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メッセージ

羊飼い 『戦うキリスト』
コリント人への第一の手紙 15章20−28節
2009/4/19 説教者 濱和弘

先週は復活祭(イースター)でした。その復活祭の礼拝において、私たちはイエス・キリスト様が、死からよみがえられたという出来事を覚え、その出来事を祝い、神をほめたたえつつ喜びと感謝を捧げつつ礼拝したのです。その、復活祭(イースター)の礼拝において、私は、コリント人への第一の手紙15章12節から19節から、御言葉を取り次がさせていただきました。そこでは、このコリント人への第一の手紙を記したパウロが、その手紙の送り先であるコリントの教会の人々の中に死人の復活を信じることが出来ない人々がいることに驚き、死人の復活は確かにあるのだということを強く教え諭している部分でした。

死人がよみがえるということなどは、普通に考えればあり得ないと思えるような出来事です。しかし、それは確かにある。もちろん、それは今ここで起こるということではないかもしれない。しかし、やがてイエス・キリスト様が再びこの地上に来られるとき、それを教会では「再臨」といいますが、その再臨の時、神を信じて死んだものはすべて死からよみがえり、神の御国「天国」に招き入れられるのです。だから、神を信じるものは、この死人のよみがえりということに希望を置き、それを仰ぎ見て生きていかなければならない、そうでないとキリスト教の信仰は虚しいのだとパウロはそう言うのです。そしてそのことを確認するかのように、今日の聖書箇所のコリント人への第一の手紙15章20節から22節で、「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。」というのです。

「死がひとりの人によってきた」というのは、創世記2章にある、最初の人アダムが、神がお命じになった「善悪を知る木から取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」という命令に聞き従わないで、それを取って食べた出来事をさしています。このアダムが「神の言葉に聞き従わなかったこと」を、教会では罪と呼びます。ですから、教会で罪と言うとき、もちろん、犯罪や不道徳な行為、あるいは嘘や憎しみ妬みといった良くない思いも罪ですが、その根底には神に聞き従わない人間の生き方、あり方をさすのです。いえ、むしろ人間の罪深さは、創造主なる神の言葉に聞き従わず、自分勝手な思いによって生きるところにあると言っても良いだろうと思います。その神に聞き従わない最初の行為が、アダムが善悪を知る木から取って食べるということだったのです。そして、そのようにアダムが神の言葉に聞き従わず、善悪を知る木から実を取って食べたために、私たち人間の世界に死が入り込んでしまった、つまり、アダムが神の言葉に聞き従わなかったから全ての人間が死んでいるというのです。

これは、何もアダムの罪が私たちに転嫁され、連帯責任を負わされるかのようにして、その罪に対する裁きとして死ぬべき運命に定められたというわけではありません。ましてや、アダムの罪が、私たちに遺伝され受けつがれているわけでもないのです。実際、旧約聖書創世記3章を見ますと、神の言葉に聞き従わないで、善悪を知る木からその実を取って食べたのはアダムではなく、その妻エバでした。ですから、本来でしたら「アダムにあってすべての人が死んでいる。」ではなく、「エバにあってすべての人が死んでいる。」というべきです。しかし、パウロは「アダムにあってすべての人が死んでいる。」というのです。これは、ひとつにはローマ帝国やイスラエル地方を含む古代の地中海文化圏が男性中心の世界であったために男性のアダムを中心にした表現が用いられたからかもしれません。あるいは夫婦一心同体であるいうのが聖書の主張ですから、アダムとエバは一心同体であるので、「アダムにあって」と言ったとも考えられます。

しかし、それ以上に、ここで言うアダムは、たしかにひとりの人アダムなのですが、単に個人としてのアダムというのではなく、人類のすべてを代表した存在としてアダムなのです。このような、ひとつの集団全体を、ひとりの人の人格を通して言い表すことを、集合人格といいます。そして聖書には、しばしばこの集合人格が用いられているのです。たとえば、旧約聖書ヨシュア記7章1節にはアカンという人が出てきますが、そこのはこう書かれています。「しかし、イスラエルの人々は奉納物について罪を犯した。すなわちユダの部族のうちの、ゼラの子ザブデの子であるカルミの子アカンが奉納物を取ったのである。それで主はイスラエルの人々にむかって怒りを発せられた。」このアカンが奉納物をとったという出来事は、イスラエルの民がヨルダン川を渡り神の約束の地であるカナンに入り、エリコという町を攻め落としたとき、「そのエリコ町のすべてのものを奉納物として滅ぼさなければならない」という神の言葉があったのにも関わらず、アカンという人はぶんどり品のうちに、シナルの美しい外套一枚と銀二百シケルと、目方五十シケルの金の延べ棒一本のあるのを見て、ほしくなり、それを取って隠したという出来事です。

ここでも、アダムが神の言葉に聞き従わず、自分の欲望、欲求にかられて善悪を知る木からその実を食べてしまったことと同じことがくり返されていますが、このアカンの罪のゆえに、イスラエルの人々全体が神の怒りをかってしまったというのです。そのことを知ったイスラエルの人が、どうしたかというと、彼らは、奉納物を取って隠したアカンとその家族を石で打ち殺し、火を以て焼いたというのです。アカンというひとり人の犯した罪のために、イスラエルの人々全体が神の怒りを買い、また、そのことのゆえに、イスラエルの人はアカンとその家族を滅ぼしてしまったというのです。これは、現代人である私たちには、実にわかりにくいことですが、こういうことだろうと思います。すなわち、アカンという一人の人の罪の背後にはイスラエルの人々の持つ社会的背景があるということです。つまり、ひとりの人の人格が形成されるには、かならずその人をとりまく環境や社会がある。そのように環境や社会の影響を受けて人格形成がなされるとするならば、アカンが神の言葉に聞き従わない、すなわち、神の言葉を軽んじるようになったのには、そのアカンの背後にあるイスラエル社会の中に、アカンにそのような問題を起させる要因があったということでもあるのです。

だからこそ、イスラエルの社会もまた神から問われ、その問題ゆえに神の怒りがイスラエルの人々に発せられるのです。そして、その神の怒りを受けたイスラエルの人々も、自分たちの社会に神の言葉に聞き従わないということが自分たちの社会にまかり通ることがないようにアカンの罪を裁くのです。アカンの罪を裁かずにいたならば、それは必ず更なる影響を社会に与えるからです。しかし、それにしても、そのアカンひとりの罪のために、家族全員が殺されるというのはいかにも酷な感じがします。いったい、どうして、アカンひとりの罪のために家族全員が死ななければならないのか。これもまた、個がある程度確立している現代人の私たちにはわかりにくいことです。しかし、考えてみれば、そのわかりにくさは現代の感覚から聖書を読むから起るものです。ですから、その当時の社会情勢を考えると見えてくるものもあります。先ほども申しましたが、イスラエルを含む古代の地中海文化圏は家父長制の男性社会です。それは、更に歴史をさかのぼったこの時代のイスラエルにおいても同じです。

家父長制度においては、その家の主人が力と影響力をもっています。いうならば、家を支配しているのは、その家の長である父親なのです。家の長である父親が、その家の代表者として権威と権力をもって家を治めている以上、その家に属しているものはその父親のもつ権威と権力による支配の下で、父親の言うことに聞き従わなければならないのです。つまり、家父長であるアカンが、彼が納める家全体の代表する集合人格であり、アカンの性質が、その家全体の性質を示しているといえます。その家を支配する父親が、欲望や欲求に負けて神の言葉に聞き従わないという罪を犯したならば、その父親の権威と権力の支配の下に置かれている家族もまた、その罪と無関係というわけにはいかないのです。だから、アカンだけでなく、その権威と支配の下にあるものすべてをさばかなければならなかったのです。それと同じように、アダムが人類を代表する集合人格であり、そのアダムが、神の言葉に聞き従わなかったということは、人類全体が神の言葉に聞き従わなくなったというのです。それゆえに、すべての人が死んでいるというのです。

それにしても、「アダムにあってすべての人が死んでいる」とは、実におもしろい表現です。「死んでいるような者である」とは言わず、「すべての人が死んでいる」と言うのです。すべての人というのは、過去・現在・未来にわたる人類すべてです。そこには今生きている人も含んでいる。今、確かに生きているその人も、実は死んでいるというのです。この死んでいるという言葉はギリシャ語でも現在形が使われています。ギリシャ語の現在形は継続している動作を示しています。ですから、すべてに人が、今生きている人も死という状態の中に継続している、生きているのに死んでいるというのです。「生きているのに死んでいる」というのは、実に奇妙な表現です。奇妙な表現には、何らかの意味があるはずです。この場合、生きている人間が死んでいるというのですから、死んでいるということに特別な意味があると考えたほうがよいだろうと思います。では、この特別な意味を持つ死とは一体なんでしょうか。それは、死とは何かということの究極的な意味に近づくことです。私たちは生きている状態から生きていない状態になることを死と呼びます。それは、生命的な連続性の断絶です。同時に、この生命的な連続性の断絶は交わりの断絶を産み出します。人は、死んでしまったときから呼びかける言葉に応答してくれなくなるのです。そういった意味では、死とは交わりの断絶であるともいえます。たとえば、先ほどのアダムの罪、アダムが神に聞き従わなかった時の創世記の記事に戻ってみますと、そこには次のように書かれています。

「さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、『園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか』。女はへびに言った、『わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、だ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました』。へびは女に言った、『あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです』。 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。主なる神は人に呼びかけて言われた、『あなたはどこにいるのか』。 彼は答えた、『園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです』。神は言われた、『あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか』」

ここでは、神の言葉に聞き従わず善悪を知る木から実を取って食べたアダムとエバと神との会話が記されています。神が言葉をかけ、アダムがそれに応えていますので、そこには一見、未だ交わりがあるように見えます。しかし、この時アダムとエバは神の前に身を隠し身を潜めているのです。つまり、彼らが神の言葉に聞き従うことができず、神の言葉にそむいてしまったために神とのあるべき交わりが持てなくなってしまい、神と人との間に断絶が生まれてしまったのですアダムとエバが神の言葉に聞き従っている間は、彼らを治めていたものは神の言葉です。もちろん、アダムとエバは、エデンの園のどの木から実を取って食べることが許されていました。ですから、彼らは自由に自分の意志に従って、自由に自分の食べたい実を食べていたのです。しかし、ただ、善悪を知る木からは食べてはならないと命じられていました。ですから、アダムとエバは神の言葉の下にあっての自由だったのです。いいかえれば、彼らの行動を支配していた原理は、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」(創世記2:1617)という神の言葉だったといえます。しかし、その神の言葉に聞き従えなくなったとき、彼らの行動を支配しているのは、もはや神の言葉が彼らを治めるのではなく、自分の思いや欲求、欲望が彼らの行動を支配してしまっているのです。

しかも、アダムとエバが、その善悪を知る木を食べてしまったのは、へびが誘惑したからでした。こ のへびは、悪魔(サタン)のことを象徴的に言い表した表現です。あるいは悪魔(サタン)が実際にへびの姿を借りて誘惑をしたのかもしれません。いずれにしても、彼らは、悪魔(サタン)の言葉に耳を傾け、それに聞き従って善悪を知る木の実を食べたのです。つまり、彼らは、神の言葉にではなく、悪魔(サタン)の言葉の権威に従ったのです。パウロが、「アダムにあってすべての人が死んでいる」という状況は、まさにこのような状況であるといっても良いだろうと思います。私たちが、神の言葉の権威の下に身を置いて生きるのではなく、むしろ何か他の権威や権力の下に身を置いて生きるときに、私たちは神と断絶し、神の前に死んでしまっているのです。そして、神と断絶しているからこそ、この肉体も滅び死んでしまうのです。なぜなら、私たち人間を創造し、命の息を与えたお方は神だからです。そういった意味では、神は私たちの命の源です。その命の源と断絶してしまったならば、人は生きることが出来ないのです。

そのような「アダムにあってすべての人が死んでいる」者をキリストは神の前に生きる者として下さったのです。パウロは、「アダムにあってすべての人が死んでいる」といったすぐ後に、「同じようにキリストにあってすべての人が生かされるのである」といっています。神の言葉に聞き従わないで、アダムという代表人格に繋がっていた私たちは、アダムによって死んでいたのだが、その私たちがイエス・キリスト様を信じ受け入れ、イエス・キリスト様に繋がる者となったとき、もはや神の前に死んでいるのではなく、生かされているのだというのです。それは、神の御子であるのに人となられたイエス・キリスト様が、人として死に至るまで神に従順に従い抜かれ、神の言葉の権威と権力の支配の下に身を置かれたからです。それゆえに、このイエス・キリスト様を信じ、イエス・キリスト様に従う者達もまた神の言葉の権威と支配の下に置かれているのです。だからこそ、パウロは、

「キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである」と言うのです。生きているのに死んでいる者が、死んでいるのに神によって生きている者にされているというのです。宗教改革者であるルターは、人間は罪人にして義人であるといいましたが、まさに罪人として神の前に死んでいる者が、イエス・キリスト様の十字架の死によって、義と認められ神の前に義人として生かされているのです。そのように、このように、教会に集う私たちは神の恵みによって、神の恵みが支配し、神の言葉の権威によって治める神の国の中に生かされているのです。

しかし、確かに私たちは個人の信仰において、また教会の中においては、神の恵みの支配の中で生かされていますが、実際の社会生活においては、私たちの周りには、神の恵みによって支配され、神の言葉の権威によって支配されているところを見出すことはできません。むしろ、神の言葉の権威や、神の恵みが治め支配する世界ではなく、もっと違ったものが権威を持ち、権力者となって私たちを支配しているのです。そして、むしろクリスチャンひとりひとりが、また教会の方が社会の隅に押しやられてしまっているような感じさえします。そして、教会であってさえ、へたをすれば、お金によって支配されてしまっているような状況があるかも知れません。また。アメリカのように、アメリカン・ナショナリズムの方が、神の言葉より権威を持ち、神の言葉に理解さえも変えてしまっているかもしれないと思われる状況さえあるのです。そして、そのことの方が事態が深刻だといえます。いずれにしても、確かにイエス・キリスト様の十字架の死と復活によって、神の恵みの支配と神のみ言葉の権威による支配は、私たち神を信じる者の心と教会の中に始められているのですが、それが世界中にまでは及んでいないのです。

だからこそ、コリント人への第一の手紙15章23節に25節で、「各自はそれぞれの順序に従わねばならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである」とパウロは言うのです。この15章23節から25節は、イエス・キリスト様の再臨の時までには順序があるということです。まず最初にイエス。キリスト様の復活がある。これはすでに実現したことです。これは、すでに完成したことです。イエス・キリスト様は、死んだものの初穂としてまず死からよみがえられました。そして、その次に主の再臨のときに、キリストを信じキリストに属する者がよみがえるのです。このキリストに属する者が、キリストを信じて死んだものか、キリストを信じていきている者かといった区別があるかどうかは、この箇所からは分かりません。しかしパウロはテサロニケ人への第一の手紙4章16節、17節で次のよう言っていることから、おそらくは、このキリストに属する者とは、キリストにあってすでに死んでいる人たちであろうことが分かります。すなわちパウロはこう言うのです。

「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう」ですから、まずイエス・キリストがよみがえり、その後、イエス・キリスト様が再びこの世に来られる再臨のときに、キリストを信じクリスチャンとなって死んだものがよみがえり、そして最期にその時に生きて神を信じる者となった人たちの群れが完全な神の恵みと神の言葉の支配に入れられるというのです。そして、パウロが、このような終末の時に至るまでの順序、秩序といったものを示しながら、イエス・キリスト様の十字架の死と復活によって、確かにこの地上に神の恵みと神の言葉の支配は始まっているのだが、まだ敵が多く、完全にその支配が代々済み済みまで至っていないというのです。それは神の恵みと神の言葉の権威の支配が行き届いていないというということでもあります。そしてそれは、宣教が行き届いていないということでもあるのです。

そのように、神の恵みと神の言葉の権威の支配が行き届いていない以上、私たちの住む世界は、神以外の様々な権威と権力が支配しています。だからこそ、キリストは、今も私たちの世界で戦っておられるのです。この世界を支配している神ならぬものの権威と権力と戦い、あらゆる敵を打ち倒し足下に置くために戦っておられるのです。そして、その戦いは、ひとつには私たちの宣教の業、伝道の業を場所として繰り広げられています。また別の面では、神を信じる信仰に生きるよりもこの世の権力が、その権力や権威に従うことを求めてくるような社会的なことの中であらわれます。

戦後、私たち日本ホーリネス教団を再興した車田秋次牧師や米田豊牧師、あるいは現在のウェスレアン・ホーリネスの前身、日本基督教団ホーリネスの群れの指導者であった小原十三次といった牧師は、戦時中、そのキリストの再臨に対する信仰が国体に反するとして投獄されました。キリストの再臨に対する信仰が国体に反するといいましたが、要はイエス・キリスト様が再臨なさったときに天皇陛下がどうなるかということが問題だったのです。つまり、イエス・キリスト様が再臨したときに、天皇陛下が神によって裁かれるのかどうかということなのです。それは、とどのつまり、天皇陛下の権威の方が、神の権威よりも偉いのかどうかという問題にいきつきます。結局、戦争中のホーリネス系の教会に対する弾圧は、神の権威に従うか国家の権威、権力に従うかといった問題だったのです。この時、車田秋次牧師を初めとするホーリネス系の牧師の多くは、神の権威に従う姿勢を崩しませんでした。この時の戦いは、確かに車田秋次牧師、米田豊牧師、小原十三次牧師、そのた諸々の牧師の戦いでした。

しかし、その戦いはキリストの戦いでもあったのです。目に見える所で戦っていたのは、牧師たちです。しかし、その牧師たちと共にあり、彼らを慰め、励まし、その痛みを分け合っておられたのは、彼らと共におられたイエス・キリスト様なのです。そうやって、イエス・キリスト様は、彼ら共におられたのです。戦争中に、激しい弾圧の中にあった牧師たちと共に歩み、共に苦しみ、共に支え、共に戦われたイエス・キリスト様は、彼らだけではなく、私たちと共にいて下さいます。先ほども申しましたように、私たちが住むこの世界は、確かにイエス・キリスト様の十字架の死と復活によって、神の恵みと神の言葉の権威による支配が始まり、それが宣教の業によって広がっていっているとしても、しかし、まだまだ、この世界の様々なものが権威をもち、権力を持って私たちを支配しようとしています。それは、ときには国家権力であったり、この世界が認める名誉や社会的地位といったものであったり、金銭であったりします。いやひょっとしたら金銭が、この世界の最も強い権力と権威を持っているかもしれません。そのような中で、それらのものは、神の言葉ではなく、それらの権威や権力に従うことを求めて来ます。

そのような中で、私たちはかつての車田秋次牧師たちのように、雄々しく立てるかどうかわわかりません。それほど私たちは強くないかもしれないのです。しかし、そのような弱さを持つ私たちであっても、イエス・キリスト様は、神を信じイエス・キリスト様を救い主として信じ受け入れる私たちと共にいて下さいます。そして共に戦って下さるのです。そうやって、この世の権威や権力と戦い、それを討ち滅ぼして、神の恵みと神の言葉が支配する神の国をもたらして下さるのです。そして。最期には死までも滅ぼして、私たちをその神の国で永遠に生きる者として下さるのです。その、神の支配が、神を信じ、イエス・キリスト様を信じる私たちの信仰の心の中にはじまり、また教会に始まっています。そのことを覚えながら、私たちは、この世界の中で神を信じ、神の言葉に従いながら生きていく者でありたいと思います。

お祈りしましょう。