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メッセージ

羊飼い 受難節第四主日礼拝
『私たちを整えるために』
コリント人への第一の手紙 14章28−40節
2009/3/22 説教者 濱和弘

私たちが、今礼拝において学び、また私たちを教え導く神の言葉であるとして耳を傾け聞いているコリント人への第一の手紙は、キリストの弟子であるパウロによって書かれています。そのパウロが、このコリント人への第一の手紙14章には入ってから、異言と呼ばれる、理解不能な不思議な言葉を語る賜物と、預言と呼ばれる神の御心や御思いを伝え、私たちを悔い改めに導く言葉を語る賜物を比べながら、しきりと異言ではなく、預言することを求めなさいというのです。そのように言うパウロは、イエス・キリスト様の弟子の中では特別な存在です。それはパウロが書き残したものが、後の教会、特にカトリック教会や私たちプロテスタントの教会といった西方教会の伝統に繋がる教会に大きな影響を与えたからです。そういった意味では、イエス・キリスト様の弟子の中ではパウロは、ペテロやヨハネに並び称されるような人物なのです。

そのパウロが書き残したものは、新約聖書の中に収められています。新約聖書は全部で27の書物によって構成されていますが、その構成は福音書とよばれるイエス・キリスト様の生涯を記した4つの文書と最初の教会がどの様にして伝道し、イエス・キリスト様の教え、福音が広がっていたかを伝える使徒行伝(新改訳聖書では使徒の働き、新共同訳聖書では使徒言行録)と呼ばれる文書。さらには、いろいろな教会あてに書かれた、全部で21通もわたる手紙、そしてやがて来るこの世界の終りについて書かれた黙示録と呼ばれる文書です。その新約聖書に収められている21通の手紙の大半はパウロが書いた手紙なのです。その数は14通(パウロの著作性が疑われているヘブル書を含んで)になりますから、新約聖書に収められている手紙の中の実に2/3がパウロの手によって書かれたものなのです。

新約聖書において、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという4つの福音書は、私たちの信仰の原点であるイエス・キリスト様の御生涯を伝えるものですし、使徒行伝は教会がどの様にして出来上がっていったかということ伝えるものですから、言うなれば過去の歴史を通して、私たちの原点、信仰のよって立つところを私たちに伝えてくれるものだといえます。それに対して、ヨハネによる黙示録は私たち人間の未来の姿が描かれているといえます。やがて来るこの世界の終りに、世界はどうなるのか、神を信じる民はどうなるのか、そして神の救いがどのような結実を結ぶか、そのことを、ヨハネによる黙示録は私たちに伝えてくれているのです。

たとえば、先週の土曜日に行なわれたS姉のご主人の告別式の際、私はヨハネの黙示録7章9節から17節までから式辞を述べさせていただきました。それはヨハネの黙示録7章9節から17節には、まさに、神を信じる者が、この世界の終りにどのような救いの結実に与るのかについて述べられているからです。だからこそ、告別の式辞の箇所とさせていただいたのですが、そこには次のように書かれています。「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。このように、神を信じる者、神の救いに与った者は、神ご自身から、目の涙をことごとくぬぐいとっていただくように慰めを受け、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も炎暑にも犯されることのない、不安や恐れから全く解放され、神のみもとで、永遠という有限な時間からも解放された豊な命の中で生かされるのです。これが、神を信じる者の未来であり、教会の将来の姿なのです。

この教会の未来が描かれている黙示録と、教会の過去、信仰の原点が描かれている福音書や使徒行伝の間に挟まれるように置かれている21通の手紙は、実際に信仰生活を送っているクリスチャン、そして、そのクリスチャンによって築き上げられている教会が直面している問題にどのように対処していったらよいかについて書かれています。いうならば、今、ここで、この場所で教会はどうあるべきか、どう生きるべきかということについて語られているのが新約聖書の中にある手紙の部分なのです。そのように、クリスチャンは如何に生きるべきか、教会はどうあるべきかという問題を取り上げた手紙の中にあって、このコリント人への第一の手紙14章26節では、神を信じる者は、「すべては徳を高めるためにすべきである。」というのです。このとき、「すべては徳を高めるためにすべきである。」といっても、それは個人、個人の徳を高めなさいと言っているわけではありません。もちろん、個人の徳を高めるということも決して悪いことではないように思われます。この徳を高めるという言葉は、建物を建てあげていくという意味の言葉です。そういった意味では、個人の徳を高めるということは、一人一人が自分の人格を練り上げられた優れた人格として形成をしていくということですから、そういった意味では個人の徳を高めるということも決して悪いことではないのです。

しかし、コリント人への手紙14章1節からずっと読んでまいりますと、確かにパウロは、私たちクリスチャンは、そのような自分自身の徳を高めることを決して否定はしませんが、けれでも、そのような個人の徳を高めることを求めるよりも、むしろ教会の徳を高めることを求めなさいということなのです。教会はキリストの体です。ですから、教会の徳を高めることを求めなさいということは、言いかえれば、「キリストのからだ」である教会が形成されることを求めなさいということだといえます。それは、教会が、神の栄光を著わす存在となりなさいということでもあるのです。個人に人格が練り上げられ優れた人格が形成されますと、周囲の人はその人を尊敬もするでしょうし賞賛もするでしょう。そのように、練り上げられ優れた人格は、その人の栄誉となり誉となってその人自身に返ってきます。しかし、神を信じる者は、自分自身の栄誉を求める者となるのではなく、神の素晴らしさを表わし、神に栄光を帰し、神が褒め讃えられることを求めるものとならなければならないとパウロはいうのです。

それは、教会が「キリストのからだ」として、この世界の中で、キリストが今、この世界におられたらなされるであろうことを行ない、語られるであろうことを語ることによってはじめて出来ることなのです。だからこそパウロは、異言と呼ばれる人間には理解することのできない不思議な言葉を語る者となるのではなく、預言の語る者となりなさいというのです。預言を語る者は、預言者です。それは何も、未来を言い当てるような意味での予言者ではありません。預言者とは、神の言葉を伝え、その生き方を通して、神の前に人間は如何に生きるべきかを示す人なのです。そのように、教会は、この世界のただ中にあって、絶えず正しく神の言葉を伝え、正しく人が神の前に生きていく生き方はこのようなものですよと示していく存在となっていかなければならないとパウロ、いや聖書は言うのです。そして、それこそが、教会が「キリストのからだ」として建てあげられていくことであり、教会がそのように正しく神の言葉を伝え、神の前に正しく生きていくときに、キリストの体なる教会は、錬られたキリストの人格を表わし、それによってキリストが誉め讃えられ、キリストを通して神の栄光があらされていくのです。

れでは、私たち神を信じる者達が「キリストのからだなる教会」の徳を高め、神の栄光を表わし、神が褒め讃えられ、神に栄誉を帰するために何をしたらよいのか。そのことについてパウロは、次のように述べています。それは、教会が、ただひとつの神のお姿を示す事さえ出来れば、教会はキリストの体なる教会として神の栄光を誉わし、神に栄光を帰すことができるというのです。その神のお姿とは、平和の神としてのお姿です。平和とは、一般的には単に争いがない、戦争がない状態です。しかし、ここで言う平和は、そのような意味の平和ということだけではありません。神は、無秩序の神ではなく、平和の神であると言われているからです。ですからここで言う平和とは、整えられた秩序の基で秩序が整えられて状態いるということになります。

考えてみますと、ただ争いがない状態だけならば、互いが互いに無関心な状態でも戦争は起りません。江戸幕府の時代の日本は、対外的に平和で争いがありませんでした。日本は鎖国をし、対外的には関心を示さず、諸外国も日本に干渉しなかったからです。ですから、国際的には紛争のない平和な状態であったといえます。しかし、ここで聖書が言う平和は、そのように互いに無関心な状態で保たれる平和ではありません。人と人との意見がぶつかり合い、主張が相反する中で築き上げられる平和です。というのも、この手紙は、様々な主張がぶつかり合い、争いがあり混乱した状況にあったコリントの教会の人たちに対して語られているからです。

確か、コリントの教会には様々な争いや混乱がありました。その中には倫理的な問題もありましたし、教会員同志が互いに裁判に訴え合うといった問題もあった。また、偶像に捧げられた肉を食べて良いかどうかといった信仰的問題もあったことも間違いがありません。そしてパウロは、そのようなコリントの教会にある具体的問題に対してどう解決したらよいかということについてのアドバイスや指導を与えていますそのような様々な混乱があった中で、特に、このコリント人への第一の手紙12章から14章にいたっては、コリントの教会の中にあった賜物と呼ばれる、神が与えてくださった特別の能力や才能に対する混乱が記されています。この賜物とよばれる神が与えてくださった特別の能力や才能は、本来は、その賜物を与えられた人が、その才能や能力を生かし、協力しあって教会を建てあげるために与えられたものです。ところが、その賜物に対して、ある賜物が他の賜物より優れた賜物であるとか、ある賜物は必要ないものだというようなことが言われ、各自がバラバラに自分の賜物を用いた働きをしていたようです。

このような混乱は、必ずしも悪意から起った混乱であるというわけではなかっただろうと思います。そこには、それぞれの、よりよい教会を建てあげようという思い、それは善意に基づく思いがあっただろうと思うのです。けれども、どんなに善意に基づくものであったとしても、それが混乱を生み出すのであったならば、決して教会の徳にはならないのです。それは、教会に考え方の違いや意見の違い、主張の違いがあってはならないということをいっているのではありません。教会に考え方の違いや意見の違い、主張の違いがあっても、それが問題なわけではありません。

週報にもありますが、先日、私たちの教会が属している日本ホーリネス教団の教団総会がありました。 今年度から私も、その総会の代議員として出席することになり、初めて教団総会というものを経験しました。総会では、昨年度の活動計画や一昨年度の決算や、今年度の活動計画や予算などが審議されました。聞くところによりますと、今年の総会は、質疑応答も少なく例年より順調に進んだと言うことですが、それでも、いろいろと議論が戦わされるような場面もありました。様々な問題に対する認識は共有できても、具体的解決策となると、いろいろと意見が分れるのです。ですから、そこで互いに意見をぶつけ合うことになる。そのような意見のぶつかり合いの中で、お互いが一歩も引かず自分の意見を主張し、自分の意見に基づいてそれぞれが勝手に行動し始めるならば、教団は教団の体をなしません。私たち日本ホーリネス教団は、教団が一つの体であると理解していますから、それこそ、教会がてんでバラバラの無秩序な状況になってしまうのです。そして、それは決してキリストの体なる教会としての徳を高めることにはなりませんし、神の栄誉をあらわし、神に栄光を帰すことにはならないのです。

ですから、そのような意見の違いは整えられ、調整されていかなければなりません。それこそ、議論の仕方から整えられなければ収拾がつかなくなるのです。そんなわけで、教団の総会には発言の仕方ひとつにもルールがあり、議場が混乱せず、多くの人が発言できるようになっています。そうやって秩序ただしく、話し合いがすすめられていくのです。しかし、これらは形式の上での秩序です。今日の聖書箇所となっているコリント人への第一の手紙14章26節から30節なども、そういった意味での礼拝や集会を行なう上での形式的な秩序ですし、34節から36節も教会の中での社会形式的な秩序です。

ちなみに誤解を招いてはいけませんので申し上げますが、この14章34から36節において「婦人たちは教会では黙っていなければならない」というのは、この当時のコリントの教会が置かれていた社会状況の中でのことです。今日のような人権意識、とくに女性に関する人権意識がうすく、女性は男性に従属すべきであるという考え方が当然のように支配し受け入れられていた社会状況の中で語られた言葉であるということを理解しなければなりません。ですから、私たちは、この聖書の言葉から、「婦人は教会では黙っていなければならない」という原則を引き出すのではなく、むしろ、聖書は「教会はきちんとした秩序を持っていなければならない」ということをいっているのだということを読みとらなければなりません。もちろん、この「婦人は教会では黙っていなければならない」ということも、形式的な秩序です。ですから、女性の人権が大きく損われていた、この時代ににあっても、ご婦人も教会のことや信仰のことを共に考え、疑問や意見を持つことが出来るのです。だからこそ、聖書は「家で夫に尋ねるがよい」というのです。それは当時のコリントの教会が社会秩序という特別な状況の中でのことなのです。

しかし、パウロは、なぜこのような形式的な秩序までも重んじろというのでしょうか。実際、形式的なものよりも、実質的な内容が大切なように思われますし、現代の教会でも、形式より内容の方が大切だと言って、礼拝の形式や様々な教会の伝統が崩されていっているような側面がないわけではありません。特に私たちプロテスタントの教会の中には、カトリック教会や正教会の礼拝のあり方や信仰のあり方に対して形式主義だといって批判する声も少なからず聞くことがあるのです。確かにカトリック教会の典礼などは、きわめて形式がきちっと決まっています。それこそ礼拝の進め方や、それぞれの場面での司祭の動作や言葉などもひとつひとつがきちっと定められている。しかし、それは、神を礼拝するということをその整えられた形式に中で表現し伝えていこうとしているからなのです。ですから、カトリック教会の典礼に出席しますと、神の尊厳さや神を畏れかしこむ気持ちが何となく伝わってくるのです。つまり、形を通して、その形に宿る本質を学び取っていくのです。

たとえば、日本の武道には型と呼ばれるものがあります。剣道でも、最近はスポーツ化されてしまい武道という感じではなくなりましたが、しかし、柔道であっても、ちゃんと型というものがある。それは、型の中には、技の持つエッセンスや理念というものがちゃんと込められてきているからです。そして、型をきちんと学ぶことによって、剣道なら剣道の技が持つ理念であるとか、間であるとか言葉では言い表せないものを習得させていきます。そのように、形式を通して、本質を学ぶと言うことがあるのです。むしろそれが精神的な内容になればなるほど、むしろ形式が大切になってくるのです。だからこそ、最も精神的なものである宗教の世界では、どの宗教でも形式を持ち、形式を重んじを大切にするのです。

だとすれば、パウロが14章27節から30節にあるような形式的な秩序、また34節から35節にあるような形式上のことではあっても当時の社会秩序に従うことでいったい何を得られると思っていたのでしょうか。パウロは、単に形式的な秩序が整っていれさえしていればよいとは考えていなかったはずです。というのも、賜物が混乱しているという問題に対して、パウロは愛という、極めて精神的なものを強調しているからです。パウロは、13章の1節、2節では「たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい」といい、14章1節では、「愛を追い求めなさい」とも言っています。ですから、パウロは、単に表面に出てくる形式的な問題だけでなく、その背後にある愛という極めて精神的なものの大切さをちゃんと見抜いているのです。ですから、ここでパウロが、形式的なもの、それが型であったとしても、秩序を守るようにとすすめるには、その背後にある精神的なもの、あるいは霊的なものがあると考えるべきです。そしてそれがいったい何なのか。

その鍵は、従うということにあるように思われます。パウロは34節で「人たちは教会では黙っていなければならない。彼らは語ることが許されていない。だから、律法も命じているように、服従すべきである。」といっています。先ほども申しましたように、パウロは決して女性を軽視しているわけではありません。共に信仰の問題を考え、取り組むことの出来るパートナー、同僚者と考えているのです。それでも、「人たちは教会では黙っていなければならない」というのは。そのことを「律法も命じている」からだというのです。律法とは旧約聖書のことです。神の言葉である律法にそう書いてあるから「服従すべきである」というのです。当時のコリントの教会の社会情勢は、こと女性の立場や地位、権利といったことに対しては、旧約時代の社会状況と同じです。そのような社会の状況にあるのだから、神の与えられた律法に従うことを求めたのです。そのような、神に従うということは、さらに37節の言葉ではっきりと求められています。そこには、このように書かれています。

「もしある人が、自分は預言者か霊の人であると思っているなら、わたしがあなたがたに書いていることは、主の命令だと認めるべきである。もしそれを無視する者があれば、その人もまた無視される。」この無視されると言うことは、主なる神から無視されるということであろうと思われますが、いずれにしてもここで強調されていることは、主の命令に従うということの大切さです。パウロがここで書いていることは、形式的なものであっても教会に秩序を守るということです。そして、その教会の秩序を守ると言うことの本質にあることは、主の命令に従うということであり、それは主なる神に服従することなのだというのです。預言者であるならば、神を心から神を信じるものであるならば、神に従う者にならなければならないし、そのような者によって築かれる教会は初めて、キリストの体なる教会として徳を高めることができるのです。なぜならば、体なる教会のかしらであるところのイエス・キリスト様こそが、神に全き従順を示されたお方だったからです。

今日は、受難節第4主日ですが、イエス・キリスト様の十字架の死という受難の出来事は、父なる神様のお心であり、御旨でした。神は、私たち人間の罪を赦し、この世界が終りとなる最後の審判の時に、その罪のゆえに裁くことを望まれず、神の救いに導き、罪のために疲れ、傷つき、そして苦しみ悩んだ私たちに慰めを与え、癒し、永遠の命を与えるために、神のひとり子であるイエス・キリスト様を、十字架につけて死なせることで、私たちの罪を贖おうとなされたのです。神のひとり子が、神であられるのに人となられ十字架につけられ死ぬ。それはたとえイエス・キリスト様であったとしてもつらく苦しいことでした。ですから、イエス・キリスト様は、捉えられ十字架につけられる直前に、ゲッセマネの園で血の汗を流す程に苦しまれ、「父よ、願わくはこの杯を私から取り除いて下さい」と祈ったのです。しかし、そのような苦しい、悲痛な祈りの中から、それでもイエス・キリスト様は、「あなたのお心のままにして下さい。」父なる神に従うのです。まさに神に対する徹底的な従順をお示しになったのです。それは、人となられた神のひとり子が示された、人のあるべき姿なのです。

そして、私たちがそのように神に従順に従わなければならないのは、神が私たちを愛しておられるからです。本来なら罪人で、欠けも多く過ちの多い私たちですが、そのような私たちを愛し、徹底した赦しを与え祝福を与えて下さる方だからこそ、そのお方の言葉を聞き、従うことが出来るのです。神が、私たちを愛し、私たちに語り、私たちを最善に導いて下さる。苦しみや悲しみが多く、また私たち自身が、自分の欲や罪に引かれて過ちが多い中で、そのような神の愛が、私たちに最善へと導いて下さり、災いや過ちを益と変え祝福へと導いて下さるからこそ、私たちもまた、神を愛し神に従う。このような関係こそが、神と私たちの間にある、愛によって整えられた秩序なのです。

そのような、愛の秩序にイエス・キリスト様は、あの十字架の苦しみを通して招き入れて下さったのです。ですから、教会に求められている秩序もまた、私たちが神との正しい関係にあることを求める秩序です。そして、私たちが、神の愛に応え、神に従うという神の秩序で生きるならば、「キリストの体」教会の秩序もまた、相手のことを思い、愛するところの秩序にもとづく平和が産み出されていきます。教会は、自らが苦しみ、命を投げ出すほどの愛に触れ、その愛を模範として生きられたイエス・キリスト様がこの世界で語り、生きようとなされる生き方をするからです。私たちは、そのような愛によって築き上げられる平和を産み出す教会に召され呼び集められ一人一人だからです。今日、この教会に集っているお一人一人は、またこの教会に何らかの形で繋がっているお一人お一人はそのような神の民の群れに招き入れられているのです。そして、そのような教会の交わりを築き上げるにふさわしい者となるように、イエス・キリスト様の十字架の上の苦しみによって整えられた一人一人。ですから、私たちは、様々な意見の違いや、考え方の違いがあっても、この愛に土台する秩序によって産み出されていく平和の中で愛し合いながら歩んでいく教会を築き上げていきましょう。

お祈りしましょう。