『キリストのように』
コリント人への第二の手紙 1章3−11節
2009/7/26 説教者 濱和弘
週報にもありますように、先週は月曜日から水曜日まで箱根聖会があり、私たち夫婦も出席させて頂きました。今回は、2日目の午前中の集会の司会をするようにと言われておりましたので、少し緊張を感じつつ参加いたしましたが、反省点も多く、十分なご奉仕とは言えませんでした。しかし皆さんのお祈りに支えられて、何とか奉仕をすることができました。また、ご無理を言って一日お休みをいただき感謝でした本当にありがとうございました。今回は、そのお休みの一日を使って旧知の先生方とお交わりを持つ機会が与えられ本当に有意義に過ごすことができました。特に、その中でお会いしたおひとりの先輩牧師の方といろいろと話をした内容は、本当に心にしみ入るような内容でした。その方は、しばらく心の病、具体的には鬱病なのですが、その心の病を患われ、大変な思いの中で過ごされていたそうです。今は随分と良くなられ、お元気になられているのですが、その病の中にあるときは、「本当に死にたい」と思い心が苦しくて仕方がなかったとおっしゃっておられました。しかし、その苦しみも今では感謝だと思うとも言われるのです。そしてそれは、その苦しみを経験したことで、逆に今は心が自由になったからだというのです。
確かに、その牧師とお話をさせて頂いておりますと、こちらまで心が和み休らうような気持ちになって来る、そんな不思議な気持ちになってきます。そして、自分も神に包まれ安らぐことができるそんな平安な気持ちになってくるのです。その牧師は、「自分はあの『死にたいと』思う病気の苦しみの中で本当に死んでしまったのだ。今、自分にあるのはただイエス、キリスト様だけなのだ。」と言うのです。きっと、その苦しみを通し、その苦しみの中で出会ったイエス・キリスト様の慰めや救いが、そして愛が、その牧師の心に私たちでは計り知れない程の恵をもたらし、それが溢れ出て、側で話を聞いていた私の心にも安らぎや心の和みを与えたのだろうと思うのです。私は、その方とお話しをしながら、イエス・キリスト様とお合いしているような感じがしました。もちろん、その牧師が神格化されるということでもない、その牧師がキリストというわけでもない。けれども、その方の内側に住んで下さっている苦難の中で出会ったイエス・キリスト様が、その方を通して私たちにそのお姿を見せて下さっている、そんな感じがしたのです。
そして今、司式の兄弟にお読み頂いた聖書の箇所にも、その苦難の中で出会う神について語られています。口語訳聖書、患難と訳されていますが、要は苦難のことです。ですから、新改訳聖書も共同訳聖書も、この患難という言葉を苦難と訳しています。もっとも、細かいところまで注意深く見、気になさる方は、確かに口語訳聖書では、4節6節では患難となっているが、同時に5節6節7節には苦難という言葉も出てきて使い分けられていると思われるかもしれませんが、これは、元々の原語であるギリシャ語の違いから起こる違いです。つまり、口語訳聖書が患難と訳している言葉は、苦しい困難な出来事を指し示し、苦難と訳している言葉は、その出来事によっておこった感情として、苦しみといったものであると考えて頂ければよろしいかと思います。いずれにしましても、苦しい困難な出来事によって苦しみの感情が湧き上がるのですから、口語訳聖書が患難と苦難と訳し分けている言葉も、どちらも内容的には一つの状態を表わしていると考えていただければよろしいかと思います。
このような、苦難の中、苦しみの中で神と出会う、その時に、出会った神は私たちに慰めと救いをもたらしてくださる神なのだというのです。そして、その慰めと救いを受け取るならば、今度は私たちが、苦難や苦しみの中にある人たちを慰める者になることができるのだというのです。そのような豊かな恵をもたらす神、あわれみ深く、慰めに満ちたお方だからこそ、パウロは3節で「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神」という神をほめたたえる言葉、すなわち頌栄の言葉を述べるのです。ところが、多くの注解書を読みますと、この苦難、苦しみはキリスト者が経験する苦難や苦しみであるというのです。さらには、「苦難とは決して苦しみ一般の事を言うのではなく、キリストに従う結果として与えられる苦難のことである」、より限定されたキリスト教の信仰を守り生き抜くことによって起こる苦難であるかのように説明しているものもあります。
もちろん、パウロが6節で「私たちが患難に会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためであり」というとき、そのパウロが言う「私たちの患難」という言葉は、多くの注解書がいうようにパウロの宣教に伴う迫害や様々な困難によってもたらされる患難を指しているだろうと思います。実際、パウロが8節から10節で「兄弟たちよ。私たちがアジアで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついに命さえも危くなり、ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです」と言っている事柄は、おそらくはパウロがエペソを含む小アジア半島で伝道する際にうけた迫害や苦難を背景にしたものだと考えられます。ですから、そのような宣教に伴う危険や苦難の中にあっても、神に従う者を神が救い出してくださるというのはパウロの確かな確信であったことは間違いないことでしょう。しかし、神が慰めてくださり、励ましてくださり、支えてくださるそのご愛は、私たちが宣教ということだけではなく、神に従って生きようとする信仰の戦いにともなう苦難や苦しみに対してだけ与えられる慰めではないはずです。
ごく普通の生活の中であっても、もっともっと、広く深い悲しみや苦悩を伴う苦難や苦しみの中に私たちは生きるということがあるのです。たとえば、パウロは、福音を宣べ伝える際に死を覚悟しなければならないような苦難にであったといいますが、死を覚悟しなければならない苦しみは、たとえば病気を通して感じるものでもあります。そしてそれは宣教による殉教という苦難よりももっと身近な苦しみなのです。あるいは、パウロが、非常に激しい、絶えられないほどの圧迫を受けたという経験をしますが、今日の日本では、平成10年以降毎年3万人以上の人が自死をしています。19歳以下の子供ですら500人以上が自死をしている。それは、何か絶えられないほどの非常に激しい圧迫を受け、苦しみそして自らの命を絶った人たちなのです。19歳以下の500人以上の子供の中にはいじめによる圧迫を感じて自死した子供も少なからずいたのではないかと思うのです。そのような苦しみに対しても、神は慰めを与え、支えを与え、力を与えてくださるお方ではないか。私にはそう思えるのですが、皆さんは如何でしょうか。
そして、確かにそうであるとすれば、神の慰めとあわれみは、神に従う事に伴う苦しみや苦難だけに限らず、すべての苦しみに対して注がれているということができるだろうと思いますし、それは我々クリスチャンだけではなく、すべての人に注がれているものであろうと思うのです。事実、今日の聖書の箇所の1章4節5節には、このように述べられています。「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです」このとき、パウロは私たちにキリストの苦難が溢れているといいます。つまり、自分自身が受けている苦しみをイエス・キリスト様の十字架の苦しみと重ね合わせているのです。だからこそ、自分自身が今受けている苦しみの中にキリスト様の苦しみがある。この苦しみを十字架に架かられたイエス・キリスト様は知っておられ、その苦しみを私と共に味わってくださっているのです。だからこそ、私たちは、イエス・キリスト様によって慰められるのです。では、そのイエス・キリスト様の十字架の苦しみはいったい何だったのか。
そのように問いかけますと、私たちはすぐに罪の赦しということを思い出します。そう、確かにイエス・キリスト様の十字架の死は私たちの罪を赦すための贖罪の死でもありました。しかし、それは単に贖罪の死にだけに終わるものではないのです。さきほど、私たちは旧約聖書イザヤ書53章の1節から12節までを交読しました。交読文は、一部分を省略した形で出ています。特に8節以降はほとんど省略されていますので、ここでもう一度イザヤ書53書1節から12節までの全体をお読みしたいと思います。口語訳聖書ですと旧約聖書1021頁から1022頁になります。拝読いたします。「だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。」
このイザヤ書53章は苦難のしもべの詩と呼ばれるもので、イエス・キリスト様の御生涯が、イエス・キリスト様がお生まれになる500年も前に預言された箇所です。その記述はあまりにもイエス・キリスト様の御生涯と重なり合うので、イエス・キリスト様が十字架で死なれたあとに、後で誰かがイザヤ書に書き加えたのではないかとさえ言われたほどです。もちろん、そのようなことではなく、キリスト様の誕生の500年以上も前に、このようなイエス・キリスト様の御生涯と全く重なり合うような預言が成されていたのです。そこで言われていることは、一つは、私たちのすべての不義、とが、すなわち罪のために苦しまれたということです。それは、まさにイエス・キリスト様の十字架の死が、私たちの罪に赦しを与える贖罪死であったいうことです。しかし、イザヤ書53章は、そのことだけを言っているのではありません。53章2、3節では次のようにも言われているのです。「彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった」
ここで言われていることは、イエス・キリスト様は、人に侮られ、誰にも尊ばれず、また人に捨てられるというみじめさや悲しみ、苦しさを知っておられるということです。それだけではない、病の悲しみも知っておられる。そして、知るだけではなく、それを負って下さるのだというのです。昨日、K姉の病院を訪問しました。お見舞いをおえて、病院の駐車場のところに出てきますと、若いお母さんが小さなお子さんを三輪車のようなものに乗せて遊ばせていました。1歳半か2歳いくかどうかの女のお子さんです。見ると、その子の腕からは点滴のチューブが出ており、乗っていた三輪車の横には点滴をつるすスタンドがあるのです。どうやら、その女の子はその病院に入院しているようです。私は、その子供とお母さんの姿を見ながら、そのお母さんの心に痛みや苦しみはどれほどだろうかと思いました。ご存知の方もいらっしゃると思いますが、私どものNが産まれましたときも、産まれてすぐに髄膜炎という病気で1ヶ月入院致しました。産まれて1週間して産婦人科の病院を退院するというその日に40度以上の熱が出て、その日の内に入院となり、検査の結果、病名が髄膜炎であると告げられたとき、家内は泣き出しますし、私も強いショックを受けました。なんだか目の前が真っ暗になるような思いでした。
正直申しますと、髄膜炎という病名を聞いたとき、その病気がどの様な病気かはわかりませんでした。しかし髄膜という以上、脳や神経系に関わる病気だろうと思いましたので、これは単純に考えて良いものではないということは漠然と分かりました。そして、家庭の医学のような本を見てみますと後遺症の心配なども考えられるというのですから、本当に心が重く、苦しいときを過ごしました。幸い、Nの場合は、小学校にはいるときに、もう後遺症の心配はしなくて大丈夫ですといっていただいたのですが、それまでの間は、いつもどこかに心にとげが刺さったような不安な思いがありました。ですから、小さな腕に点滴のチューブが繋がれ、点滴をつるすスタンドを引きずりながら遊ばなければならないわが子を見ているお母さんの姿を見て、心が痛くなる思いがしたのです。このお母さんの悲しみや心の痛み、苦しみは、罪の赦しという言葉では解決できないものです。それこそ、その病気を罪の問題に結び付けてしまうならば、ヨハネによる福音書9章にある、生まれつき目の見えない人に対して「この人の目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか、本人ですか、それともその両親ですか」ときいた弟子たちと同じです。
それは人の苦しみや、痛みを増し加えることはあっても、それを救うことはできません。もちろん、イエス・キリスト様はそのようなことはなさいません。むしろ、その悲しみや痛み、苦しみに寄り添い、その人を慰め、励まし、力付け、そして癒して下さるのです。このようにしてみると、私たちの世界には単に罪ということで片づけられない様々な苦しみや苦悩に満ちています。私が、娘に後遺症の可能性があることを思い、ずっと心にとげが刺さったような不安な気持ちは、罪の赦しという言葉では決して救えない苦悩だったのです。けれども、そのような苦しみや苦悩にも救いを与えるために、イエス・キリスト様は十字架に架かって死んでくださったのです。聖書が、「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった」と言うその言葉は、そういうことなのだといっても良いだろうと思います。私たちの周りには、そのような実に理不尽で、私たちにはどうしようもない悲しみに満ちあふれています。それはまるで闇のような世界です。けれども、イエス・キリスト様はそのような闇の世界に打ち勝ち、勝利し希望の光をもたらしてくださるお方なのです。そして、その希望があるからこそ、私たちを慰め、励まし、力づける事ができるのです。ですから、キリスト様の十字架の苦難は、ただ私たちの罪を背負って死なれた贖罪死だけではありません。私たちの味あう理不尽で、私たちにはどうしようもない悲しみや苦しみをもたらす不条理な苦難を背負い、それに勝利する死でもあったのです。
十字架の死がそのような理不尽な苦難を共に味わい、それに勝利する死であったからこそ、キリストは、この世で苦難を経験したお方だからこそ、苦難に苦しむ者をあわれむことができるのです。そしてその深くあわれむ心が、慰めを私たちに与えてくださるのです。この、全く理不尽で不条理な悲しみや苦しみといったものは、私たちにその苦難の理由を見つけようにも見つけられないものです。先ほどのヨハネによる福音書9章に出てきた生まれつき目の見えない人にたいして、その目の見えない理由を「誰が罪を犯したからですか、本人ですか、それともその両親ですか」と問うても、答えようのない質問ですし、答えたところで、それはその目の見えない悲しみと苦しみにある人にとって何の意味もなさないものです。仮に、多くの聖書注解者たちが言うように、「キリストに従う結果として与えられる苦難」であったとしても、それは「神を信じている者になぜこんなことが起るのだろうか」という理不尽な苦しみなのです。
パウロが、キリスト様を信じ宣教する、それは人々に神の祝福をもたらす福音を宣べ伝えるためです。そして、その使命を神から受けて、パウロは伝道して歩いているのです。その深い自覚が、このコリント人への第2の手紙1章1節で「神の御旨によりキリスト・イエスの使徒となったパウロ」という言葉の中に見ることができます。そのように、神の召しによって神のために働き、人々に良き知らせである福音、喜びの知らせである福音を宣べ伝えているパウロが、迫害を受け、生きる望みを失うような苦難を歩まなければならないような苦しみを受けたとすれば、これはまことに理不尽で、不条理な苦しみです。神が使命を与え、神のために働いているのであるならば、神の祝福を受け、幸いを受ける事はあっても、逆にそのために迫害され、苦しみを受け、死の危険にさらされるとしたならば、神はいったい何をしておられるのだろうかと思う気持ちになってもおかしくはないところです。けれども、そこには神の使命に生きるものに対する理不尽な苦しみがある。
みなさん、宣教は、実を結んでこそ、意味あることです。実を結ばなければ伝道する努力は虚しいものに感じられまです。実際、多くの伝道者、牧師が一生懸命祈り、努力し頑張ってもその伝道がなかなか実りを結ばす、燃え尽きるようにして伝道の前線から去っていきます。そこには、神から使命をうけ、神のために働いているのに、何の成果もえられない苦しみや悲しみがある。へたをすれば、同じ苦しみを負うはずの、同労者たちからも「何をやっているんだろう」という目で見られる事さえある。しかし、それはイエス・キリスト様の経験なされた苦しみでもあるのです。私たちの罪を負い、私たちの悲しみや病を負い、私たちに祝福をもたらす神の愛を伝え、それを示して来られたにも拘らず、最期は、ご自分の愛する弟子に裏切られ、人々からは侮られ、尊ばれるどころか蔑まれ、捨てられるという、理不尽で不条理な苦しみをイエス・キリスト様は味われたのです。そのような理不尽な苦しみを味われたからこそ、同じような苦しみを味わう者を深くあわれみ、慰めを与えることができるのです。そして、それが苦難を耐えさせる力となるのです。
みなさん、私たちがこの世で生きていくならば、程度の違いはあっても、私たちは必ずと言っていいほど理不尽な苦しみや悲しみを負わなければならない苦難に出会います。その理不尽な悲しみのもっとも大きなものは、死という現実であろうと思います。けれども、そのような苦難や苦しみは決して耐えられず、乗り越えられないものではないのです。イエス・キリスト様は、十字架の上でそのような不条理で理不尽な悲しみや苦しみを受けてくださり、その理不尽な悲しみや苦しみをもたらす苦難に打ち勝ったのです。(だからこそ、私たち西方教会の伝統とはことなる東方教会の伝統は、キリストの十字架の死の意味を、死という最も不条理で理不尽な悲しみを打ち破る神に命である永遠の命をもたらすものであるというのです)パウロは、自分自身が「アジアで、極度に耐えられないほど圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしまうほどの患難をうけ、心のうちで死を覚悟する」ような中で、そのキリストの慰めを受け、希望を与えられ、救われるという経験をしたのです。だからこそ、同じような苦しみの中を通っている今も、神の救いを仰ぎ望んでみているのです。
みなさん。このイエス・キリスト様の十字架の中に現されている、不条理な悲しみや苦しみに対する慰めや憐れみは、私たちだけではないすべての人に注がれているものです。しかし、それは隠された神の恵みです。なぜなら、それは苦しみや悲しみの中からイエス・キリスト様の十字架を見上げたものだけが知る神の恵みだからです。ただ単に、イエス・キリスト様の十字架の死を私の罪の赦しのためのものとして見上げたならば決して見ることも感じることもできない隠された恵です。もちろん、私たちの苦しみや悲しみが私たちの罪ゆえの苦しみや悲しみであるとするならば、イエス・キリスト様の十字架の死を私の罪の赦しのためのものとして見上げることによっても、神の恵みを見出すことができるでしょう。けれども、自分の罪のためでもない、ただ理不尽に私たちに襲いかかってくる不条理な悲しみ、先ほど申し上げましたように、まだ幼い子に点滴のチューブをつけさせ、点滴をつるすスタンドを持たせながら遊ばせなければならない母親の悲しみや死んでしまいたいと思うような鬱の苦しみを通っている人にとっては、イエス・キリスト様の十字架の死を私の罪の赦しのためのものだけとして見上げるならば、その隠された神の憐れみや慰めを見出すことはできないのです。
けれども、私たちクリスチャンが理不尽な悲しき、不条理な苦しみの中から、イエス・キリスト様の十字架を見上げるならば、私たちは、必ず慰めを受け神の憐れみという恵を見出すことができます。そして私たちが理不尽な苦しみを通る中で、キリストの十字架に中にある慰めと憐れみの中で生かされることで、私たちもまた、キリストの十字架の証人として、その神の憐れみと慰めと救いを伝えていくことができるのです。最初にお話しした、私がお会いした鬱で苦しまれた牧師もそのような人でした。その方とお話ししていると、心が和み、癒され、慰められる。そして、その方を通してイエス・キリスト様と出会わさせていただいているような気持ちがするのです。それこそ、まるで、その方がイエス・キリスト様のようにさえ思われるのです。それは、本当に理不尽な苦しみの中からイエス・キリスト様の十字架を見上げた人が、神から慰められ憐れみを受けることによって私たちに伝える神の慰めや憐れみだと思うのです。
愛する兄弟姉妹の皆さん。この神の慰めと憐れみは、私たちも、苦しみや悲しみの中にあるときに、そこから十字架を見上げるならば、このイエス・キリスト様の十字架に隠された慰めや憐れみというものを見いだし、それを経験することができます。そして、その慰めと憐れみが私たちの心に満ち溢れるならば、私たちもまたイエス・キリストの苦難に共に与り、そして、イエス・キリスト様にある慰めと憐れみ、そして救いを伝えるものとなることができるのです。みなさん。私たちの周りには、理不尽で不条理な悲しみや苦しみが溢れています。その理不尽で不条理な悲しみや苦しみは、私たちだけでなく、皆さんの家族、親や兄弟、そして子どもたちをも襲ってきます。その時に、その理不尽で不条理な悲しみや苦しみに耐えさせ、それを乗り越えさせるところのキリストにある慰めと憐れみ、そして救いを伝えることができるのは皆さんお一人お一人なのです。そのためには、私たちが、この十字架に隠された神の慰めと憐れみを見出し、それを経験するものとならなければならないのです。しかし、皆さんがそれを見出し、それを経験するならば、皆さんはキリストのように、その慰めと憐れみをもたらすものとなるのです。
お祈りしましょう。