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メッセージ

羊飼い 『呪いと祝福の挨拶』
コリント人への第一の手紙 16章19−24節
2009/6/28 説教者 濱和弘

さて、私たちは昨年の1月20日から今日まで、おおよそ1年半かけて、このコリント第一の手紙が語りかけてくるメッセージに耳を傾けて参りましたが、その間に教会には本当にいろいろなことがありました。そこには、長く祈りの内にあったN兄姉をアメリカに送り出すという淋しいことや、何名かの兄弟姉妹を天国に見送るという辛い経験もあれば、また、K君やSさんといった韓国からきた兄弟姉妹との交わりを持つという楽しい思い出もあります。本当に、いろいろなことがあり、大波や小波を超えながら、教会は歩んできました。そのような中で、私たちはこのコリント人への手紙から神の言葉を聞いてきたのです。しかし、そのコリント人への第一の手紙もいよいよ最後の言葉となりました。パウロは、このコリント人への第一の手紙、16章19節から24節で最後の挨拶を述べています。多くの注解書を見ますと、パウロの最後の挨拶は13節から24節までが最後の挨拶として区分されています。それは、最後の結びの言葉として、13節14節において「目をさましていなさい。信仰に立ちなさい。男らしく、強くあってほしい。いっさいのことを、愛をもって行いなさい。」といって、原則的な勧告の言葉を述べ、感謝を述べ、「ステパナとポルトナトとアカイコに従うように」といった具体的な勧告の言葉を述べて、挨拶の言葉を述べ、神の祝福を祈るという、勧告と挨拶と祝福の祈りを持って手紙を終わるのがパウロの手紙の締めくくり方だからです。

しかし、今回私は、あえて19節から24節までを分けてお話ししする事にしました。というのも、このコリント人への第一の手紙の19節から24節には、驚くような言葉が書かれているからです。それは、22節の「もし主を愛さない者があれば、のろわれよ。マラナ・タ(われらの主よ、きたりませ)。」という言葉です。パウロは、このコリント人への第一の手紙の中で、繰返し愛することの重要性を述べています。この22節の言葉の直前の言葉でも「あなたがたも互に、きよい接吻をもってあいさつをかわしなさい。」(20節)といっているのです。それは、教会に集う一人ひとりが互いに麗しいきよい愛の交わりで結びあわされることを勧める言葉だと言っても良いでしょう。ところが、この22節になりますと、一転して「もし主を愛さない者があれば、のろわれよ」というのです。しかも、パウロ自身が、「手ずからあいさつをしるす」といってこの言葉を書き記すのです。パウロが、「手ずからあいさつをしるす」というのは、パウロはどうやら目が悪かったようで、自分の手紙を誰かに口述筆記させたようです。そして、最後の署名だけは自分自身で記したようなのです。そういったことを考えますと、パウロが、「ここでパウロが、手ずからあいさつをしるす。」(21節)といって、「もし主を愛さない者があれば、のろわれよ」というのは、挨拶の言葉としては、あまりにも強烈です。

いったいパウロは、どうしてこのようなことを言うのか。みなさんはどう思われるでしょうか。わたしは、不思議でならなかった。まぁ、そのようなわけで、最後の挨拶の言葉だからといって、通り過ごすことができなかったのです。それで、いろいろと調べてみました。こういう場合は、まず元々の言語であるギリシャ語に戻って、その意味から調べていきます。そうすると、この呪われよという言葉はαναθεμα(アナセマ)という言葉です。そして、その意味はやはり「呪われる」もしくは「見捨てられる」という意味です。「呪われよ」と「見捨てられよ」という言葉は、若干ニュアンスが違う感じがしますが、しかし、どちらも相手の不幸を願う言葉ですから、パウロがこのような言い回しをあえて使った意味は単語の意味だけでは分かりません。そうなると、どのような状況で「もし主を愛さない者があれば、のろわれよ」という言葉が使われていたかを調べて見なければなりません。そうすると、ある注解書には「この言葉は当時の教会で一般的によく使われた言葉からの引用であろう」というような解釈が書いてありました。しかし、そうすると、当時の教会では「もし主を愛さない者があれば、のろわれよ」という言葉がよく使われていたとしたならば、そのような教会の姿はマタイによる福音書5章44節で「あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と言われたイエス・キリスト様の言葉からどんどんと遠ざかっていくような気がします。

実際、人に対して「呪われよ」とか「見捨てられよ」いう表現を投げかけているのは、新約聖書の中ではあまり使われていません。それこそ、このコリント人への第一の手紙16章22節以外では、ガラテヤ書1章8節9節に「しかし、たといわたしたちであろうと、天からの御使であろうと、わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その人はのろわるべきである。わたしたちが前に言っておいたように、今わたしは重ねて言う。もしある人が、あなたがたの受けいれた福音に反することを宣べ伝えているなら、その人はのろわるべきである。」といっているぐらいです。ですから、「もし主を愛さない者があれば、のろわれよ」という言葉が、挨拶の中で頻繁に使われていたというわけではなさそうです。いえ、教会の中で、そうそう人を簡単に呪うようなことがあってはならないのです。むしろ、教会は「あなたの敵を愛し迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)と言ったイエス・キリスト様の言葉に生きるべきなのです。だとすれば、なぜあえて、パウロはここで挨拶の言葉として、「もし主を愛さない者があれば、のろわれよ」というのか、ますます謎は深まっていきます。

榊原康夫という聖書学者は、おなじコリント人への第一の手紙12章3節に、「そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも『イエスはのろわれよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない。」という言葉があることを取り上げて、コリントの教会に、霊に満たされたといって「イエスはのろわれよ」という人たちがいて、パウロはそのことを思い出して、その人たちのことを意識してこう言ったのではないだろうかといいます。コリント人への手紙12章というのは、霊に賜物について語られているところです。そこで、神の霊に満たされたという人が「イエスはのろわれよ」といいだしたならば、当然、教会は混乱します。それこそ牧師の私が、「イエスは神ではない、神の子でもない、ただの人だ」といいだしたら、この三鷹教会は大混乱になってしまうだろうと思います。それほどの重大なことです。だからこそ、「私は神の霊に満たされた、その神の霊が『イエスはのろわれよ』と言う」などと言う人を厳しく咎めるために、あえてそのような人の言葉をそのまま用いて、「もし主を愛さない者があれば、のろわれよ」といったというわけです。私は、その説明を読みながら、確かにそれはあるかなと思いました。というのも、この「のろわれよ」という言葉、αναθεμα(アナセマ)という言葉が、その後の教会の中でどの様に使われてきたかと言うことを思い出したからです。

パウロの時代のちょっと後の時代、それでも紀元2世紀の半ば頃には古ローマ信条という古代教会の信仰告白ができてきます。我々が信条として知っているのは礼拝で皆さんと共に唱和する使徒信条ですが、この使徒信条の元になったものがローマ信条です。教会は、かなり早い段階から信仰告白という、自分たちは何を信じているのかというものを短い定式文にして言い表していました。そのもっとも、古いものが「イエスは主である」という信仰告白であると言われています。先ほどのコリント人への第一の手紙12章3節において「だれも聖霊によらなければ『イエスは主である』ということができない」といわれていたまさに、それがもっとも古い信仰告白なのです。そして、この「のろわれよ」αναθεμα(アナセマ)という言葉は、この信仰告白と結び付けられて使われるようになってきたのです。たとえば、更に後の時代には、教会会議などでキリスト教の重要な教理が決められた後などに、この決定に従わないものはαναθεμα(アナセマ)「のろわれよ」といったふうにも言うようになりました。この場合、このαναθεμα(アナセマ)「のろわれよ」という言葉は、破門するという意味なのですが、そのような使われ方になっていくのです。

つまり、このαναθεμα(アナセマ)「のろわれよ」という言葉は、自分たちの信仰が立つか倒れるかのような重要な問題のときに、その信仰の命を失わせてしまうようなことを言う者たちは、神の民の中から取り除かれよというニュアンスをもった言葉なのです。まさに、主を愛するのではなく、むしろ「キリストはのろわれよ」という人は、キリスト教会の中からキリストを取り除いてしまうことになる。だからそういったことを言う人こそ、キリスト教会から取り除かれなければならないと言うのです。確かにキリスト教会からキリストを取り除いたら、教会にしかなりません。以前、私が牧師をしていました愛媛県の土居教会では、真ん前に天理教の教会がありました。ですから教会だけでは天理教の教会なのかキリスト教会なのか区別が付きません。以前、前任の加藤亨牧師が、「この教会が設立するときに三鷹ホーリネス教会ではなく、三鷹キリスト教会にしたのは、それこそ、教会だけなら天理教の教会もあれば、いろんな教会がある。ホーリネス教会だったらそれがキリスト教会かどうか分からない。だから三鷹キリスト教会としたんだ。三鷹キリスト教会だったら、だれもがキリスト教の教会だと分かるだろう」といっておられました。

もちろん、これは名前の問題ですが、しかし、そこには大切な問題提起がなされています。すなわち、キリスト教会に、キリストがいなければ、そこはもはやキリスト教会ではないということです。もっと平たく言えば、教会でキリストが神の御子として、畏れ敬われ、崇められて、礼拝されていなければ、そこはもはやキリスト教会ではないということです。父なる神が語られるだけではダメ、また聖霊なる神が語られるだけでもダメ、もちろん、父なる神も聖霊なる神も教会にはなくてはならない大切な存在なのですが、同時に、そしていつもイエス・キリスト様が語られ、信じられ、崇められ、礼拝されなければキリスト教会はキリスト教会ではなくなるのです。そしてイエス・キリスト様が語られるとは、その十字架の救いが語られる事です。ですから、「イエス・キリスト様が信じられるというとき、それはイエス・キリスト様は私たちの救い主である。」ということが信じられるのです。そして、イエス・キリスト様が崇められ、礼拝されるのは、イエス・キリスト様が私たちの主だからです。

この「イエスは主である」という言葉の主という言葉、新約聖書の言葉κυριο?(キュリオス)は神を意味する言葉です。ヘブル語でも神の名は大祭司が年に一度、犠牲の血をもって至聖所に入ったときにだけ口にすることができないような畏れ多い名でしたから、人々は神のことを、名前では呼ばず主という意味のアドナイと呼んだのです。そのように「イエスは主である」といってイエス・キリスト様を畏れかしこみ、敬い、崇め、礼拝する者達の群れがキリスト教会であり、私たちは、そのキリスト教会に集い、そのような教会に招き入れられているのです。パウロが、「もし主を愛さない者があれば、のろわれよ」という背景には、「イエスはのろわれよ」といって、キリストの教会からキリストを追い出そうとする人たちがいるような、まさにコリントの教会が立つか倒れるかといったような、まさしく教会の危機的状況の中から語られたのです。ですから、それはただ相手をのろうために語られた言葉と言うよりも、キリスト教会がキリスト教会であることを守るために語られた言葉だと受け取ってよろしいだろうと思います。

キリスト教会をキリスト教会たらしめる教会の命であるキリストを守りつたえ、このお方を信じ、崇め礼拝しながら、イエス・キリスト様に従って生きることの大切さをパウロはこのαναθεμα(アナセマ)「のろわれよ」という言葉を通して教えるのです。そして、キリスト教会がキリスト教会らしく存在しているならば、「マラナ・タ(主よききたりませ)」と大胆にいうことができるのです。この「マラナ・タ」という言葉はアラム語であり、聖書に書いてあるとおり、「主よきたりませ」という意味です。そして、パウロに時代から、今日に至るときまで、我々クリスチャンが、「マラナ・タ」というとき、それは十字架につけられ死なれたイエス・キリスト様が再びこの世界に来られるこの世の最期のときを指しています。その世の最期、それはこの世の終りのとき、滅びのときですから、本当ならあまり来て欲しくはない絶望と恐怖のときです。そのような滅びのとき、世の終りのときですら、キリスト教会に集い、キリスト教会に招かれているものは、「主よきたりませ」といって待ち望むことができるのです。それは、キリストが再びこの世に来られる再臨のときこそ、私たちの救いが完成するからです。この救いの完成は、このコリント人への第一の手紙の15章でいわれている、死にも打ち勝つ完全な勝利のときです。そのような将来の希望が神を信じるものには与えられている。だからこそ、その希望によって、「マラナ・タ(主よ来たりませ)」ということができるのです。

ところで、この「マラナ・タ」という言葉は、「主よ来たりませ」という願いの言葉として訳されますが、実は「主はこられる」と訳すこともできます。実際に、文語訳聖書などは「われらの主は来た給う」というふうに、「主はこられる」というふうに訳しています。このような「主は来られる」という訳も、実質的には将来の出来事を語っていますから、「主よ来たりませ」も「主は来られる」という訳も、やがて来る終末の出来事を見据えているので大きな違いはないと言えばないと言えます。そして、実際は「主よ来たりませ」の訳の方が正しいだろうと思われます。しかし、私には、何となく「主は来られる」という訳も捨てがたいのです。と申しますのも、確かに「主よ来たりませ」も「主は来られる」という訳も、やがて来る終末の出来事を見据えているので大差はないと言えばないと大差はないのですが、しかし、それでも微妙なニュアンスの違いがあるように思えるのです。

たとえば、「主よ来たりませ」といわれると、何だか主が来られるのはしばらく先で、なかなかお見えにならないので「主よ来たりませ」と願い祈っているような感じがする。けれども、「主は来られる」といわれると、何だかすぐにもイエス・キリスト様がお見えになるような感じがするのです。もちろん、このようなニュアンスの違いは、私が日本語で聖書を読み、日本語の感覚の中で感じ取っているニュアンスの違いですから、英語圏の人や、ましてやこの当時のギリシャ語圏にいた人たちが、そのようなニュアンスの違いを感じるかどうかは定かではありません。しかし、それでも私は、このニュアンスの違いは、この聖書の箇所にあるように思うのです。どうしてか。それは、この「マラナ・タ」という言葉が、聖餐式において使われる言葉だからです。

パウロの時代のすぐ後の1世紀後半から2世紀初め、パウロの殉教が1世紀半ばの紀元64、5年だと言われていますから、本当にすぐ後の1世紀後半から2世紀初めぐらいに書かれた12使徒の遺訓という文書があります。このような、パウロやペテロ、ヨハネのような弟子たちに続く第2世代の弟子たちを、使徒教父といいます。ポッリュカルポスやクレメンス、イグナティオスといった人が、その使徒教父にあたりますが、この使徒教父が残した文書が使徒教父文書といいますが、12使徒の遺訓、ディダケーと言ったりもしますが、その12使徒の遺訓は使徒教父文書に含まれるものです。この使徒教父文書は、聖書には含まれませんが、古代の教会の信仰、つまり最も古い形式のキリスト教の姿や信仰のあり方を知るのに、非常に重要な文書だと言えます。そのなかでも、この12使徒の遺訓は、古代の教会の聖餐式のあり方や洗礼のあり方などが書かれているので、非常に重要な文書だと言えます。そして、その12使徒の遺訓に、古代教会の聖餐式では聖餐が終わったあとの祈りの最後に、このマラナ・タという祈りの言葉を述べるというのです。その祈りを、そのままお読み致します。

「聖なる父よ。あなたがわたしたちの心の中におすまわせになったあなたの聖なる名と、あなたの僕イエスを通して私たちに明らかにされた知識と信仰と不死とについて、あなたに感謝します。あなたに栄光が永遠にありますように、全能の主よ。あなたはあなたの名のゆえに万物をお造りになりました。また、人々があなたに感謝を献げるように、彼らに飲食のための食物と飲物とをお与えになりました。他方、わたしたちには、霊的な食物と飲物と永遠の命とを、あなたの僕(イエス)を通して与えられました。あらゆる事に先だって、私たちはあなたが力強い方であることを感謝します。あなたに栄光が永遠にありますように。主よ。あなたの教会を覚え、それからすべての悪から解放し、あなたの愛によって完全なものとして下さい。また聖くして、四方からあなたがそれのために準備されたあなたの国へと導き集めて下さい。力と栄光とは永遠にあなたのものだからです。恵が来ますように。この世が過ぎ去りますように、ダビデの神にホサナ。英なる人は来るように、聖でない人は悔い改めなさい。マラナ・タ、アーメン」この12使徒の遺訓において言われているマラナ・タは、やがて来る終末の時を仰ぎ見て、「主よきたりませ」という祈りを献げているものであることは間違いありません。「この世が過ぎ去りますように」と言う言葉が何よりも、そのことを明らかに示しています。

しかし、これが聖餐式の後に言うとき、それは単に「やがて来る終末の時を仰ぎ見て、『主よきたりませ』という祈りを献げている」と言うことだけに留まらせません。なぜなら、聖餐式には主イエス・キリスト様のご臨在があるからです。イエス・キリスト様が目に見えるお姿で再び来られるのは将来のこの世の最期のときです。しかし、イエス・キリスト様は、目には見えないけれども、私たちのところに共にいて下さるのです。ですから、聖餐式が行なわれたということは、そこに主が来られたのです。まさに私たちの手の届くところにまで主が来られているのです。ですから、古代の教父のひとりクリュソストモスという人は、このマラナ・タを「主は来られた」と訳している。そう、私たちの身近に主は来ておられるのです。私たちの主が再臨のときに来られるとき、私たちには抗うことのできない死に対して勝利がもたらされます。それは私たちが超えることのできない限界を乗り越えさせ、もう自分の力ではどうしようもないという絶望に希望を与えてくれる出来事です。神であるイエス・キリスト様が共におられる場では闇はキリストの希望の光でかき消されて、私たちには超えられないところのものを超えていく力を与えられるのです。それがマラナ・タによって引き起こされる事態なのです。そのように、教会がイエス・キリスト様を畏れかしこみ、崇め、礼拝し、聖餐を執り行ない、キリストに従って歩むとき、キリストは教会のマラナ・タの祈りにこたえて教会に来てくださるのであり、そこで、私たちは現実に生きるこの生活の中で絶望ではなく希望の光をいただくことができるのです。

だからこそ、このマラナ・タの祈りに引き続いて、「主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。わたしの愛が、キリスト・イエスにあって、あなたがた一同と共にあるように」という祝福の祈りが捧げられるのです。みなさん。私たちの教会は、キリストの教会です。主イエス・キリスト様を救い主として信じ、このお方を三位一体の神の内の子なる神として信じ崇め、神に従いながら歩む教会です。私たちはその教会に召され、その教会に招かれています。それは、教会の中心にいらっしゃるイエス・キリスト様のご臨在が私たちと共にあるということなのです。このイエス・キリスト様のご臨在があるならば、私たちは教会だけではない、私たちが、今・ここで生きていくときに、絶望は絶望で終わらず、希望の光が私たちを照らします。そして、決して乗り越える事が不可能だと思われるような問題もかならず乗り越えていくことができるようになります。そのことを信じて「主を愛さない者」として、「アナセマ(のろわれよ)」という言葉の内を歩むのではなく、呪いの言葉を乗り越えて、主を愛し、また兄弟姉妹を愛しながら、「マラナタ(主よ来たりませ)」と祈りながら歩む者になろうではありませんか。

お祈りしましょう。