ご自分の意思を伝える術をもっておられません。そのS姉妹のご主人が、神の救いとしての永遠の命を語る私を食い入るような目で見、私の言葉を聞いておられるのです。そして、時折わたしに何かを伝えようとしたいかのように、話そうとするそぶりを見せる。私は、その姿に、実は確かな手応えを感じていたのです。それは牧師という仕事に就く者の直感といいますが五感を超えた感覚と言った感じの者ですが、「この人には福音がちゃんと入っていっている。」といった、確証を感じていたのです。おそらく、S姉妹のご主人は、S姉妹の言うように、自分のこの地上の残された時を知っておらえるのだろうと思います。そのように、失われていく時間ということを感じておられるからこそ、私たちが思う以上に、神が与えて下さる永遠の命ということに対して、鋭い感性を持ってそれを感じ取られたのだろうと思うのです。それは、漠然としたものではなく、よりリアルな現実性のあるものであろうと思うのです。それが、あの食い入るような真剣な、そして真摯なまなざしに現れていると思うのです。
私たちは、時間の中で生きている者です。教会もまた時間の中に存在しています。ですから否応なしに時間に追われますし、また、限られた時間の中で事を進めていかなければなりません。しかし、そのような存在であるからこそ、私たちは決して変わることのない静寂さの中で、絶えることのない神の愛に包まれる救いがあるということを忘れてはならないのです。そして、教会は、御子を信じる者には永遠の命が与えられるという福音の言葉に留まり続けなければなりませんし、その言葉を教会の言葉として続けなければなりませんそこにこそ、私たちを救い、解放し、平安を与える神の愛があるからです。ですから、私たちはいつでも、私たちを救うキリストの十字架に示された神の贖罪愛を語り、またどんな時でも互いに許し合う赦しの愛に生き、時間の中で生きて行かざるを得ない運命にある私たちに、神が与える永遠の命をという終末的希望を語り続けたいと思うのです。それこそが、教会を建てあげるために、なくてはならない大切な教会の言葉なのです。
お祈りしましょう。