受難節第五主日礼拝
『最も大切なこと』
コリント人への第一の手紙 15章1−11節
2009/3/29 説教者 濱和弘
去る3月24日から26日にわたって、私たちの属する日本ホーリネス教団の年会がありました。その最後の日の26日に今年度の任命がありましたが、私たち夫婦は、今年度もこの三鷹教会でご奉仕するよう任命を受けて参りました。もちろん、私たちは牧師としてこの三鷹教会で働くように任命を受けたわけですが、神からの任命は牧師職にあるものだけのものではありません。牧師が任命を受けて教会に遣わされるように、皆さんもまた、牧師と同様に信徒としてこの三鷹教会の信徒職任命を受けているのです。そうやって、牧師として、また信徒としてこの三鷹教会にあって主の業をなしていくのです。その教会にあってなすべき主の業とは一体何かと申しますと、ひとつは神を礼拝することです。私たちは、神を畏れかしこみ、神をほめたたえつつ神を礼拝するのですが、神を礼拝するということは、同時に神に仕え奉仕するということでもあります。ですから、私たちが神を礼拝するということは、必然的に、私たちのもう一つのなすべき業に繋がっていきます。それは、神を宣べ伝えるということ、つまり伝道という主の業です。
今年の教団総会において、2009年度の日本ホーリネス教団の施政指針といったものが提示されましたが、そこに述べられているのは「伝道第一」ということです。この伝道第一ということは、私たちの教団にとっては、ことさら新しいことではありません。もともと、私たち日本ホーリネス教団は、中田重次牧師によって伝道団体として出発したことが教団の原点ですから、伝道を重んじるということが、私たちの教団、私たちの教会の伝統でありアイデンティティの中心にあります。そういった意味では、この2009年度の教団の施政方針で、今一度この「伝道第一」という施政について述べられたことは、私たちの教団の原点に立ち帰り、それを見つめ直し、そして原点を大切にしようということであろう思います。
このように、自分たちの原点に立ち返るということは非常に大切なことです。特に信仰においてはそうです。自分の信仰の原点に立ち返って自分自身を見なおすということが、自分自身の信仰を健全なものとして保つためには大切なことなのです。それは、教会の歴史を見ましてもいえることです。教会は、教会の歩みが間違った方向に進んでいると自覚したとき、いつでも原点に立ち返って自からの歩みを正そうとしてきたのです。たとえば、中世と呼ばれる時代において、カトリック教会が乱れてしまったことがあります。たとえば、カトリック教会では聖職者の結婚は認められていませんでしたが、その聖職者が妻を持つといったことがあったり、聖職立場を売買するといったようなことが起っていました。そのようなとき、修道院が中心となって、彼らは、ベネディクト会則と呼ばれる6世紀頃に定められた修道院生活の基盤となった規約に立ち帰り、教会の改革を行なってきました。
それは、修道院というものが、カトリック教会の信仰を支える土台にあるからです。そしてベネディクト会則というものは、そのカトリック教会の信仰を支える土台である修道院での生活を規律正しく整えることで、修道士たちが神の前に正しく生きるということを目指したものなのです。このベネディクト会則は、日本語にも訳されていますが、全部で73の項目にわたって、如何にすべきであるかということが示されています。つまり、神の前に如何に生きるべきかということを真摯に求めた原点に立ち返って、教会のあり方を正そうとしたのです。また、私たちの教会はプロテスタント教会ですが、プロテスタント教会は宗教改革を契機にして起った諸教会です。この宗教改革は、「私たちが救われるためには何が必要か」ということが問題になって起った運動ですが、一面では、カトリック教会の伝統による教えではなく、カトリック教会の伝統や教えよりも更に先にさかのぼり、聖書そのものが伝えている、最初の教会が伝えていた教えることを目指した運動であったといえます。だからこそ。宗教改革に立つプロテスタント教会が聖書主義であるというのです。
その最初の教会が伝えていた教えが、今お読みただいたコリント人への手紙第1の手紙15章1節から7節の中にあると言われています。と申しますのも、15章1節から3節の前半にはこのように記されているからです。「兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起してもらいたい。もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。」ここで、このコリント人への手紙の著者であるパウロが、コリントの教会の人たちに「わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである」というのですが、その宣べ伝えた言葉の内容とは何であったかというと、それが、3節の後半部分から始まる「キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ」たということなのです。
「キリストが、聖書に書いてあるとおり」とありますが、この場合の聖書は旧約聖書のことです。ですから、キリストが旧約聖書に書かれている預言どおりに、わたしたちの罪のために死なれ、葬られそして、三日目に死人の中からよみがえって、ケパすなわちペテロや他の十二人に現れたことが、パウロがコリントの人たちに伝えた言葉、福音の内容なのです。この「キリストが、聖書(この場合の聖書は旧約聖書のことを指すが、その旧約聖書)に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたこと」という聖書の言葉は、今朝、皆さんと一緒に唱和した私たちの信仰告白である使徒信条の一部分に似ています。使徒信条は新聖歌の中にも書かれていますが、次のような内容です。「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえリ。かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。」
使徒信条にも、パウロが伝えたように、イエス・キリスト様が「ポンテオ・ピラトのもとでむち打たれ、その痛みに苦しまれ、十字架にはり付けられるという無惨な死を迎えられたのだが、三日目に死人の内よりよみがえったのだ」というのです。そして、そのような苦しみと十字架の死とは、私たち罪人が、やがて来る神の最後の審判の時に、その罪を神に裁かれることなく、赦しを与えられ、救われるためなのだというのです、「かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず」というのは、そういう事です。この使徒信条やパウロが伝えた言葉は、信仰の内容をコンパクトにまとめて述べたものですが、それがコンパクトにまとめられていればいるほど、伝えたい内容の核心部分であるということが出来ます。つまり、キリスト教にとって絶対になくてはならない中心部分がその短い言葉で言い表されているのです。だからこそ、私たちは、毎週の礼拝において、私たちが信じている信仰はこのような信仰ですという意味で、信仰告白として使徒信条をみんなで唱和するのです。ですから、私たちは、決して使徒信条をお題目のようにして唱えるのではなく、私が最も大切なものとして、2000年前の初代の教会から今日まで伝えられ、受けついできた教えとして、私も信じ受け入れていますという思いで使徒信条を唱えなければなりません。それは私たちの信仰の告白なのです。
たとえばパウロ自身にしてみても、コリントの教会の人たちに、これがあなたがたに伝える神からの良き知らせである福音だよといって伝えた内容はわたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった」といっているのです。つまりパウロもまた、「キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ(た)」と宣教の言葉を、人から伝えられ、教えられ、そして受け入れたのだというのです。イエス・キリスト様が、十字架の上で苦しまれ死なれた。それは神の前に裁きを受けなければならない私の罪のためであり、イエス・キリスト様がそのような十字架の苦しみを受けて下さったからこそ、私もまた罪赦され、神に裁きから救われるのだ。そのあかしとして、イエス・キリスト様は死からよみがえられたのだ。このことこそ、パウロが信じ、受け入れ、それゆえにコリントの人々に伝え、知ってもらい、受け入れてもらいたかったキリスト教の信仰の確信なのです。
すでに申し上げましたように、コリントの教会は、異言の賜物だとか、知識の言葉の賜物であるとか、いやしの賜物であるとか、力ある業とよばれる、おそらくは奇跡的なことを行なうことの出来る賜物といった種々の霊の賜物で教会が混乱していました。おそらく、その様々な霊の賜物を比較することによって、それぞれが、めいめいに自分は他の人よりもすぐれた賜物、すなわち能力を与えられていると誇ったりしていたのでしょう。そのような中で、パウロは、自分たちの信仰の原点をもう一度思い出させようとしているかのようにして、「キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。 そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ(た)」とコリントの人たちに語るのです。それは、私たちの信仰にとって、本当に大切なことは、何が出来るのかということではなく、何を信じているかということなのだということです。何を最も大切なこととして信じ受け入れて生きているかということが信仰にとって一番重要な問題なのです。それは、私たちの信仰の原点がどこにあるのかということです。
今日の礼拝の招きの言葉である招詞は、旧約聖書イザヤ書51章1節の「義を追い求め、主を尋ね求める者よ、わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ」という言葉でした。このイザヤ書51章1節の言葉は、イザヤ書50章4節から9節までの「主のしもべの詩」と呼ばれる箇所に引き続いて語られている箇所です。イザヤ書には、「主のしもべの詩」と呼ばれるものが4つあります。イザヤ書42章1節から9節までと49章1節から6節まで、そして、50章4節から9節までと52章13節から53章12節までの4つです。この詩の僕が誰であるかについては、現在でもいろいろと議論があるのですが、キリスト教会の正統的な理解では、いずれも最終的にはイエス・キリスト様のことを預言的に告げ知らせている箇所であると考えられています。それぞれ「第1のしもべの詩」、「第2のしもべの詩」、「第3のしもべの詩」、そして「第4のしもべの詩」と呼ばれています。
「第1のしもべの詩」と、「第2のしもべの詩」は、人々に道を示し、導き、神の霊が与えられ神と共に歩む栄光のしもべの姿が語られていますが、「第3のしもべの詩」と「第4のしもべの詩」は、人々に苦しめら、苦難の道を歩むしもべの姿が語られています。たとえば、50章4節から9節までの「第3のしもべの詩」に表わされた苦難のしもべの詩は、次のようになっています。「主なる神は教をうけた者の舌をわたしに与えて、疲れた者を言葉をもって助けることを知らせ、また朝ごとにさまし、わたしの耳をさまして、教をうけた者のように聞かせられる。主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは、そむくことをせず、退くことをしなかった。わたしを打つ者に、わたしの背をまかせ、わたしのひげを抜く者に、わたしのほおをまかせ、恥とつばきとを避けるために、顔をかくさなかった。しかし主なる神はわたしを助けられる。それゆえ、わたしは恥じることがなかった。それゆえ、わたしは顔を火打石のようにした。わたしは決してはずかしめられないことを知る。わたしを義とする者が近くおられる。だれがわたしと争うだろうか、われわれは共に立とう。わたしのあだはだれか、わたしの所へ近くこさせよ。見よ、主なる神はわたしを助けられる。だれがわたしを罪に定めるだろうか。見よ、彼らは皆衣のようにふるび、しみのために食いつくされる。」
ここで、「わたしを打つ者に、わたしの背をまかせ、わたしのひげを抜く者に、わたしのほおをまかせ、恥とつばきとを避けるために、顔をかくさなかった」といわれている部分は、迫害され辱められている主の僕が描かれている部分です。このように、迫害され辱められながらも、神の前に歩む主の僕に、教会は、律法学者は祭司長たちから迫害され、苦しめられ、さらにポンテオ・ピラトのもとで苦しめられ、十字架の上で殺されたにイエス・キリスト様の姿がそこに見てきたのです。そのように、イエス・キリスト様の苦しみと重なり合うようにみえる主の僕ゆえに、イザヤ書では、この僕の言葉に耳を傾け伝えるメッセージに耳を傾けて、聞き従いなさいというのです。それは、その僕の苦しみを通して、神を求める民は神と出会い、神を知り、神の救いに与るからです。ですから、先ほどの招詞に用いられた、イザヤ書51章1節は、そのような「第3のしもべの詩」に引き続いて「義を追い求め、主を尋ね求める者よ、わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ」というのです。
この言葉は、第一義的にはイスラエルの民に向って語られています。ですから、「主を尋ね求める者よ、わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ」という言葉は、神とイスラエルの民との関係の原点を思い出してみなさいということです。自分たちが神の民とされた原点を思い出してみなさいと言うのです。神とイスラエルの民の関係の原点は、アブラハムに対して神が結ばれた約束にあります。もう高齢になり、アブラハムとサラの間に子どもが与えられるなどということが全く期待できないような中にあって、アブラハムに子どもを与えるという約束が、イスラエル民族が神の民となる原点の出来事です。ですから、イザヤ書50章1節に続く2節には、神がアブラハムとサラの間に生まれた子供から更に子孫を増し加えると約束なさったことが記されています。その神は、その約束に真実なお方であるからこそ、苦しみと恥辱を通ってもなお神のメッセージを語る僕の声に耳を傾けなさいと言うのです。
そのように、神と神を信じるものの間には、神が私たちに与えて下さった約束があります。パウロは、その約束、神がコリントの教会の人々に与えて下さった約束として、「キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。」というのです。「これが福音だ」「これが神の約束だ」ということです。私たちと神との関係の原点には、イエス・キリスト様の十字架の苦しみの姿がある。そして、その十字架の苦しみゆえに、私たちは罪の赦しを与えられ、キリストが三日目に甦ったように、死という縄目から解き放たれて天国における永遠の命という救いの恵に与ることが出来るのです。どのような賜物をいただいているかが問題ではない、何が出来るかも問題ではない。私たちが、このキリストの受難の出来事を、私の罪のためであったと信じ受け入れているかどうかこそが問題なのです。この十字架の受難の出来事をしっかりと受け止め、それを見つめているかが大切なのです。
みなさん。パウロは、「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。」といって、福音の内容を告げた後、「わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者である。しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである」といっています。確かにパウロは教会の迫害者でした。おそらく、自分が教会の迫害者であったということは、パウロにとってもっとも大きな罪意識のひとつであっただろうと思います。だからこそ、「わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者である」といっているのだろうと思います。けれども、そのように深い罪意識をもっていたからこそ、彼は、私たちの罪を赦すために、イエス・キリスト様が十字架の上で死なれたということに、より深い神の愛と恵を感じていたのです。
だからこそ、パウロは、「神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである」というのだろうと思います。この私は、今日あるを得ているのである。という言葉は、今日存在しているように存在しているのは神の恵みによるのであるというのです。自分の罪深さを知り、神の前に裁かれても仕方がないものであるのに、神の恵みによって罪赦されて神の前に生きるものとさせて頂いている。それはただ神の憐れみによるものでしかない。だからこそ、どんなに大きな働きをしても、(実際パウロは初代教会の宣教と神学構築に大きな寄与をするのですが)、その働きは、パウロにとっては、ただ神の恵みによってさせていただいたものなのです。そのようにパウロがいうことができるのは、彼が自分の信仰の原点をしっかりと見つめていたからです。そして、その信仰の原点とは、「キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ(た)」ということなのです。
みなさん、私たちひとりびとりは、いろいろな経緯を通してこの教会に集っています。しかし、私たちがこの礼拝で、使徒信条を私たちの信仰告白としてこころから唱和するのであるならば、誰もがみな、自分の罪を知り、その罪に赦しを与えるために十字架の上で死なれたイエス・キリスト様の十字架の死が、私たちの信仰の原点にあるのです。だからこそ、私たちは、この十字架につけられたイエス・キリスト様のお姿を、いつも心に描いていなければなりません。そして、そのお姿を心に焼き付けているならば、どんな時でも私たちは、私たちに注がれている神の恵みを感じて生きることが出来るのです。私たちにとって最も大切なことのひとつは、私たちの罪のために、主イエス・キリスト様が苦しみを受け、十字架の上で死なれ、それによって私たちの罪を赦し、救いを成就して下さったということを忘れずに、心に思い起こしながら生きることなのです。
お祈りしましょう。