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メッセージ

羊飼い 『思いやる心』
コリント人への第一の手紙 16章5−18節
2009/6/21 説教者 濱和弘

ただ今、司式の兄弟にお読みいただきました箇所は、コリント人への第一の手紙16章1節から5節までの部分に引き続いて語られた言葉です。その16章1節から5節までの部分から、私は、「献げる心」という題で、献金するということは、いくら献げたかということではなく、心から献げることが大切なのだということをお話ししました。もし私たちが惜しむ心を持ちながら献げるのであれば、それは心が献げられていないのであって、それは献金にはなっていないのです。献金とは心を神に献げるものだからです。そのように、信仰には心が重んじられなければならないのです。たとえば、私たちの教会はプロテスタント教会です。プロテスタントの教会はその起源を宗教改革に持っていますが、宗教改革というのは、私の心が神の救いを受け止め確信できるという心の宗教としてのキリスト教の復興であったという側面を持っています。ただ教義を理解する、教会の教えに従って生きるというだけではなく、心が神を信頼し、心が救いの喜びを確信して喜ぶ。そのようなことを、私たちの信仰生活の中に取りもどそうとしたのが宗教改革という運動でもあったともいえるのです。そのようにキリスト教は心の宗教なのです。

たとえば私たちは、ときどききちんとした形式を持ったものを、形式主義であるといって批判することがあります。たとえば、プロテスタントの側から、カトリック教会のミサを形式主義であると批判するようなことがあります。かつての私もそのようなひとりであり、そのような批判を耳にすると、その批判に同意する者でした。また、プロテスタントの中でも、式次第をきちんと整えて、式次第を行なう教会のあり方を形式主義であると感じられる人もいるようであります。そして、もっと自由な礼拝の持ち方があるのではないかといった主張もあるようです。しかし、私は今は少し違った考えを持つようになりました。確かに、カトリックの礼拝には整えられた形式があります。そして、私たちが今こうしてともに神に献げている礼拝もまた、きちんとした式次第に従って行なわれています。だからといって、それが形式主義になっているわけではありません。形式を形式主義にするのは、それに臨む人の心です。どんなに形式張ったきちんとしたフォームによって決められている礼拝であっても、心から神を畏れ敬い、神を崇め讃える気持ちを持ってその式に臨んでいるならば、そこには真の礼拝が献げられているのです。

むしろ、どんなに生き生きとして喜びに満ちたような礼拝であっても、それが自由に自分たちのやりたいことができることによってえられる礼拝の喜びであるとするならば、それは真の礼拝ではないだろうとさえ思うのです。というのも、自分たちのやりたい礼拝ということになりますと、それは自分の心に思いが向いているからです。しかし、礼拝は神の心に思いを向けることだからです。ですから、私は、以前カトリック教会の礼拝を形式主義だと思い批判していたことを本当に申し訳ないことしていたと反省しているのです。そこで礼拝している人たちの心に目を向けず外見だけを見たのではないかと反省しているのです。大切なのは、どの様な思いを持って、だれに心を向けて礼拝を捧げているかというところにあるのです。ここにも、心の宗教であるキリスト教の特質が現れています。そのように、キリスト教の信仰には心が大切なのです。形式がいいとか悪いとかではなく、その形式にどの様な思い、どの様な心を込めているかどうかが問題なのです。それは信仰生活も同じです。どの様な信仰生活を送っているかが大切なのではなく、どの様な思いで信仰生活が送られているかが大切なのです。そして、その思いとは、神を思い、神に従って生きていこうとする私たちの心です。その心が、私たちの信仰生活を導き、整えていくのです。

神に従って生きていくということは、神の心に私たちの心を重ね合わせることです。そうすれば、神がお嫌いになるであろうものからは身を遠ざけるようになるでしょうし、神がお喜びになることは、私たちも喜んでそれを行なうようになっていくだろうと思います。そのようにしながら、私たちの信仰生活は整えられていくのです。それは、私たちと神との心と心の結び付きから生まれてくる信仰生活です。そのように、私たちの信仰にとって何よりも大切なものは心なのです。しかし、私たちが神のお心に自分の心を重ね合わせるといっても、いったい神のお心とはどういったものか、どうすれば神にお心を知ることができるのか、以外と難しい問題です。言葉で言うことは簡単なのですが、それを具体的な生活の中で実践していくということは以外と大変なことなのです。そもそも、私たちが神を知るといっても、具体的に、「これが神ですよ」と見せることはできません。神は霊ですから、本来は神のお姿すら見せることができないのです。そのような見せることのできないお方のお心を知るとなるとそれはもっと難しい問題です。けれども、聖書のヨハネによる福音書1章18節には、「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神を表したのである」というイエス・キリスト様の言葉が記されています。その言葉によれば、神のひとり子であるイエス・キリスト様を通して、私たちは神を知ることができるというのです。

本来、三位一体なる神は、私たちが見ることも触れることもできないお方です。しかし、その三位一体なる神の第2位格にあたる子なる神が肉体を取り人となられる事で、私たちに神というお方を具体的にお示しになって下さったと言うのです。ですから、私たちは、そのひとり子なる神イエス・キリスト様の生き方を通して神を知ることができますし、神のお心を知ることができます。そんなわけで、私はどうしたらいいか判断に迷うときには、イエス・キリスト様ならどうするだろうかと考えるようにしています。そういった意味では、聖書に示されているイエス・キリスト様の生き様の中に、神のお心が表わされているといえます。いえ、それは単にイエス・キリスト様の御生涯だけではありません。イエス・キリスト様の弟子として生きた人たちの生涯からも、神のお心というものを知ることができます。というのも、彼らはイエス・キリスト様を模範とし、イエス・キリスト様の生き様に倣って生きようとした人たちだからです。そういった意味ではキリスト教の歴史を学ぶと言うことは、イエス・キリスト様の弟子として生きた人たちの生き方を知るということにおいて、神を信じる者にとって非常に重要な事だと言えます。そのような私たちが学ばなければならない人のひとりが、このコリント人への手紙を書いたパウロだと言えます。

そのパウロが、このコリント人への第1の手紙16章5節から19節においてコリントの人たちをたずねようと思っているというその思いを述べています。5節6節です。「わたしは、マケドニヤを通過してから、あなたがたのところに行くことになろう。マケドニヤは通過するだけだが、あなたがたの所では、たぶん滞在するようになり、あるいは冬を過ごすかも知れない。そうなれば、わたしがどこへ行くにしても、あなたがたに送ってもらえるだろう。わたしは今、あなたがたに旅のついでに会うことは好まない。もし主のお許しがあれば、しばらくあなたがたの所に滞在したいと望んでいる。」このように、パウロがコリントの教会に行こうと考えている背景には、様々な問題を抱えているコリントの教会を訪問し、直接にかかわり、問題を解決しようというパウロの思いが見え隠れしています。これまでにもお話ししてきたことですが、コリントの教会には問題が山積していました。ですから、その問題にどう対処したらよいかを、エペソに滞在していたパウロに相談してきたのです。その相談に対して具体的な支持を書いたのがこのコリント人への第1の手紙なのです。この時、パウロが、コリントの教会の人たちに、「私があなたがたのところに行く」といってもすぐにいける状況ではありませんでした。「しかし五旬節までは、エペソに滞在するつもりだ。というのは、有力な働きの門がわたしのために大きく開かれているし、また敵対する者も多いからである」といっていますから、この時滞在中であったエペソでの伝道が重要な場面を迎えていたと思われます。

もともと巡回伝道者として、福音を述べ伝えていたパウロですから、エペソでの伝道が重要な局面を迎えていたのであれば、コリントの教会には返事を書いたのですから、コリントの教会に対する一応の義務は果たしたことになります。しかもそれは、実に丁寧な手紙ですから、なさなければならない牧会上の義務果たしたといわれる以上のことをしているのです。けれども、パウロは「手紙でちゃんと返事をしたのだからそれで良いだろう」とはいわないで、自分が問題解決のために直接行くというのです。そこには、パウロのコリントの教会の人を思う深い思いやりの心があります。コリントの教会の人のことを思いやり心配するから、手紙で返事を書いたからもう義務を果たしたあとは自分たちでおやりなさいというのではなく、自分もその場にいって、ひとつひとつコリントの教会のためになるように問題を解きほぐし解決していこうというパウロの気持ちが表れているのです。だからこそ、「わたしは、マケドニヤを通過してから、あなたがたのところに行くことになろう。マケドニヤは通過するだけだが、あなたがたの所では、たぶん滞在するようになり、あるいは冬を過ごすかも知れない」というのです。ただの表敬訪問なら通過するだけということもあるでしょう。しかし、パウロはそうではなく、「たぶん滞在するようになり、あるいは冬を過ごすかも知れない」といって腰を落ち着けて問題の解決にあたろうと思いを伝えるのです。

それだけではありません。わざわざ「そうなれば、わたしがどこへ行くにしても、あなたがたに送ってもらえるだろう」といって、という言葉を書き添えているのです。そこにはコリントの人たちに「パウロが自分たちのためにわざわざ訪ねて来たのだ」といった心的な負担をかけないような細やかな思いやりを感じます。「私がコリントに行くのは、私があなたがたに送ってもらいたいからであって、わざわざでかけていくのではないから負担に感じなくていいよ」というわけです。私は、パウロがもともとこのような細やかな思いやりの心を持った人なのかどうかについては、いささか疑問です。というのも、パウロがまだサウロと呼ばれ、クリスチャンを迫害し投獄していたという話から受けるパウロのイメージは、このような思いやりとは縁遠い人だからです。むしろもっと粗野で荒々しく猛々しい感じがするのです。確かに、それは推測にすぎません。そして、これまた憶測に過ぎないのですが、私は、サウロという名で呼ばれ、クリスチャンを迫害するために追い回し、捕え、投獄していた荒々しいパウロが神を信じるようになり、神を思い生きるものとなったとき、かつてイエス・キリスト様の弟子たちを迫害していたような自分までも心にかけ救って下さったイエス・キリスト様のことを思い過ごす中で、豊かな愛と思いやりの心を持つようになったのではないかとそんな気がするのです。もちろんこれ憶測です。この事を証拠立てる確かな聖書的根拠はありません。でも、そんな気がしてならないのです。

そのような、細やかな配慮は自分の同労者にも向けられています。10節、11節に「もしテモテが着いたら、あなたがたの所で不安なしに過ごせるようにしてあげてほしい。彼はわたしと同様に、主のご用にあたっているのだから。だれも彼を軽んじてはいけない。そして、わたしの所に来るように、どうか彼を安らかに送り出してほしい。わたしは彼が兄弟たちと一緒に来るのを待っている」といって、テモテへ配慮してあげて欲しいとコリントの教会の人々に頼んでいます。そこには、自分よりも年若く、経験も浅いテモテに対するパウロの思いやりが見られると同時に、そうやって、若い伝道者を思いやり大切にし、育てていくことによって、コリントの人たちにもキリスト者としての思いやりのある心を育てて行こうとするパウロの気持ちが読みとれます。私は、このパウロのテモテへの思いやりを見るとき、10年前に私がこの教会に来たときのことを思い出さずにはいられません。10年前、前任の加藤安子牧師が交通事故という思いもよらない出来事で召された後、加藤亨牧師お一人で牧会をするのは大変だろうということで、加藤亨牧師が引退し後任の牧師を迎えることになり、私たち夫婦が任命されてきました。

そのときに、教会員の皆さんは、加藤亨先生のことを思いやり、できるだけ先生に近い牧師を招きたいということで、教団に私を送って欲しいと要請を出されたのです。もちろん、私たちの教団は任命制ですから、要請が出されても任命されるかどうかは分かりません。実際、その前年にも、他の教会から私を牧師として招きたいという要請が教団にだされたそうですが、教団はその要請に応じることありませんでした。ですから、この三鷹教会が教団に要請を出してもそれが必ず通るという保証はなかったのです。けれどの、結果として要請通り私たち夫婦が任命されてきたのですが、そこには、皆さんの加藤亨牧師に対する思いやりの心から献げられた祈りが、神の手を動かし、教団委員会を動かしたのだろうと思います。そこには、教会の皆さんの加藤亨牧師へ思いやりがあった。また皆さんは、任命を受けてきた私たちに謝儀の面を含み様々な面にわたって十分に配慮して下さいました。そこにも、皆さんの私たち家族に対する配慮があった。そして私たちは、そのことに本当に感謝しているのです。それだけではありません。私は今でも鮮明に覚えているのですが、私が任命を受けたときに、加藤亨牧師は、教会の各員会で「濱は超教派の働きに重荷を持っているので、そのことを理解してやって、濱に超教派の働きをさせてやって欲しい」と頼んで下さったのです。そのとき、役員だった方は覚えていらっしゃるだろうと思いますが、加藤亨牧師はそういって下さった。そこには、引退する老牧師が、新しく迎える若い牧師を育て養おうと思いやる心があったのです。

超教派の働きをしますと、どうしてもそちらに時間がとられてしまうことが少なからずある。ですから、教会によっては牧師が超教派の働きをすることに難色を示す教会もあります。そのような中で、「彼が重荷を持っている働きをやらせてやって欲しい」と頼んで下さる老牧師の姿が、ここでのテモテのことを「テモテが着いたら、あなたがたの所で不安なしに過ごせるようにしてあげてほしい。彼はわたしと同様に、主のご用にあたっているのだから。だれも彼を軽んじてはいけない。」というパウロの姿に重なって見えるのです。そして、教会の皆さんも、快くそれを受け入れて下さり、私をPBAの働きに送り出して下さった。そういった意味で、10年前の皆さんの思いやりと加藤亨牧師の思いやりが、今日、私の奉仕を支えて下さっているのだと思うのです。そのような思いやる心が、教会を立たせていく。だからパウロは、コリントの教会の人たちにも、テモテに対して「テモテが着いたら、あなたがたの所で不安なしに過ごせるようにしてあげてほしい。彼はわたしと同様に、主のご用にあたっているのだから。だれも彼を軽んじてはいけない。」といって心を配って欲しいと言っているのです。具体的に何かをする、具体的にこうするという以上に、そのような思いある心が、人を生かし、人を育てるからです。それは思いやりをかけられた方も思いやりの心を持ったものとなるからです。だからこそ、パテモテだけでなく、ステパノやステパノの同労者のことも託すのです。

パウロはその際、「目をさましていなさい。信仰に立ちなさい。男らしく、強くあってほしい。いっさいのことを、愛をもって行いなさい。」といっています。13節、14節です。「目をさましていなさい」という言葉は、新約聖書ではしばしば終末にからめて用いられます。イエス・キリスト様の再臨がいつあるか分からない、だから目をさまして待っていなさいということです。それは、様々な倫理的問題を持っていたコリントの教会に対して、イエス・キリスト様のまだ再臨は来ない、この世の終わりと再臨はまだ先といって緊張感のない生き方をするのではなく、神の前に緊張感を持って信仰生活を送りなさいというパウロの薦めの言葉でしょう。「信仰に立ちなさい」というのは、イエス・キリスト様の十字架の死を仰ぎ臨み、そこに神の愛と恵を見出して、神を信じる信仰に生きなさいということだと考えられます。そして、男らしく強くあって欲しいというのは、問題にきちんと向き合い、それに取り組んで欲しいというパウロの思いがそこにあるのです。そのような、一つ一つの言葉をかけながら、パウロは、いっさいのことを愛をもって行ないなさい」というのです。結局パウロは、「目をさましていなさい。信仰に立ちなさい。男らしく、強くあってほしい」といったことは、愛がなければできないのだというのです。

喜劇王といわれたチャールズ・チャップリンは、ライムライトという映画の中で「もしあなたが人生というものに恐れを感じなければ、人生とは素晴らしいものだ。そして、人生に恐れを感じないために必要なものは勇気と想像力とそしてわずかのお金、それだけだ」といいました。たしかに、人生に恐れというものがなければ、私たちの人生は素晴らしいものになるでしょう。確かに。私たちの人生から恐れを取り除くものは、勇気や想像力、そしてわずかなお金かもしれません。チャップリンはそれがすべてだといいました。しかし、聖書はもう一つ、いえ、それら全部がなくなってもなくしてはならない大切なものをあげています。ヨハネによる第一の手紙4章18節です。そこにはこう書いてあります。大切な御言葉ですからお開きいただいて皆さんと声を合わせて読みたいと思います。お読みします。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである」ここには、私たちの人生から恐れを取り除くものは愛だといっています。それは恐れには懲らしめが伴うからだというのです。逆に言えば、愛には懲らしめが伴わないということです。それは、愛は懲らしめるのではなく受け入れるものだからです。

神が私たちを愛して下さり、私たちがその神の愛にとどまるとき、私たちはどんな時にも神に受け入れられています。受け入れられているからこそ、どの様な失敗も恐れることなく生きることができます。そこに初めて、男らしく、強くありなさいという言葉が指し示す、問題にきちんと向き合い取り組む勇気が与えられるのです。だから、私たちは、私たちを愛して下さる神の愛にとどまり、神を愛して生きるものとならなければならないのです。それだけではない、この世にあって神の愛によって固く結ばれ歩んでいかなければなりません。それが教会という神の民の生き方なのです。私は、今日の説教を「いったい私たちが神のお心に自分の心を重ね合わせるといっても、いったい神のお心とはどういったものか、どうすれば神にお心を知ることができるのか」という問いで始めました。そして、それに今お答えしたい。「いったい神のお心とはどういったものか。」それは「愛する心」であると。

そして、「どうすれば神の心を知ることができるのか」という問いには、私たちが「『イエス・キリスト様が私たちを私たちの罪と罪に対する裁きから救い、私たちの滅び行く運命から救いたもうために十字架の上で死なれたのだ』ということを信じ、キリストの十字架を見上げることによってである」とお答えしたい。そして、その愛するという心は、具体的には、様々な場面で人を思いやる心となって現れるのです。ちょうど、今日の聖書箇所のパウロのようにです。確かに、それは人を思いやる愛の心です。しかし、その人に対する愛の心の背後には神のお心があるのです。だから相手も思いやり愛の心があるのです。自分の事ばかり考えるのではない。自分を主張するのでもない。相手を思いやる心から何かをする。それが神の中にある、イエス・キリスト様のお心の中にある神の愛です。ですから、神に心を重ね合わせるということは、相手を思いやる心を持つということから始まるのです。私たちは、この心を持って神を愛し、隣人を愛し、互いに交わりをもって歩んでいきたいと思います。

お祈りしましょう。