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メッセージ

羊飼い 聖霊降臨日記念礼拝
『終末を生きぬく力』
ヨハネによる福音書 20章19−23節
ヨエル書 2章28−32節
2009/5/31 説教者 濱和弘

今日はペンテコステです。ペンテコステは、聖霊なる神が、神を信じるクリスチャンひとりひとりに、慰め主なる神、また助言者なる神として与えられたことを覚え、それを記念する日です。教会にとっては、クリスマス(降誕祭)とイースター(復活)と並ぶ、三大祝祭の一つです。ですから、今日の礼拝に私はガウンを着ていますが、つけているストゥールの色は赤色です。それは赤色が聖霊を表わすからです。そのように聖霊を赤色で表わすのですが、一体なぜ聖霊が赤色なのかと考えますと、イメージとしてあまりピントきません。この赤色のストゥールの裏側は白色になっているのですが、白色のストゥールには純潔、つまり聖化といった意味もある。そして、そこから私たちの罪をきよめ、聖化を与える神として神の栄光、キリストの栄光を表わす色として用いられるのです。そのように、白色が純潔というのは、イメージとして繋がるのですが、赤が聖霊とはなかなか繋がらない。どうやら、使徒行伝2章1節から3節に「五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、 突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。」とありますところから、この「舌のようなものが、炎のように分れて現れ」ひとりびとりの上に留まったその炎の赤色から聖霊が赤色で表わすということのようです。

そういわれると、「なるほどそういうことなのか」ということになりますが、ただ単に聖霊は赤色であるといわれても、それだけではなかなかイメージが湧いてこないのです。というのも、そもそも聖霊なる神は何であるかということ自体がイメージとして湧きにくいからです。聖書では、父なる神と御子なるイエス・キリスト様と聖霊なる神という三位一体の神が表されている。その中で父なる神というお方については、何となくイメージすることが出来ます。それは父という言葉が具体的イメージにつなげてくれますし、そのなされる業が天地創造や審判といった具体的な事柄と結びつくからです。つまり、何をなさるお方かということが具体的にイメージできるのです。おなじことはイエス・キリスト様についてもいえます。イエス・キリスト様は、人となられた神として、具体的にこの歴史の中にお生まれになり、十字架と復活という救いの業をなしました。その行動は福音書の中に留められていますから、イエス・キリスト様についてもかなり具体的なイメージを持つことが出来ます。

しかし、聖霊なる神はなかなか具体的なイメージにつながらない。ですから、聖霊なる神を具体的な働きと結び付けるのではなく、鳩といったものにイメージを借りたり、炎といったものにイメージを借りて表現したりするのです。それは、聖霊なる神の働きがなかなか具体的に分からないからです。実際、この聖霊というお方についての理解が、過去教会を大きな分裂に導いていった例は少なくありません。シスマとよばれる東方教会と西方教会の教会大分裂は、聖霊が父なる神から私たちのところに送られているのか、それとも父なる神と子なる神から私たちのところに送られているかという、聖霊の発生の問題、いわゆるFIRIOQUE論争ということによるのです。ほかにも、いま私たちの教会で学んでいるコリント人への第一の手紙には、コリントの教会において、聖霊の賜物について混乱があったことが記されています。このような混乱が教会を分裂に導いてしまうということがあるのです。だからこそパウロは、聖霊の賜物によって混乱している教会に適切な指導を与えているのです。

しかし、残念なことに、この聖霊の賜物や聖霊の働きが下で教会が別れ、分裂してしまうということは歴史の中では現実に起ってしまっています。特に、プロテスタントの教会において、教派が細分化して別れているのは聖霊を強調するグループだといわれます。そして、確かに聖霊を強調するグループに分裂や分派が多いのです。たとえば、最も近いところでは、甲子園リバイバルミッションが行なわれた頃、私たちの教会が属する福音派と呼ばれるグループに中に混乱が起きました。それは一部の聖霊の働き、特に癒しと預言の働きを強調するグループといわゆる福音派とよばれる私たちのあいだに、聖霊の働きに対する理解の違いが生じたからです。結果として何が起ったかというと、私たち福音派の諸教派である日本福音連盟(通常はJEAと省略していいますが、)と日本リバイバル同盟(通常はNRAと省略します)とに別れることになったのです。これもある意味、聖霊理解によって教会が別れた一例です。現在では、この両者の関係は決定的な分裂というわけではありませんが、それでもまだ深い溝があります。

このように、聖霊を強調するグループに分裂や分派が多いというのは、単に聖霊を強調するということに理由があると単純に考えてはいけません。そこには教会や伝統といったもの理解の問題もあるからです。しかし、聖霊の問題が教会の分裂に繋がりやすいということもまた、歴史的には確かにいえることなのです。それは、聖霊がどの様なお方であるか、あるいは聖霊の働きがどの様なものであるのかということが、聖書では、父なる神の働き、御子イエス・キリスト様の働きと比べるとそれほど具体的ではなく、聖霊というお方自体についても、その存在は分かりますが、しかし具体的には明確に記されていないからです。ですから、聖書では聖霊なる神は、息や風にたとえられたりもする。揺れている木や体で感じる感覚で風の存在を知ることができるけれども、風自体を見ることが出来ず、風が何であるか分からないからです。もちろん、聖書の聖霊というお方について全く語っていないということではありません。たとえば、ヨハネによる福音書14章から16章にかけてイエス・キリスト様はしばしば聖霊なる神について語られています。そこにおいて、イエス・キリスト様が語られる聖霊なる神は「助け主」であり、「真理に導くお方」であり、「慰め主」なのです。しかし、その「助け主」であり「真理に導くお方」であり、「慰め主」なるお方は、自ら慰めを与え、自ら真理を教え、自ら助けを与えることによって、ご自分を知らせる神ではありません。私たちの心にイエス・キリストにある慰めを置いていき、聖書の言葉の中に深い真理を発見させ、様々な出来事の背後にある父なる神の配慮と助けを感じ取らせてくれるのです。

そのとき、私たちは聖霊なる神を意識しません。イエス・キリスト様は意識するでしょう。父なる神も意識するでしょう。しかし、私たちは聖霊なる神の存在を決して意識はしないのです。そういった意味では、聖霊なる神は、自らを主張するお方でありません。むしろ、自らの存在を隠し、何かを指し示す存在なのです。ですから、今日の一部に見られるような「聖霊様」「聖霊なる神様」などと盛んに呼び求められるのは、もちろん間違ってはいないのですが、しかし聖霊なる神にとっては面はゆい感じがすることなのかもしれません。いずれにしても、聖霊なる神は自らを隠し、私たちにイエス・キリスト様というお方を指し示し、また父なる神を指し示すお方なのです。そして、私たちを正しい歩みに導いていくお方なのです。この聖霊なる神の「私たちを正しい歩みに導いていく」働きをして、私たちの教会の神学的ルーツであるジョン・ウェスレーという人は、「聖書は地図であり、聖霊はガイドである」と言ったと聞きます。まさに、自分ご自身で「真理はこうだ」「今はこうすべきだ」と教え示すのではなく、ガイドのようになって、「聖書にこう書いてある」と聖書の言葉を指し示しながら、私たちの行くべき道を示して下さるのです。あるいは聖書の言葉にたち語られる説教を通して、私たちに「そうだその通りだ」と受け止めさせて下さる。ですから、聖書だけでもダメ、説教だけでもダメ、聖霊なる神が私たちと共にいて下さることが本当に大切なことなのです。

だからこそ、イエス・キリスト様は、先ほど司式者にお読み頂いた、ヨハネによる福音書で、まさしく聖霊を象徴的に示す息を吹きかけて「聖霊をうけよ」というのです。それは、弟子たちが宣教の旅に出かけ、救い主なるイエス・キリスト様を指し示し、罪の赦しという真理を語るときにこのお方なしでは人々を導くことが出来ないからです。もちろん、聖霊なる神が必要なのは宣教ということのためだけではありません。聖霊なる神は慰め主であり、助け主ですから、私たちが普通に信仰者としてこの世にあって生活する上でもこのお方の助けが必要なのです。ですから、クリスチャンはだれでも、この聖霊なる神様が必要です。必要だからこそ、このお方は神を信じるもの一人一人に与えられているのです。その、聖霊なる神が私たちのところに送られた最初の出来事が、ペンテコステの出来事なのです。ペンテコステは、もともとは過ぎ越の祭りから50日目に、収穫を感謝して行われるユダヤのお祭りでした。その収穫感謝の祭りの時に、弟子たちに一人一人聖霊なる神が下って来て、そこから本格的な弟子たちの伝道が始まり、教会が立てあげられるようになったのです。そのような意味で、ペンテコステを教会の誕生日だと言ったりもします。

そのペンテコステの時に聖霊を受けた弟子たちは、聖霊なる神に助けを受けて、様々な国の言葉で神の働き、おそらくそれはイエス・キリスト様の救いの御業を語っていたのだろうと思います。その姿を、見て人々は「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」といってあざ笑ったというのです。おそらく、それぞれが別々の国の言葉で話し合っている姿が異常な姿に映ったのだろうと思います。先日、私がラテン語の勉強で、ラテン語のテキストを音読しておりますと、それを背中越しに聞いていた妻が、「何やってんの」と聞いてきました。それこそ、ラテン語は、現在は死語で、中世の歴史や哲学を学んでいる人間しか触れることのない言語です。それを音読している声を聞いて、妻は何か変なことをしているように思ったのでしょう。だから、「何やってんの」と聞いてきたのです。同じように、イエス・キリスト様の弟子たちが、公衆を前にして、それぞれが様々な国の言葉で話している。その中には馴染みのない言語もあったでしょう。そういった姿を見て変に思い「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」とあざ笑ったのだろうと思います。それに対してペテロは、弟子たちを代表して「私たちは酒に酔っているのではない。私たちの内に神に業が起こったのだ」といって弁明するのです。その弁明の言葉が、先ほど司式の兄弟にお読み頂いたヨエル書2章28節から31節の言葉なのです。

ペテロは、この聖霊が私たちのところに降って来たという神の業は、預言者ヨエルによって神が語った予言の言葉が成就した出来事だとそういうのです。そのペテロが引用した旧約聖書のヨエル書の言葉は『神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。その時には、わたしの男女の僕たちにもわたしの霊を注ごう。そして彼らも預言をするであろう。また、上では、天に奇跡を見せ、下では、地にしるしを、すなわち、血と火と立ちこめる煙とを、見せるであろう。 主の大いなる輝かしい日が来る前に、日はやみに月は血に変るであろう。そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう』。というものでした。この言葉は、もともとのヨエル書においては、やがて来る神の決定的な裁きの日に関して述べられたものです。

ヨエルが生きていた時代は紀元前800年頃とも言われますし紀元前600年頃とも言われますが、いずれにしろ、そのヨエルが生きている時に、南ユダ王国でイナゴの大発生があったようです。私はイナゴの大発生はテレビの記録でしか見たことがないのですが、大空をイナゴの大群が黒雲のように覆い、農作物をすべて食い尽くしていく、いわば天災です。ですから、人々の生活に大きな打撃を与え経済的にも困窮に陥れます。そのイナゴの大発生が起った。このイナゴの発生を見ていた預言者ヨエルは、この出来事を単なる天災としてとらえるのではなく、その背後にある神の裁きを見取ったのです。ヨエルが、そのように一見天災であるイナゴの大発生に神の裁きを見抜いたのには、それなりの状況が当時の南ユダ王国にはあったのかも知れません。ヨエル書1章5節には「酔える者よ、目をさまして泣け。すべて酒を飲む者よ、うまい酒のゆえに泣き叫べ。うまい酒はあなたがたの口から断たれるからだ。」という言葉がありますが、この言葉に匹敵するような自堕落な生活があったのかも知れません。いずれにせよ、イナゴの大発生に直面したヨエルは、悔い改めて神に立ち帰るようにと声を挙げるのです。そして、神に立ち帰るならば、神はイナゴの大発生によって荒廃した国を必ず回復してくださるというのです。もちろんそれは、神がヨエルという人物の人格や洞察力といった能力を用い、神のメッセージを伝えた神の預言の言葉でもありました。

そのヨエルの預言の言葉は、目の前に起っている神の裁きとしてのイナゴの大発生ということに対するものでは終わりませんでした。今、目の前にある困難、災い、裁き。それに対して、自分の罪を悔い改め、心を入れ替え、身を正して神に向って生きることによって、この困難、災いから救われ、それによって引き起こされた経済的困窮や飢饉から救われ回復することが出来ると言うことだけに留まらず、やがての将来についても語るのです。それが、ヨエル書2章28節から31節の『その後わたしはわが霊をすべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ。わたしはまた、天と地とにしるしを示す。すなわち血と、火と、煙の柱とがあるであろう。主の大いなる恐るべき日が来る前に、日は暗く、月は血に変る。すべて主の名を呼ぶ者は救われる。それは主が言われたように、シオンの山とエルサレムとに、のがれる者があるからである。その残った者のうちに、主のお召しになる者がある』という言葉なのです。ヨエルの言葉を借りて言えば、それは主の大いなる恐るべき日です。神が南ユダの国を決定的に裁く恐ろしい日です。イナゴの大群に神の裁きを感じ取り、悔い改めへと導く神の言葉を聞き取ることの出来たヨエルの宗教的感性が、ただ目の前の災いから救われることだけを求めて神に立ち帰るような生き方であるならば、やがて決定的な破滅が来ると感じ取らせているのです。

そして、その中で「その後わたしはわが霊をすべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ」というのです。旧約時代においては、神の言葉を取り次ぐというのはある意味預言者という特別な働きに召し出されたものの働きでした。そういった意味では神の霊は預言者という特別な働きをするものにだけ注がれていたのです。しかし、ヨエルは神の大いなる恐るべき日、まさに決定的な裁きが来るようなときにそうではないというのです。わたしはわが霊をすべての肉なる者に注き、あなたがたのむすこ、娘は預言をし、老人たちは夢を見、若者たちは幻を見。神の霊がしもべ、はしためにも注がれるというのですから、それはすべての人に神に霊が注がれ、神の言葉が託されるというのです。なぜ、すべての人に神の霊が注がれ、神の言葉が託されるのか。それについては、聖書はただ黙って目しています。けれども、そのように、神の霊が注がれ、神の言葉を託されたひとりひとりが向き合わなければならない状況ははっきりしています。

それは、「わたしはまた、天と地とにしるしを示す。すなわち血と、火と、煙の柱とがあるであろう。主の大いなる恐るべき日が来る」という決定的な神の裁きの時、神学的言葉で言えば終末論的な神の裁きの出来事です。その時に、神を信じ主の名を求めるものは救われるというのです。そして、この終末論的な神の裁きの前にたって、神の霊が注がれ神の言葉を託された一人一人がどの様な態度を取るのか、そのことをこのヨエル書2章28節29節の言葉が私たちに問いかけてくるのです。ペテロは、あの2000年前のペンテコステの日に、イエス・キリスト様が私たちに与えてくださると約束された聖霊なる神を注がれたとき、このヨエル書2章28節から31節が成就し、私に神の霊が注がれ、神の言葉が託されたといって、宣教の業に出ていったのです。それが、終末論的な神の裁きの前にたらたされた者の一人としてペテロが取るべき態度だったのです。

ちなみに、ペテロは31節の「主の大いなる恐るべき日が来る前に」という言葉を、「主の大いなる輝かしい日が来る前に」と言い換えています。この言い換えがペテロの意図的な言い換えであったのか、覚え間違いであったか、勘違いであったかは分かりません。しかし、「主の大いなる恐るべき日が来る前に」と「主の大いなる輝かしい日が来る前に」と言う言葉は、あまりにも逆の性質のものですから、ここはペテロの勘違いや覚え間違いというよりは、意図的に置き換えたと考える方がよさそうです。そして、あえてそのように置き換えたのは、イエス・キリスト様を信じ、イエス・キリスト様がもたらした福音に生きる者にとっては、この世が終わる終末に起る決定的な神の審判ももはや恐れるべき日ではなく、むしろ、神の救いに与り、天の御国に招き入れられる輝かしい喜びの日となるからなのです。ですから、ペテロの宣教は、神に裁きの恐怖に追い立てられて伝道するのではありません。むしろ神が与えてくれる救いの素晴らしさ、大きな希望にたって喜びを分かち合うための宣教なのです。

先日、教会総会が行なわれました。その総会の場で、私は牧師としての今年の牧会の指針と申しますが、このようなことを考えて牧師としてご奉仕したいと言うことをお話し致しました。それは当然、教会の役員会でも話し合われた上のことでありますが、2つのことを申し上げました。それは、私たちの教会が日本ホーリネス教団の教会として出発し、今もそれに属しているという教会のアイデンティティを持っているのであるから、その日本ホーリネス教団の原点であり私たちの教会の原点にある、伝道と聖会を大切にしようと言うことでした。その現われが、しばらくお休みしていた特別伝道集会と聖会の開催という形で表わされています。それは、まさに、このイエス・キリスト様がもたらしてくださる「主の大いなる輝かしい日が来る前に」、その「主の大いなる輝かしい日」に向って、神の霊である聖霊なる神を注いで頂き、神の言葉をたくされたクリスチャンが歩んでいく生き方であろうと思うからです。そういった意味では、私たちもまた、決して人々を恐怖に追い立てるところからではなく、神の救いに与り、天の御国に招き入れられる輝かしい喜びの日を分かち合うために伝道の業に励みたいと思います。そして、神を信じることの喜びを伝えるというのであるなら、私たちのも出来そうな気がします。

特別伝道集会という形になりますと特別な説教者が立てられたりといった、本当に特別な感じがしますが、特別伝道集会は、私たちの日々の伝道が終結する場としての特別であって、その根底には私たちの日々の伝道にあります。そして、その日々の伝道は、何か特別なことをする、福音を宣べ伝えて歩くということではなく、神の救いに与り、天の御国に招き入れられる輝かしい喜びの日という希望があることを信じて喜びながら生活することなのです。もちろん、そのような救いに確信をいただき、天の御国の希望があっても、現実の生活には問題が沢山あります。経済的な問題もあれば、子育ての問題もある。人間関係に問題などは、私たちを本当に疲労困憊させ、私たちの表情から笑顔を奪ってしまします。そのような中で喜んで生きろと言われても、それは難しいことです。その現実の問題を乗り越えていかなければならないのです。その問題を乗り越えていくために、私たちは聖霊なる神の助けが必要ですし、慰めが必要です。そういった意味でも、私たちが神を信じて喜んで生きていくということのためには、聖霊なる神様が私たちと共にいるということが絶対に必要なのです。そして、私たちに絶対に必要なものであるならば、父なる神も、子なる神イエス・キリスト様も惜しみなく与えてくださいます。だからこそ、あのペンテコステの出来事を通して、聖霊なる神が私たちに与えられているのです。

そして、この聖霊なる神は、私たちを真理に導いてくださるお方です。何年か前に、聖書を通して現代の社会情勢を見るとき、この世の終りである終末の出来事が良くわかるといった内容の本を見かけました。私は、その手の本はあまり興味がないので買ってまでは見ませんでしたが、現代に起っている様々な社会現象は、聖書がこの世の終りに起こるといわれている出来事に類似しているという内容であろうということは容易に想像できました。この手の論調の話は、それこそ私がクリスチャンになったころからずっとありますので、正直、またかという感じがして買う気持ちにはなれなかったのですが、しかし、この手の本は大事な一面も私たちに教えてくれていることは間違いありません。ヨエルは、イナゴの大群という自然現象、しかも天災を通して、神の裁きの声を聞き、人々を悔い改めに導きました。それはこの世界に起っていることを注意深く見、そこに働く神に御業を見抜く、まさに神の霊を与えられた預言者の業だといえます。そのように、私たちクリスチャンは、聖霊なる神をひとりひとり与えて頂いている存在として。この世の中にある様々な出来事を通して、そこに神の御業を見出していくものでなければなりません。それはある時には、自分自身を内省し、悔い改め新たに神に向き合って生きていく聖化(きよめ)の生き方に導くでしょうし、ある時には、神のみ業を見出して喜ぶことが出来るようになるためです。そうやって、一人一人が、今、私たちが生きている現実が、あのペテロが言う「主の大いなる輝かしい日」にむかっている一日一日であることを自覚しながら、神と向き合いながら生きていかなければならないのです。

そのために必要な力となる助け主である、聖霊なる神は既に私たちに与えられています。また、この聖霊なる神が、ガイドとして導いてくれる神の言葉である聖書も私たちに託されています。そして神の言葉が解き明されていく説教も毎週の礼拝で、また諸集会に備えられています。確かに、終末という時代に私たちクリスチャンが生きて行くには大変な時代です。クリスチャンだけではないすべての人が生きて行くには大変な時代なのです。けれども、大丈夫です。神を信じ、イエス・キリストを信じるものには、助け主であり、導き手であり、癒し主なる、聖霊なる神が与えられているのです。この終末の時代を生きぬいていくための支えと力が与えられているのです。ですから、私たちは、この聖霊なる神に導かれ、聖書の言葉を通して、また説教を通して、「主の大いなる輝かしい日」に向って、この終末に向って歴史が進んでいるその時代に神に喜ばれる聖い(きよい)生き方をしていくものになりたいと思います。そして、日々喜びながら生活することによって、神を証しし、神を信じ救われることの素晴らしさを伝えていくものになりたいと思うのです。

お祈りしましょう。