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メッセージ

羊飼い 『真の勝利者は誰か』
マタイによる福音書 16章13−20節
2009/8/2 説教者 濱和弘

さて、いつもと違いまして、新約聖書マタイによる福音書の16章13節から21節までのところから、お話しさせて頂きたいと思います。この箇所は、イエス・キリスト様が、弟子たちに「人々は人の子をだれと言っているか」とたずねられている言葉から始まります。「人の子」というのは、一般的には、人間全般の事を指す言葉です。ところが、イエス・キリスト様は、自分のことをしばしば特別な意味をもって「人の子」というふうに呼んでおられました。その特別な意味と、ご自分が救い主キリストであるという意味でその言葉を使っておられたのです。だとしたら、わざわざ「人の子」などといった回りくどい言い方をしないで、キリストとはっきり言えば良いのにと思うのですが、しかし、イエス・キリストというお方は、わざわざ「人の子」というちょっと持って回ったような言い方をした。というのも、当時のユダヤの人々は救い主キリストという存在がやがてやってきて自分たちを救ってくれるとそう信じていたのですが、その救い主キリストがどの様なお方であるかについては、自分たちであれこれ考えて、かってにイメージをふくらませていたからです。

このかってにイメージをふくらませるということ、それはあるいみ先入観といったたぐいのものですが、それは気をつけなければ、大変な間違いを犯してしまう事になってしまいます。あらかじめできてしまった先入観で人を見ていますと、本当にその人の実態が見えなくなってしまうということは、私たちの周りの良くあることです。私は、むかし小学校から高校まで柔道をしていましたが、相手を見て「あっ、こいつ弱そうだな」とか「あっ、こいつは強そうだな」と思うことがありました。そういった場合、得てしておっとりとして穏やかそうな相手や、体の線が細い相手はだいたい「弱そうだな」と思い、どちらかといえばごつい体つきの、ちょっと厳つい顔つきをした相手は「強そうだ」と思っていました。それはだいたい「強い相手」「弱い相手」のイメージがすでに私の頭の中にできており、その色眼鏡を通して相手を見、相手を観察していたからです。ですが、実際に試合をしてみると、最初のイメージ通りでないことがしばしばありました。そのように、自分でイメージをふくらまして、そのイメージにそって相手を見ていると、その人の実像が見えなくなってしまいます。たとえば、さきほどの私が弱そうだと思って見ていた人が、前の試合で勝っても、その「相手がもっと弱かったんだ」だとか「出会い頭でいいタイミングで技がかかった」などと勝手に解釈して、正しい相手の実力が見極められないといったことがあるのです。ですから、「弱そうだ」と思っていた相手と試合をして、思いのほか相手が強くて負けてしまったときにも、「自分が油断してしまったから負けたのだ」とか、「調子が悪かったのだ」といった具合に、相手を正しく理解していないだけではなく、自分自身の実像さえを見失ってしまい事があるのです。

ですから、イエス・キリスト様は、あえてご自分に対して救い主キリストという呼び方をされず、あえて「人の子」という言い方をして、人々が抱いている救い主キリストのイメージでイエス・キリスト様を見てほしくなかったのです。そして、むしろイエス・キリスト様の言葉にしっかりと耳を傾けて、その実像を知ってもらいたかったのです。相手の本質や実像を知るためには、しっかりと相手の言葉に耳を傾け相手の言う言葉を聞かなければなりません。また、しっかりと相手を見なければ相手の実像や本質など分からないものです。ですから、イエス・キリスト様は、ご自分のことをあえて人々が既に自分自身のうちに作り上げたイメージがある「救い主キリスト」と言う称号で呼ばないで、あえて「人の子」と呼んだのです。それは、ご自分が誰であり、何ものであるかをちゃんと知って欲しかったのです。また、だからこそ、人々が自分のことをどの様に受け止めているかが気になり「人々は人の子をだれと言っているか」と尋ねられたのだろうと思います。

実際、人々は「ある人々はバプテスマのヨハネだ」と言い。ほかの人たちは、「エリヤだ」とか「エレミヤあるいは預言者のひとり」と言っている者もあるといったありさまでした。バプテスマのヨハネというのは、イエス・キリストの同時代の人ですが、当時のローマ帝国の支配のもとでユダヤ王とされていたヘロデによって処刑された預言者でした。エリヤ、エレミヤといった人は、旧約聖書の中に出てくる預言者たちの名前です。預言者というのは、社会が乱れ、人々が神を信じ、神に従わないで自分の好き勝手な生き方をしているときに、そのような生き方をいさめ、神の前に正しく生きなければならないということを教え諭すという使命を神から与えられ、神の言葉を付け、人々を正しい生き方へと導いた人たちのことです。ですから、預言者は救い主キリストではありません。案の定、多くの人々はイエス・キリスト様のことを勘違いして受け止めていたのです。それは、彼等が、救い主キリストというお方は、当時世界を支配していたローマ帝国をも打ち破るような立派な軍人、王様のようなお方だと思いこんでいたからです。ですから、目の前にいるイエスという人物は、確かに立派な権威ある大した人物には見えるが、ローマ帝国を打ち破って自分たちの国を復興しようというわけではなさそうなので、預言者のひとりだと思っていたのかもしれません。そこには、出来上がったイメージで物事を見る過ちがあるのです。

このように出来上がったイメージで物事を見るときに、実像とは違った姿が映ることがありますので、私も、キリスト教のイメージが、この日本の人々にどの様に映っているか気にかかることがあります。キリスト教の伝えるメッセージが本当に、この日本という国に住んでいる私たちの同胞にちゃんと伝わっているのがどうか、誤ったイメージがキリスト教のメッセージを正しく伝えていないのではないかと心配するのです。実際、もうずっと昔の話ですが、日本人の宗教意識を調査したアンケートでは、もし信じるならキリスト教と答えた人が最も多かったと言われていました。しかし、ここ10年くらいの調査ではキリスト教を信頼できないと答えた人は、37%で信頼できると答えた人の30%を超える数字になっているのが現状なのです。これは、仏教が信頼できると答えた人が61%で信頼できないと答えた人が21%に対して、決して良い数字ではありません。神道の、信頼できる42%、信頼できない30%と比べても、今の日本でキリスト教が信頼されていないという数字になっています。これが、今のキリスト教に対して日本の同胞が持っているイメージなのです。どうして、このようなことになったのか、いろいろな原因が考えられます。統一協会というキリスト教の名前を借りて様々な社会問題を起したグループの影響もあるでしょう。事実、若い人たちの中に、統一協会やエホバの証人といったキリスト教の名前を使っていますが、決してキリスト教徒は呼べないグループに対する認知度は、非常に高い数値を示しているのです。

まるで、この新約聖書マタイによる福音書16書13節以降で、人々が口々に「あれはバプテスマのヨハネだ」とか、「エリヤだ」とか「エレミヤあるいは預言者のひとり」と言っているように、キリスト教に対するイメージが先行し広がっているような感じがします。もちろん、それには私たち教会の側にも問題がなかったわけではないだろうと思います。キリスト教は人間の罪に向き合い、神の前に正しく生き、心から神を信頼し、神を礼拝する心の宗教ですから、神の前に正しく真摯に生きることを大切にします。それが、規則や規律、あるいは決りに縛りつけられる宗教のようなイメージを与えたと言ったこともあるかも知れません。もちろん、倫理的・道徳的に正しく生きるということは、何も宗教だけでなく、人間として基本的な事であり、大切にしなければならない事です。たとえばそれが教育やしつけといった事の中で、親から子に、また社会が伝えていかなければならないことです。けれども、社会全般の倫理意識や道徳意識がゆるんでいった中で、教会が、そのような倫理性や道徳性を強調したことが、そういったイメージを与えたのかもしれません。もっとも、そういった倫理・道徳の大切さは、今でも変わらないものだとは思いますが、教会が私たちの生き方を束縛するようなイメージを与えたとするならば、教会はその大切なものの伝え方が適切ではなかったのかもしれません。なぜなら、聖書には、真理は私たちを自由にすると言っているからです。なのに、それが人を自由にせず、束縛しているように感じさせているとしたら、それはキリスト教の信じる真理そのものの伝え方が間違っているという事になります。ですから、正しくキリスト教を伝え知ってもらうように教会は務めなければならないのです。

そのような反省に立ちつつ、その私たちを自由にする真理、キリスト教における真理とはいったい何なのでしょうか、どうしたらそれが正しくつたわるのでしょうか。このマタイによる福音書の16章では、人々が「あれはバプテスマのヨハネだ」とか、「エリヤだ」とか「エレミヤあるいは預言者のひとりだ」と救い主キリストの実像とは全く違う理解を述べている中で、ただキリストの身近にいた弟子たちだけは、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と答えるのです。どうして、キリストの弟子たちは正しく「「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と答えることができたのか。それは彼等が、イエス・キリスト様の身近で生活し、イエス・キリスト様の成されることを見、イエス・キリスト様の語られる言葉を聞いていたからです。だから、このお方は、単なる預言者のようなお方ではない。このかたは、ご自分では「人の子」といっておられるが、「生ける神の子キリストに違いない」とそう確信させたのです。

その時初めてイエス・キリスト様は、私たちを自由にする真理が何かを弟子たちにお教えになられたのです。それが「そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。 わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」という言葉です。イエス・キリスト様は、教会に黄泉の力に打ち勝つことのできる力を教会に与えるというのです。黄泉の力とは死の力のことです。死という運命が人間の人生を支配している、だから人間は誰もこの死の力から逃げることが出来ないと言うことです。

上智大学の哲学科に、アルフォンス・ディーケンという死に関する研究で有名な教授がいます。そのディーケン教授が死について語るとき、「最近の統計によると人間の死亡率は100%だそうです」といって話を始めるのだと言うようなことを聞きましたが、まさに人間の死亡率は100%であり、その意味で人間は死の力に支配されているのです。私たちは、幸せになりたい、幸福になりたい。いやなれると思います。なれると思うから、幸福になるために必要なものを手に入れようと頑張ります。生活が安定すれば幸せになれると思えば、生活が安定するために一生懸命頑張ります。余暇があり、趣味の時間があれば幸せを感じられると思う。あるいは、楽しいことがあれば幸せだと思う。だから、そのために、何とか頑張って時間をつくって余暇や趣味の時間をもち、楽しい事をする。私は、それが本当幸せではないといおうとしているのではありません。それは本当に幸せなときなのです。だから、そのような時間を大切にすることは大切ですし、生活を安定させるためのお金も必要です。

あるいは、家族と過ごすときが本当に幸せだと感じるときなのかもしれませんし、実際に愛する家族に囲まれていることほど幸せなときはないのです。ですから、私はそのような時を大切にしなければなりませんし、大切な家族を守らなければなりません。しかし、そのような幸せなときを過ごしていたとしても、死の力、黄泉の力は確実に私たちを支配しているのです。実は、私は先日の金曜日に胃カメラを飲んだのです。その一週間ぐらい前から調子が良くなく、幾つか気になる徴候もあったので、ちょうど三鷹市の定期検診があったので、そのことを医師に告げると胃カメラを飲みましょうということになって、それで金曜日に検査をしました。もう10年になりますが、10年前に甲状腺がんの手術をしましたので、そういうことには多少敏感になっていましたので、ひょっとしたらという気持ちでカメラを飲む、といっても今は鼻から入れるのですが、胃カメラで検査をしました。幸い胃炎はありましたが、悪いものは見つからずホッとしたのですが、そういうときというのは自分の人生が死に支配されているということを実感させられる時でもあるのです。

そのような、私たちの人生を支配する死、黄泉の力に打ち勝つ力をキリストは教会に与えると言われるのです。それはディーケン教授が言う死亡率が100%が90%になるとか、80%になるといったことを言っているのではありません。それでも人間の死亡率は100%なのです。それでは、黄泉に打ち勝つ力、死に打ち勝つ力とはいったい何なのでしょうか。みなさん、死が恐ろしいのは、自分がこの地上で経験する幸せな時間や愛する家族との時間に存在しなくなるからです。逆に言うならば、私たちの幸せから無理矢理引き離されてしまうからです。もちろん、家族もまた引き裂かれるわけですから、そこに深い悲しみがあり絶望がある。言い換えれば、死の力というのは絶望の力なのです。そのような絶望に打ち勝つ力を神は教会に与えるというのです。絶望を打ち破る力は希望です。希望があるところには絶望は存在しません。絶望とは希望がない状態だからです。ですから、どんなに真っ暗闇で、絶望だと思われる状況であっても、そこに一筋でも希望の光が差しているならば、その一筋の光が際している部分には絶望は存在しないのです。イエス・キリスト様は、それが天国の鍵だというのです。

先日、家内と二人で、「私たちは随分と多くの死と向き合ってきたね」という話をしました。そうです、牧師になって16年あまりですが、あまりにも多くの死に向き合いながら生きてきた感じがします。その中には、厳しい経験や辛い経験もあります。けれども、絶望はないのです。そこには天国という希望がある。救いがある。だから向き合ってこられたのです。そうでなければ、何十人も見送ってきた私の神経は到底持たなかっただろうと思うのです。どんなにつらい死であっても、その人の人生は決して断ち切られたわけではない、神が天国において、その人の幸いな時間を決して奪い取ることなく備えてくださっている、信じる事ができるから乗り越えて来ることができたのです。教会に天国の鍵が託されている。だから、絶望ではなく希望がある。みなさん、希望は伝えていかなければなりません。今日も、教会には小さな子どもたちがこうして一緒の礼拝を捧げていますが、親は、どんな時にも子どもに希望を与えていかなければなりません。子どもたちの将来に対して絶えず希望を語り続けなければなりません。

もちろん、時には絶望的な現実に向き合わざるをえないこともあります。けれども、たとえそのようなときであってもその絶望を乗り越える新しい希望の光を語り続けなければならないのです。そして、その絶望の頂点にある死をも乗り越える希望を伝えていかなければなりません。キリストは、死という私たちには決しての憩えることのできない絶望的状況にさえ、天国の鍵という希望の光を教会に与えたのです。神を信じ、キリストを信じるものには、たとえ死という現実に直面しても、天国の門が開かれ、その死をも乗り越える命があるとキリストは言うのです。ですから、だれでもキリストにあるならば、絶望と思われるような中に置かれても、このキリストの中に希望の光を見つけることができるのです。みなさん、私たちが今、生きているこの世界には勝利者や成功者は沢山います。多くの冨を得た人や名声を勝ち得た人が沢山います。本当に幸せそうに見える人が私たちの周りには一杯いるのです。その人達は、確かにこの世界では勝利者だと思います。けれども、死という黄泉の力に打ち勝たない限り、真の勝利者とは言えないのです。

逆に言えば、この世界の勝利者と呼ばれるようなものでなかったとしても、この死に打ち勝つ希望の力を持っているならば、私たちは真の勝利者と呼ばれるものになることができるのです。本当に私たちに今与えられている幸せを守ることができるのです。だから、教会は、一生懸命、この黄泉の力に打ち勝つことのできるイエス・キリストを信じる信仰を伝えるのです。親は子にその信仰を伝えるのです。それは、イエス・キリスト様が十字架について死なれ、その死から三日目によみがえったという死に対する勝利を伝えるのです。そのキリストを信じる信仰が天国の鍵だからです。希望の力だからです。そこには、私たちが絶対に打ち勝つことのできない死に打ち勝つ力があるのです。それは、私たちの限界に打ち勝つ力だということもできます。私たちが生活していく中で、様々な試練や困難であることがあったとしても、絶対に打ち勝つことのできない死亡率100%の死に対しても希望を与える力を与えてくださる神が、そのような困難や試練を乗り越える希望の力を与えてくださるのです。

イエス・キリスト様の弟子たちは、その素晴らしい知らせイエス・キリスト様から委ねられ、教会がそれを伝え続けてきたのです。でもね、みなさん、ここが大切な事です。そのような素晴らしい希望、大切な力を教会に託したのに、イエス・キリスト様はそれを誰にも言ってはいけないというんですよ。変だと思いません?本当だったら、そのようなことは大々的に宣伝しなさいということになるのが世の常なのではないでしょうか。なのに、誰にも言うなというんです。なぜか。それは、その当時、イエス・キリスト様を取り巻きあるいは遠くから眺めていた人たちは「あれはバプテスマのヨハネだ」とか、「エリヤだ」とか「エレミヤあるいは預言者のひとりだ」などと言っていたからです。そしてそれは、その当時のユダヤの世界では常識的な考え方だったのです。そのような常識や自分たちの頭に描く作り上げた救い主キリストのイメージをもってキリストを見ている限り、どんなに良き知らせであっても、それがちゃんと伝わらないからです。だからこそ、イエス・キリスト様が十字架の上で死なれ蘇られるという歴史的出来事をふまえ、彼等の作り上げたイメージを一度すべてぬぐい去り、正しいキリストの実像が伝わるような時を待っておられたのではないかと思うのです。

そのように、キリスト教の信仰の核心にあるイエス・キリスト様のもたらした救いの福音は、この世の一切の先入観や思いこみ、あるいはこの世界の常識的な様々な思いや考え方をぬぐい去って信じ受け入れるべきものなのです。私たちは、キリストの福音、キリストを信じる信仰は黄泉に打ち勝つ力を与えるのであるというメッセージを聞き、信じなければならないのです。愛する兄弟姉妹の皆さん。神は私たちにどんな時にも、私たちを絶望させない希望を与えてくださっています。ですから、このキリストを信じ、教会に与えられた黄泉に勝つ力、天国の鍵を得て、真の人生の勝利を勝ち得て頂きたいと願います。

お祈りしましょう。