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メッセージ

羊飼い 受難週礼拝
『受難の実』
マタイによる福音書 27章46−56節
2009/4/5 説教者 濱和弘

さて、今年も受難週がやって来ました。私たちは、毎週の礼拝で使徒信条で「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリスト様がポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだった」ということを言い表します。その苦しみと十字架の死が、おおよそ2000年前のこの週に、実際にイスラエル首都エルサレムで起ったのです。いま、司式の兄弟にお読み頂きました。マタイによる福音書27章46から56節、特に46から50節は、その十字架の死の場面です。そこには、イエス・キリスト様は、十字架の上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と言い、最期にもう一度大声で叫ばれて死なれたことが記されています。

その最期の場面で、イエス・キリスト様の十字架の周りにいた人々の一人、おそらくはイエス・キリストの処刑を行なったローマ兵の一人だろうと思いますが、その一人の人が、海綿を取り、それに酢いぶどう酒を含ませて足の棒に付けイエス・キリスト様に飲ませようとしたとあります。この酢いぶどう酒というのは、ローマ兵や労働者の飲み物であったといわれますが、ユダヤの文書には、十字架につけられるものには、その痛みを和らげるためにぶどう酒に没薬をまぜたものが与えられたということが記されているものがあります。ですから、おそらくその類のもの、すなわち鎮痛剤、あるいは麻酔のような働きをするものとして、この酢いぶどう酒が差し出されたのだろうと思われます。

昨日、私たち夫婦は、週報にもありますが心臓手術をなさったT姉のお見舞いに行ってきました。昨日は、お風呂に入られたということですし、また帰り際には病室の入り口のところまで歩いて私たちを見送って下さるほどで、随分と良くなった感じが致しましたが、手術がおわった直後にお見舞いに伺ったときには、本当に大変だったろうなと言う感じが十分に伝わってくるようなご様子でした。いえ、随分良くなったなと感じられ昨日であっても、まだ手術の痛々しさは伝わってきます。当然のことですが、手術は全身麻酔で行なわれます。身を切り開かれる痛みは、麻酔なしには絶えられないからです。麻酔を施すというのは耐えがたい痛みと苦しみがあるからです。それを和らげるために麻酔をするのです。十字架の上に手のひらと足に釘を打たれはり付けられるのに、感覚を麻痺させ痛みを和らげるために没薬をまぜたぶどう酒を与えたというユダヤの文書の存在は、十字架刑という処刑の方法が、如何に苦痛に満ちた処刑の方法であったかを物語っています。

その苦しみを、おおよそ2000年前に、イエス・キリスト様はお受けになったのです。そのイエス・キリスト様の苦しみを覚える今日の受難週の説教に、私は「受難の実」というタイトルを付けました。今は、桜の季節で、それこそ井の頭公園や国際基督教大学などでは、満開の桜が咲き誇っていますが、この桜もやがて散ってしまいます。そのように、樹木が葉を茂らせ、花を咲かせ、散り、その結果として、実を実らせる。花が散って終りではなく、散った後に実を残すのです。ですから、実というのは、花が咲き、花が散った後に残るその成果なのです。そのように、イエス・キリスト様がこの世で生きられたその結果、その実が残されたのです。

イエス・キリスト様の御生涯は、ガリラヤで多くの人々に教えを語られ、多くの奇跡をなされ、人々を驚嘆させ、一時は歓喜の声を持って人々に迎え入れられる時もありました。マタイによる福音書の21章にあるエルサレム入場と呼ばれる記事のところなどは、まさにそのように歓喜の声を持って人々に迎え入れられた出来事が記されている箇所です。そこには、次のように書かれています。「弟子たちは出て行って、イエスがお命じになったとおりにし、ろばと子ろばとを引いてきた。そしてその上に自分たちの上着をかけると、イエスはそれにお乗りになった。群衆のうち多くの者は自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの者たちは木の枝を切ってきて道に敷いた。そして群衆は、前に行く者も、あとに従う者も、共に叫びつづけた、『ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ』。イエスがエルサレムにはいって行かれたとき、町中がこぞって騒ぎ立ち、『これは、いったい、どなただろう』と言った」ホサナ、という言葉は、本来は神に向って「救ってください」という意味ですが、同時にそれは歓喜の声でもあります。救いを求める者の声を聞き、神が救って下さるからです。そして、そのような救いをもたらす存在としてキリストは、人々から喜びの声を持ってむかえいれられたのです。それは、まさに今、桜の花が満開に咲き誇っているような最高潮の状況であったといえます。

しかし、桜の花も満開に咲き誇る同時に、たちどころに散り始めます。先日、テレビで気象予報士の方が、「桜は花が咲ききるまでは、風が吹いても雨が降っても花が散ることはないが、満開になると散ってしまうのだ」と言っていました。それと同じように、人々から歓喜の声を持って迎えられたイエス・キリスト様は、その後すぐに、人々から見捨てられ十字架にはり付けられ殺されてしまうのです。しかし、その十字架の死という受難のあとには、確かな実が残されました。それが、27章51節から53節の出来事です。そこには、こうあります。50節からお読みします。「イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。また地震があり、岩が裂け、また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、多くの人に現れた」ここに記されていることは、二つ。ひとつはの神殿の幕屋が二つに裂けたという51節の出来事、そして、52節、53節にある多くの聖徒たちが生き返ったというの出来事です。

神殿の幕屋が二つに裂けたということは、神と人との和解を示す出来事です。神殿の幕屋というのは、エルサレムにあった神殿の聖所と至聖所を隔て分けていた分厚い幕のことです。聖所というのは、祭司たちが神の前に祭儀を行なう場所ですが、至聖所というところは、神が居られる場所とされ、そこには、年に一度大祭司のみが入ることが許されている場所です。しかも、犠牲の子羊の血を携えてでなければ入ることができないのです。ですから、この神殿の幕は、私たち人間と神との間にある断絶を示しているということができます。神は聖なるお方です。聖ということは分離しているということです。神は、私たち人間と分離しておられるのです。そのように、神が人間と分離しあい交わることが出来ないのは、私たちが罪人だからです。罪人という言い方は犯罪を犯した者というイメージを与えますが、単に犯罪を犯したから罪人だと言っているのではありません。むしろ、私たち人間が自分の欲といったものによって生きている存在であるとして、聖書はすべての人間を罪人と呼ぶのです。

私たちは、欲という言葉に善と悪の両方の意味を見出します。たとえば、「意欲」という言葉は、かなり良い意味で受け止めますが、「情欲」というとかなり悪い意味で受け止めます。そのように、欲が何に結びつくかによって、それは良い意味にもなりますし、悪い意味にもなる。けれども、聖書は人間が欲を持っているということ自体が罪の温床だというのです。というのも、欲というものは、その関心が自分自身に向けられているからです。たとえばそれが「意欲」いった、私たちには好感を持たれて受け止められるものであったとしても、それは自分自身が良くなろうとする欲望です。つまり関心は自分が良くなる事に向けられているのです。そして、仮にその意欲が満足させられたということは、自分自身が良くなったという自覚に繋がるのです。しかも、この「良さ」はそれは、自分自身で勝ち取ったものです。ですから、そこには神は介入していません。つまり、欲によって人が神から離れていく、その結果、神が人から分離した存在になってしまうのです。そのように神は人間から断絶し遠く離れてしまった存在になってしまっている。まさに、神と人との間に隔ての幕がある、神と人とを断絶させている幕があるのです。

けれども、イエス・キリスト様の十字架の死によって、その神殿の幕が二つに裂けたのです。それは、神と人との間にあった隔て、その隔てが取り除かれ、断絶していたものが再び結ばれたということを意味しています。つまり、イエス・キリスト様が十字架で死なれるというその受難の死によって神と人との間に和解の道が開かれたのです。一体なぜ、イエス・キリスト様の十字架の死が、神と人との間に和解をもたらしたのか、それは、イエス・キリスト様の死が私たち人間の限界を示しているからです。イエス・キリストというお方に対して、様々な人が様々なとらえ方をしています。ある人は、このお方を神のひとり子であり神として信じ崇めています。またある人は、このお方を、偉大な教師であり、人間の模範であるとして、このお方に学ぼうとする。そして、このようなとらえ方はどちらも間違ってはいません。

というのも、イエス・キリスト様は人となられた神だからです。ですから、イエス・キリスト様は全き神であり、全き人なのです。このイエス・キリスト様が全き神であり、全き人であるということを、神学の言葉で言うならば、キリスト両性論といいます。両性というのが神としての性質と人としての性質の両方の性質をもっておられるということです。そして、そのような神としての神性と人間としての人性の両方を兼ね備えた存在としてのイエス・キリスト様を「神人イエス」と呼ぶのです。そして、この「神人イエス」において、私たちは人間のあるべき姿としての模範を見ると同時に、決してその模範のようにはなり得ない自分自身の罪深さや愚かさや、汚れを知ることができるのです。500年ほど前の宗教改革者であったマルティン・ルターという人は、その「ラテン語著作全集第一巻への自序」の中で、「私は『神の義』という言葉を憎んでいた」とそう言っています。というのも、その『神の義』はまさしく、神のもつ正しさだからです。この神の持つ正しさが、正しさの基準であり、その神の基準によって神が人を見、人を裁かれるならば、誰も神の前に自分を正しいと言うことができないからです。

マルティン・ルターという人は、厳格な修道士として生きた人です。それこそ人の何倍も努力し神の前に正しく生きようとした人だといえます。しかし、どんなに頑張って人の目には正しくみえる生き方であったとしても神の正しさの基準で罪人を罰するとするならば、自分は必ず神の裁きを受けなければならないと思っていたのです。だから、より一層頑張るのですが、どんなに頑張っても、神の基準に達したとは思えないのです。神の目にかなって、神の前に正しく歩まれたお方はイエス・キリスト様であるといえます。だからこそ、イエス・キリスト様は人間の模範なのです。けれども、その模範であるイエス・キリスト様の教えと生き方に私たちが近づこうとすればするほど、私たちはその模範であるイエス・キリスト様と私たちが遠い存在であるかを知らされます。いえ、真剣にそれを求め、イエス・キリスト様のように生きようとすればするほど、それが出来ない自分の存在を知らされるのです。それこそ、マルティン・ルターが、どんなに頑張って厳しい修道生活を送っても、神の正しさという基準の前にたたされたならば、自分は神の前に裁かれずにはいられない存在であると知り、人間の限界を感じたように、私たちもまた、イエス・キリスト様の生き方を模範とするとき、私たちは自分の正しさの限界、人間としての不完全さを知らされるのです。

マルティン・ルターは、自分の限界を知って、自分の努力によって神に認められるのではなく、神により頼み、寄りすがることによってでしか、神の前に罪赦され受け入れられないのだということに気づかされました。自分で何かが出来ると思い、自分で何かを得よう、何かをなし得ようとしている内は、私たちは神を求めていません。私たちは、自分の限界を知って初めて神を求め、神を頼るのです。イエス・キリスト様は十字架の上で「エリ・エリ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか)」と言われた。それは「父なる神に見捨てられた」という絶望の叫びです。絶望は、もはや自分の力ではどうしようもない、圧倒的な壁にぶつかった人間が感じるものです。私たちが決して到達できないほどの完全な人間であったイエス・キリスト様ですら絶望の声を挙げなければならないのです。そのように、イエス・キリスト様の十字架の苦しみは、どんなに完全な人間であったとしても、決して乗り越えることのできない壁があることを私たちに教えてくれています。だからこそ、私たちは謙遜になって神を求めなければならないのです。神から離れて生きるのではなく、神を求めて生きていかなければならないのです。神は聖なるお方です。私たちから分離し遠く離れた存在です。けれども、それは、神が私たちから離れようとしているからではありません。神は、いつも私たちと共にいて下さろうとしておられるお方なのです。

聖書を読みますと、あちらこちらで神が「わたしは、あなたと共にいる」呼びかけておられる言葉や「神の臨在があった」という言葉を見出すことが出来ます。そのように、神は私たちと共に歩んで下さるお方なのです。なのに、私たちは自分の力で何かが出来るかのように思い、神から離れ、神を遠ざけて生きてしまっている。それこそが、私たち人間が持つ、傲慢さの現われであり、罪なのです。ですから、私たちは自分の限界を知り、神の前に謙虚になって神により頼むものとならなければなりません。もとより神は、私たちと共に歩んで下るお方です。ですから、私たちが神を求め、神にお寄り頼むならば、手を差し伸べ支えて下さいます。そこには、もはや神と私たちを分かち、断絶させる隔ての幕は裂けて存在しません。そこには神と人との和解があるのです。もっとも、この和解は神の恵みによって神が和解して下さったがゆえのものですが、しかしそのように神との和解したものは、神によって私たちには決して超えることの出来なかった限界をも乗り越させて頂けるのです。

52節、53節にある多くの聖徒たちが生き返ったというの出来事が、そのことを明らかに示しているといえます。先日、ある人がこの世の中には100%確実であると言うことができるものはないといっておられました。それは例外など存在しない、絶対と言うことはありえないのだということです。しかし、上智大学のディーケンスという教授は、人間の死亡率は100パーセントだと言います。つまり、どんなに不確実性の時代であっても、死ぬことだけは避けることのできない絶対的なことだというのです。この人間は絶対に死ぬということは、聖書がいっていることでもあります。たとえばヘブル人への手紙9章27節には、「一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっている」とそう記されているのです。そのように死ぬことが人間に運命どけられているとするならば、死こそはまさに人間が絶対に乗り越えることのできない限界だといえます。

ところが、イエス・キリスト様の十字架の受難の時に、「墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、多くの人に現れた。」ということは、その死がもはや乗り越えられたということにほかなりません。このマタイによる福音書27章52節、53節はマタイによる福音書だけに記されている箇所です。「多くの死人が生き返り多くの人の現れた」いうことは、実にセンセーシュナルな大事件ですから、他の福音書にも記されてよさそうものですし、使徒行伝や書簡でも引用されてもおかしくはありません。しかし、そういうことが一切なされていません。ですから、ある人はこの52節53節を、「実際に史実と起ったことではなく、キリストの受難が死という人間には決して乗り越えられない限界を克服したことを象徴する表現である」と言います。また、もちろん、聖書に記されている以上、史実であると考えることも出来ますし、霊的な出来事であったと言うこともできるでしょう。しかし、それが正しいかについては意見が分れるであろうと思いますが、イエス・キリスト様の十字架における受難の死が、私たちに死を克服する希望を与えたことは確かです。それは、天国という確かな希望です。

とえ、この地上での死という現実があったとしても、それはもはや決して乗り越えられない限界ではありません。イエス・キリスト様を救い主として信じ、神により頼んで生きる者には、天国の希望によって、この死という限界を乗り越えていくことが出来るのです。昨日は、教団の合同礼拝があり、私も家内も出席致しました。今回の合同礼拝では、4名の方の納骨が行なわれましたが、その中のお一人は、昨年11月12日に召されましたH姉でした。教団のお墓には、K牧師・K牧師を初めとし、Tのおじいちゃん、お婆ちゃん。Hさんのお婆ちゃん、その他多くのこの三鷹教会の先人たちが納められています。H姉は、その中に加えられたわけですが、単に遺骨が同じお墓の中に入れられたということではありません。神の民として、神の御国の交わりの中に加えられたのです。そして、神を信じるものは、やがてその交わりに加えられる希望があるのです。この希望において私たちは死を克服し、死ぬべき者としてではなく、生きるべき者としてこの地上での生涯を歩んでいるのです。そのことを覚え神に感謝しなければなりません。イエス・キリスト様は十字架の死という受難を通し、私たちに、神と私たちの和解という実と、死の克服という実を残して下さいました。私たちは、このイエス・キリスト様の残して下さった「受難の実」に与りながら希望を持って生きていきたいと思います。

お祈りしましょう。