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メッセージ

羊飼い 母の日合同礼拝
『すべての根源なる神』
創世記 1章1−2節
2009/5/10 説教者 濱和弘

今日は母の日です。ですから、子どもと大人が一緒に礼拝を守ります。子どもと大人が一緒に礼拝を守るときには、最初に子どものお話しをしていますが、今日も同じように子どものためのお話しをします。今日はみのる君のお話です。みのる君は小学校一年生。だからこの教会だったらAちゃんやK君と同じ年ですね。今は春ですが、だんだんと暖かくなってやがて夏が来ます。去年の春、ちょうど今ぐらいの時、みのる君は毎日、わくわくしながら水槽をのぞき込んでいました。水槽にはふつうだとお魚が入っています。赤い色の金魚や、黄色や青色をした熱帯魚などが泳いでいます。でもね、みのる君のお家の水槽にはお魚が入っていません。お水も入っていません。入っているのは茶色い土です。でもよく見ると、その茶色い土の中で何か白い色のものが動いています。そうです。みのる君は水槽の中でカブトムシの幼虫を飼っていたのです。

二年前の夏休みの時に、みのる君がお父さんとお母さんと田舎に旅行に行ったとき、お父さんは森で雄のカブトムシと雌のカブトムシを捕まえて来ました。そして、そのカブトムシを水槽に入れて飼っていたんです。それこそ、カブトムシゼリーを買ってきてあげたり、カブトムシがのぼったり降りたりするための木も水槽の中に入れてあげました。ある日、ふと見るとカブトムシを飼っている水槽の中の土の上に、沢山の小さな白いまん丸い玉が落ちています。不思議に思ってみのる君はお父さんとお母さんに聞きました。「お父さん、お母さん。カブトムシの水槽にへんな白いボールのようなものが落ちてるよ。あれなに?」「へんなもの?」と言ってお父さんとお母さんはカブトムシを飼っている水槽をのぞき込みました。「うーん。」お父さんとお母さんはしばらく考え込んでいましたが、やがて「みのる君。どうやらこれはカブトムシの卵のようだよ。きっとカブトムシのお母さんが卵を産んだんだ。」と言いました。「えー、カブトムシの卵」。みのる君はびっくりして声を挙げてしまいました。そして目をキラキラ輝かせて、「これがカブトムシの卵なら、たまごからカブトムシの赤ちゃんが生まれるよね。そしたら、カブトムシの赤ちゃんを、カブトムシのお母さんが育てているところを見ることが出来るんだ。」と言いました。

それを聞いたお父さんは「みのる君、カブトムシは一年しか生きられないんだ。だからカブトムシのお母さんはもうじき死んでしまうんだよ。」と教えてあげました。「えー。それじゃせっかくカブトムシの赤ちゃんがうまれても、お母さんがいないんじゃ、かわいそうだよ。それにちゃんと育たないかもしれないじゃないか。」みのる君は悲しくなって、お父さんにそう訴えました。お父さんは、そんなみのる君に「そうだね。かわいそうだね。でもしかたがないんだよ」と言うだけです。やがてみのる君は、いいことを思いつきました。「そうだ。ぼくがカブトムシのお母さんのかえわりになって、カブトムシの赤ちゃんを育ててあげよう。」そしてお父さんのこう言ったのです。「ねえ、お父さん、ぼくがカブトムシ育てていいでしょ。」それを聞いたお父さんは、「みのる君ちゃんとできるかい。生き物の赤ちゃんを飼ってそだてることは大変なことなんだよ。途中で『やーめた』なんて言えないんだ。でも、みのる君が最期まで責任をもってちゃんとすると約束するならみのる君が育ててもいいよ。」とみのる君がカブトムシの赤ちゃんを育てることを赦してくれました。お父さんから、「カブトムシの赤ちゃんを育ててもいい」と言われたみのる君は、大喜びで、お母さんに、「お母さん、お母さん。ぼく、カブトムシのお母さんになったんだ。今日から、カブトムシのお母さんになってカブトムシの赤ちゃんを育てるんだ」と言いました。

お母さんは、「良かったはね、でも何か分からないことがあったらお母さんに聞いてね。お母さんはみのる君やお姉ちゃんを赤ちゃんの時から育てているんだから、赤ちゃんの育て方はちゃんと分かるんだからね。」と言ってくれました。それでみのる君は、さっそくお母さんに尋ねました。「それじゃ、お母さんに最初の質問です。ガブトムシの赤ちゃんを育てるのに一番大切なものは何ですか。」「赤ちゃんを育てるのに大切なものねぇー。」お母さんはしばらく考えて、「赤ちゃんを育てるのに、一番大切なものは愛情。赤ちゃんを一番可愛いと思って大切のする心が一番大切なのよ」と教えてくれました。それから、みのる君はカブトムシの赤ちゃんが一番可愛いと思うようにしました。やがて3週間ぐらいして卵から小さなカブトムシの赤ちゃんが生まれました。その数なんと12匹。でもカブトムシの赤ちゃんは、白い芋虫みたいな姿をしていました。ですから、とても可愛いとは思えません。けれども、お母さんから「赤ちゃんを育てるのに、一番大切なことは、赤ちゃんを一番可愛いと思って大切にすることだ」と聞いていたみのる君は、「カブトムシの赤ちゃんが可愛い」と思うようにしました。

そうやって、みのる君はカブトムシの赤ちゃんを育て始めたのですが、カブトムシの赤ちゃんは何を食べるのかがわかりません。そこでみのる君は、「お母さん、カブトムシの赤ちゃんは何をたべるの」とたずねました。お母さんは「カブトムシの赤ちゃんはね、土を食べるの。だから何か食べ物をあげなくても水槽の中の土を食べるから大丈夫。でも、土が乾いていたらダメだから、毎日霧吹きで少しだけ水をかけてあげて土を湿らせておくこと、それから、赤ちゃんがしたウンチは、ちゃんと取ってあげないとだめなのよ。」と教えてくれました。それでみのる君は毎日、カブトムシの赤ちゃんが入っている水槽の土を湿らせ、カブトムシの赤ちゃんがしたウンチをきれいに取ってあげました。そうやって毎日毎日、カブトムシの赤ちゃんのお世話をしました。そうやって一生懸命カブトムシの赤ちゃんを育てていたみのる君は、だんだんと本当にカブトムシの赤ちゃんがかわいいと思うようになりました。そうやって6ヶ月が過ぎ、カブトムシの赤ちゃんはさなぎになりました。大人のカブトムシになる一歩手前です。そして一ヶ月ほどして、12匹いたカブトムシの赤ちゃんは、全部りっぱな大人のカブトムシになりました。みのるくんは嬉しくて、嬉しくてたまりません。自分が大切に育て、心から可愛いと思っていたカブトムシの赤ちゃんが、ちゃんと育ったのです。

ところが、みのる君が育てた12匹のカブトムシは、大人になったとたん、飼っていた水槽の中で喧嘩を始めました。それも、毎日毎日です。餌は一杯あげているのですが、それでも餌をめぐって喧嘩をします。餌を奪い合うだけではなく、体がぶつかっただけでも喧嘩を始めるのです。そして、その喧嘩のために、カブトムシの体は傷だらけです。中には手足が取れてしまったカブトムシも出てきました。それを見ていたみのる君はとても悲しくなりました。自分がお母さんの変わりになって大事に育てたカブトムシ、自分が心から可愛いとおもっているカブトムシが互いに争い、喧嘩をして傷つけあっている。そんな姿を見て悲しくて涙がこぼれてきたのです。そのとき、みのる君のお母さんが、みのる君に言いました。「みのる君、みのる君が可愛いと思い、大切に、大事に育てきたカブトムシが、よくばって他のカブトムシの餌をとろうとして喧嘩をしたり、争ったりするのを見るのは悲しいでしょ。人間のお母さんも一緒なのよ。自分の大切な子どもが、喧嘩や悪いことをしたり、欲張って人のものを取ろうとしたりすると、とても悲しいの。お母さんにとって、そうやって自分の子どもが悪い人になるのが、一番悲しいことなのよ。だから、みのる君は、悪いことをしないで大人になってもいい人でいてね。」

それを聞いたみのる君は、お母さんの気持ちが良くわかりました。だって、自分がお母さんの変わりになって一生懸命育てたカブトムシの赤ちゃんが、大人になって餌を奪い合い、喧嘩をするのを見て、とても悲しい気持ちになっていたからです。だから「自分はきっと悪いことをしない。いい人になろう。」と思いました。そのとき、お父さんが言いました「他のカブトムシの餌をとろうとしたり、喧嘩をしたりするのは、心の中に自分勝手な心があるからなんだよ。自分が餌が欲しい、水槽が狭いから、他のカブトムシが邪魔だ。そういう自分勝手な心が、争いや、喧嘩をさせるんだ。この自分勝手な心を罪というんだよ。そしてね、人間の中にある罪が、人間に悪いことをさせるんだよ。」その言葉を聞いたみのる君はお父さんに質問しました。「おとうさん、どうしたら人間を悪い人にする罪がなくなるの。」みのる君は、本当に悪い人にならず、お母さんを悲しませたくなかったからです。みのる君の質問にお父さんは答えてくれました。「いいかいみのる君。人間の罪は、神様しか取り除くことは出来ないんだ。だから、神様を信じて、神様にお祈りして、神様の言葉に聞き従いながら生きていくことが大切なんだ。心から神様を信じる人を神様は導いて下さり、正しく歩めるようにして下さるんだ。」

そのお父さんの言葉に、みのる君は更に質問を続けます。「神様の言葉に聞き従うって、神様の言葉はどうやって聞くことができるの。」「いい質問だ。」お父さんは、そう言って「みのる君、お父さんとお母さんは聖書を読み、礼拝で聖書のお話しを聞くよね。それはね、聖書が神様の言葉だからなんだ。聖書は全部神様の言葉が書いてあるんだ。だから聖書を読むと神様の言葉が聞ける。でもね、聖書の言葉には良くわかるものと難しくて良くわからないものがある。だから、聖書に書いてある神様の言葉がもっと良くわかるように教会や、教会学校で聖書のお話しがされるんだ。そうやって、聖書を読み、教会の礼拝で聖書のお話を聞くことで、神様の言葉を聞けるんだよ。」それを、聞いてみのる君は、ちょっと難しいけれど聖書を読もうと思いました。そして頑張って教会学校にも行って聖書のお話しを聞こうと思ったのです。ところで、みんなはお母さんを悲しませたいと思わないよね。お母さんが悲しい思いになるのはみんなが悪いことをして、悪い人になるときです。ですから、みんなはいい人になって下さい。でも、人間の心の中には悪い心、罪があります。罪は自分勝手な心です。この罪がある限り、人間は悪いことをしてしまいます。だから、神様を信じて、罪を赦していただき、罪の心を取り除いていただきましょう。そして、本当によい子になり、良い人になりましょう。みんながよい子になり、良い人になると、お母さんも、お父さんも、天のお父さんである神様も喜びます。そのように、神と人とに喜ばれる人になりましょうね。

さて、大人の人たちのために短くお話ししたいと思います。今日の聖書の箇所、創世記1章1節2節は、聖書の一番最初の言葉です。聖書はこの創世記1章1節2節から始まるのです。聖書は神の言葉であり、キリスト教の正典です。ですから、その聖書が創世記1章1節2節から始まるとすれば、キリスト教の始まりもまた、この創世記1章2章にあるといえます。そして、そこに書かれていることは、神が天と地をお造りになったということです。この天と地をお造りになったという事は、この世に存在するすべてのもの、森羅万象の根源は神から起り、神に寄りかかっているということでもあります。だからこそ、教会では、神を父なる神と呼ぶのです。神がすべてのものの根源にあり、すべてのものを産み出したお方からです。そのすべてのものの根源にあり、すべてのものを産み出したお方を父と呼ぶのは、古代の中近東の父権社会を背景に聖書が書かれているからであり、私たちの感覚から言えば母なる神と言っても良い神の御性質ですこの神の母性は、単にすべてのものを産み出し、すべてのものの根源であるということだけではありません。それは、すべてを包み、すべてを覆うところの母性です。

創世記1章1節2節には「はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」とあります。天と地の創造の初めに闇が淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてを覆っていたといいますが、淵とは深い水をたたえた場所です。ですから神の霊が水のおもてをおおっていたというのですが、これは、天地創造に先だって、深い淵があったと考えるのか、それとも天と地の創造の後の地上の世界が水に覆われていた状態をさすのか、あるいは、1節2節、そして3節との時間的前後関係が交錯していると考えるのか意見が分れるところです。しかし、ここでは、そのような時間的問題以上に、天と地の創造の初めのときは、闇夜の海のようになにも見えず、それ故に混沌とし、われわれを恐れおののかせるような状況を私たちに伝えているものであると考えるほうが良いだろうと思います。実際、闇夜の海は、何ともいえない恐怖感を与えます。そこではただ闇だけが全てを覆い一切が見えず、水の中にひとたび潜れば自分が上に進んでいるのか下に進んでいるのかさえ分からないからです。真っ暗な海は恐れと恐怖の対象なのです。そのような恐れと恐怖が襲うような、真っ暗闇で混沌とした世界のおもてを神の霊が覆っていたというのです。

その混沌とした暗闇の世界を神の霊が包み込んでいたということの中に、私たちはすべてを包む神の愛を見ます。そこには、恐れと恐怖に覆われた世界までも包み込む神の愛があるのです。そして、この神の愛に包まれて天地創造の業が進んでいくのです。それは、単に無から有を産み出す創造の業と同時に、混沌として無秩序な世界に秩序を与え、整えていく神の創造の業です。この創造の業の中で私たちも生まれ、そしてこうして生きているのです。そういった意味では、私たちはすべてを産み出す神の母性に包まれて生きているということができます。ところが私たちの国日本では、母なる大地という言い方をして、母性を大地に帰します。それは大地が、産物を産み出し、私たちを養い育てるからだろうと思います。あるいは、もっと広い見方をすれば、母なる自然と言っても良いかもしれません。しかし、私たちクリスチャンはその母性を神の中に見なければならないのです。というのも、すべての作物をうみだす大地も、また自然も、すべからく神の創造の業だからです。この神のすべてのものを産み出した神の母性が私たちを生み出し、私たちを愛で包み、そして私たちを養い育てているのです。

しかし、そのような愛に包まれていながら、人間の世界は争いに満ちています。また自然に対しても自然を克服しようとして自然に立ち向かい、結果として環境破壊といった地球規模の問題を生み出しています。これらはすべて秩序を破壊し、壊していっている人間の業なのです。混沌とした暗闇に覆われた世界に秩序を与え、整え、すべての産み出していくのが神の創造の業ですが、人間の争い、その究極的なものが戦争になると思いますが、そのような争いや戦争は、小さな世界では、家族や友人との人間関係を壊し、大きな世界では国や社会の秩序を破壊し、そして混乱させていきます。この争いや戦争といったような人間の営み、その覆っているのは、憎しみや怒りです。神の創造の業のとき、混沌として暗闇を神の愛が覆っていました。それなのに、現実の人間の世界の営みの多くの部分は、愛とは全く対照的な憎しみや怒りといったものが覆っているのです。また、自然を克服しようとする人間の営みは、自然界の秩序を大きく乱し、私たちの将来に対する不安や恐れを大きくしていっています。

このように、私たちの営みの中には、神の創造の業とは全く逆のことが行なわれていることは少なくありません。そして神の業から離れてしまったものを私たちは罪と呼ぶのです。ある神学者は、「神から発していない業、神から来る業ではないものは罪である」と言いましたが、そういった意味では、創造ではなく破壊をもたらし、秩序ではなく混乱をもたらすものは罪と呼んでもいいのかもしれません。それは破壊は神中心の業ではなく、人間中心の業だからです。神中心の業は創造的であり、秩序をもたらすものだからです。結局、私たち人間の罪とは、神を意識して営まれる営みではなく、自分自身の思いを中心にして営まれる営みなのです。さきほど、私は子どもたちへのお話しで、「罪とは人間の自分勝手な思いだよ」と説明しました。自分勝手な思いというのは自己中心という言葉に置き換えられます。そして、自己中心的な生き方、自分の欲や自分勝手な思いで生きることは、神を自分の意識の中心に置き、神の言葉に聞き従って生きる生き方とは、正反対の、的はずれな生き方だといえます。そして、この的はずれな生き方を、聖書は罪と呼ぶのです。ですから、私たち人間が自己中心的に生きるとき、そこには罪があると言えるのです。そしてこの罪にもとづく生き方が、盗みや争い、嘘や欺瞞、そして争いを引き起こし、そこに愛とは正反対な怒りや憎しみが覆い、世界を真っ暗で混沌としたものに引き戻していくのです。

一人一人の親としては子どもたちを正しく、優しく、愛に満ちた人間に育てていきたいと願っているのに、実際に人を憎んだり、恨んだり、争ったりする姿を子どもに教えているのは私たち大人です。先ほどの子どもたちのお話で、餌を奪い合い、争い、傷つけ合ったのは成虫となったカブトムシです。そういった意味では、あのカブトムシの姿は、私たち大人の姿でもあるのです。だとすれば、私たちは、私たちを愛し愛おしく思っている母なる存在を悲しませていることになります。そして、確かに私たちの罪は、私たちにとって母なるものである神を悲しませているのです。だからこそ私たちは、この罪から離れなければなりません。罪から離れるということは神の創造の業に立ち帰ることです。そして神の創造の業に立ち帰るとは、神の霊に包み込まれることなのです。それはすなわち神の愛に包まれるということでもあります。神を信じ、この世界を包み込み、私たちを包み込む神の愛に包まれるとき、私たちは罪から救われ、罪から離れ、神から生み出されたものとして、神の愛の中で生きることが出来るのです。

ですから、みなさん。私たちは私たち自身に向き合いましょう。自分自身の今までの生き方に、自分自身の今までの心のありように、そして自分自身の心そのものに向き合いましょう。そして、そこから神を見上げるのです。すべてのものの根源であり、すべてを産み出し、すべてを与え、私たちを生かし育んでくださる神を見上げることが大切なのです。そうすれば、すべてのものを産み出す天地創造の業のときに、水のおもてを覆い包んでいた神の霊が私たちを包み、私たちを神の愛で包んでくださるのです。ですからみなさん、神を信じましょう。神を信じて、神の言葉に聞き従いながら生きていこうではありませんか。

お祈りします。