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メッセージ

羊飼い 復活祭聖餐式礼拝
『夢と希望』
コリント人への第一の手紙 15章12−19節
2009/4/12 説教者 濱和弘

今日は復活祭です。ですから、先週に引き続き聖餐式を執り行ないます。聖餐式の時には、私はガウンを着用するようにしています。なぜガウンかと言いますと、このようなガウンは、牧師の正装であると考えるからです。もちろん、毎週の礼拝が聖餐式礼拝と比べて劣っているというわけではありません。毎週の礼拝も、聖餐式ガウン着装しない礼拝も同じ礼拝として等しく大切なものです。ですから、礼拝の時にはカラーの付いたシャツを着用するようにしています。ネクタイに背広といった出立ちではなく、ローマンカラーのシャツを着用する。それは、そのような服装が牧師として正装と心得て、それを着用するのです。しかし、そのおなじ正装であっても、あえて聖餐式の時にガウンを着用するのは、そこにおいてキリストの御からだと血、誤解を招くといけませんので、丁寧な言い方をすればキリストがご臨在下さっているパンとぶどうジュース、その聖餐のパンとぶどうジュースとを、取り扱うからです。

そうやって、イエス・キリスト様が私たちにもたらして下さった救いという恵と祝福を、説教を通して伝えるだけでなく、その恵と祝福の背後には、キリストの受難という、神のお苦しみがあることを強調して、特別な事柄として表わしていきたいと思っているからです。そのように、特別な時、事柄が伴うときに私はガウンを着用するのですが、そのなかでも、特におおきな事柄が伴うときには、さらにストールを着用します。実は、以前牧会をしていた教会では、毎週の礼拝でガウンを着用しストールをつけて礼拝のご用をしていました。しかし、ある方から「カトリックみたいで嫌だ」「権威主義的で嫌だ」というご意見があったのです。考えてみますと、われわれプロテスタントの教会、特に福音派の教会では、多くの場合、牧師も普通にネクタイに背広といった出で立ちで礼拝のご用にあたります。ですから、毎週ガウン姿で礼拝のご用をするといったケースは確かにあまり馴染みがないことかもしれません。ですから「カトリックみたいで嫌だ」「権威主義的で嫌だ」というご意見も分からないわけではないのです。そのようなわけで、それ以来、毎週の礼拝でのガウンを着用するのを止めました。しかし、それでも、聖餐を伴う礼拝や、教会暦における特別な時にはガウンを着ますし、また冠婚葬祭に関わるキリスト教の儀礼の中で、特に大切な時であると思われる時には、ストールをつけて礼拝をするようにしているのです。

そのようなわけで、今日はイースター(復活祭)というこの教会にとって特別な記念日ですので、私は、このようにガウンを着用し、ストールを身に着けています。みなさんはお気づきになっておられると思いますが、私がつけているストールは、季節ごと、あるいは行事ごとに色が変わります。そして、今日は白色のです。このストールの色は、何もその日の気分で選んでいるわけではありません。通常、プロテスタント教会ではストールに赤、緑、紫、白の4つの色を用います。ルーテル教会のように、青や黒を用いる所もありますが、だいたいは4色です。そして、それぞれの色に、それぞれの意味があるのです。この色の持つ意味は、それぞれの教派ごとに多少の違いがありますが、概ね、赤は聖霊や殉教者の血を表わしたり、緑は永遠の命や希望、あるいは自然を意味し、紫は悔いた心やキリストの受難を意味します。そして、今日私が身に着けている白は、神の栄光、キリストの栄光を表わすものです。そのようなわけで、復活祭には通常は白色が用いられるのです。

たとえばレントや受難週の日曜日などにはキリストの受難を意味する紫が用いられます。ですから、先週までは、紫が使われていました。そのキリストの受難、苦しみを表わす紫色だったストールの色が復活祭の時には神の栄光を表わす白色に変わる。それは、キリストの十字架の死という、痛々しく酷い出来事が神の勝利に変えられるからです。いうならば、キリストの十字架の死という悲惨な出来事が、キリストの栄光へと変えられたということであろうと思います。死という悲しみが、そこに留まるのではなく、その死の悲しみを乗り越えて復活の恵、死への勝利、永遠の命という神の祝福に繋がっている。それこそ、私たちを支配し、私たちが決して抗うことが出来ない死に対して、イエス・キリストは勝利なさったのです。

戦いに勝利した者に与えられるものは栄光であり栄冠です。だからこそ、イースターの色は白色であり、牧師のストールは白色が用いられ、イースターの時に毎年講壇を飾る花は白百合なのです。ところが、この復活という出来事が、教会の宣教にとってつまずきとなってきたということあるのです。というのも、復活とは死んだ人間が生き返るということだからです。そして死んだ人間が生き返るということなどは、通常の私たちの思考では考えにくい出来事です。たとえば、先週私は、マタイによる福音書27章46から56節までから受難週礼拝の説教を取り次ぎました。その中で、特に52節、53節にある「イエス・キリスト様が十字架に架けられて死なれたときに、『墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、多くの人に現れた。』と聖書に記されていることに対して、それは『実際に歴史的事実として起ったことではなく、キリストの受難が死という人間には決して乗り越えられない限界を克服したことを象徴する表現である』と言う人たちや、『霊的な出来事であった』と言う人たちがいるということをお話ししました。それは、死んだ人間が生き返るということが考え難いからです。

また、使徒行伝の17章16節から32節ではパウロがアテネの町で伝道したときの伝道メッセージが記されています。アテネという町はギリシャ文化の中心的な町です。それこそ、ソクラレスやプラトン、アリストテレスといった哲学者が輩出されてきました。ですから、そのような知的な興味にあふれた人たちが多くいたのです。その人たちに向ってパウロは、キリスト教のメッセージを伝えた。そして人々はパウロの語る言葉に耳を傾けて聴いていったのです。ところが、パウロの語るキリスト教のメッセージに耳を傾けていた人たちも、パウロが死人のよみがえりということを話し出すと、ある者はあざ笑い、あるものは、「この事については、いずれまた聞くことにする」といって、パウロのいうことにもはや耳を貸さなくなりました。それは、死人のよみがえるということが、信じがたく愚かしいことだからです。いや、皆さんだってそうだろうと思う。それこそ、今、私たちがあそこ町で死人がよみがえった、あそこの村で死んだ人が生き返ったと言われても、なかなかそう簡単には信じられないのではないでしょうか。しかし、パウロは、「もし、死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。もし、キリストがよみがえらなかったならば、私たちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もむなしい」と断言するのです。

この、コリント人への手紙はコリントの教会にいる人々に宛てた手紙です。コリントはギリシャ商業都市ですから、ギリシャ文化の影響を受けていたとしてもおかしくはありません。むしろ、その影響下にあったと考える方が自然です。ですから、コリントの教会の中にも、キリストの教えや罪の赦しといったことは受け入れられても、死人のよみがえり復活ということが信じられないと言う人たちがいたのかもしれません。いえ実際、12節で、「キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか」とそう問うているのですから、コリントの教会には、確かに復活を信じていない人がいたのです。そう言った人たちを意識するかのようにして、パウロは「もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。もしキリストがよみがえらなかったとするならば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、今も罪の中にいることになろう。」というのです。

この、「もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。もしキリストがよみがえらなかったとするならば、あなたがたの信仰は空虚なものとなる」という言葉は、13節、14節と16節17節でくり返して述べられています。この短い文脈の中で2度もくり返されているのですから、パウロは死人がよみがえるということをキリスト教の信仰において極めて重要な内容であると考えていたようです。それも、ただイエス・キリストがよみがえったということだけではなく、私たちもまたキリストにあってイエス・キリスト様のように死からよみがえるのだというのです。そして、この私たちもまたキリストのように死からよみがえることこそがキリスト教の信仰の核心部分にあるのだというのです。

このような、パウロのキリスト教信仰のとらえ方とは違った形でキリスト教信仰を捉えるとらえ方があります。いえ、それはキリスト教に限らず、宗教一般に対して捉えられる共通した見方だといえるかもしれません。と申しますのも、キリスト教に限らず、宗教というものは私たちにとって大変重要な働きをするからです。宗教は、ある時は私たちの心の拠り所となり、またある時は私たちの倫理の基準となります。実際、カントという哲学者やトレルチという神学者は、キリスト教の意味と重要性を倫理・道徳的な意味で捉えました。そして確かに、キリストの教えは倫理道徳的な意味でも重要です。週報でも報告させていただいていますが、先日K姉妹ご夫妻を訪問させていただきました。あれこれとお話しをしていく中で、話が福祉に関する内容になりました。そのときに、K姉妹のご主人が、北欧の社会福祉を高く評価して、やっぱりキリスト教をバックボーンにした福祉は日本とは違うと言っておられました。

私は、福祉についてはあまり明るくはありませんが、日本の福祉問題が議論されるとき、しばしば北欧の社会福祉の状況が比較に出されて話されることは知っています。その北欧の社会福祉の背後にキリスト教があるといわれて、あらためてそういうものなのかと思わされたのですが、しかし、思い当たるふしもある。というのも、スウェーデンやノルウェーといった地域のキリスト教は、主にルター派の教会なのですが、特にルター派敬虔主義と呼ばれるグループの影響を受けているからです。この敬虔主義というものは、いつもお話ししておりますように私たちの信仰の源流にあるものです。その敬虔主義運動は、キリストに倣って生きるということに重きをおいているのですが、ちょうど今から400年ほど前の1618年から30年続いた戦争後、ヨーロッパが疲弊しきっている中で敬虔主義は起りました。当時の教会は、教会の教理の解釈や説明が中心となり、正しい信仰とは正しい教理を理性的に理解し受容することであるというような傾向が見られたのに対して、敬虔主義運動は、神の言葉である聖書の言葉を心で聞くことの重要性を主張しました。そして正しい信仰は、正しい教理を理性的に受容するのではなく、聖書を通してキリストに倣って生きることにあると言ったのです。

そして、具体的には30年戦争で疲弊した人々のために、貧民救済を行なったり、貧しい子どもたちの施設などを作りました。それは、キリストの愛にならって生きる生き方を敬虔主義が目指したからです。このような敬虔主義の生き方は倫理的な意味でも大きな意味があり模範となります。それは現代においても同じです。むしろ、お金が価値判断の基準となり、南北問題といった国際情勢だけでなく、格差社会に向って行きつつ、かつ超高齢化社会になっていく日本においてもいえることだろうと思います。そういった意味ではキリスト教は社会倫理的な意味からも信じる価値があるものだといえます。また、キリスト教会でも最近はカウンセリングということが重要視されるようになりました。もちろんそれは、キリスト教信仰にもとづくカウンセリングであり、心の支えとして重要なものです。このような側面は、信仰が私たちに与える大切な一面であるといえます。だからこそ、聖書学院の授業でも心理学やカウンセリングの理論と実践を学んだりするのです。

言うまでもありませんが、このような信仰が今を生きる私たちを支える側面の重要性は否定されるものではありません。そしておそらくはそのような側面がキリスト教の信仰にあるからこそ、復活を信じることが出来ない人々であっても、コリントの教会に加わりクリスチャンとして生きていたのだろうと思います。しかし、パウロはそのような人たちをコリントの教会の信仰の仲間として受け入れつつも、私たちもまた死人からのよみがえるのだという、教会が伝えた福音の内容を信じ受け入れることが信仰にとって大切なのだと力説するのです。この場合、パウロが言う死人からのよみがえりというのは、終末論的な意味での死人からのよみがえりということです。クリスチャンは死んでもすぐに生き返るというのではなく、神によってこの世界が終りを告げ、神の国が打ち立てられるときによみがえるという将来的な希望です。その将来的な希望を持つことが信仰にとって大切なことだというのです。

今の生活を支え、今の心の問題を支えるということも信仰の持つ大切な働きであり、それによって神を信じる信仰をもつということも否定してはいけません。それはまさに今、ここでという実存的な問題です。けれども、キリスト教の信仰は、そのような今の問題だけでなく、ずっと将来の、それこそ死んだ先の問題にまで及んでいるのです。そしてその遠い将来の希望が、今を生きる力にもなるのです。しかも、その将来の希望は、けっして根拠がないことではありません。今日、私たちが復活祭(イースター)として祝っているイエス・キリストの復活の出来事によって、単なる夢や絵空事ではなく、現実の希望として語られているのです。パウロは、コリント人への第一の手紙、20節から22節で次のように言っています。「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。」

パウロは、コリント人への第一の手紙、20節から22節で次のように言っています。「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。」キリストが復活したからこそ、私たちもまた、この世界が終わりを告げ新しく神の国が打ち立てられるときに、私たちもまた死人の中からよみがえって神の国の民として生かされるのだというのです。つまり、キリストの復活の出来事は、私たちの復活ということが単なる夢物語ではなく、リアリティのある現実的なものとなるために大切なのだということなのです。キリストの復活、それはイエス・キリスト様が神のひとり子だから復活したのではありません。人となられたイエス・キリスト様が人として復活なさったのです。ですから、もし神が、神を信じるものをこの世の最期、再臨の時に人間が復活させるということを考えておられなければ、イエス・キリスト様の死からのよみがえりということもなかったでしょう。

キリストが復活したからこそ、私たちもまた、この世界が終わりを告げ新しく神の国が打ち立てられ るときに、私たちもまた死人の中からよみがえって神の国の民として生かされるのだというのです。つまり、キリストの復活の出来事は、私たちの復活ということが単なる夢物語ではなく、リアリティのある現実的なものとなるために大切なのだということなのです。キリストの復活、それはイエス・キリスト様が神のひとり子だから復活したのではありません。人となられたイエス・キリスト様が人として復活なさったのです。ですから、もし神が、神を信じるものをこの世の最期、再臨の時に人間が復活させるということを考えておられなければ、イエス・キリスト様の死からのよみがえりということもなかったでしょう。しかし、神は、この世の終りの時に、私たちをよみがえらせ最後の審判の後に、神を信じ、イエス・キリスト様を救い主として信じるものを神の国に迎え入れようと考えておられるのです。だからこそ、イエス・キリスト様が死からよみがえられたのです。まさに「もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。」なのです。

それにしても、パウロは、どうしてそこまで、イエス・キリスト様の復活の出来事を強調したのでしょうか。それはパウロ自身が、復活したイエス・キリスト様に出会うという経験をしたからです。パウロは、このように、キリストの復活を信じる信仰の重要性を述べる直前のコリント人への第一の手紙15章3節でこう言っています。「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。」パウロは、これが福音だという宣教の言葉としてキリストが、聖書に三日目によみがえったということを伝えられたと言っています。しかし、その宣教の言葉が真実だと言える根拠をパウロは持っているのです。それは、パウロが復活のキリストが「すべての使徒たちに現れ、そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたし(パウロ)にも現れた」からです。

このパウロに復活のキリストが現れたという事件は、使徒行伝9章にあるダマスコ途上でのパウロの経験にほかならないと思われますが、パウロ自身の経験として、確かに復活のキリストと出会ったという経験があるからこそ、イエス・キリスト様が、「聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえった」と伝えられたときに、それを確かなこととして信じることが出来ましたし、そのキリストの復活を根拠に、私たちもまた死人の中からよみがえることが出来ると心からの確信を持って語ることが出来たのです。みなさん、私たちは確かに今という現実を生きています。そして、この今という世界は様々な矛盾と問題に満ちています。そのような中で苦しんでいる私たちは、今の心の拠り所を求めて神を求め信じることも重要です。また、聖書に示された神の愛を規範にして、この社会の中でキリストに倣うものとして生きていくことも、神を信じる私たちにとって大切なことです。しかし、もしそれだけだとすれば、問題が解決すれば信仰など必要ないことになります。いやキリスト教以外の信仰でもかまわないともいえます。しかし、現実には決して解決できない死という問題があるのです。医学の発達は、人の寿命を延ばしてくれる可能性に満ちていますが、しかし、死は必ず訪れます。そういった意味では、私たち人間は死という苦悩からは決して逃れることは出来ないのです。

そのような死という現実から目をそむけるためには、死という現実をあきらめるか、死後の世界を夢見て達観するしかありません。しかし、パウロは、イエス・キリスト様が死からよみがえったという確かな経験から、夢ではない現実の希望を語るのです。そして、その希望からキリスト教の信仰を捉え、伝えているのです。私たちホーリネス教団は、四重の福音ということを強調します。それは、救いとは、罪赦されて新しく生まれることであり、罪赦されるだけでなく、罪の根までもきよめていただき、神によって生かされ、キリストが再び来られる再臨の時に、復活し永遠の命をいただき天国に招き入れられるという信仰です。このことを、新生・聖化・神癒・再臨という四つの言葉で言い表すから四重の福音です。つまり、救いは私たちに四つの局面を持って臨んでくるのです。その中で、再臨ということはあまり語られなくなったと言われます。ひょっとしたら私たちの中にも、コリントの教会の中にいた人たちのように、死人のよみがえりということが絵空事のように思えるそんな気持ちが芽生えてきたからかもしれません。

またあるいは、現実の今の問題があまりにも大きく、そしてたくさんあるために、この世界のことに手一杯で、再臨というやがて来る希望のことなど考えられないのかもしれません。しかし、死という現実はやがてやってきます、そして死は、この世界での問題なのです。だからこそ私たちは、このイエス・キリストのよみがえりという出来事に土台した、私たちの復活という希望が与えられていることを忘れてはなりません。厳しい現実の社会で生きる私たちにとって、神を信じる信仰によって心が支えられることも大切です。しかし、その支えは、復活の希望によって支えられる支えにまで広がらなければなりません。福音はそこにまで広がっているからです。現実の問題に解決が与えられることのために祈ることも大切ですし祈らなければなりません。しかし、私たちは再臨における復活の希望を抱いて現実を乗り切る力を持たなければなりません。信仰は、単に望みが叶う、夢がかなうための道具ではなく、現実を生き抜く力だからです。だからこそ私たちは、やがて来る再臨の時に、私たちに与えられる復活の希望に立って、「今・ここで」を生きていかなければならないのです。

お祈りしましょう。