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メッセージ

羊飼い 伝道礼拝
『ただキリストだけが』
ヨハネによる福音書 8章1−12節
2009/3/8 説教者 濱和弘

巷では、某政治家の政治献金で不正があったのなかったのと言うニュースが話題となっていますが、もし、報道されているように不正な行為があったならば、それは本当に問題で腹立たしいことであります。このような不正行為も憤りを感じさせられますし、あるいは犯罪行為などのニュースを耳にしますときに、中には犯人に同情を禁じ得ないようなケースもありますが、しかし、逆に憤りを感じさせられるような内容のものもすくなくありません。そのような、罪や過ち、あるいは不正に対する憤りというのは、いわゆる義憤と呼ばれる類のものであり、正しい者の目から見て過ちや罪を犯した者に対して抱く憤りです。今、司式の兄弟にお読み頂いた新約聖書ヨハネによる福音書8章1節から12節のお話しも、人々の義憤から始まる物語であります。

イエス・キリスト様が朝早く宮には入ますと、人々が集まってきた。そこでイエス・キリスト様は集まってきた人びとに教えを語っておられた。おそらくは神の愛について、また神を如何に礼拝し、神の前に如何に生きていくかを教えておられたのだろうと思うのですが、そこに姦淫を犯した女性がひっぱられてきて人々の真ん中に立たせられたのです。この女性をひっぱってきたのは、パリサイ派の人たちや律法学者と呼ばれる人たちでした。このパリサイ派と呼ばれる人たちや律法学者と呼ばれる人たちは、当時の社会ルールや、道徳といったものをきちんと厳密に守ろうとしていた人たちです。そういった意味では立派な人たちだったのです。このように、社会ルールや道徳といったものをきちんと守ろうとする人は自分に対して厳しい人であると言うことができるだろうと思います。自分自身に妥協することなく、いい加減なことが出来ないのです。そのように、自分に厳しい人は、人に対しても厳しいということがままあります。自分だけでなく、人の罪や過ちを赦すことができないのです。

ですから、このパリサイ人や律法学者はこの姦淫を犯した女性を見過ごすことが出来なかったのです。けれども、それ以上に彼らが見過ごすことのできない人がいたのです。それがイエス・キリストというお方です。というのも、このイエス・キリストというお方は、神の愛を語り、罪人に罪の赦しを宣言していたからです。罪人というのは、何も犯罪を犯した人ということだけではありません。当時の社会ルールや道徳を守ることができない人たちも含んで罪人と呼んだのですが、そのような人に、イエス・キリスト様は、罪の赦しを語ったのです。もちろん、パリサイ派と呼ばれる人たちや律法学者と呼ばれる人たちも、神の赦しや神の愛といったことを否定していたわけではないようです。しかし、それには罪の償いが必要なのです。たとえばそれが、この当時のイスラエルでは羊ややぎといった動物を、罪を償うための贖いの犠牲として殺し神に捧げることが求められていました。そして、その償いに対して赦しを与えることができるのは、ただ神だけでした。ところがイエス・キリスト様は、その罪に対して神に代わって罪を赦すと宣言なさるのです。

この罪を償うという感覚は、私たちにも良くわかりますよね。罪を犯したらそれを償う。この場合、償いには処罰というニュアンスが含まれています。罪を犯したら罰せられるという感覚ですね。たとえば、犯罪を犯して懲役になって刑務所にはいると言うとき、それは、罪に対する罰であると同時に償いの行為としても受け取られているのです。そして、罪を償って初めて社会復帰できるわけです。ところが、イエス・キリスト様は、そのような償いを求めることなく、神に代わって罪を赦すと宣言なさっっておられたのです。それは、自分に厳しく、また厳格に生きてきたパリサイ派や律法学者たちにしてみれば納得のいかないことでした。そのようなわけで、姦淫した女性をイエス・キリスト様の前に引き出して、みんながみている前で、「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」とたずねるのです。それは、こんな人でも、あなたはその罪を赦すということができますかという問いかけなのです。

律法とは、当時のイスラエルの人々にとっては法律です。しかも、それは神がイスラエルの民に与えた法律なのです。その法律に「姦淫を犯した女性は石で打ち殺さなければならない」と定められているのです。石で打ち殺すと言いますが、実際にどの様にしたかというと、穴といいますかくぼみに罪を犯した人を投げ込んで、上から子どもの頭ぐらいの石、ですから岩といっても良いようなものをみんなで投げつけるのです。ですから、石で打ち殺すというのは、公開処刑のようなものであったといえるでしょう。そのような罰を与え、行なった行為を償わせるわけですから、この当時の人々にとって姦淫とは決して赦されることがないと思われるような重い罪だったのです。その神が与えた法律である律法を破ってまでも、「罪を赦す」ということができますかというのです。このとき、この女性を取り巻いていた人はどの様な思いで、この人を見ていたでしょうかね。皆さんはどう思われますか。「石で打ち殺されるのか、可哀想だな」と同情する人もいたかも知れません。しかし、多くの人は、「この女性は石で打ち殺されても仕方がない」と思っていただろう思います。それほど、姦淫を犯すということは当時の人にとっては重い罪だったのです。(もちろん、現代においても、それは決して良いことだとはいえません)

ともかくも、誰もが、「この女性は死に価する罪を犯した悪い女だ」とそう思って見つめているのです。そのとき、この女性を取り巻いてみている全ての人は、自分が正しい善の側におり、この女性が間違った悪の側にいるという心をもって見ているのです。私たちだってそうですよね。本当に死刑になるような重い罪を犯した人を「悪い奴だな」と思ってみているとき、自分は正しい方にいる、正義の側にたって「悪い奴だ」と思っているのではないでしょうか。いや、少なくとも、自分があの罪人と同じだとは思っていないのです。そのような目で、人々がこの女性を見ているとき、イエス・キリスト様は何を思ったのか、突然地面に何か書き始め、そしておもむろに「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と言われ、また、地面に何かを書き続けたというのです。そうすると、この女性を取り囲んでいた人たちの中から一人一人去っていき、とうとう、最後には誰もいなくなり、結局、誰もこの女性に石を投げつける人がいなかったというのです。

去っていった人たちの中には、この女性を引っぱってきたパリサイ派や律法学者たちも入っていました。彼らは、自らを厳しく律し、自制して生きていた人たちです。ですからこのような姦淫を犯した女性に対して激しい憤り(義憤)を抱いていた人であったといえます。その人たちも、誰もこの女性に石を投げつけることが出来なかったのです。確かに、イエス・キリスト様は「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と言われています。もし私たちが、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と言われるならば、躊躇を感じてしまうかもしれません。けれども、パリサイ派や律法学者と呼ばれる人は、神の前に罪を犯さないように細心の注意を払って生きていた立派な人たちです。彼らもまた、神の前に正しく生きているという自覚を持っていました。ですから、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と言われて、「それならまず私から」と言ってもおかしくはないですし、周りもそれを認めただろうと思います。

けれども、誰もこの女性に石をぶつけることが出来なかったのです。一体どうしてなのでしょうか。誰もが萎縮してしまうほどイエス・キリスト様の言葉が力強く威厳に満ちあふれていたとも考えられますが、しかし、聖書はイエス・キリスト様が何やら地面に書かれていたというのですから、この地面に書かれていたことに秘密があるのかもしれません。ある神学者は、イエス・キリスト様は、ここにパリサイ派や律法学者を始めとする、ここに集まっている人たちが犯した罪を一つ一つ書いたのではないかといいます。人々は、自分は正しい人間で正義の側にいると思っていましたが、実は、様々な場面で罪を犯している。その隠された罪を、イエス・キリスト様が地面に書かれたのを見、その上で、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と言われて、去っていったのだというのです。

確かに、私たちは自分は正しいと思い、正義の味方になって人を裁き、非難し、断罪するということがしばしばあります。先日、テレビを見ていましたら飲酒運転で捕まった人のことが報道されていました。その時にテレビに出演していた人も、飲酒運転による悲惨な事故がいくつもあり、飲酒運転の危険性が指摘されているのにまだ懲りないのかと、怒りの表情を露わにしていました。その番組を見ていたわたしも同じ憤り、まさしく義憤を感じていたのです。実際、飲酒運転には殺人罪か殺人未遂罪を適用すべきだぐらいの思いでいたのです。私はお酒をたしなみませんので、飲酒運転をする可能性は100%と言っていいくらいないのですが、しかし、考えてみれば、飲酒運転と匹敵するぐらい危険なスピードの出し過ぎ、いわゆるスピード違反については、あまり大きなことはいえません。それが大きな社会問題として取り上げられていませんから、あまり問題意識を持って見ていませんでしたが、実はスピード違反だって危険な運転には変わりないのです。そう考えますと、無理な割り込みや進路変更など事故に繋がるような危険な運転は結構多くあります。それを、問題として意識していなければ、そこには罪の意識が起きてこないのです。

もう何年も前の話ですが、ある牧師がこのような話をしていました。その牧師は日本を代表するような有名な牧師の一人なのですがこう言うのです。その方は、あるときスピード違反のとりしまり、いわゆるねずみ取りに引っかかってしまったそうです。その時に、その牧師は「ちぇ、ついてないな」と思ったというのです。そこには罪の意識は見られません。また、スピード違反が交通マナーにおいては重大な問題を含んでいるのだということにも気づいていないのです。その牧師の名誉のために申しますが、その方は、「ちぇ、ついてないな」と思った後に、自分が罪の意識を持っていないことに気付き反省したそうです。そのように、誰に指摘されることもなく、すぐに自分が罪の意識を持っていなかったその姿勢に気づき反省したというのですから、さすがに日本を代表する牧師だなとおもうのですが、私などであったら、「ちぇ、ついてないな」と思うか、せいぜいスピード違反の言い訳と自己弁護をする程度のところだろうと思うのですが、みなさんはいかがでしょうか。

それは、まさに自分は自分自身の罪や過ちに気が付かないでいるすがたなのです。そのように、人の罪には敏感で、正義の味方になってその罪を裁く私たちであっても、以外と自分の罪や過ちには気が付かないものです。そして、そうやって人の罪や過ちを指摘し、非難し断罪することで、いかにも自分が正しい誤りのない存在であるかのように思っているのですが、実際は、私たちもまた罪を犯している罪人の一人なのです。聖書には、罪のリストと呼ばれる箇所があります。マルコによる福音書7章21節、22節やローマ人への手紙2章29節、30節などです。そこには次のようなものが罪だと言っています。「不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、ねたみ、誹り、高慢、愚痴、悪意、殺意、争い、詐欺、悪念、ざん言、そしる、神を憎む者、不遜、高慢、大言壮語、悪事をたくらむ、親に逆らう者、無知、不誠実、無情、無慈悲な者。」

ここにあげられたものの中には、実際に行為として行なわれる罪があります。盗みや殺人、詐欺といったもので、姦淫もその中に含まれています。しかし、この罪のリストには、そのような具体的な行為となって現れるものだけでなく、心の中で思うことによってなされる罪もあげられています。悪意や、邪悪、悪念、悪事をたくらむ、殺意といったものです。殺人という行為を行なうことによって罪を犯すというのではなく、殺意を抱くことによって人は既に殺人と同じ罪を犯しているのだというのです。いやそれだけではない、高慢やねたみ、不遜や愚痴、親に逆らうといったものも罪であり、これらは死に価するといっているのです。つまり、神の前には、行為になったとかならなかったとかいうのではなく、行為の背後には思いがあり、その思いが心に湧き上がってくるのであるならば、その人のうちには既に罪がやどっているのであって、それゆえにその人は罪人なのだというのです。しかも、私たちは罪に重い罪ランク付けをしますが、どの様な罪であっても、罪は罪であって、この罪はたいしたことのない罪であり、この罪は重い罪であるといったふうに分けられるものではないというのです。それこそ、スピード違反も飲酒運転も、無理な進路変更や脇見運転も重大な違反で重い軽いに分けられることではないというのです。

C牧師という方がおられました。このかたは若いときに聖書をよみ、聖書にあるこの罪のリストをお読みなったそうです。はじめは、このような罪は自分には関係ないと思っていたといいます。しかし、だんだんと必ずしも自分に無関係とはいえないと思うようになったと言います。罪を単に行為として見ていたならば、これらの罪のリストを見ても、それは自分とは無縁なもののように思います。けれども、自分の心の中の思いまでのぞき込み、自分の過去を振り返りながら、この罪のリストを読み返しますと、決して自分とは無関係なものではないと思えるのです。皆さんも、自分の心の中を深くのぞき込み、自分のかつての姿を思い起こしながら、もう一度先ほどの罪のリストを読み上げますので、耳を傾けて頂き、ご自分に関係あるかないかを考えて頂きたいと思います。読み上げます。

「不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、ねたみ、誹り、高慢、愚痴、悪意、殺意、争い、詐欺、悪念、ざん言、そしる、神を憎む者、不遜、高慢、大言壮語、悪事をたくらむ、親に逆らう者、無知、不誠実、無情、無慈悲な者」

もちろん、罪のリストはこれだけではないだろうと思います。もっともっといろんな罪があげられるだろうと思う。ここにあげられたのは、その中のほんの一部にしか過ぎないのです。しかし、心の中をのぞきこむならば、そのほんの一部のものであっても、決して私たちには無関係なものはないのです。イエス・キリスト様は、きっと地面に何かを書かれながら、その書かれたことを通して、そこに集まった人の心の内面までもえぐり出し、そのうえで「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と言われたのだろうと思います。そのとき、自分は正しいものの側に立ち、正義の味方として、この姦淫を犯した女性に対し、「この人は自分とは関係のない悪い女だ、罪人だ」と思っていた人たちは、決して自分はこの人と無関係ではない。自分もこの人と同じように誤ったもの、悪の側に立ち、罪を犯したものであって、神に裁かれても仕方がないものだということに気づいたのだろうと思うのです。

だから、誰一人正義を行うものとして、この女性を裁き、石を投げつけることが出来なかったのです。そして、私たちもまた、この女性に石を投げつけることなど出来ないだろうと思うのです。それは、私たちもまた、この女性と同じように罪人の一人だからです。この姦淫の罪を犯した女性の物語は、最後にイエス・キリスト様の「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」という言葉で締めくくられています。つまり、この姦淫を犯した女性もイエス・キリスト様によって罪の赦しが宣言されているのです。しかも、なんの償いを求められることなく赦されているのです。この女性がイエス・キリスト様のところに引っぱってこられたときには、おそらく何の希望もなかっただろうと思います。姦淫をおかしたものは、石を投げつけられ殺されることが、当時の社会のルールだったからです。しかし、パリサイ派の人々や律法学者たちが「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」とイエス・キリスト様にたずねたとき、この女性にたった一つの希望の光が差し込みました。

イエス・キリスト様が罪を赦すと言って下さる希望が生まれたのです。このとき、この女性にはすがるべき存在、頼るべきお方はイエス・キリスト様しかいませんでした。ですから、この女性は、自分自身のことをイエス・キリスト様にゆだねるしかできなかったのです。そのように、イエス・キリスト様にすがりつくものをイエス・キリスト様は見捨てませんでした。そして、だれも、この女性を裁くことができず、その場から立ち去った、この後に、最後の最後に残されたイエス・キリスト様が、この女性に「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」といわれるのです。そのように、イエス・キリスト様は、この女性の罪を赦し、この女性をその罪とその裁きから救ったのです。それは、この女性の罪ゆえに、彼女が引き受けなければならなかった裁きによる死という運命から救ったことでもありました。

みなさん。私たちは、この女性と同じ罪人です。誰もこの女性を裁くことができるほどの正義を持ってはいません。だからこそ、この女性に罪を赦すなどと言うことも出来ないのです。ただ、この女性と同じように、自分の罪に対して神がなされる裁きの宣告をじっと待つしかない存在なのです。しかし、その私たちも、イエス・キリスト様の寄りすがり、イエス・キリスト様だけをその罪に対する処罰の宣告から救い、赦しをもたらして下さるお方として寄り頼むならば、私たちもその罪に対して赦しを与えていただけます。この女性を赦したイエス・キリスト様は私たちの罪をも赦して下さるのです。ですから、今日ここに集った皆さんには、是非このイエス・キリスト様が自分の罪に赦しを与える救い主であるとして信じ受け入れて頂きたいのです。私たちが、イエス・キリスト様を救い主として信じ、イエス・キリスト様に寄りすがるならば、私たちは神の前で受けなければならない私たちの罪の裁きから赦され、神の前に滅びなければならない永遠の死から救われ、永遠の命へと救い出されます。

罪が、「不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、ねたみ、誹り、高慢、愚痴、悪意、殺意、争い、詐欺、悪念、讒言、そしる、神を憎む者、不遜、高慢、大言壮語、悪事をたくらむ、親に逆らう者、無知、不誠実、無情、無慈悲な者」と呼ばれるものによって表わされるように、行ないによってなされる行為の罪だけでなく、心の思いもまた罪であるならば、私たちは、みんなこの姦淫を犯した女性と同じ罪人であり、同罪なのです。しかしまた、この姦淫を犯した女性と同じ罪人だからこそ、この女性と同じようにイエス・キリスト様によって、罪に赦しがあたえられ、そして救われるのです。だからこそ、今日ここに集った皆さんには、是非このイエス・キリスト様が自分の罪に赦しを与える救い主であるとして信じ受け入れて頂きたいのです。そして、すでに、イエス・キリスト様を信じ受け入れている人には、そのイエス・キリスト様を信じる信仰のうちに留まり続けて頂きたいのです。それが、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」といわれたイエス・キリスト様の御言葉の「今後はもう罪を犯さないように」という部分を生きることになるからです。

お祈りしましょう。