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メッセージ

羊飼い 『献げる心』
コリント人への第一の手紙 16章1−4節
ルツ記 2章1−16節
2009/6/7 説教者 濱和弘

さて、今日の聖書の箇所は新約聖書コリント人への第一の手紙16章1節から4節までです。私たちはこれまでコリント人への第一の手紙を通していろいろなことを学んでまいりました。それこそ、様々な問題を抱えていたコリントの教会に対して、パウロが具体的に教え導いていた言葉を通して、私たちの信仰の土台はイエス・キリスト様の十字架の上にあること、あるいは、私たちが聖くあるということはどういうことかということについて、また、教会の本質、教会の土台は互いに愛し合うということ、さらには、教会の問題の解決のためには相手を思いやる愛によらなければならないことや、イエス・キリスト様の復活を信じる信仰の大切さなどを学んできました。そのような一つ一つのことを、みなさんとご一緒に神を礼拝しつつ、説教の言葉を通して、神の語りかけとして聞き、私たちの信仰の歩みを共に導いて頂いたのです。そのコリント人への第一の手紙も、いよいよ結びの部分に入って参りました。今、お読み頂いきましたコリント人への第一の手紙16章1節から4節は、パウロがこの手紙を終えるにあたって記す挨拶の部分の冒頭にある言葉だと考えて頂いてよろしいだろうと思います。

そこには献金のことが書かれています。パウロは、手紙を書き終える最後の最後のところで献金のことについて語るのです。献金ということは、牧師としてはなかなか説教で取り上げにくい主題です。と申しますのは、お金の問題は時として信徒の皆さんの躓きとなってしまうことがあるからです。また、講壇から献金についてのお話しをしますと、それが何かプレッシャーのようになって、信仰生活を重いものに変えてしまうこともないわけではないのです。特に、私たち福音派の教会は聖書の言葉に忠実でありたいという思いを持っていますから、旧約聖書にイスラエルの民が、その年の収穫の10分の1を捧げるように定められたというところを見ますと、私たちもそのようにしなければならないとそう思うのです。そして、礼拝の説教などにおいて、たとえばマラキ書3章あたりに、10分の1のささげ物をしないことは神のものを盗んでいるというようなことが書かれている箇所から、私たちも収入の10分の1をささげていないとそれは神のものを盗んでいる、それは罪なのだなどと説教されますと、それは信仰をもって生きていく者に大変な重圧といいますか、重荷になってしまうことがあるのです。もちろん、そのような説教をなさる牧師も、悪意からそのようなことを語られるのではなく、神に仕え、神の言葉に忠実に従うこととの大切さを教えておられるのだろうと思います。しかし、説教を聞く側にたちますと、プレッシャーとなるということも確かにあるのです。

かく言う私も、実はそのようなプレッシャーを感じていた一人だからです。幸い、私はこの三鷹教会では、そのようなプレッシャーとなるような説教を聞いた記憶がないのですが、どこだったでしょうか、とにかく、先ほど申しましたような収入の10分の1の献金をしなければ、それは神の物を盗んでいるのと同じであって罪であるといったメッセージをどこかで聞き、本当に心が痛む思いがしたのです。というのも、学生時代の私は、月定献金がきちんと10分の1の献金としてできていなかったからです。おそらく、20分の1か15分の1ぐらいだったように記憶しています。というのも、それこそ貧乏学生でしたので、生活ぎりぎりの所でやりくりし、時には、フランスパン1個を買ってきて、それと1リットルのペットボトルに水を入れて、それでお腹をふくらませて1日を過ごすなんてこともたびたびありました。そして、そのような中で収入の10分の1をささげるということは、結構きついことだったのです。それでも、献金をささげるということの大切さは、何となく分かっていましたので、20分の1か15分の1ではありましたが、献金をおささげしていたのです。

ですから、仕事に就き自分の力で生活するのに十分な収入が得られるようになったとき、正直うれしい気持ちがしました。それは自分の収入の10分の1を毎月月定献金としてきちんとささげることができるということは、本当に純粋な喜びでした。それは、そうやって、教会を支え、キリストの業に与ることができる喜びでもあります。しかし、その反面で、ホッとする気持ちもありました。それは、これであの収入の10分の1をささげていないという罪悪感とプレッシャーから解放される安堵感からおこるホッとした気持ちだったのです。しかし、考えてみますと、献金という信仰による行ないが罪悪感やプレッシャーとして感じらえているとするならば、それはどこかに問題がある。いったいどこに問題があるのか。今日の聖書の箇所においてパウロは、「献金については、わたしはガラテヤの諸教会に命じておいたが、あなたがたもそのとおりにしなさい。一週の初めの日ごとに、あなたがたはそれぞれ、いくらでも収入に応じて手もとにたくわえておき、わたしが着いた時になって初めて集めることのないようにしなさい」といっています。ここでは、10分の1であるというような、具体的な数字をあげるのでもなく「あなたがたはそれぞれ、いくらでも収入に応じて手もとにたくわえておき」それをささげるようにしなさいというのです。それぞれが、それぞれの収入に応じて手もとにたくわえておくというのですから、いくらささげるかは一人一人の心にゆだねられているのです。

さきほど、私自身のことをお話し致しましたが、収入の10分の1の献金をしなければ、それは神の物を盗んでいるのと同じであって罪であるといったメッセージをどこかで聞き、本当に心が痛む思いがし、10分の1がささげられないでいる自分に罪悪感を感じプレッシャーを感じていたのは、10分の1という数字が一人歩きをしていたからです。そして、その数字どおりにささげられないから罪悪感を感じ、ささげられないことがプレッシャーになっていたのです。しかし、パウロは具体的な数字ではなく、「いくらでも収入に応じて」といって心に問いかけるのです。それは、まさに献金の本質を突いた言葉です。なぜなら、献金は義務でもなければ、どうでも良いいい加減なものでもない。私たちが、神の教会を支え、神のみ業に参加させて頂く一つの道だからです。本当に、自分が神のものであるという思いを持って、自らを捧げる気持ちからなさなければならないからです。ですから、心から捧げる思いがなければ献金は献金とはならないのです。それは、パウロが「週の初めの日ごとに、献金をあらかじめ手もとにたくわえておきなさい」というパウロの言葉に良く表れています。それは、献金を神のものとして、神の御用につかっていただくために聖別してとりわけておくということだからです。

私が就職をしたとき、私は短い期間でしたが田舎にある小さな教会にお世話になりました。その教会で、出会った青年は、私よりも年下でしたが、高校を出てすぐに就職しておられましたので、社会人としては私の先輩でした。その方は、毎月お給料をいただくと、自分が献金する金額をまず最初にきちんと分けて、その残ったものでご両親を支え、そして生活をしておられました。私は、その方の姿勢を見たときにこのかたは、本当に神様に献げておられる方だなと思ったのです。それに比べるとあの当時の自分は、献げきれていないものであったと認めざるを得ないのです。いや、実際に献げ切れていなかったのです。就職が決まった後、私はあるクリスチャンの友人と、それこそ真剣に収入の10分の1を献げるというけれども、それは手取りの10分の1か、額面の10分の1かを話し合ったことがあります。また、その10分の1は、月定献金として10分の1を献げるのか、それとも月定献金と他の集会献金等もろもろあわせて10分の1でいいのかについても真剣に話し合ったのです。そんなこと、誰にも聞くことができませんでした。なんだか献金を出し渋っているみたいで聞くことができなかったのです。いや実際出し渋る気持ちがあったのです。自分の収入の10分の1を毎月月定献金としてきちんとささげることで教会を支え、キリストの業に与ることができる喜びを感じていながら、でもできるだけ金額は抑えたい。そんな気持ちがあるから、誰にも聞くことができず、親しい友人とこそこそと話し合っていたのです。

ここでも、私は数字に捕われていたのです。心の中では相変わらず数字に捕われている部分があるからこそ、いくらささげるかの金額が気になったのです。だからこそ、あの時私は、献げきれていなかったというのです。献金において献げられているものは確かにお金です。しかし本当に献げられているのは、その金を捧げている私たちの心なのです。本当に、キリストの体を築き上げる教会の一人として、教会を支え、教会を通してキリストの業を行なっていきたい、そのような思いから献げられていくのが献金なのです。私は、今日の説教題を「献げる心」としましたが、「ささげる」と言う感じを、一般的な手へんに奉納の奉という字を用いないで南に犬とかく献の文字を使いました。それは、献金を捧げるということは、自分自身の心を神に捧げる献身の心を持って献げることが大切だという思いからです。そしてまさしく、献金とは私たちの神に献げる献身の思い、心がささげられるものなのです。それこそが、今日の聖書の箇所が語っているところのことでもあるのです。

パウロはコリントの教会の人たちに「献金については、わたしはガラテヤの諸教会に命じておいたが、あなたがたもそのとおりにしなさい。一週の初めの日ごとに、あなたがたはそれぞれ、いくらでも収入に応じて手もとにたくわえておき、わたしが着いた時になって初めて集めることのないようにしなさい」といいました。そのとき、パウロがコリントの人たちに求めたのは、本当に神に自らを献げる気持ちなのです。 だからこそ、「わたしが着いた時になって初めて集めることのないようにしなさい」というのだろうと思います。その場で、場を取り繕うようにして献金を集めるのではなく、本当に献げる気持ちを育み温めるように、「いくらでも収入に応じて手もとにたくわえておき」なさいというのです。それは、心から神の働きに与るためです。この献金に対してパウロは16章1節で「聖徒たちの献金については」といっています。つまりこの時、パウロがガラテヤの諸教会に、またコリントの教会に命じた献金は聖徒たちのための特別な献金だということです。この聖徒たちというのは、エルサレムにいるクリスチャンのことです。このとき、エルサレムにいるクリスチャンたちは、大きな飢饉に見舞われていたようです。そこで、彼らに支援を送ろうという話が起こり、パウロとバルナバがその人を負っていたのです。ですから、パウロとバルナバは、ガラテヤ地方の諸教会を初めとする、それこそその時代にあちらこちらにできていた教会にエルサレムの聖徒たちを支え支援するための献金の依頼書を送ったもの考えられます。

おそらくは、その献金の依頼は届いていたのだろうと思います。あるいは、ガラテヤの教会でパウロがエルサレム教会の困窮した現状に対して献金を募ったことを伝え聞いたのかもしれません。それに対して、コリントの教会の人がどういうことなのか詳細を聞いてきたようです。それに対して、パウロは「献金については、わたしはガラテヤの諸教会に命じておいたが、あなたがたもそのとおりにしなさい 一週の初めの日ごとに、あなたがたはそれぞれ、いくらでも収入に応じて手もとにたくわえておきなさい」というのです。ひょっとしたら、コリントの教会の人たちは、具体的なことを聞いたかもしれません。「パウロはどれぐらいの献金を集めようとしているのか、コリントの教会としては、それくらいの金額を負担すればいいのか」そういったことを聞いてきた可能性は十分にあります。実際、私たちが教区や教団の働きがあるとき、私たちの「どのくらいを必要がありますか」とたずねる場合もありますし、教区や教団の方から「いくらいくら」おささげくださいと言ってくる場合もあります。そのほうが、予算も組みやすいし、献げる方も目安があった方が楽だからです。

以前、教団が主催するある働きのために、三鷹教会にはこれこれいくらの献金をお願いしたいと文書で申し入れられたことがありました。その時私は、その申し入れを役員会にお伝えし、「献金は、私たちが自発的に心からお献さげするものだから、金額を指定してくるのは教会のあり方としては好ましくないのではないか」と私の私見ではありますが、私の考えを述べさせて頂きました。その時の役員会は、私の考えにご同意下さり、結果として私たちの教会は、皆さんの自由な献金に委ね、そうして捧げられたものをすべておささげしますという旨の手紙を教団宛に送り、実際にそうしました。結果として、教団が指定した額よりも多くのものをささげることができたのですが、金額が問題ではないのです。わたしたちがささげようと思った心がささげられたことが大切なのです。みなさんの中にはご存知の方もあろうと思いますが、ジョージ・ミューラーという人がいます。この人は、多くの孤児を養い、孤児の父と呼ばれている人です。彼は、ただ神に祈るだけで、誰かに援助を求めることも、自分の働きを外部にアピールすることもありませんでした。そうやって、2000人以上の子どもを養い育てる孤児院を運営し、生涯を通じて1万人以上の孤児を養ったといわれています。

ある時、ジョージ・ミュラーは神に祈っていました。孤児院を運営していくために具体的に多額のお金が必要な状況に陥っていたからです。もちろん、彼はこの時の外部に援助を求めませんでした。ただ祈っていただけなのです。そのとき、ジョージ・ミュラーのもとに、「あなたの働きを支えたいと思います。いくらでも結構ですのであなたが必要としている金額を知らせて下さい。その必要な金額を献金しましょう」という趣旨の知らせが入りました。祈っている中で、そのような知らせがあった。私たちならどうするでしょうか。私でしたら「祈りが答えられたといって、「ありがとうございます。これこれいくらの必要があります。」と答えるかもしれません。しかし、ジョージ・ミューラーは現実にある必要額については一切知らせることなく、「どうか、お祈り下さり、あなた献げようと思われたものをおささげください」と返事をしたというのです。結果として、献げられたものはその時、ジョージ・ミュラーが必要としているものであったといいます。私は、ここで、祈れば必ず必要はみたされるとか、祈りは必ず答えられるといったことを言おうとしているのではありません。ジョージ・ミューラーが、献金を申し出た人に、「祈って、その上で捧げようと思った金額をおささげくさい」といったささげものにたいする姿勢です。

「祈って、その上で捧げようと思った金額をおささげくさい」というその「祈って」ということは、神の前に献げるということです。ですから、それは神の業に参加する方法として捧げられるということです。そして、神の業に参加するのだから、あなたが心からの思いで献げられるものをお献さげ下さいというのです。このジョージ・ミューラーの献金に対する認識と態度を学ばなければならないと思うのです。祈りやほかのご奉仕と同じように、献金は神の業に参加する一つの道としてある。そして、それが神の業に参加するものなのでありますから、単に業だけではなく、神の心にも参加するものです。ですから、神の心と同じ心を持って献げられなければなりません。その神の心、それが何であるか?みなさん、神の心はとは何なのでしょう?

神の心、それは愛の心です。相手を慈しみ、相手を心から思いやり、相手を心からいたわる心です。パウロの心には、大きな飢饉で苦しんでいるエルサレムの信徒の顔が浮かんでいただろうと思います。そこには、パウロの具体的に知っている顔があっただろうと思います。そういった一人一人を慈しみ、思いやり、心配し、心から労る気持ちがあったのです。そしてそれは、神の心と重なり合うものでした。だから、パウロは献金を募ったのです。そして、その献金を捧げる人たちにも、義務感からでもなく、その場を繕うためでもなく、心からの思いのこもったものを献げるために、その場であつめるのではなく、「一週の初めの日ごとに、それぞれが、金額がどうこうというのではなく。収入に応じて手もとにたくわえておかれた」心のこもったものが献金として捧げられることを求めたのだろうと思うのです。

私は、今日のこのコリント人への第一手紙の1章1節から4節と共に、旧約聖書ルツ記2章1から16節までを読んでいただきました。このルツ記は、モアブの女性ルツの物語です。ルツはイスラエル人の夫と結婚していました。今日でいえば国際結婚です。しかし、早くに夫を亡くしてしまいます。夫を亡くしたルツは、夫の母親、つまり姑のナオミと共に、夫とナオミの故郷イスラエルの国に帰ってくるのです。先ほどお読みいただいた箇所は、帰ってきた後の話です。ナオミにとってイスラエルの国は故郷でも、ルツにとっては外国です。ですから知り合いがいるわけでもありません。そのような中で、ルツは畑に行って落ち穂をひろうのです。落ち穂というのは、麦を刈り取るときに、当時は手作業ですから、麦の穂から溢れて地面に何本かの麦の穂が落ちてしまう、その地面におちた麦の穂のことです。イスラエルの国では、収穫作業をしている人は、その落ち穂となった麦の穂は拾ってはならないことになっています。麦の穂だけではありません。ぶどう畑で落ちたぶどうの実もオリブ畑でおちたオリブの実も拾ってはならないのです。そもそも、麦畑であっても、ぶどう畑であっても、オリブ畑であっても、収穫物を全部収穫しきっててはならないのです。かならず少しは畑に残しておかなければならない。それは、貧しい寡婦や外国の人たちが、それを取って食べ、生きるためです。そのように神がお定めになったのです。

神は、たとえ畑を所有し、そこで労働し苦労して収穫を得られるようになったとしても、困っている人や、外国から来て弱い立場にある人が生きていけるように、ちゃんと配慮しておられるのです。そういった意味では、イスラエルの国は、古代の時代から福祉国家であったといえます。それは、神のお定めになった律法には、神の愛の心があるからだと言えます。もちろん、律法には裁きに通じるような厳しいと思われるような一面がないわけでもありません。そこには罪に対して決然となさる神の義、神の聖といった一面が反映されるからです。しかし、その義なる神は、同時に愛なる神です。その愛が、だれにでも等しく日を昇らせ、天を降らせるように、神のお造りになったこの世界のありとあらゆるものを、養われるのです。その愛が、この畑に落ちた落ち穂を拾ってはならないという神の命令に現れています。もちろん、現在の世界は、貧困や飢饉が溢れています。これは神がすべての人を愛し養うことを止めたからではありません。自分の冨を求め、自分の冨を惜しむ人間の欲が引き起こしたものです。いうなれば、私たち人間の罪の結果なのです。しかし、このルツ記の2章に出てくる畑の所有者のボアスは、畑で働く若者たちに、自然に落ちてしまった麦の穂だけではなく、わざと麦の穂を落としてルツに拾わせなさいというのです。そこには、神の愛の心に、心を重ね合わせるボアズの姿を見ることができます。自分の畑から得られる収穫物を惜しむのでもなく、豊に与えようとする愛があるのです。

外国で頼りにしていた息子を亡くし傷心の内にあるナオミを支え遠い外国にまでやって来たルツにも、愛の心があります。ルツ記には、そのように人を思いやり、慈しみ、人のために自らを献げる人の姿が溢れているのです。パウロが、コリントの人たちに「一週の初めの日ごとに、あなたがたはそれぞれ、いくらでも収入に応じて手もとにたくわえておき、わたしが着いた時になって初めて集めることのないようにしなさい」というとき、そこには、エルサレムの聖徒を思いやるパウロの愛の心があります。そのような愛の心をもって献金を献げるという、献げる者の姿勢を問うているのです。私たちが信仰生活を送るとき、献金ということは身近にあります。こうして礼拝や祈祷会の時には、献金の時がありますし、洗礼を受けると、月定献金の袋がわたされます。しかし、献金は決して強制されるものではありません。私たちが、教会を支え、教会を通してキリストの業を行なっていきたい、そのような思いをもって、喜び、感謝を持って心から献げられていくことが本当に大切なことなのです。献金は心を献げることだからです。だから献げる姿勢が問われる。

もちろん、教会の営みが続けられ、伝道をしていくには財政的な裏付けが必要になります。ですから、献金が豊に献げられることは、教会にとっては嬉しいことです。しかし、もっと大切なことは、それが本当に喜びのささげ物として、感謝のささげ物として、そして豊かな愛の心をささげ物として、心から献げられているのかということです。そして、それが喜びのささげ物、感謝のささげ物、そして愛の心からのささげ物であるからこそ、教会が献金を用いるとき、教会の働きもまた愛の心をもってそれがなされなければなりません。人を愛する心から、その献金が用いられなければなりませんし、互いに愛し合う交わりのために用いられなければなりませんし、互いに高めあっていけるような信仰の育成のために用いられなければなりません。そして私たちがより、神を愛し、自分自身を愛するように、隣人を愛することのために用いられていかなければならないのです。そして、私たち一人一人は、この三鷹教会がそのような神の愛の働きができるように、個々に召された一人一人なのです。ですから、心からの喜びを持ち、感謝の心をもってささげていく者でありたいと思います。これまでもそうであったように、これからもそうしていきたいと思うのです。

お祈りしましょう。