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メッセージ

羊飼い 『完全な勝利にたって』
コリント人への第一の手紙 15章50−58節
2009/5/17 説教者 濱和弘

私たちはコリント人への第一の手紙15章から、復活ということについて学んでまいりました。そしてそれは、イエス・キリスト様において歴史上に起った出来事であり、キリスト教の核心に触れるものであり、それゆえに中心部分にある希望だといえるものです。それは、復活という出来事がただ神のひとり子であるイエス・キリスト様にだけ起ったことではなく、私たちにも起る出来事だからです。イエス・キリスト様が十字架にはりつけられて死なれたのも、また死んでよみがえられたのも、イエス・キリスト様が神であられるお方だからではありません。確かに、イエス・キリスト様は神の子であり、三位一体の神において真の神です。しかし、この真の神なるお方が、人として生まれてくださったとき、イエス・キリスト様は真の人としてこの地上にお生まれ下さいました。ですから、イエス・キリスト様は真の神であると同時に真の人でもあるのです。その真の人としてイエス・キリスト様は十字架につけられ死なれ、そして三日目に死人の内からよみがえられました。そして、イエス・キリスト様が真の人として十字架につけられて死なれ、よみがえられたからこそ、私たち人間の救いが成し遂げられたのです。

そういった意味では、イエス・キリスト様が人となってこの世にお生まれくださったということ、このことを神学用語では受肉といいますが、この受肉という出来事は極めて重要なことなのです。私たちは、ともすればイエス・キリスト様の十字架にばかりに目が向き、イエス・キリスト様がこの地上にお生まれ下さった受肉の出来事は、クリスマスの時にはそのことを取り上げますが、普段はあまりそのことに関心を向けません。しかし、この受肉ということは、私たちの信仰には極めて大切な出来事なのです。それは、イエス・キリスト様が人となって下さったからこそ、救いの出来事が私たちのものとなることが出来たからであります。そして、その救いの結実が真の人としてのイエス・キリスト復活の出来事なのです。真の人が死からよみがえるのでありますから、そのよみがえりは私たちのよみがえりの出来事にもなります。私たちも神の救いに与るならば、私たちも確かに死からよみがえるのです。そして、このコリントの手紙の著者であるパウロもまた、「死人のよみがえりは確かにある。しかも、この今生きている朽ちる体でよみがえるのではなく、朽ちない栄光の体でよみがえるのだ」というのです。

そのような中で、今日の聖書の箇所コリント人への第一の手紙15章50節から58節は、その復活に対する記述の結論にあたる部分だといえます。パウロは、このコリント人への第一の手紙15章50節から58節の冒頭のところでこう言っています。50節です。「兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。」まさしく、ここでパウロは、神を信じる私たちが、朽ちることのない栄光の体をいただき、神の国に迎え入れられるのだというのです。そしてそれは「ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。」とありますように、主イエス・キリストが再び来られる再臨の時におこる将来の希望の出来事なのです。

この「わたしたちすべては、眠り続けるのではない」という言葉については幾つかの解釈があります。というのも、この箇所のもともとのギリシャ語では、「我々みんなが眠らないであろう」となっているからです。そして「我々みんなが眠らないであろう」というのであるから、パウロはこの時代のクリスチャンたちが生きている間にキリストの再臨があると考えていて、それで、「我々みんなが眠らないであろう」といっているのだと理解する解釈がなされるのです。たしかに、この時代のクリスチャンたちはキリストの再臨が自分たちの生きている間に起ると考えていたふしがあります。ですから、信仰をもって死んでしまった兄弟姉妹は一体どうなってしまうのかという不安や恐れが教会の中に混乱を起したこともあったようです。そのことは、同じパウロが書いたテサロニケ人への第一の手紙4章13節以降に伺われます。そこにはこう書かれているのです。「兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。 すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。兄弟たちよ。その時期と場合とについては、書きおくる必要はない。あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る。

コリント人への第一手紙が紀元50年代中頃に書かれたといわれます。またテサロニケ人への第一の手紙は、50年代初期に書かれたであろうと考えられています。つまり、コリント人への第一の手紙とテサロニケ第一の手紙は比較的近い時期に書かれているのです。ですから、この時期のパウロは、自分が生きている時に、主イエス・キリスト様の再臨があり、自分が朽ちない体を与えられるという希望を持っていたということは十分に考えられることなのです。それに対して、パウロが「我々みんなが眠らないであろう」というのは、単純に、神を信じたものはすべて死に留まっているのではなく、必ずよみがえるのだと解釈する見方があります。私たちの教会が公用聖書として使っている口語訳聖書は「わたしたちすべては、眠り続けるのではない」と訳していますから、このような理解に立って訳されているものと思われます。また、ほかにも、この文脈全体を見るならばここでパウロが言わんとしたことは、この時代の人間が生きている間に再臨の時が来るかどうかということではなく、神を信じて死んだ者も生きて再臨の時を迎えた者も、朽ちない栄光の体に変えられるということであるというとらえ方もあるのです。いずれにしても、このような解釈の多様さはあったとしても、主イエス・キリスト様が再びこられる再臨の時に、私たちは朽ちない栄光の体に換えられるという聖書の主張は変わりません。そして、それこそが救いの完成なのだというのです。その救いの完成をパウロは「勝利」という言葉を使っています。

勝利という以上、何かに打ち勝っているのですが、いったい何に打ち勝ったのか。ひとつは53節かから55節に「この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。 この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。『死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか』」とあるように、死に対する勝利です。そしてこの死に対する勝利は完全な勝利だというのです。すなわち「この死ぬものは必ず死なないものを着ることになる」ということです。みなさんもご存知のように、聖書において死人がよみがえるという事例は、イエス・キリスト様の復活以外にも見ることが出来ます。有名なところですとラザロの復活の記事がヨハネによる福音書の11章1節から44節に記されていますし、使徒行伝時代にも、ユテコという青年が3階の窓から落ちて死んでしまったのが生き返ったというできごとがあったことが使徒行伝20章7節以下に書かれています。これらは確かに死人がよみがえった出来事ですが、死に対する完全な勝利ではありませんでした。なぜならば、ラザロもユテコも死からよみがえりましたが、永遠に生き続ける存在としてよみがえったわけではないからです。ですから、ラザロもユテコもいずれも一度は死からよみがえりましたが、また死を経験し墓に葬られ、今日まで眠り続けているのです。

しかし、イエス・キリスト様がもたらした死に完全に勝利する復活とは「必ず朽ちないものを着」ることであり、「必ず死なないものを着ること」なのです。つまり、ただ死から蘇生するというのではなく、永遠の命をいただいて生きることなのです。永遠の命といいますと、ただやたら長い時間生き続けることのように思ってしまいます。しかし、永遠というのは単に時間が長いというようなことではありません。私たちの感じる時間とは全く質の異なる、私たちの時間概念をこえた、神の時を生きることなのです。たとえば、聖書には「主にあって一日は千年のようであり、千年は一日のようある」(Uペテロ3:8)であるとか、「(主よ)あなたの目の前には千年も過ぎ去ればきのうのごとく、夜の間のひと時のようです。」といった表現があります。これらは、極めて比喩的な表現ではありますが、しかし、神の時間は私たちがもつ時間の概念とは全く違ったものです。その神の時、それが永遠というものなのです。

考えてみてください。イエス・キリスト様が生きておられたのは今から2000年も前のことです。ですから、イエス・キリスト様の十字架の死もまた2000年も前のことなのです。その2000年前の出来事がどうして今の私に関わりがあるのでしょうか。あの2000年も前の出来事が、どうして私たちに救いをもたらすのでしょうか。私たちの時間概念では2000年と言えばとてつもない昔です。たとえば、今では戦中や戦後間もない時期のドラマや映画は時代劇の部類にいれられるそうです。ほんの75年前のできごと、その時代に生きていた人はまだ生存していらっしゃいます。昨日、私は高校の同窓会に出席しましたが、そこにはまさに戦中、戦後を生きてこられた先輩方が出席なさっていました。なのに、それらの方々が生きていた時代が、もはや時代劇と呼ばれる程の遠い昔なのです。ですから2000年という昔は、歴史のはるか彼方の時代だといえます。けれども、神の時の中にあっては、その2000年前の出来事も今日の出来事なのです。イエス・キリスト様の十字架の出来事は今日の出来事として私たちと共にあり、私たちの罪に赦しを与え、私たちを救うのです。そのような神の永遠の時を生きるものとして復活するのだとパウロは言うのです。だからこそ、この神の永遠の中に、永遠の命を持って復活なされたイエス・キリスト様は、今日の私たちと共に生き、共に歩んでくださるのです。そして、神を信じ、イエス・キリスト様を救い主として信じる者は、イエス・キリスト様と同じように、単に死から蘇生するというのではなく、神の永遠の中に、永遠の命をいただいて生きる者となるのです。

そして、私たちが再臨の時にいただくもうひとつの完全な勝利、それは罪に打ち勝つところの勝利です。コリント人への第一の手紙15章55節から57節には「『死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか』。 死のとげは罪である。罪の力は律法である。しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである」と書かれています。パウロは、「『死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか』。」といいます。この言葉は、ホセア書13章14節からの引用だとされていますが、しかしパウロは、ホセア書13章14節を来るべき終末に対する予言の言葉であり、イエス・キリスト様の再臨の時にそれが成就するという意味合いでこの言葉を引用しているわけではありません。もともとホセア書の13章14節にある御言葉は「わたしは彼らを陰府の力から、あがなうことがあろうか。彼らを死から、あがなうことがあろうか。死よ、おまえの災はどこにあるのか。陰府よ、おまえの滅びはどこにあるのか。あわれみは、わたしの目から隠されている。」というものです。そのホセア書13章14節から、パウロは「死よ、おまえの災はどこにあるのか」という言葉を取り上げ、「災」を「とげ」に置き換えています。そうやって、もともとのホセヤ書の言葉の意味とは全く違うイエス・キリストの十字架の死と復活によって死に対する完全な勝利がなされたのだという新しい意味、それこそキリスト教の信仰の奥義を伝えているのです。そして、そのうえで、「死のとげは罪である。罪の力は律法である。」と言うのです。

死が、私たちの世界に入り込んできたのは、私たちの罪のゆえです。死は罪に対する報酬であるというのが聖書の言うところです(ロマ6:23)。死は、罪という機会を捕えて私たちのところには入り込み、律法という本来は私たちを神に喜ばれる者とするための規範である恵を、逆に私たちを裁き、死をもたらすための基準としてしまったのです。しかし、その死のとげがもはや取り去られました。パウロは、「死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」と言っていますが、それは、キリストの救いの恵が私たちを覆うからです。そして、罪がもはや私たちの支配していないからなのです。パウロは、このコリント人への第一の手紙の章50節から58節の文脈の冒頭にあたる50節で「肉と血とは神の国を継ぐことができない」と言っています。それは繰返し申し上げていますが、今のこの肉体と同じ肉体で神の国に迎え入れられるということではないということです。神に国には、今のからだとは違う新しい栄光の体が与えられて迎え入れられるのです。

このことは極めて重要です。と申しますのも、私たちの罪は、この肉と血、この肉体と深くかかわっているからです。私たちはプロテスタント教会ですが、カトリック教会には罪に関するおもしろい考え方があります。以前にお話し致しましたので、覚えておられる方もおられると思いますが、カトリック教会では罪を大罪と小罪に分けます。大罪とは、神と人間との関係を決定的に破壊し、人を天国に入らせず地獄へ落としてしまうような重大な罪のことです。具体的には、ガラテヤ書5章19節から21節にあるような「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐい」のようなもののようです。そして、これが大罪に当たる極めて重大な罪であると十分に認識し、またそれがもたらす結果も承知した上で、意識的にその罪を犯すならば、その人は天国に行くことは出来ず、永遠に地獄で罪の罰を受けなければならないのです。それに対して小罪とは、大罪に当たるような重大な事柄に関する罪であっても、十分な認識なしに罪を犯してしまったり、大罪にあたるような重大な事柄以外の罪を指しています。これらの罪は、懺悔をし、罪の償いをすることで赦され、天国に迎え入れられるのです。

しかし、そのような罪を引き起こす原因のもととなる、カトリック教会において7つの大罪といわれるようなものは、そのまま受け入れることは出来ないにしても、大いに参考になるものです。なぜならば、7つの大罪(罪源)のその多くが人間の欲望に結びついているからです。人間が罪を引き起こす根源に人間の欲望がからんでいる。これは極めて大切な見方です。カトリック教会関係のホームページなどを見ますと、どうやらカトリック教会では、傲慢、嫉妬、憤怒を精神的欲望とし、怠惰、強欲、暴食、色欲を肉体的欲望と区分しているようですが、人間の存在は精神と肉体は分けることが出来ません。また傲慢や嫉妬などは精神的要素でもありますが、外見や肉体的特徴、あるいは能力といった肉体的要因にも深く結びついていますの。そのようなことを考えますと、人間の罪は、人間の肉体と深く結びついているといっても良いだろうと思います。実際、先ほどあげましたガラテヤ書5章19節から21節はこのような言葉で導かれています。「肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、 ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない」

このように、神の国を受けつぐことが出来ないとされる罪、その罪を引き起こすものは肉の働きだというのです。もちろんパウロは、この肉と言う言葉を罪の性質という意味で使っています。ですから、パウロが言う肉が直接私たちの肉体を指しているわけではありません。しかし、パウロがその罪の性質をあえて肉というふうに呼ぶのは、それは、私たち人間に生まれながらに備わっている欲望が、私たちに罪を犯させる性質となってしまっているからだろうと思われます。つまり、私たちが、今、この肉体を持つ限り、私たちの体には、その罪の性質が染み込んでいるのです。そのような罪の性質を持つ私たちが、イエス・キリスト様にある完全な勝利に与るとき、その生まれつきの朽ちていく血肉の体をぬぎすて、神によって、新しい朽ちることのない栄光の体が与えられるというのです。それは、罪だけではありません。罪をひきおこす原因になる私たちの内的要因さえも脱ぎ捨てることが出来るというのです。まさにあたらしく生まれ変われるのです。そしてそれは、罪に対する完全な勝利でもあるのです。

私たちはこの完全な勝利を、主イエス・キリスト様によって神から賜っています。確かにそれは、やがて来る再臨の時の将来の出来事です。ですから時制で言うならば未来時制のものです。しかし、ギリシャ語の未来時制には確定的未来という要素があり、現在あることのゆえに、やがて来る未来の出来事が確かなものと確定しているのです。つまり、今、私たちが神を信じ、イエス・キリスト様を救い主であり、私たちの主であると心で信じ、口で告白するならば、死に対する完全な勝利と罪に対する勝利が確かな約束の成就として、私たちの内に実現するというのです。だからこそ、私たちは何があっても、この信仰に堅く立って動かされることなく、神を信じて生きてゆけば良いのです。そして、固く信仰に立って全力を注いで主の業に励んでいけばよいのです。

では、主の業とはなんでしょう。伝道でしょうか。礼拝でしょうか。献金でしょうか。奉仕でしょうか。もちろん、それらは確かに主の業です。しかし、全力を注いで主の業に励むというのは、これらのことにおいて、みんなが一律に何かをしなければならないということではありません。一人一人が持っている賜物には違いがあります。持っている重荷も違います。ですからそのような中で、一人一人がそれぞれに応じて、ご自分で出来る中で全力を注いでいればいいのです。そのことが尊いのです。そして、主の業に励むということは、これが主の業である、あれが主の業であるというように具体的に何かをあげるというよりも、まずなによりも神が私たちに語りかけ導いて下さる神の言葉に従って生きることなのです。

私たちが、神の言葉に聞き従い、神の導きに従って生きていると信じ歩むならば、私たちがなす事は、決して労苦に終わることはありません。たとえ、この世の価値観の中では、十分な成果が得られなかったとしても、堅く信仰に立って動かされず、全力を注いで主の業に励むものには、必ず主が再び来られる日に、神は、私たちを完全な勝利、死と罪に対する勝利に至らせ下さることで、私たちの労苦を完成してくださるのです。そのとき私たちは、その労苦は決して無駄ではなかったことを私たちは知ることができます。いや、そういった意味では、わたしたちはすでに完全な勝利を得ているといってもいいでしょう。確かな希望において勝利がすでに私たち与えられているのです。ですから、私たちはそのことを知り、そのことを信じて、この完全な勝利に立って、日々信仰の生涯を歩んでいきたいと思います。

お祈りしましょう。