三鷹教会のロゴ

メッセージ

羊飼い 受難節第一主日礼拝
『敬虔のすすめ』
コリント人への第一の手紙 14章1−12節
2009/3/1 説教者 濱和弘

皆さんと共に、その語るところをずっと耳を傾けて聞いて参りましたコリント人への第一の手紙も14章にはいりました。残るところは、この14章を含めて、15章、16章の三章だけになりましたが、パウロが、このコリント人への第一の手紙をしたためた中で、一貫して願っていたことは、コリントの教会が、そこに集う人々の心が一つに結び合わされた教会になっていってほしい」ということにあったといえるだろうと思います。様々な問題や争いの中で教会が分裂してするかもしれないような危機の中にあるコリントの教会。本来ならば教会を建てあげられるために用いられるべきものである霊の賜物と呼ばれる神が与えてくださった様々な才能や能力でさえ、それが教会を壊してしまうもののようになってしまっている、そのコリントの教会に対して、パウロは、教会に起っている様々な問題に対処するその対処の仕方を示すと共に、教会が一つになり、イエス・キリスト様の体なる教会を建てあげていくには、愛が大切なのだと言うことを強調しているのです。

もちろんこの愛は、現代の日本に住む私たちが言うような「愛」でもなく、神が私たちを赦し、私たちと和解して下さったことに基づくところの互いに許し合うところの贖罪愛です。ヨハネによる福音書の13章1節から17節にはイエス・キリスト様が弟子たちの足を洗ったという出来事が記されています。そして、弟子たちにあなたがたの師であるわたしがこのようにあなたがたの足を洗ったのは、あなたがたに手本を示したのであって、あなたがたも互いに足を洗い合いなさい」と言われているのです。この足を洗うという行為は極めて象徴的な意味を持っています。当時は今のような靴がありませんから、外出すれば一番汚れるのは足です。塵や泥で足が汚れて汚くなってしまう。その足を洗うということは、私たちの汚れや罪を洗い落とすということなのです。その罪や汚れに対して神の御子であるイエス・キリスト様が赦しを与える。それを手本としてあなたがたも互いに罪を許し合いなさいというのです。そして、そのように互いに許し合うところ基づいて、イエス・キリスト様は「あなたがたは互いに愛し合いなさい」とお命じになっているのです。

ですから、聖書に示された三位一体なる神を信じるものは、その三位一体の神の第二位格であられる神の御子イエス・キリスト様がお示しになった罪の赦しにもとづく贖罪愛で愛しあう事が大切なのだというのです。いや、その贖罪愛を土台にして教会は立てあげられていくと言っても良いのです。そのようなわけで、教会によっては復活祭の前の一週間である受難週に教会によっては、受難週の木曜日を洗足の木曜日として教会に集まり、互いに足を洗い合うといったことをするのです。それはイエス・キリスト様がなさったことを手本として、私たちもそのように歩むということを表わすためです。もちろん、行為として互いに足を洗い合うということをまねると言うのではなく、その根本精神である互いに罪や汚れを許し合うということが一番大切なことであることは言うまでもありません。教会でも、家庭でも互いに相手の非や罪や過ちを許し合うということが、教会という交わりをまた家庭という交わりを暖かいものとし、豊かなものとする秘訣なのです。

だからこそパウロは、争いが多く分裂の危機にあるコリントの教会に愛を追い求めなさいというのです。具体的な問題の対処の方法も大切ですが、しかし、問題解決の根本にあって何よりも大切なのは互いに許し合うところの贖罪愛なのです。そのように愛を求めなさいといった後に、パウロは「霊の賜物を、こと預言することを熱心に求めなさい。」と言っています。預言とは神の言葉、神のお心を伝える働きであり、神を信じる民が如何に生きていくかを指し示す働きです。今日では聖書という、神の啓示が与えられていますから、預言といった賜物を持った人が何か特別な啓示を語る必要はありません。一人一人が聖書を読み、聖書の言葉を通して慰めや励まし、そして導きをいただくことができますが、しかし、私たちは決して一人で生きているわけではありませんし、聖書の言葉を独善的に解釈してしまい誤りに陥らないように、教会や家族といった共同体によっても育て育まれていかなければなりません。そうやって教会の交わりや学び、そして礼拝の説教を通して、神を信じる民として如何に歩んでいくべきかを学んでいくのです。

もちろん、その教会の交わりや学び、そして礼拝の説教の根底にあり中心にあるのは聖書の言葉です。この聖書の言葉を飛び越えて私たちクリスチャンがいかにして生きるべきか、いかにして歩むべきかが語られるとするならばそれは大きな問題です。だからこそ、旧約聖書はありましたが、まだ新約聖書というものがなかった時代のコリントの教会にたいしては、パウロは預言することを熱心に求めなさいというのです。平たく言うならば、「私たちは神の民として如何に生きていくか、如何に歩むのかということを、きちんと語ることが出来るようになりなさい。そして互いに神の前に、神の心に添って、神に喜ばれるように生きなさい。」というのです。

そのように預言することを熱心に求めなさいというパウロは、ここではその預言の重要性を異言と呼ばれる霊の賜物と比較しながら強調しています。この異言とよばれる霊の賜物も預言と同じ言葉に関するものですが、この異言とよばれる現象がどのようであったかについては、今日においても議論が分れているところです。と申しますのも、もともと、この異言という言葉は聖書のオリジナルの言葉であるギリシャ語では、舌(あるいはベロ)を意味するグロッソーと言う言葉で、そこから派生して外国語という意味でも使われている言葉だからです。実際、使徒行伝などを見ますと、たしかに異言とは外国語であっただろうと思われます。ところが、ことコリント人の教会においては、異言とは、外国語ということではなく何か人間には理解できない、わけのわからない不思議な言葉が語られることであると考えられていたようです。そのようなわけで、現在は異言とは外国語のことであると主張する人々と、人間には分からない霊の言葉であると主張する人々に議論が分れているのですが、しかしともかく、このコリントの教会の状況に限って言う限り、異言とは誰にも分からない、誰にも理解できない言葉であったようです。

そのコリントの教会の異言は、霊的高揚感とでも言いましょうか個人の信仰の高揚感を高め、それによって個人の信仰を励ましたり、あるいは慰めたりするといった働きをしていました。そういった意味で、コリントの教会で語られていた異言は個人の徳を高めるという良い役割を果たしていたようです。もちろん、信仰とは何よりも心の問題です。私たちの心が、神に信頼し、イエス・キリスト様の十字架の死が私たちの罪を赦し、私たちを罪と悪の支配から解放し、死から私たちを解放してくれるものであると信じ信頼することです。そして、そこに慰めや平安といった心の感情が産み出されています。つまり、私たちが信仰と言うとき、それは何よりも私たちの心の問題が中心にあるのです。ですからパウロは、一人一人の信仰の高揚感を与え、励ましや慰めを与えることで、一人一人の信仰を支える働きをした異言の賜物を、個人の徳を高めるといって否定はしていないのです。むしろ、それは良いものであるとさえいっているように思われます。

実際、14章の5節では「わたしは実際、あなたがたがひとり残らず異言を語ることを望む」とさえ言っているのです。それは、私たち一人一人が、神を信じることで心に慰めや平安を得、また励ましや喜びが与えられなければ信仰は決して立ちゆかないからです。しかし、「あなたがたがひとり残らず異言を語ることを望む」というパウロは、同時に、しかし、特に預言をして貰いたいというのです。それは、神の御心をかたり、神のまえに如何に生きるのかということを語って欲しいというのです。それは、どんなに一人一人の心に高揚感があり、そこで励ましや慰めを得たとしても、それが具体的な生き方の中に反映されていかなければならないということです。というのも信仰は、私たちの心の問題だけに留まるのではなく、私たちの周りにも広がっていくものからです。

なぜならば、私たちを愛し、私たちを恵み、私たちを救いに導いて下さった神は、その愛を、その恵を、その喜びを私たちの内に留めておくのではなく、私たちの周りの人々に伝え、分け与えていくことを望んでおられるからです。師であるイエス・キリスト様が、弟子たちの足を洗い、塵や泥で汚れを洗い落とすことで、罪や汚れを赦す愛をお示しになり、わたしが手本を示したように弟子であるあなたがたは、お手本であるイエス・キリスト様に倣って、互いにこの赦しの愛で愛し合うものとなるように、私たちに求めておられるのです。みなさん、神の言葉である聖書は、実に分厚い書物です。しかし、この分厚い聖書も、そこに述べられていることはただ二つだけのことです。それはまず第1に、如何に神が私たちを愛しておられるかということです。その神の愛の頂点としてイエス・キリスト様が語られ、イエス・キリスト様の十字架が示されているのです。そして、その神の愛が示されているからこそ、第2のこととして、神を信じるもの、イエス・キリスト様を信じるものは愛するものとなりなさいということなのです。それは、自分自身を愛するものであり、自分の周りを愛するものであり、そして神を愛するものになりなさいと言うことなのです。

たとえば、マタイによる福音書の28章19節20節には、次のような言葉が書かれています。「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。このマタイによる福音書の言葉の強調点は、人々をイエス・キリスト様の弟子としなさいということにあります。そして弟子として、イエス・キリスト様の命じておいたことをいっさい守らせるようにしなさいということです。「命じたことのいっさい」と言われますが、イエス・キリスト様が命じられたことは、すべて互いに足を洗い合う贖罪愛で愛し合うということに集約されるのです。だから、私たちは「愛を追い求めなければならないのです。」

聖書を読み、慰められ、励まされ、平安が与えられ、喜びが与えられる。それは私たちの信仰に大切なことです。それがなければ、私たちの信仰は立ちゆきません。しかし、信仰は私たちをそこに留めておくだけではなく、私たちをイエス・キリスト様が手本を示して下さった、互いに赦し合い受け入れ合う贖罪愛へと導くのです。みなさん、キリストの弟子となると言うことは、キリストの手本に倣い愛し合うものとなるということなのです。わたしが赦される。わたしが愛される。わたしが慰められる。わたしが励まされる。これらは、すべて与えられるものです。そして、神は、またイエス・キリスト様は惜しみなくそれらを私たちに与えて下さいます。そして、私たちはそのように神に愛され満たされるものだかからこそ、愛するものへと変わっていくことがキリストの弟子となるということなのです。

このように、神の愛に愛され、また神の愛に愛されたものが互いに愛し合うことで教会という共同体を築き上げられていき、神を信じるものによる神の家族としての交わりが築き上げられていくのです。ですから、信仰はわたしの心の中におこる個人的な問題でありますが、しかし、自分一人だけの問題で留まるのではなく、交わりを産み出し、共同体を築き上げていくものなのです。だからこそパウロは、6節で「から、兄弟たちよ。たといわたしがあなたがたの所に行って異言を語るとしても、啓示か知識か預言か教かを語らなければ、あなたがたに、なんの役に立つだろうか。」というのです。パウロが、コリントの教会に行ったとしても、パウロが一人で聖書を読み、ただ「わたしが神から慰められ」、「わたしが神から励まされ」「わたしが神から与えられる喜びで満たされる」という自分の徳になることだけを求めていたならば、周りの人たちとの交わりは産み出されませんし、パウロはコリントの人とたちにとって何の益にもならない存在です。

しかし、パウロが、コリントの教会のただ中で「神のお心」「み旨」を、啓示として、預言としてかたり、キリスト教とは何であるかを知識の言葉として伝え、またイエス・キリスト様が命じられた教えが何であるかを語るならば、コリントの教会に変化が起ってくるというのです。それは、神のお心が私たちが愛し合う群れとなることを望んでおられるからであり、キリスト教の教えは、単なる教理として伝えられ理解されるというものではなく、私たちの生き方において実践されるものだからです。つまり、説教であろうと、教理であろうと、おおよそ教会において信仰が語られ、信仰が伝えられるところにおいては、その語られた信仰の言葉が私たちの生き方を変えていくようなものなのだというのです。

私は、今日のこの礼拝の説教のタイトルを「敬虔のすすめ」とさせて頂きましたが、「敬虔」ということは、信仰が生活の中に実践されているということです。敬虔さとは、ただ単に現実の世界から離れて一人密室に閉じこもって静かに祈るとか、熱心に聖書を読むということや教理を学ぶといったことを意味した言葉ではありません。むしろキリスト教における敬虔さとは、現実のこの世界の中ただ中にあってイエス・キリスト様を手本としながら、で生きていくためのものなのです。そして、その模範とするべきイエス・キリスト様のお姿は、弟子たちの足を洗われたお姿なのです。それは、互いに赦し合う贖罪愛にたつ神の民の群れであり、またその愛が教会の中だけに留まっているだけではなく、教会の外にまで広がっていくところにあるのです。それこそが、多くの問題を抱え争いが多いコリントの教会に対して、パウロが示したあるべき教会の姿なのです。

もちろん、静かに祈るということ、熱心に聖書を読むというは大切です。それをおろそかにして良いということではありません。私たちが祈り、聖書の言葉を読むことで、まず私が神に愛されており、神の恵をいただくということによって、何よりもまず、私たちが自分自身を愛することが出来るようになるからです。私たちは、自分自身を愛することが出来なければ、私たちの周りにいる人を愛することが出来ないからです。そして、自分自身を愛することが出来るためには、自分が如何に愛され、喜ばれているかを知らなければなりません。また、自分は愛される存在であり、事実自分が愛されているということを知っている人は、自分自身に関心を向ける必要がありません。だから、自分の周りの人に関心を向け、自分の周りにいる人を愛することが出来るようになるのです。そして、静かに祈り、聖書のみ言葉に耳を傾けるとき、私たちは如何に、神が私を愛していて下さり、私を喜んで下さっているかを、私たちは知ることができるのです。

もちろんこの知るということは、単に知識として頭に入ってくるということではありません。経験として心が感じ取る、心で受け取るということです。その経験が、私たちを互いに愛し合うものへと変えていくダイナミックな力、原動力となっていくのです。だから、静かに祈るということ、熱心に聖書を読むというのも「敬虔」ということのためには大切なものなのです。また、キリスト教が何であるかを学ぶことや教理を学ぶということも大切なことだろうと思います。しかし、それはあくまでも、手段であり目的ではありません。教理を学びキリスト教信仰についての知識が深まっても決して教会は一つに結ばれません。教会が一つに結ばれるのは、神が私たちを愛し赦して下さったということを経験し、ただ私たちが互いに赦し合い愛し合うことによってのみ教会は一つに結ばれた群れになっていくのです。いえ、教会だけではない。家族であってもそうです。クリスチャンという神を信じる者がつくり出す社会は、教会であろうと、家族であろうとたがいに赦し合う贖罪愛をもって愛し合うことによってのみ、一つの結ばれるのです。

パウロは、8節で「もしラッパがはっきりした音を出さないなら、だれが戦闘の準備をするだろうか。それと同様に、もしあなたがたが異言ではっきりしない言葉を語れば、どうしてその語ることがわかるだろうか。それでは、空にむかって語っていることになる。」と言っていますが、どんなに教理が教えられ、神学が語られても、それが、現実の世界の中で生きている私たちが、実際にこの世の中でクリスチャンとしてどう生きていくかというところを指し示さなければ、それは意味をなさないのです。それは、神を信じる信仰というものは、私たちの具体的な生活に反映される実践的なものだからです。

パウロは、8節で「もしラッパがはっきりした音を出さないなら、だれが戦闘の準備をするだろうか。それと同様に、もしあなたがたが異言ではっきりしない言葉を語れば、どうしてその語ることがわかるだろうか。それでは、空にむかって語っていることになる。」と言っていますが、どんなに教理が教えられ、神学が語られても、それが、現実の世界の中で生きている私たちが、実際にこの世の中でクリスチャンとしてどう生きていくかというところを指し示さなければ、それは意味をなさないのです。それは、神を信じる信仰というものは、私たちの具体的な生活に反映される実践的なものだからです。  パウロは、異言の賜物は、「わたしが神から愛されている」、「私は神から恵をいただいている。」 「私は神から慰めをいただいている」「私は神から励ましをいただいている」ということを知らせるために用いられているものであり、個人の信仰を高める自分の徳を高めるものだと言いました。そのような個人の徳を高めることも私たちの信仰にとって大事なことですが、キリスト教の信仰は、われわれをそこに留めてはおかないのです。神が私たちを愛し、赦し、そして恵み、憐れみ、慰め、励ましてくれるということを知ったものを、神を愛し人を愛する者に変えて下さるのです。そしてそのように、教会が、イエス・キリスト様の弟子として、従って互いに赦し合い、互いに愛し合う群れとなるならば、それは教会の徳を高めることになると言うのです。

みなさん、今年の復活祭(イースター)は4月の12日です。そのイースターから、実際には日曜日の主日を含んで46日前から、レントと呼ばれる受難節に入ります。この40日間はキリストの受難の意味を覚え、過ごす日です。それは、単にキリストの受難の意味を神学的に考えるということではなく、イエス・キリスト様が死なれたということが私にとってどの様なことであったのか、私にとってどのような意味があったのかを考え、自らの生き方を問い、悔い改め、修練の時、祈りのときとして過ごすための期間です。カトリック教会の修道院などは、この40日間を、イエス・キリスト様が救い主としてお立ちになる前に荒野で40日間断食なさり備えられたことに重ね合わせて一切肉類や卵や乳製品を食べないで、このレントの期間を自らの修練の時とするところもあります。私たちはそこまですることはないと思いますが、しかし、本当にイエス・キリスト様が、あの十字架の上で自分の命を投げ出してまで私を愛してくださったということに、しっかりと目を向ける必要があります。

そのレントが、今年は2月25日から始ました。つまり、今日は、そのレントの第一主日なのです。その今年のレントの最初の主日礼拝に、私たちは、共に聖餐に与ろうとしています。聖餐は、まさにイエス・キリスト様が私たちのために十字架に架かってくださったということを、言葉でなく、イエス・キリスト様が十字架の上で釘打たれ裂かれた肉を示すパンを食し、そこで流された血を示すぶどうジュースを飲むことで、そのパンとぶどうジュースと共におられるイエス・キリスト様の赦しの愛に私たちが与ることです。それは、私たちを愛する神の愛、イエス・キリスト様の赦しの愛を伝える恵の業です。同時に、このパンとぶどうジュースをいただく私たちクリスチャンは、そのパンとぶどう酒をいただくことで、私たちもまた、イエス・キリスト様と共に十字架につけられるのです。それは、私たちが十字架につけられるまでに私たちを愛し赦して下さったキリストの贖罪愛を手本とし、私たちもまた、互いに赦し合い、愛し合うという贖罪愛に生きると言う敬虔な生涯に生きること表わすことでもあるのです。

ですから、今日、私たちは、この聖餐の恵を前にして、このコリント人への第一の手紙14章1節から12節までの御言葉を前にたち、もう一度自分自身に問いかけたいと思うのです。私は、「私が恵まれること、私が慰められること、私が励まされること」、つまり自分の徳が高められることだけに目が向いていなかっただろうかどうかをと言いたいのです。もちろん、私は、この教会の皆さんが、教会を愛し、教会に集っている一人一人を互いに愛し、互いに仕え合うようにして教会に集って下さっていることをよく知っています。そういった意味で、皆さんは教会の徳を高めており、敬虔な生き方をしておられます。しかし、それでもなお、私たちは自分は、愛すると言うこと、特に赦しの愛に生きているだろうかを問い直してみて頂きたいと思うのです。教会の中だけ愛し合うのではない、家族に対しても赦しの愛を持って愛しているのか。愛されることではなく愛することを求めているのか、静かに問いかけたいのです。神は、私たちを愛していて下さいます。その愛のゆえに、一人子なるイエス・キリスト様を十字架にかけて死なせてまで私たちを救って下さっているのです。そして、私たちは、そのキリストの愛を手本とし、愛する者として生きることを求められているのです。また、このイエス・キリスト様の赦しに愛の中に留まり続けるならば、必ず愛する者に変えられていくことができるのです。

お祈りしましょう。