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メッセージ

羊飼い 受難節第三主日礼拝
『ただ神の約束を語る』
コリント人への第一の手紙 14章13−25節
2009/3/15 説教者 濱和弘

さて、先週は伝道礼拝でしたので、コリント人への第一の手紙からの連続説教は一週飛びましたが、先々週はコリント人への手紙14章1節から12節から「敬虔のすすめ」というタイトルでお話し致しました。パウロは、このコリント人への14章に入って、異言と預言ということについて語り始めました。それは、おそらくコリントの教会では、だれも理解できない言葉を語り出すという特殊な現象があり、それが異言と呼ばれ、どうやらコリントの教会の中に混乱を起していたという背景があったであろうと思われるからです。誰にも分からない言葉を話すという現象は、他のいろいろな宗教の中にも見られるもののようです。コリントという町は商業都市で、非常に多くの民族や人種が行き交う町でした。ですからコリントの町の人が、いろいろな宗教と出会う機会があったというのは少なからず想像が付くことです。そのような中で、誰にも分からない言葉を話し出すという現象が教会の中に入り込んできたということは、十分に考えられます。

もし、そのような異教的な起源をもっているとしたならば、パウロはコリント人への14章5節で「わたしは実際、あなたがたがひとり残らず異言を語ることを望む」といい39節で「異言をかたることを妨げてはならない」といっているのか不思議な感じがします。ひょっとしたらパウロは、コリントの教会で異言と呼ばれる誰も知らない言葉を語り出す現象が、神を求める熱心な思いから出たものであるならば、パウロはその信仰の姿勢を認め、むしろ尊重したのかもしれません。そして、たしかに、その異言とよばれる現象は、個人の徳を高めるということにおいては何らかの役に立っていたようです。実際パウロは、コリントの教会で起っている様々な混乱に対して現実的な対応をしています。

この異言とよばれる霊の賜物の問題に対しても、それが個人の信仰のマイナスにならない限り、パウロはそれを受け入れ尊重したのかもしれません。けれども、たとえどんなに個人の信仰にとって役立つものであっても、それが教会の公式の教えや、教会のあるべき信仰のあり方として伝えられるとするならば、話は別です。そういった意味では、パウロは神の言葉として伝えられるべき言葉は、だれにでもはっきりとわかる形で伝えられなければならないと言っています。たとえば、それがクリスチャンに対するものであるならば、クリスチャンの生き方を示す倫理的な内容をもったものでしょう。それは、クリスチャンの誰であっても理解できる言葉で語られなければならないのです。

初代の教会の時代から、教会にはディダケーとよばれる倫理的な教えがあったといわれています。実際、初代教会時代(1世紀後半から2世紀前半)の文書が現代にも幾つか残されていますが、そのなかに12使徒のディダケーというものもあるのです。このディダケーというのは、ギリシャ語ですが、佐竹明という人は教訓と訳しています。つまりディダケーとは、クリスチャンのあるべき姿を示した、まさには倫理的教えなのです。たとえば、その12使徒のディダケー(12使徒の教訓)には、次のようなことが書かれています。「わが子よ。あらゆる悪と、それから似ているものをさけなさい。立腹してはならない。怒りは(人を)殺人へと導くからである。また、嫉妬をしたり、争いを好んだり、怒りに燃えてはならない。これらすべてから殺人が生まれるからである。」

あるいは、このようにも書かれています。「あなたの息子、あるいはあなたの娘から手を引いてはならない。むしろ若いときから(彼らに)神をおそれることを教えなさい。(あなたと)同じ神に望みを置いているあなたの奴隷または奴卑(濡卑)に向って怒った気持ちで命令を下してはならない。それは、彼らが、(あなたがた)両者にとって神であるというのは、神は、(人をその)外面に従って招くべくこられるのではなく、霊が準備した人たちのところにこられるのだからである。他方、奴隷たち、あなたがたはあなたがたの主人を神の像と(見な)して、慎ましさと恐れとを持って(彼らに)つかえなさい」このような倫理的な教えは、その時代時代の背景をもって聞き取らなければなりませんが、ともかくも、それぞれの時代時代の中で、神の言葉が、私たちクリスチャン一人一人に伝えられ、受け止められ、そして理解され、咀嚼されてそれが実践されていかなければならないものであることを示しています。そして、このように、神の言葉が受け止められ理解され、実践されていくことで教会の徳が高められるのです。

このようなディダケーは、教会の内側、すなわちクリスチャンに向って語られる言葉ですが、教会は教会の内側に向って語られる言葉だけではなく、教会の外側、すなわちクリスチャンはない人たちに向って言葉を語らなければなりません。いわゆる伝道の言葉、宣教の言葉をかたるということです。この伝道の言葉、宣教の言葉というのは、ギリシャ語でケリュグマといいますが、そのケリュグマの中心にあり核となるものが福音です。伝道とはイエス・キリスト様の福音を伝えることなのです。そして、その福音は、人間の理性で理解できる言葉で語られなければならないのです。たしかに、コリントの教会では、誰も理解することのできない、いわば訳の分からない言葉を語ることが、個人個人の信仰を支え、恵みを与え、喜びを与えたかもしれません。しかし、それはコリントの教会の外側にいる人たちにとっては異様な姿の映ったのかもしれません。だとすれば、それはクリスチャン個人の信仰にとっては喜びであり、恵みであったとしても、その喜びや恵みは教会以外の人には伝わっていかないのです。

たしかに不思議な現象というのは、人の心を引きつけます。「現代は心の時代だ」といわれて久しい感じがします。科学が発展し、物質文明が広がっていく中で、この世界から神秘的なものがだんだんと失われていく中で、人々の心が渇いていく。科学や、物質文明それ自体が悪いわけではないのですが、ものの価値が物やお金で計られていくようになり、ものやお金では計ることのできないものが忘れ去られていってしまうなかで、人の心といったけっしてお金で計ることのできない種類に属するものがひからびていくのを感じて、「心の時代だ」と叫ばれるのだろうと思います。ですから、今はスピリチャリティーという言葉が、盛んに聞かれます。キリスト教会でもスピリチャリティーということがいわれますが、世の中で言うスピリチャリティーというのは、キリスト教で言うスピリチャリティーということちょっと違っています。

教会でスピリチャルと言うとき、それはわれわれ自身が、神にどの様に向き合い、われわれの魂が神の前にととのえられていくわれわれの主体的態度のことですが、世の中で言うスピリチャリティーとかいうことは、いわゆる霊感のようなもので、霊の世界と交流できる人によって明らかにされる霊の世界のことを指すようです。いわゆる霊感師といわれるような人が、その人の前世をみたり、亡くなった方と交信して言葉を伝える霊媒師のような神秘的な働きとその世界全体をスピリチャリティーといっているようです。テレビでもそのような人を何人か見かけますが、それは日本だけではなく、外国でも見られる現象です。ニューエイジと呼ばれる運動などがそれに属します。そのようなこの世で言うスピリチャリティーは、多くの人の心を引きつけています。それこそ、物質文明の中でお金が世の中を支配しているような中で、心の渇きを、霊感や霊媒といった不思議な現象、神秘的な世界に心が引かれていっているのです。

そういった意味では、コリントの教会に見られた「理解することのできない言葉を語る」という現象としての異言は、神秘的な行為としてクリスチャンだけでなく、クリスチャンでない人の心を引くものがあったのかも知れません。だからこそ、パウロは、「異言は信者のためではなく、未信者のためのしるしである」とそう言っているとも考えられます。実際、たしかに不思議なこと、神秘的なことは、人々の心を引きつけます。けれどもそれは、興味という人の心を引きつける物なのであって、それ以上ではありません。そして、どんなに興味があっても、興味だけでは人は救われないのです。人が神の救いに与るためには、私たちひとりびとりが自分の罪を示され、罪を悔い改め、神を信じ、イエス・キリスト様を信じなければならないのです。

そのためには、神の言葉が語られ、伝えられなければなりません。パウロが、教会の中で、全員が預言をしているところに、不信者か初心の者がはいってきたならば、彼の良心はみんなの者に責められ、みんなの者にさばかれ、その心の秘密があばかれ、その結果、ひれ伏して神を拝み、「まことに、神があなたがたのうちにいます」と告白するに至るであろうというのは、そのためです。預言とは神の言葉を語り伝えることです。そして、その神の言葉を煎じ詰めていったところにイエス・キリスト様がおられ、イエス・キリスト様が伝えた福音がある。それは神の約束という言葉で言い表すことが出来るだろうと思います。神の約束、それは罪人である私たちであっても、神を信じ、イエス・キリスト様を救い主として信じるとき、罪人である私たちの罪が赦され、死すべき運命、滅ぶべき運命から救い出され、永遠の命を得ることが出来る神の祝福、神の恵みに与ることができるという約束です。この神の約束がきちんと語られ、福音が理解できることばで語られるならば、その言葉は、宣教の言葉となって、イエス・キリスト様の十字架の死によってもたらされた救いの出来事が伝えられていくのです。だからこそ、教会は、この神の約束を、福音を語り伝えていかなければなりません。

昨日は、S姉妹のご主人であるS・Kさんの告別式がありました。S姉妹のご主人は、長い間、私たちの祈りの中にありました。御存じように、S姉妹のご主人は大きな怪我のため、意識ははっきりとあるのですが、ご自分の意思を言葉として伝えることが出来ませんでした。そのような中、毎月S姉妹のお宅で家庭集会を持ち、ご主人も集会そのものには出席出来ませんでしたが、隣の部屋でベッドの上で、そこで語られる聖書の話を聞いておられたことと思います。特に、亡くなられる2ヶ月前から食道がんのため入院なされ、週に一度、私たち夫婦で訪問させていただき、その枕元で、聖書の話、神の約束について話させていただきました。その私の話をS姉妹のご主人は食い入るようなまなざしで聞いておられました。本当に私の顔を目で追い、訴えるような瞳で私の話に耳を傾けて下さっていたのです。

そのS姉妹のご主人のお姿を見て、私は、S姉妹のご主人S・Kさんが、確かに神の御手の中にあると確信することが出来ました。S・Kさんは、言葉で信仰告白をすることが出来ませんでしたが、聖書の話、神がイエス・キリスト様によって与えて下さる約束について私が話す言葉をじっと聞きながら、その目で私に応答して下っていました。また、時折、手を握りながら話をする私の手を握り返して下さっていた。そのような中で、私は、S姉妹のご主人に「救いが来た」と信じることが出来たのです。そのS・Kさんの告別式に、ご親戚の小さなお子さんがお見えになっておられました。目のくりっとした可愛い女の子でしたが、告別式の時から、火葬の時までずっと泣いていました。S姉妹のご主人の亡骸を火葬している間、ご親族の方と一緒に待合室で待っていますと、ご親戚の中の一人の女性が私のところに来て、その女の子が、亡くなった人を見、斎場で、人が火葬され骨になる様子を見て、ショックを受けて泣き続けているので、話をしてやってくれないかというのです。

そこで、私はその女の子にお話をしました。ちょうどその時、ガウンを着、ストールをつけていましたので、そのストールを見せ、このような話をしました。それはこんな話です。「ほら、これはストールというんだ。おじちゃんは、今日、ずっとこの紫色のストールつけていただろう。紫って色は何だか悲しいよね。人が死ぬことはとっても悲しいことだよね。だから紫色のストールをつけているんだ。でもね、この紫のストールの裏側は緑色になっている。緑という色はね、永遠を表わす色なんだよ。死んでしまうことは悲しいことだけど、神様を信じている人は、死んでも、天国で永遠に生きることが出来る。天国はとっても、楽しくて素晴らしいところなんだよ。そこでずーと生きることが出来るんだ。Sのおじちゃんは、神様を信じて天国に行ったんだ。だから、Sのおじちゃんが死んでしまったことは悲しいことだから泣いても良いけれど、でも天国に行ったんだから、いつまでも泣いていちゃだめだよ。そしてね、あなたも、神様を信じれば、天国に行くことが出来るんだから、安心していいんだよ。」

その女の子は、小学校三年生だそうです。ですから、どれくらい私の話を受け止めてくれたかはわかりません。けれども、私の話を聞いて、その子は泣きやみ、お骨を拾うときには、もう泣くこともなくしっかりと大人に混じってお骨を拾って骨壺に納めていました。帰り際に、その女の子は私のところにやって来て可愛い声で「教えてくれてありがとう」といってお辞儀をしてくれました。みなさん。わたしは牧師という勤めをしていますが、預言者でもなければ神の代理人でもありません。ただ、聖書という私たちに神が与えて下さった聖書を学び、その学んだところから皆さんにお仕えしているものに過ぎないのです。ですから、私の言葉は不十分で、聖書の語るところをうまく伝えられていない面がたくさんあるだろうと思います。そんなわけで、あの小学三年生の女の子にどれだけうまく伝えられたかはわかりません。実際、葬儀が終わり、教会に戻り、少し落ち着いてから、「ああ、あの時、悪いことをして罪を犯した人は死んだあと、神の裁きを受けてしまうから死は恐いものだけど、神様を信じ、イエス・キリスト様を信じた人は、神様が罪を赦して下さって天国に行けるから大丈夫なんだよ」ともう少し、丁寧に話してあげれば良かったと反省したのですが、しかし、確かに欠けのある話でしたが、神の言葉、神の約束、福音に立ってお話ししたのです。

そして、そのように神の言葉に立ち、福音にたち、神の約束を語ったからこそ、あの女の子の心に何かが届き、何かが残ったのだろうと思うのです。何か届き、何かが残ったからこそ、あの女の子は泣きやみ、しっかりとお骨を拾うことが出来たのだろうと思うのです。結局、教会が語る言葉、教会が伝える言葉は、神の言葉、神の約束しかないのです。先日、家内とテレビを見ておりましたら、ある番組でとある酒造メーカーの社長がインタビューに応じている場面が放送されていました。その酒造メーカーは、酒造りの技術を生かして化粧品などのバイオ商品を産み出し、現在では売り上げの95%はそのバイオ製品なのだそうです。つまり、酒造りによる売り上げは5%にすぎないのです。それで、テレビのアナウンサーは、「酒造りをおやめになろうと考えたことはないのですか?」質問しました。すると、その社長は「酒造りが本業だと思っていますから」とお答えになったのです。わたしは、その言葉を聞きながら、私は家内に「そうだよね、僕の本業は、牧師なんだよね」と話しかけていました。たしかに、私には超教派の働きもあり、教団や教区の働きもこれから加わってくる。でも、それでも私の本業はこの三鷹キリスト教会の牧師なのです。そして、ここで、この講壇で神の言葉を伝え語っていくのが私の本業なのです。

同じように、教会の本来あるべき姿も、結局のところは神の言葉を語り、神の約束を伝え、福音を伝え、証することなのです。確かに、現代の教会では、コンサートや何かの講演会という形をとれば多くの人を集めることは出来ます。それらは、人々の興味や関心を引くことが出来るからです。ですから、多くの教会がコンサートや様々な講演会を行なっています。人がたくさん集まるからです。事実、私もそうやってきた。それは決して悪いことではありませんから否定する必要はありません。むしろ日本というキリスト教にとっては異文化の世界では、多くの人が教会に足を踏み入れるというだけで意味があり良いことだといえます。ですから、私たちの教会でもそのような集会をこれからももっていく必要があります。しかし、教会はそれだけで終わってはなりません。それは伝道にとって複線であり。教会の働きで言うならば副業なのです。それは教会の本業はなにかというと、教会の本業は、ですから、伝道で言うならば、伝道会であり、日々の営みで言うならば、神を礼拝するということにあるのです。

そうやって神の言葉を語り、神の約束を伝え、福音を伝え、証すること、それが、私たちクリスチャンの本業なのです。聖なる神の言葉を語り、救い主イエス・キリストの救いを語り、その救いの中に生かされる生き方をして神を証していくことが、教会にとってなすべき使命なのだと思うのです。パウロは、異言を語ること以上に神の言葉を語る預言を重んじました。それは教会が神の言葉、神の約束を語り伝えるという使命を負っているからです。教会が求められていることは、人の目を引くことではありません。人の心に福音を語り、神の約束の言葉を伝えることなのです。そのことを心にとめ、私たちは。神の言葉を語り神の言葉に生きる教会としての歩みをしていきましょう。今日は、受難節第三主日です。私たちの主イエス・キリスト様は十字架の上で苦しまれ、命を投げ出されたのは、私たちに救いをもたらすためだったからではありませんか。まさに神の約束がこのキリストの受難の出来事で成就したのです。そして、キリストの十字架の受難こそが私たちの救いの基なのです。ですから、そのキリストの十字架の受難に思いを馳せながら、神の言葉を語り福音を伝える教会としての使命を心に刻みたいと思います。

お祈りしましょう。